Neetel Inside ニートノベル
表紙

Hから始まる恋心
16.con slancio -性急に-

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 戸惑いつつも「家まで送るよ」と申し出たところ、なんだか中途半端な笑顔で「ありがとうございます」と頷く羽月。その表情の真意を掬いそこねてこちらも中途半端な笑みを作ると、彼女はふいと顔を前に向けて僕の半歩先を行く形で歩き出した。ところどころふんわり跳ねている羽のような髪の毛が小さな背に揺れるのを眺めながら、頭の中には去り際の花火の言葉が妙にはっきり響いている。
 僕は羽月を凛さんに自慢したかった、のだろうか。
 否定はしきれない。羽月と出会ってある種はしゃいだ気持ちがあったことも、決して嘘だとは言えないからだ。だけど、それは僕が彼女をここに連れてきた一番の理由にはなるまい。そんなことで、僕はあのピアノを弾かせたりはしない。花火だって、それくらいは分かっているはずだ。あのピアノに対する思いに、僕と彼女で懸隔があるとは思えない。なのにあんな薄っぺらいことを言うなんて、あいつらしくない。
 羽月のほんの少し後ろを歩いていて、特段無言に耐え切れなくなったとか、息苦しくなったとか、そういうありふれた理由は何もなかった。だけど、花火の発言の真意を考えながら夕日に照らされるピアニストを観察していると、口が勝手に言葉を紡ぎだす。
「なあ、さっきのピアノ、好きになれそうか?」
 一瞬顔をこちらを向けてから、羽月はやはりぎこちなくほほえむ。
「ええ、とても」
「高校さ、明日、終業式なんだ」
 羽月は、今度は前を向いたまま歩み続けた。二人並んで、下り坂を進み行く。そもそも並んで歩くことなんてあまりなかったけれど、身長差が大きくて、僕は見下ろし、彼女は見上げる。その構図がなんとなく好きだった。
「あのさ」
 僕の口は、止まりそうにない。
「夏休みは文化部の活動が盛んになって、学校の音楽室は使えなくなるかもしれないんだ」
 目で、隣を行く少女の反応を伺う。輝く髪に反射する橙と、無言が返ってきた。
「その点あの店ならそういう心配はないし」
 自分が何を焦っているのかわからないまま、僕は変な笑みを浮かべ矢継ぎ早に続ける。
「ほら、凛さんだっていい人だしさ、君が望むなら他の楽器だって触らせてもらえる。決して悪いようにはしない。だから、その、またあのピアノを――」
 そこまで言って、回り続けていた口は急ブレーキをかけて止まった。
 ああ、結局、僕が羽月を凛さんに引きあわせたのは、こういうことなのか。
『君は、誰かの為に何かをしたことがあるかい?』
 脳裏を、あのおじさんの言葉がよぎる。
 羽月に喜んでもらいたかった、なんて言いながら、結局は自分のためじゃないか。僕がこの天使を手放したくないから、そんな身勝手な理由でしかないじゃないか。なるほどね、形はどうあれ凛さんに羽月を自慢しておけば、それが僕と彼女の関係への保険になると、そういうわけかよ、花火。
『まだえーちゃんの物じゃないんだよ? はーちゃんは』
 お見通しってわけだ。
 こりゃ一本取られたかもしれないな。僕は目をつむって頭を掻いた。しかし一本取られたからと言って、自分に嘘を付く必要なんかない。身勝手な理由だって何だって構わないさ、それが僕の気持ちだ。
 だから、話を続行しようとした、そこに。
「ありがとうございます」
 羽月が、先回りをする。
「そう言って頂けるのは、とても嬉しいです」
「じゃ、じゃあ……!」
「英波君」
 ぴしゃりと、言い放たれる僕の名前。落ち着けと、そう言わんばかりの台詞。はっとして、隣を行く少女を現実的な感覚で捉え直す。
「天音雫というピアニストを知っていますか?」
