Neetel Inside ニートノベル
表紙

Hから始まる恋心
3.Adagio -緩やかに、心地よく-

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 どうやら、僕の頭の中で狂ったように踊り続けていたショパンは、消え失せたようだ。それで、とろけるような微笑みを顔に浮かべているこの女は、何と言ったのだったか。
 奴隷?
「お前、何言ってんだ」
「それは私の台詞だよ、えーちゃん。まさかもう昨日のこと忘れちゃったの?」
「……いや、覚えてるけどさ。それがどうしたってんだよ」
 昼休みの食堂といえば学生でごった返していて、大変騒がしい。僕と花火の横を通り過ぎて昼食を調達にしに行く面々は、どいつもこいつも浮ついた顔をしていた。それを横目で眺めて、目線を元に戻すと、そこにも浮ついた顔がある。嫌な予感しかしない僕の気持ちは沈むばかりだというのに、なんなんだ?
「まあ、落ち着いてこれを見ようよ、聞こうよ」
 とかなんとか言いつつ、花火の顔が眼前に迫っていた。唇が潤んでいて、目を奪われる。彼女の顔を対男子用の兵器だと例えるなら、今の僕は完全にその射程圏内に入ってしまっていた。引き金を引かれれば、一発でノックアウトしてしまうに違いない。甘酸っぱい匂いは既に僕の思考能力を奪いつつあるけれど、ふむ、嗅覚という死角から攻めてこようというのか、やるな。
 でも思い返せば、花火との距離感ってこんなものだったかもしれない。
 僕が忘れていただけだろうか。それはなんだか違う気もするけれど。
 そんな具合に若干うろたえながらも、僕は耳に異物を感じる。どうやらイヤホンを装着されたらしい。
「……?」
 そして、花火はそのイヤホンがつながった桃色の携帯電話を取り出して、僕へと突き出す。
「はいスタート」
 ボタンを押しこんだ。自体が飲み込めないまま、携帯の液晶画面に動画が表示される。
「……」
 それは何の変哲もない動画だった。一人の男子生徒が夕焼けをバックに、息を荒げている程度のムービーである。
 ああ、なるほど、なるほどね。
 すばらしい動画だ。
 それも、耳を澄ませば淫靡な音声が聞き取れるという逸品である。
 つまりこういうことか。
 僕は花火に弱みを握られた。
「えーちゃん、奴隷」
 僕からイヤホンを軽やかに抜き取って、花火は僕と携帯を順番こに指さして、ニッコリ笑った。
「オーケイ?」
「……おーけー」
 久しぶりに幼馴染と再会したと思ったら、いつのまにか奴隷にされていた。
 なんだこれ。
「まあまあ、そんなに渋い顔しないで! なんだか私がえーちゃんに悪いことしてるみたいじゃん」
「事実だ」
「え、嫌なの? 奴隷」
「あたりま」
 花火は携帯を印籠のようにさっとかざした。僕の口ははっと閉じる。
「私が何のためにわざわざ食堂で待ち合わせをしたか、わかっていないわけじゃあ、ないよね?」
 花火は辺りを見渡して、何か言いたげな目で再び僕を見た。
「人がたくさんいるね。勿論、えーちゃんのお友達もいる」
「……」
 クラスメイトで騒がしい典型的阿呆で坊主の狭山が、自販機でジュースを選んでいた。
 くそ、呑気にドクターペッパーなんて買ってるんじゃねえよ。狭山の馬鹿野郎。
「君の秘密を大声で叫んだら、どうなるかなあ?」
「……ぐっ」
 ふふん、と鼻で笑って、花火は先程の台詞を繰り返す。
「嫌なの? 奴隷」
「僕は、花火様の奴隷になれて……光栄に思います」
「表情が硬い。もう一回」
 こ、こいつ、僕を玩具にする気か!
「何? どうしても奴隷が嫌なら執事ってことでもいいよ。執事は英語でバトラーだけど、バトラーといえばジョン・バトラー・トリオが有名だね」
「ああ、そういえば最近フジロックにも来てたっけな」
「えーちゃんもあれくらいノリがよくないとね。例えば花火を持って走り回ってみるとか」
「そういうことは危険だからやっちゃダメだって、花火のパッケージに書いてるだろ。PVと現実を混同すんな」
「私が許可するよ」
「花火だけにか」
 いや、上手くねえよ。
「で、やり直しは? 執事クン」
 話が逸れたように感じたのは僕の思い違いだったようで、花火は僕を逃がす気などさらさらないらしい。畜生、ニヤニヤしやがって。めちゃくちゃ辛いカレーを食べた三秒後みたいな感じだ。
 数秒の間を置き、なんとか気持ちの整理をつけてから、僕は満面の笑みを浮かべる。
「僕は花火様の執事になれて光栄に思います!」
「あはははははは!」
「……」
 笑われた。
 僕のひきつる笑みとは好対照の、心の底からの笑みだった。
 三十倍カレーを食べた一秒後みたいな感じだ。明日はお尻の穴が痛くなりそうな予感さえする。
「……用件はこれだけか?」
「これだけで済むと思う?」
 思わないよ。
 これだけで済んでほしいとは思うけれど、それはさすがに希望的観測というものだ。
「というわけで我が奴隷よ」
 奴隷に戻ってやがるぞ、おい。
「命令である」
 阿呆みたいに深刻な顔で、花火は息を吸いこんだ。対する僕は唾を飲む。そうやって身構えた僕に彼女は、奴隷などという物騒極まりない単語と全く結びつかない、実に日常的なことを口にした。
「一緒にお昼ご飯を食べるのだ」
「……お昼ご飯?」
