Neetel Inside ニートノベル
表紙

私が私になった日
【三年前 二月 別視点】

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「ちょっと待って!! ねぇ!!」
 あるとき、電話をしている母親がそう叫んだ。その時はごまかされたが、明らかにおかしい。それは妹も感じ取っているようだ。だが俺が余計なことは聞くなと制した。人間、聴かれたくないことは山ほどある。
 しかし、俺は既に何は起きているかうすうす気づいていた。大体、母親があの時間に電話をする相手なんて限られている。
 ほぼ毎日、夕方から夜に一回うちには電話が来る。帰りが遅くなるという、父親からの電話だ。部屋を出るようになってからは受話器を持つ様子も頻繁に見ていたし、その度に寂しそうな表情をする母親の顔を知っている。
 そもそも、母親は問題を起こすような人ではない。だからあんな叫び方をするような事柄が起きるとすれば確実に電話先の相手が悪い。つまり、多分原因は父親にあるのだろう。
 大概予想は着くが。
 正直、どうでもいい。最近は姿も見ていない。家を空けてばっかりの仕事人間で、金を置いてくるだけのオッサンだ。ひどい言いようと言われそうだが、休日にさえも顔を見せない親を果たしてうやうやしく扱うべきなんだろうか。すねをかじっている身だから大層なことは言えない。でも子供からして、親とは居てこそ親。不可視の親の背中を想像できるほど大人ではない。
 だから離婚しようがどうでもよかった。どうせ相手が悪い。養育費は貰えるのだろう。それならば父親がどうあったところで関係は無い。
 母親のことが心配と言えば全くそうではないとは言えないけれど。――いや、心配なんてらしくないな。でも、俺だって素直な気持ちはある。
 去年の十二月。あの時から俺と母親との関係は変わり始めた。
 俺の部屋をノックした人間は今まで二人いる。アホらしい表現だと思わないでほしい。なんせ、部屋の主は普通の人間じゃない。引きこもった人間の部屋だ。その扉は重い。
 いやしかし、ノックしたと表現するのはいささか受け身が過ぎるかもしれない。
 なら、こう言い換えよう。俺に部屋のドアを開けさせた人間は今まで二人いる。一人は妹で、もう一人は母親だ。
 だからこそ俺はその二人を特別視せざるを得ない。
 引きこもりなんていう社会に不適合化した人間をこうして引き戻してくれた。引きこもっている間に時間は流れ、かつての?がりなどとうに消えてしまっている。何もかもから切り離されてしまっていた自分が今居られるこの場所が最後の居場所。
 俺は娘であり、そして姉だ。これが自分の全てで、説明すべきことは他にない。まぁ、わざわざ説明する人間も居ないけれど。
 だからこそ一方も失うわけにはいかないし、失った時は自分を失うのだと思う。
「妹のこと、ちゃんと面倒見てあげてね。お姉ちゃん」
 あの日あの時。母親はそう言った。答えを返すことはしなかったけれど、今ならきっとすぐに言うだろう。
 言われるまでもない。

     