「は?」
 今度はなんだ? いきなりまた突拍子も無い話を始める気なのか。それに天音雫、なんて聞き覚えのない名前である。いい響きだとは思うけれど、それだけに聞いたことがあるなら忘れないはずだ。
「……いや」
「だと思いました」
 そこで小さくふふ、と楽しそうに、だけど儚く笑う彼女。
「十年以上も前のピアニストで、それも実力を評価されていたわけではなかったんですよ。淡麗な容姿を買われて、美人ピアニストなんていうキャッチコピーと共に半ばアイドルのような扱いを受けていたらしいです」
 話の着地点がわからないまま、しかし筋を見失うことのないよう、隣を行く少女に耳を傾ける。
「ミーハーな人たちは演奏も素晴らしいなんて言っていたらしいですけど、もはや偶像のになってしまったピアニストを正しく評価できる聞き手なんて、そうはいませんでした。プロの中にも雫を評価する人はいたのかもしれません。でもマスコミでの評価は大衆向けに作られた紛い物でしかなかったんです。才色兼備のピアニスト、天は人に二物を与えた、とかなんとか。結局、仕事が多すぎて練習の時間も取れなくなり、やがて彼女の演奏はどんどん輝きを失っていきました」
「……それで?」
「失意の底で、それでも彼女は希望を見つけたんです」
 今度はこちらを向くなり明るく口の端を持ち上げて、僕に語りかけてくる。
「伊集院朱雀、という画家がいました。天音雫は、その画家と婚約したんです。正確には、伊集院のほうが婿養子になったのですけど」
 目に蜜月の光景が浮かんでいるかのように、彼女は続けた。
「二人は、それはそれは幸せだったそうです。雑誌や取材のお仕事のお陰で、なんとか二人でも生きていけたし、なにより朱雀は雫の演奏の大ファンでした。時期も時期だったのか、朱雀は本まで一冊だして、絵を描いて暮らしていました。二人は幸せの絶頂だったに違いありません。そして――」
 調子のよかった羽月だが、そこで息を飲むように一端言葉を区切り。
「そして、天音雫は死にました」
「へ……?」
 その台詞に、僕は虚を突かれた。唐突すぎるバッドエンドの訪れに、心の準備などできてなかった。
「交通事故か何かか?」
 思わず、聞き返す。
「いえ、子供を一人生んだんです」
「それで、母体に負担がかかりすぎた、ってことか」
「ええ」
 道半ばまで降りてきて、一本つながっていた道路が、二股に分かれるT字路へと差し掛かる。そこで羽月が足を止めたので、僕も釣られて彼女の横に静止した。目の前で二つに分かれ左右に伸びる、一本の道。この分かれ道を左に行けば、僕の家だ。ガードレール越しには、やはり夕闇に堕ち行く街が、陽光に照らされる白い建物の数々が、明々と輝いて見える。
 羽月は、どちらに進むつもりなのだろう。
「英波くん、あなたは私に最初に会ったとき、言ってくれましたよね」
「え?」
 彼女は、夕日と雲の影にすっぽり包まれつつある神戸の街を見下ろす体制から、光子を透かしているキラキラの髪と青い制服のスカートをふわりと振り回して、僕にぐっと顔を近づけた。
「君のピアノ、感動したよ! って」
 そして、極上の笑顔を向ける。
「……ああ」
「私、すごくびっくりしました。びっくりしたし――嬉しかった」
 胸の前で手を組んで、目を瞑って、祈りでも捧げるみたいに、羽月が言った。
「なんで今更、そんなことを」
 そして戸惑いを隠しきれないまま至極まっとうな疑問を口にしたつもりだった僕に。
「天音雫は、私の母です」
 艶のある唇はまたもや不意打ちの台詞を吐く。
「……なんだって?」
 いきなりの告白。心臓が急速にウォーミングアップを始める。ドクンドクンと、沸騰しそうな血液を、熱せられた全身へ送り始める。頭は、回らない。むしろ白く白く、思考力が奪われていく。
