「は?」
上ずった声が、喉より少し上の辺りで高周波数に変換された。
「今、なんて言った?」
きぃきぃ鳴っていい加減うるさかったブランコを漕ぐのをやめて、僕は隣の空中椅子に腰掛ける幼馴染に問う。
「……私、ピアノやめるかも、って」
「なんで」
語気は強めないが、間髪も入れない。頭に浮かんだ文字が、ベルトコンベアーで運ばれるように、口からそのまま出てくる。
「んー、そうだなあ」
彼女が、横顔で目を細めて遠くを見て、うっすらと口角を上げる。
「それはまた、今度話そうかな、なんてさ」
そしてそのまま感情の読めない声ではぐらかして、立ち上がった。ワンテンポ遅れて焦った僕もブランコから立ち上がり、花火の後に続く。何の前触れもなく冷たい底なし沼に突き落とされたような息苦しさと、世界が揺れて上下左右のわからなくなるふらついた足下のせいで、僕は歩くことさえも精一杯だった。前を行く彼女に声をかけるような余裕など、なかった。
やめる? ピアノを? 花火が?
どうして。なんで。
理由が何もないじゃないか。
頭の中を、疑問符が、疑問詞が、目まぐるしく回る。スロットみたいに、上から下へと。
「まあ、まだ決まったことじゃないしさ、今日はこれで」
気づけば、いつもの交差点に差し掛かっていて。
「えーちゃん、また明日ね!」
花火が、茶髪に近いショートカットを揺らして横断歩道を渡っていく。また明日? 僕はその言葉に信憑性を感じられなかった。もしここで彼女をいかせてしまったら、もう今の花火には二度と会えないような気がしてならなかったのだ。僕と彼女の世界を隔てる川にかかった橋を渡って、花火がどこかへいってしまう。そんな気がしてならなかったのだ。
だから、僕は一歩を踏み出した。
間違った一歩を、踏み出してしまった。
「待てよ、花火っ!」
彼女を追って、駈け出した。
おかしいな。
信号は、青だったはずなのに――
彼女が、振り向いて、その顔が、驚愕に変わったのは、覚えている。
「危な」
急転直下、膝に額をぶつける勢いで上半身を起こし、大きく息を吸い込み、小刻みに、吐く。心臓が、早鐘を打っている。このまま嫌なことを全て吐き出してしまえたらいいのにと、そう思えるくらいに、えづき、嗚咽する。脚の下の生暖かさを感じながら、周囲の闇に包まれた景色を急速な覚醒状態にある頭で確認する。するとここが自室であるということ、さらにさっきまでの忌々しいほどに生々しい映像が夢だったということが、徐々にわかってくる。肩を上下に揺らしながら、額の汗を腕でぬぐい、僕は暗がりに慣れてきた目で手元の目覚まし時計を確認した。
「……」
午前三時。
手足の筋肉は痛み、関節は軋み、吐き気がし、目眩が僕の部屋の本棚を歪ませていた。最悪な気分だ。世界がゆらりと回転して、内臓をそっくり全部吐き出してしまいそうな、そんな油汗の出る嫌な感覚が僕を襲い、それでも無闇に落ち着きはっきりとしている意識の中で、考える。
軟弱すぎるぞ、僕。
昨日の今日で、知恵熱か。そんなに考え込んだつもりもないのだけれど。あるいはショックで発熱なんて、今時小学生でもなかなかいないだろう。
羽月が、ピアノをやめる。
それだけのことだ。それが彼女の人生で、彼女の選んだ道なのだ。
話はこうだった。
元々裕福なわけではなかった羽月の家庭で、その唯一の収入源は今や画家である父親に頼らざるを得なくなっているのだという。しかし同じ芸術家という括りで見たとき音楽家がそうであるように、画家なんて職業がそれだけで成立するほど易しいものではないことは僕でも容易に想像がつく。謂わば、芸術家なんて博打打ちのようなものだ。どれだけベットしたところで、外れるときは外れるし、当たるときは当たる。賭け事との違いは賭けるものが自分の魂とプライドだということくらいだろう。もっとも流行を読み、大衆の求める物を生み出そうとするアーティストもいるけれど、というかそうでなければアーティストとして生き残るなんて土台不可能だろうけど、残念ながら羽月の父親はそういうタイプの人間ではなさそうだった。
