Neetel Inside ニートノベル
表紙

Hから始まる恋心
4.scherzando -戯れるように、おどけて-

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「僕の話、聞いてました?」
「ああ、聞いていたとも」
 聞いていたとしたら僕がモテモテだ、などという馬鹿げた結論には至らないはずだが。
「いつでも好きな時に女の子の足を舐められる地位を手にしたんだろ、実に妬ましいな」
「僕の話、聞いてました?」
 教卓に腰掛け溜息まじりの僕に、無精髭の男が黒板に書かれた『蝶々夫人』の説明を消しながらふっふと笑った。五限後のがらんとした音楽室に、雑音のないテノールボイスはよく響く。
 このふざけた音楽教師は、静清。静が苗字で名前が清なのだけど、実際のところは『静か』とも『清い』ともまるで縁のない男である。四六時中、歌うか喋るかしているし、何よりも女好きでどうしようもない駄目教師だ。
 上半身は白いカッターにベージュのベスト、下半身は真っ黒なスーツのパンツ。腕捲りするくらい暑いのならベストなど脱いでしまえと思うのだが、お洒落というものをよくわかっていない僕がそれを実際に口にしたことはない。捲りあげられた袖から伸びる逞しい腕には、いかにも高そうな光沢を放つ腕時計が見せつけるように巻いてある。
「奴隷になれ、だろ? 高校生の仔猫ちゃんにしてみればなかなか情熱的なアプローチじゃねえか。クラっとくるね。そもそも、気づいたら想いを寄せる相手を逆に奴隷にしてしまっていた、なんてよくある話だ」
「いやいや、何気づいたら好きな子に逆に悪戯しちゃってた、みたいな言い方してるんですか。逆に奴隷にしちゃうってなんなんですかそれ、怖すぎるでしょ」
 どこの中世の貴族だ。
「まあ、今回の件に関してはお前が悪いのは明白だろう。放課後の教室であんなもんに聴き耽っていたわけだからな。女の心の淋しさを埋めるにはもってこいのシチュエーションだったのさ」
 この人、今までどうやって女の心の淋しさを埋めてきたんだ?
 しかし過失が僕にあるというのは何をどうしたところで揺るぎない事実であって、僕は少々言い淀む。
「いや、それはまあ、そうですが。生徒会の仕事があんな雑用まで含んでるとは知りませんでしたし」
「生徒会の仕事?」
 少しだけ声の調子をあげて、静先生が聞き返してきた。
「ええ。花火はそう言ってましたけど」
「へえ、おうおう。そりゃあまた、いじらしい仔猫ちゃんだな」
 生徒会の仕事で放課後の教室を訪れることが、どうしていじらしいということになるのだろう。静先生の声に仄かな笑いが乗っかっている理由もよくわからないので、僕はその話題をスキップすることにした。
「というか、可愛い生徒のたまの相談くらい、少しは真面目に答えて下さいよ」
「俺はいつだって大真面目だが、目下お前に言いたいことは二つだ、安部少年」
 陽の光が差し込む授業終わりの気だるい音楽室で、静教諭は振り向く。
 彫の深い顔立ちに、ツンツンした黒い頭髪。所謂、無雑作ヘアとかいうやつだろうか。本当にただ無雑作であるだけな気もするが。それより、無精髭もお洒落だと言えば許されるものなのか?
「一つ。ただの愚痴を相談と言い換えるような真似はよせ。そいつは女だけの特権だ。そして二つ、お前は可愛くない。故にお前の相談じみた愚痴に真面目に応えてやる義務など、俺には1ミリもない。そもそも、男子生徒なぞの相談にクソ真面目に応えてやる義務など、高校教師たる俺には一ミクロンもないがな」
「あんた高校教師を何だと思ってるんですか」
 呆れた目で静先生の動向を追うと、彼は教室備え付けの本棚に大量に詰め込まれた楽譜を整理し始めた。
「……ちょっと、僕の相談より整理整頓のほうが大事なんですか?」
「分かり切ったことを聞くんじゃねえ。かのアマデウス・モーツァルトは、世間的にはだらしないイメージを持たれがちではあるが、自分の作品のナンバリングから管理まで、几帳面にやってのけた初めての作曲家だ。一流のマエストロなら創造的であるための整理整頓は欠かすべきではない、ということだな。そうだろう、安部少年」
「既に作曲家の名前順に並んでいる楽譜を曲名順に並べ替えるという、果てしなく非創造的な活動を整理整頓と呼ぶならの話ですがね」
「ところがどっこいそうでもない。実は最近俺の可愛い恋人たちが相次いで失踪していてな。確認作業が必要なんだよ。おっと、それ見たことか、またいなくなってやがるぜ」
 恋人? ああ、楽譜のコレクションのことか。
「今度はスクリャービンの『左手の為の前奏曲と夜想曲』か」
 タイトルを聞くと、なんとなくその曲のイメージが頭に浮かぶ。これは怪しげな、色気のある旋律が耳に残る名曲だ。
「そして、ゴドフスキーの『左手のための革命のエチュード』」
 確か『エチュードによるエチュード』はどれもこれも笑えるほどすごいんだよな。右手と左手で別々のエチュードを弾くというのもあったような気がする。
「それから、ラヴェルの『左手のためのピアノ協奏曲』。ああ、これはCDまでなくなってやがるぜ」