「ある人は言いました。私の顔は、母そっくりだって。だから演奏もよく似ていて、素晴らしいって」
 羽月は、目を閉じて続ける。
「ある人は言いました。私の演奏は親譲りだって。だから、感動的なのは当然だって」
 羽月は、続けた。
「ある人は言いました。天音雫の演奏は聞いたことがないけど、さぞかし上手かったのだろうって」
 眉間にシワを寄せて、苦しそうに、続けた。
「私は、構わないんです。私の演奏が評価されようとされまいと、そんなことはどうだって。だけど、私の中に見た母の面影でさえ、正当に評価しようとしてくれる人間が、私の周りにはいなかった。それもそうかもしれません、所詮顔が良くてピアノもまあまあ弾ける広告塔に便利なハーフの女性に集まった人間ですもの」
 一歩、二歩、僕から身を引いて、羽月はまた目を開いた。今度はうっすらと、優しさとそして、憐憫を孕む目を。
「だから、あなたの言葉が本当に嬉しかった。私のピアノを、私という先入観も母という先入観もなにもなく、ただただ本音で感想をくれた、英波君の言葉が、私には何物にも変え難かったんです」
「羽月……」
 そんな風に思ってくれていただなんて、知らなかった。分からなかった。分かるはずがない。はずはないのだが、しかし言われて悪い気はしない。なんにせよ彼女の力になれたのなら、それでいい。
「私は母を殺してしまった子供です」
「……そんなことは」
「勿論、心からそう思いつめているわけではないのですよ」
 彼女は僕の気遣いを振り払うように笑った。
「だけど、せめてその罪滅しに、母のピアノを、私という形ではなく、純粋な音楽として誰かに認めてもらいたかった。わざわざ、素性を隠すために紙袋なんてかぶったりして、たぶん、あなたみたいな人を待っていたのかも。英波くんの言葉は、そんな私を救ってくれたんです。その上この一ヶ月もの間、私に付き合ってくれましたよね。私のわがままに、文句ひとつ言わずに、何一つ教えもしなかったというのに。ずっとずっと、私と母のピアノに、寄り添っていてくれた。花火さんや、凛さんにも会わせてくれた。だから英波くんは私の天使なんです。だから」
 手を後ろに組んで、首を少しだけ傾けて、女神のように微笑んで。
 羽月は言った。
「ありがとう」
 狙い撃ちだ。破壊力は、抜群だった。心の底まで溶かされ崩されたような気さえする。とにかく、目の前の少女が愛しくて仕方がなかったのだが、しかしどうも何かがおかしい気がして、単調増加の思考回路に沈みゆくことができない。
 どうして、このタイミングで、こんなことを?
「私も、母も、もう十分満たされました。だから――」
 嫌な予感は、すぐに的中することになった。
 それも最悪の形で。
「ごめんなさい」
「……あ?」
 その言葉は謝罪、だった。
 何故、謝る。
「騙すつもりはなかったんですけれど、やっぱり最後まで気づきませんでしたね、英波君。私、本当はあなたより年上なんですよ、高校三年生だから。今まで黙っていて、ごめんなさい」
 口からよく分からない声が漏れた。勿論それもまた、十分すぎるほど衝撃的ではあったのだが、僕の全身の危機感知センサーはそれ以上の脅威の接近を警告していた。その先を言わせてはならないと、発光し、発汗していた。泣きそうな、だけど口元は笑うような、ちぐはぐな表情の取り合わせで、光の中、乾燥した夏の匂いの中、僕と羽月は向い合って、そして見つめあい。
 ああ――彼女のベージュ色の瞳は、こんなにも美しい。
 天音羽月は、震えた声で、潤んだ目で言った。

「私、もうピアノ、やめるんです」

       

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Neetsha