つまるところ単純明快で、しかしそれゆえに複雑怪奇な問題。
父親の収入だけでは、暮らしていけないのだそうだ。
勿論画家の父親も副業として別の仕事をしてはいるそうだが、年が年である。無理はできない。と、これは羽月談。実際にどうかはわからないし知らない。ただ、それが羽月の気持ちだということには何の疑いもなく、そのことが彼女を動かした。
高校を卒業したら、社会へ出て働くんです。
羽月は気丈ぶってそう言った。私、もう働けるんですよ? 英波くんよりもずっと大人なんです。なんて、痛々しく笑っていた。夏休みから、もう研修が始まるのだそうだ。だから、もうピアノをやっている余裕なんてないらしい。というより元々、彼女の家にピアノはないのだという。それでどうやってあの実力を手に入れたのかは永遠の謎であると言えるけれど。従って、ピアノをやめるという言葉の意味合いは実にはっきりと明確に「さようなら」ということになる。
さようなら。
あまり好きな言葉ではないな。
しかし、それが彼女の人生で、彼女の選んだ道だった。やはり僕が口を挟む余地など、世界のどこを探したところであるはずもない。
花火の時と、同じなのだ。
結局、花火からピアノをやめる理由は今でも分からず仕舞い。結果として彼女はピアノを弾くことができなくなってしまったのだから、聞けるはずもないのだけれど。何かが始まる理由も、終わる理由も、僕にどうこうできるものじゃない。仮に聞いたところで、どうしようもないんだ。
そう、どうしようもない。
両手で顔を覆って、深く息を吐く。嫌な汗が背筋を伝う。
花火に、聞きたかった。確かめたかった。そして出来るなら、その考えを改めさせたくもあった。だけど、僕のとった行動は決してそうはならなかった。
僕は、怖い。
頭では理解できている。あんなことは、もう二度と起こらないだろうと。だけど、僕に羽月の決定に口を出す権利なんてあるのだろうか。仮にあったとして、僕は一体羽月になんて言うつもりなのだろう。なあ、なんて言えばいい。どうすればいいんだ。どうするんだよ、僕。
わからない。
「……」
だけど、わからないなりに出来ることはまだあるはずだ。
僕は軋む躯体に鞭を打ってベッドから抜け出し、部屋の明かりをつけた。
探すんだ。初めて羽月の演奏を聞いたときに感じた違和感の正体を。探してどうするのかは、分からない。だけど分からないのにはもう慣れっこだった。
立ち上がり、CDラックを片っぱしから漁っていく。せっかく作曲家順に並べてあった僕のコレクションが爆発するみたいに床に散らばっていくのなんて気にもとめずに、一心不乱に探す。絶対にあるはずだった。僕は気に入ったCDを捨てたりはしない。そして一度気に入った音楽を忘れたりはしない。がむしゃらに、僕は探す。仮にそれが昔のことで、頭の記憶が薄れていたとしても、耳の記憶は絶対に消えたりしない。
絶対にあるはずなんだ。
絶対に――
「あ……」
それは、五段になっているCDラックの最下段の、そして一番端っこに、ちょこんといじらしく陣取っていた。大好きなショパンのワルツの録音であり、そして一番端っこにあるということはつまり、僕が一番最初に聞いたCDだということだった。恐る恐る手をとって、薄くかぶっていた埃を丁寧に払う。
天音雫、その人の演奏だった。
聴かなければいけないと、強くそう思った。ケースを開き、中身を取り出し、何かに引き寄せられるようにそれをオーディオプレイヤーにセットして、そして僕は。