 あの日、というのは去年の12月。たかが3か月前かそこらのことだ。
「ねぇ」
 誰かが部屋の中の俺に呼びかけた。
 一瞬、聞こえた声に身体が止まった。妹の声ではなかったし、第一学校にいるはずの時間だったからだ。
 母親だった。
「ごめんね。これからは一緒に居てくれないかしら」
 色々と話されたけれど、心に残っているのはこの一言しかない。
 同じ家に住んでいるだろ、という詭弁が通じるはずもなく、そしてきっと俺も情にほだされていたのだろう。俺は妹の時のように暴力に訴えることもなく、ドアを開けた。
 一旦開いてしまえばもう、何の障壁にもならない。一と零の差というのは果てしないほどある。
 それから、俺は一緒に食事をとるようになった。既に妹とはよく話すようになってはいたのだが、部屋からは出なかった。出られたのはもう敵が居ないからと察知したから。家に父親はほとんど帰ってこない。つまり家には妹と母親しか常日頃は居ないのだ。なら、警戒する必要はない。少なくとも二人が寝る時間までは。
 深夜に起きていると父親が帰ってくる。その頃には部屋に戻る。あんな人間、同じ空気を吸いたくもない。あんな奴。
 そうして、父親に対するいら立ちを思い出した丁度その時。
「ねぇ、そろそろお昼よ」
 一階の方から声がした。母親だった。
 気が抜けて、脱力する。危ない所だ。嫌な過去を思い出すとつい自分の空間に入ってしまって、心がぐしゃぐしゃになってどうにもならなくなっていたところだった。
 部屋のドアを開けて言う。
「ああ、わかった。すぐ行く」
 そうして階段を降りる。今更抵抗感もなくなり、着実に元に戻ってきていると感じた。最初は昔の家に帰ってきたようで、しかしどこか時代が違うような感覚に違和感を覚えていた。閉じこもっていた年月をその時初めて感じたのかもしれない。
 リビングに入ると、テーブルに皿が二つ。パスタだった。向かい合うように置かれている。妹は学校なので平日の昼は二人で食べる。
 台所で飲み物を準備している母親が目に入った。と同時に視線が合う。
「来たのね。じゃあ食べましょうか」
 そう言って椅子に座った。自分も反対側の椅子に座る。
「これなんて言ったっけ」
「ペペロンチーノよ。前も作ったんだけど、忘れちゃった?」
「いや、名前が思い出せなくて。そう言えばそんな名前だったか。じゃあ、いただきます」
「はい、いただきます」
 向かい合って食べるのには少し抵抗がある。否応なく相手が見えてしまうし、相手は常に自分のことを見ていることになる。長らく視線にさらされていなかった俺にはいささか厳しいものがあった。
「……」
 一度話が止まると、上手く話題を出せるでもなく殆ど喋らなくなる。いや、喋れないのだ。それは母親も一緒だった。
 ひたすら無言が続くときもあるが、しかし時折満足そうに笑っている。それを見るたび、何か変なことをしかたと心配になったり、ちょっと腹を立ててみたりする。一方で別の気持ちがあったことも無視はできないが言葉にはしたくない。恥ずかしいから。
「妹のこと、ちゃんと面倒見てあげてね。お姉ちゃん」
 あの言葉は、初めて母親と昼飯を食べた時、言われた言葉だ。返事をするでもなく俺はずっとうつむきながら食べていた。
 お互い、まだまだ手探り状態も良い所。俺を生んでもう十数年以上たっているっていうのにこんなギクシャクした家族ごっこをしても、他人には笑われるのがオチだろう。それでも居心地は悪くなかった。
 けれど、壁はどこにもつきもので。
「あら、電話かしら」
 無情にも電話は鳴る。少しの異変は、すぐ大事になるなんて分かりきっていること。分かっていたはずなのに。
 今という時間にすっかり甘えて思考が停止していた。
「はい……はい……。えっ? ……わかりました」
 母親が電話をしている所を俺は見ていた。明るい表情が一気に青ざめているのが分かる。口調としては俺に悟られまいと押さえているのだろうが、態度からしてバレバレだ。
 もう一つ言えることと言えば相手はこの前の電話の奴。恐らくは父親だろう。
「あ、あれ。見てたの?」
 受話器を置いてようやく俺に気付いたようだった。どう見たって焦っている。
「ええと、あの、ね?」
 要領を得ない、中身のない言葉を羅列して言い訳を考えているのはどうにも見ていられなかった。目線すら合わせられていない。
 視線に俺の苛立ちが表れていたのかもしれない。らしくないのもそうだが、しかしなにより自分に話してくれないということに憤りを感じざるを得なかったからだ。
「どうでもいいだろそんなん。離婚しちまえ」
 だから自分から言う。
「えっ?!」
 おどおどとした様子が一変、目を大きく開け手を口に当てる。
「浮気かなんかしてたんだろ。そんなやつ、こっちから切り捨てちまえって言ったんだ」
「あなた……知ってたの?」
「そりゃ毎日毎日家に帰ってこないってなれば、疑わずに生きていけるのはうちの妹くらいだろうよ。この前もその電話だったんだろ? 下らないこと隠さないで、全部話せよ」
「……」
 母親は、そのまま俯いてしまった。恥ずかしいと思っているのか、隠していたことを申し訳なく思っているのか。
「ごめんね」
「いや、そういうのいいからさ」
「……ええ」
 そうして母親は、俺に一部始終を話しだした。加えてこれから何が始まるのかも。
 ただし、妹には隠すという条件のもとで、だ。

       

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