Neetel Inside 文芸新都
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トワとの距離
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 大野の絵を見てから、五ヶ月ほどが経った三月の半ば。期末試験も終わり、学校に行かなければならない日も僅かになった頃。

 あれからしばらくして、俺は絵を描くことをやめた。違うか。正確に言えば、あの時こびり付いた大野の絵の印象がちらついて、描いている途中で全てがバカらしくなってしまうのだ。自分の微々たる絵画の才能に自惚れ、盲目的に描いてきた今までの全ての絵がゴミクズのように感じた。美術館への足取りもぱたりと途絶えた。

 それでも絵に対する未練が残っていたのか、時折思い出したように筆と鉛筆を取っては、途中で投げ出した。いくら描いても、いくら時間が経っても、大野の絵は俺を絡め捕ったまま離すことはありそうになかった。

 一度大野という奴がどんな人間なのか見てみようと思って、奴のクラスまで行ってみたりしたが、奴はどこにもいなかった。そのクラスの人に聞いてみたところ、大野は四月の初めの頃に少し来たくらいで、それ以降全く姿を見せていないらしい。まだ友好関係が構築されていない時期のことだったので、そいつも詳しくは事情を知らないらしいとのことだ。別筋の情報では、大野は最近になって学校を辞めてしまったとも聞いた。

 あれだけの才能を持っている奴だ。他の奴らと同じように、つまらない勉強をしている時間が惜しくなったのか。学校を辞めてひたすら絵を描いているのかもしれない。

 俺もそうあるべきだったのだろうか。結局その絵画に対する姿勢の差が、あれだけの違いを生み出したのだろうか。俺もそうしていれば、本気で絵を描くということを勉強して、それに全ての努力を注ぎ込むべきだったのだろうか。

 答えは出ない。だけどおそらく俺がどれほど絵を描き続けたところで、大野唯一を上回る何かを備えた作品を作り出せはしないだろう。それは皮肉にも小さな頃からずっと絵を描き続けてきたからこそ分かる直感だった。

 そんなことを考えていたある日、俺は所属していた美術部の部室へ何気なく向かった。なぜそうしたかなんて、特に理由はなかった。ただ午前中に授業が終わりなんとなく手持無沙汰な気分になっただけだった。絵を描かなくなってからは、ほとんど美術部には顔を出していない。部員の誰かがいたら気まずい雰囲気になるだろうが、その日は都合よく活動をしていなかった。

 誰もいない部室に入ると、画材独特の懐かしい匂いがした。傾斜した陽光が差し込む、がらんとした教室には不思議な趣があって、春が近づいてきたこの季節と調和するような長閑な佇まいがある。

 これをそのまま絵にすることが出来たらどれだけ楽しいだろうか。少し埃っぽい空気の中に落ちる柔らかい光。それとは対称的な廊下側の陰の静けさ。普段は生徒で賑わうここが、一人で訪れた時のみ見せる、どこかのんびりとしたもう一つの顔。

 俺にはそんな感触持った絵を描くことは出来ないだろう。描けば描くほど、それが俺の描きたいものとはどんどん違うものになってしまうのだ。俺は大野祐一のように、この光景をキャンバスの中に切り取って、そこに自らの世界の断片を埋め込むことは出来ないから。

 じゃあなぜ俺はこんなところへ脚を運んだんだろうか。どこかでまだ描きたいという気持ちが燻っているからじゃないのか。

 問いかけに答えてくれる人はいない。そんなことは誰も知らない。俺自身ですらも。

 ……嘘だ。知っている。俺は絵が描きたい。分かってる。

 子供の頃からずっと絵ばかりを描いてきた。絵画教室に通っていたのだって、別に行かされていたわけじゃない。きっかけを作ってくれたのは母親だけど、行き続けたのは俺自身の、絵が好きだっていう気持ちがあったからだ。絵を描かなくなって分かった。それまでは考えたこともなかったが、絵を描くということは俺の生活のとても大切な部分だったのだ。絵のことから逃げるように過ごしていた時間は退屈で単調で、まるでガラス一枚隔てた世界を見ているようだった。

 だからこそ、それだけ大事なものだからこそ、ただ怖くて逃げている。また絵を描いてしまえば自分の才能の底の浅さが知れてしまうから。大野祐一の絵を見てから、ずっとそれを恐れ続けているだけだ。なんて子供じみて愚かなんだろう。

 だからと言って奴の絵のイメージを払拭することも出来ず、従って新しく絵を描き始めることも出来ないで、結局こうして何もしないまま時間だけが流れている。

 嫌だ! こんな世界は嫌いだ。何が楽しくて、こんな劣等感を引きずるだけの人生を歩まなければいけないのか。

 何もしなければ、これからも俺はこのままだろう。時間が解決してくれることも沢山あるだろうが、時間が過ぎて取り返しがつかなくなることだってある。だったら今何か出来ないだろうか。もう足踏みなんてしていたくない。結果として諦めてしまうようなものなら、どれだけ大事だって、どれだけ過ごした時間が長くたって、その程度のものだったのかもしれない。だけど確かめずに終わりたくない。自ら諦めたままでいたくない!

 もう一度大野の絵を見に行ってみよう。年度末までは展示されていたはずだ。そこでもう一度しっかり見てみよう。あの時は気付かなかった何かに、気付くかも知れない。

       

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