目を開けると、四方を白いカーテンで囲まれた、まるで病室のような場所だった。というより、ほぼ病室だ。白い天井が妙に眩しく感じる。しかし、記憶の紐を手繰り寄せるまでもなく、今の状況はかなり把握できている。把握できているからと言って、決して状況が芳しいわけではない。
「……」
夜通し起きてしまったのが、駄目だったのだろうか。
いや、考えてみれば何もかもが駄目だった気はするのだが。
「よお、お目覚めか?」
耳慣れた低周波数に僕は起き上がり、違和感を覚える。この声の持ち主は、生徒たちが安心と安寧を求め集いやってくるこの空間には似つかわしくないはずだ。
「おいおい、本当に死にそうな顔してやがるぜ。なかなか笑えるぞ、阿部少年」
しかし実際、軽快な音を立てて開かれたカーテンのまさしくその先に、相変わらず気障な笑顔をワイルドに浮かべながら、彼は立っていた。
「……静先生」
朝、コンティションは相変わらず最悪だった。終業式に出られるようなものでは、確実になかった。にもかかわらず無理をおして登校したその結果がこれだ。簡単に言うと、ぶっ倒れた。
「気分はどうだ? 救急車を呼ぶかどうか、という騒ぎだったらしいが。ああ、保健の先生なら、少し席を外してもらった」
視線を僕から外し、穴の空いた丸がズラリと列挙された保健室チックなボードを見つめて、静先生は左目を手で覆った。そして誰も見ちゃいないというのに、一人で勝手に視力検査を開始する。
しかし、救急車?
そんなオオゴトになっていたのか。
「……呼んであるんですか?」
「まさか、そいつは俺が阻止しておいてやったぜ」
「先生が?」
まだ若干くらくらする頭を抑えながら、僕は逡巡もできずに問い返す。
「お前との付き合いは長くはないが、短いと言うほど短くもない。だからお前がどういう生徒かは粗方分かってきたつもりでいる」
動き回っていた彼の人差し指が、僕を指すようにこちらを向いた。
「頭は回るし勉強もできるが、考えが硬い。友だち思いだが、あまり懐かれる性格でもないのが報われねえ。慎重で何をするにもよく考える臆病者、にもかかわらず自分の好物がかかれば後先考えずに行動する音楽バカ。ショパンへの愛情はあれど、ショスタコーヴィッチは苦手。オルガンとチェンバロなら後者を選び、パルティータではカプリッチョを好む。朝食はパンが多いが白米も食べる、昼食は学食のクロワッサンとサンドウィッチ。好物はコーンスープで苦手なものはなし」
いつの間にか覆う目が逆になっており、僕から見えるようになった左目は、やはり視力検査を続けている。
「そして、音楽と同じように女を愛し、そいつのために全力を尽くす初な坊や、だ」
「……はあ?」
「違ったか?」
「適当なことで茶化すのはやめてください、ただでさえ頭が痛いのに」
「お前は、頭は悪くねえ。さっきも言ったが賢いやつだ、むかっ腹の立つことにな」
静先生は、「2.0だな」と、距離も測り方も医者もいないデタラメな検査結果に満足して、僕の方へと向き直る。
「そんな賢いやつが、熱やら身体の不調やら、それも並のレベルじゃねえ、傍からみたら救急車を呼びたくなるような体調不良を押してまで、大した行事でも何でもねえ終業式に出席する為だけに、わざわざ高校まで山登りをするってのは、筋が通ってねえんだよ。わかるか? 阿部少年」
がっちりと、目線があった。妙に心が落ち着いてくる。ふらつく眼球で捉えても、目の前の音楽教師の言うことは決してふらついたりはしない。
「今日、ここで、何か為すべきことがあるんだろう。それが何かは知らんがな」
「……」
有無を言わせぬ目付きだった。それを見続けるのはどうにも気力が持たなくて、だらりと足の上に置かれた手の甲に僕は目を落とす。だけど。
「ありがとうございます、静先生」
笑うことは、できそうだ。
「僕は――」
その時
音。
ピアノの音色が、聞こえた。
たった一つだけ、何も頼りにせず空気の芯まで鳴り響く、伸びのある薄い桜色の。
『H』の音だった。