 不協和音ギリギリで鳴る低音が綺麗な素晴らしい曲だ。ラヴェルらしいといえばラヴェルらしい。
「偏ってるよなあ、随分」
「……確かに近現代の作曲家に偏ってますね」
 詮のない言葉だけ返して、僕は静先生の髭面から目を逸らした。
「一体誰が何のために連れ去りやがるんだろうな、俺のとびきりの恋人たちを」
 気のせいだ。
 片手で弾くための曲ばかりだなんて、そんなの気のせいに決まっている。
 幽霊? いいや、違うね。その正体なら、僕はもう知っているのだ。あり得ない。
「まあ、俺は構わねえが。ああ、そういえば」
 と、本棚から離れた静先生は、虚空に向かってしゃぼん玉を飛ばすみたいに独りごちた。
「フランスで映画を撮るなら一度くらいは登場人物が抱えていてもいいだろうと思えそうないい感じの茶色い紙袋が、特別練習室から消え失せたんだったなあ。気に入ってたんだがなあ、あれ。どうしてなくなっちまったんだろうな」
 細く長い独りごとに、僕はもう、黙りこんだ。
「なにか知らないか? 安部少年」
 この変に鋭い音楽教師は、目まで鋭くして僕に鋭く言葉を投げつけてくる。今度はシャボン玉じゃなくて、ちゃんとキャッチボールできそうな鋼球だった。そんな彼に力なく目線を送り、飛んできた言葉を拾って投げ返す。
「……例えば、誰かさんの管理が杜撰だから、練習室に忍び込まれた、という可能性は? そんないい感じの紙袋なら、侵入者の目に留ったとしても不思議じゃない」
 目に留ったどころか、哀れな紙袋は目の部分をくり抜かれていたのだけれど。そりゃあこの教室界隈の管理を任されている静先生が諸々のことに気づかないはずもないのだから、しらばっくれる心構えくらいはとうの昔に準備済みだ。
「おうおう、言ってくれるじゃねえの」
 とはいえ、静先生の纏う雰囲気が若干攻撃的になってきたところで、僕は早速バックレ行為を後悔し始めたのだが。
 少なくとも基本的に日和見主義の僕を、ここまで駆り立てる。
 それほどまでに、昨日の日暮を食いゆくショパンの美しさは、爆発的で破壊的だったのだ。
「いいのか? 例のもん、お前に渡すか渡さないか、決めるのは俺なんだぜ?」
「ちょっ!」
 しかし大人というものは、時にドキリとするほど理不尽である。
「それを出すのは反則なんじゃないですか?」
「この教室、この音楽棟にいる限り、俺がルールだ。従って俺の行動に反則など存在しない。まあ、せっかくのお宝データもお前のような猿に渡したところで放課後の教室で聞き呆けて女の子の奴隷にされるのがオチだがな」
「あ、あれは余計な音声が入ってたからですよ! だから音量を大きくせざるを得なかったんです」
 そうそれは事実。決して僕が猿だったからではない。
「大体、教師があんなものを斡旋してる時点でお互い裏切れないはずじゃないですか」
「俺を脅すのかい? 言うようになったな、安部少年よ。ちなみにここに新しいデータがあるが」
 言って、静先生はズボンのポケットからUSBメモリを取り出した。
「要るか?」
 それをちらつかせながら、彼は僕の腰掛ける教卓の周囲をぐるりと歩く。欲しい。そりゃ欲しいさ。喉からマジで手が出そうだ。踊るような声が、映像が、脳内で再生される。僕は生唾を飲み込んで――僕みたいな男子高校生ならしょうがない話だろ――穴があくほどそいつを見つめた。穴があいてデータが飛んだりすると困るので見るのはすぐにやめたが、喉から手が出る前に普通に綺麗に手が出てしまう。しかしそいつはヒョイと僕の手をかわして、空中を散歩するみたいに静先生の指先でくるくると回った。
「まあ、落ち着けよ」
「なんなんですか、さっきから。相談に乗ってくれないならそのデータくらいよこしてくださいよ」
「こいつが欲しいなら、俺の恋人たちを探してこい」
「はあ? どうして僕がそんなことを」
「常日頃良くしてやってるんだ。これくらい構わんだろう」
「……」
 確かに、間違いなくその通りではある。この学年、いやこの学校全体で、ということはつまりこの全世界において、最も静先生を頼っている生徒は僕だ。ほんの二カ月ほどの付き合いではあるけれど、この丸秘データの斡旋を含め、散々世話になっている。しかしそれならそれで、わざわざ人質を取るような真似をしなくてもいいだろうと思うのだが。
「どうなんだ、やるのか。やらないのか」
「……やりますよ」
 別に断るような真似をする必要もなかったので、苦々しく頷いておく僕なのであった。
「よし、それでいい。あとで失踪した彼女らのリストを渡すから、必死に探しな。ああ、それから紙袋は別に探さんでいい。安部少年」
 そこで台詞をぶつ切りにすると、彼は人差し指をチョイチョイと横に動かして『後を向け』のジェスチャーをしてみせる。何だ? と思って振り返ると。
「お前にお客さんだぜ」
 音楽室のど真ん中、僕のほぼ真後ろに、妖怪ブロンド紙袋が立っていた。

       

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