 最低でも何か買ってこいくらい言われるだろうと思い込んでいた僕にとっては拍子抜けだったのだが、まあそれで済むのならそれでいい。
「私はオムライスね!」
 もうこれ以上何もないことを心から望みながら、僕は唐揚げマヨネーズ丼を注文した。ふと思い立って、隣で黄金のふわふわが出来あがる過程を眺めている花火に、声をかける。
「花火、先に席とっといてくれ。お前のオムライスは僕がきっちり送り届けるから」
「ありがたいけど、さっそく奴隷としての心がけ?」
「いや違うけど、人からの好意は素直に受け取るもんだ」
 ふぅん。と頷いて踵を返す花火の横顔は、なんだか寂しそうに見えた。
 寂しそう?
 なんで?
 わからない。
 考えたってわかるはずもない。僕の思考は彼女みたいに直線的じゃないのだ。無論、悪い意味で。大体あいつが何を考えているのか手に取るようにわかるというなら、僕はそもそも今日ここに来なかっただろうし。いや、例えこうなることが分かっていたとしても、来ないという選択肢はなかったか。花火が一人で待ちぼうけな図を想像すると、そんな結論に至る。
 僕はいつの間にか出来あがっていたオムライスと唐マヨ丼を、食堂の椅子で手を振る花火の元まで運び、席に着く。いただきますの挨拶と同時に割り箸を半分にして、スプーンで黄色い天使を口元まで運ぼうとしていた彼女に聞いた。
「で、どうしたんだ? 急に。何か僕に頼みたいことでもあるのか?」
 香ばしい匂いの漂う唐揚げを箸でつまみ上げて、かじる。じわりと、肉汁が口の中に広がった。
「ん、別に他意はないんだけどさ。相変わらず疑り深いなあ」
「疑うっていうか……」
 ほぼ一年、会話もなかったのに、お前は何で何にもなかったみたいに僕に話しかけてくるんだ? おかしいだろ。理由があるに決まってる。
 なんて、言えるはずもない。
 小学生の頃なら、喧嘩した友だちと自然に仲直りしていることくらいはあった。でもそれは、当時の僕らが特別だったからだ。壊れた器の壊れたところなんて直視しなくても、いつの間にかくっついているものだったからだ。木工ボンドもアロンアルファも要らなかったからだ。
 ごめん。
 もういいよ。
 それだけで、済んでいた。
 もしもこれがそういう話だというなら、確かに僕と花火の仲だって修復済みと言えるかもしれないが、これがそういう話だとは到底思えない。僕には見えるのだ、彼女と僕の、途切れた部分が。
「最近どうよ? えーちゃん」
 でも、そんなものを口にする勇気なんて僕にはない。
「最近、ねえ。まあまあだよ、お前の奴隷にされてることを除けばな」
「幽霊には会えた?」
「……いや、だからいないっての、そんなもんは」
 咄嗟に、言葉が口をついて出る。
 勿論昨日のピアニストは幽霊などではないだろうから、これは嘘じゃない。僕は確かに、本当のことを言っている。
 では、僕はどうして自分に言い訳してるんだ?
 わからない。
「いるよ」
 オムライスを口いっぱいに頬張って、花火は言った。
「いねえよ」
「じゃ、一緒に探さない? 幽霊」
「……」
 そうきたか。
 もしかして、それが目的なのか?
「ん、どうして黙るの? あ、もしかして怖い?」
「そんなんじゃねーよ」
「じゃあ、命令したら、一緒に幽霊探してくれる?」
「嫌だ」
 即答していた。
 花火のオムライスを切り出したスプーンが、器の上で一時停止している。
「どうして?」
 急転直下無表情になって、彼女は僕に問いただした。
 僕は答えられない。言葉に詰まる。困ったな。
 理由が見つからない。
「……いいよ、えーちゃんが嫌なら。無理強いはしない」
 そこで、会話が途切れる。
 まただ。
 昨日もそうだった。こいつは、花火はこうして話から一歩身を引くようなやつじゃなかったのに。なんだよ。お前も感じてるのか? 僕とお前の間に積み上がった、見えない何かを。
 らしくないぜ。
 しばらく無言で生徒達の喧騒の中唐マヨ丼をかきこんでいると、花火がスプーンを扱うバンドエイドだらけの手に目がとまった。
「それ、大丈夫なのか?」
「昨日も聞いたよね、それ。言ったじゃん? ぶつけちゃっただけだって。大丈夫大丈夫」
「……そうかよ」
 こいつがそういうなら、そうなのだろう。
 別に僕が心配するようなことでもないのかもしれないし。
「やっぱり優しいね、えーちゃん」
 でも、そう言ってほんの少しだけ、頬を紅潮させる花火は、なんだか大人びて見えた。
 そこからは他愛もない話だ。今はなんのバンドが熱いかとか、ストラトの色は何色がいいかとか、安くていいエフェクターを売ってる店を見つけた、とか。僕にはてんでわからない話を、花火は延々としていた。
 結局彼女が何の目的で僕を奴隷に仕立て上げたのかはよくわからなかったのだけど、でも、それに相槌を打ってるだけで、案外楽しいのだから不思議である。これだけは昔も今も変わらないことだと、僕は結論付けた。
 そしてこの日から、昼休みは花火と食べることが慣習化してしまったのであるが、それは後になってからの話であって。
「モテモテじゃねえか、少年」
 という、髭の音楽教師の妄言に反論しないわけにはいかなかった。

       

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Neetsha