ふいに目覚める事がある。
悲しい夢でも見たのだろうか。涙の跡が残ってる。
窓の外を眺めてみる。
まるで終わりの無いような、空一面の藍の海。
夜はあんまり好きじゃない。
この世に自分一人だけが残されたみたいで悲しくなる。
不安が不安を増大させて、まるで夢が現実になったよう。
布団を頭まで被ってみても、そこにあるのもやっぱり闇の世界。
だから私はこう祈る。早く朝が来ればいいのに。って。
暑さに参っているせいか、眠りがいつもより浅い日が続いてる。
きっと明日も暑いんだろうな。雨でも降ればいいのに…
私は朝が好きだ。
陽射しが一日で一番優しい時間だから。
例え昼には日陰を探しているとしても、朝の陽射しだけは全身に浴びていたい。
だからこうして毎朝の日課を果たしている。
自分の部屋が済んだら次は隣。
最初は八つ当たりに憤慨もしたけど、こうも毎日だといい加減なれちゃった。
返事がないのは解っているけど一応ノック。
返答が無いのを確認して、扉を開いて中へと入る。
我が物顔の主はほっておいて、まずはカーテンを開ける。
体をよじって逃げるくらいなら、始めから起きとけば済むのに。
「お兄ぃ、時間だよ」
「…ん」
一回だけじゃ起きないのもいつもの事。
ここでやめれば私も被害を受けずに済むんだけど。
約束だから覚悟を決めてもう一度声をかける。ちょっと強めに。
「ほら!おきなさいってばあああああああああああ!!」
「うわぁぁぁああ!」
また全身をビクッとさせてる。いい加減馴れればいいのに。
「びっくりするだろ!」
「はい、また怒った。約束ね」
「あ」
こうして朝のアルバイト終了。
夏休み明けには8千円になる予定。ついでにしては割りのいいバイトだよね。
お兄ちゃん、感謝してます。あしたも怒ってね?
「今日は大丈夫だと思ってたんだけどなぁ…」
「いつも通りでしょ。時間大丈夫?早く用意したほうがいいよ~」
まぶたを擦りながら起き出すお兄ちゃんを確認して、私も自分の用意をしに戻る。
お兄ちゃんが部活の朝練に出るようになって、朝の忙しさが僅かに増した。
初日に比べたらすんなり起きるようになったけど、それでもまだまだ辛そうに見える。
そこまでして部活に出るなんて、ちょっぴりすごいと思う。
私も運動部に入ってみたらよかったかな?
まだ起きてこないお母さんとお父さんの朝ごはんと、私のお弁当を作る。
お兄ちゃんは朝はパンだし、お昼は学校の食堂を使うみたい。
私の腕を信じてないわけじゃないみたいだけど、なんか付き合いがあるからだとか。
案外彼女にお弁当を作ってもらってるんじゃないかと私は見ている。
食事の片づけをお母さんに引き継いで、元気にいってきます!を告げる。
お兄ちゃんみたいに近くの学校を選ばなかった私は、朝練がなくてもこの時間には家を出ないと間に合わない。
まだ人もまばらな道を自転車で走りぬけ、学校へと向かって行く。
朝日を浴びながら登校するのは大好きだ。
自転車のお陰であまり暑くはない。風を切って進むのは心地よい。
学校までの20分は、私の大好きな時間の一つだ。
始業までかなりの余裕を持って到着する。
自転車置き場もまだガラガラだ。
校舎に向かって歩き出すと、運動部の人達がグラウンドで頑張っているのが見える。
お兄ちゃんも今頃泳いでるのかな?そんな事を思いながら教室へと辿り着く。
荷物を置いてすぐに教室を出る。
向かうは3階の音楽室。
いつものように階段を上がっていくと、2階を過ぎたあたりで聞こえてきた。
高く澄んだ音色を奏でる彼の姿が頭に描かれる。
音楽室の扉を開くと、やはり彼はそこに居た。
「あぁ、おはよう」
「ごめんね?お邪魔だったかな?」
「大丈夫だよ。今日も早いんだね」
「うん。キヒロ君のフルート聞きたくて♪」
「ボクのなんてそんなに上手くないのに」
照れたように笑って彼はまた楽器を口に寄せる。
静かにまぶたを閉じて、その音色に耳を傾ける。
彼の奏でる音色が好き。
まるで朝日みたいに清々しくて、それでいて力強さに満ち溢れている。
元気を貰える魔法の音色。
きっと今日もいい一日になるんだって、そう思える音色だ。
一頻り演奏が済むと、彼が楽器を片付けながら声を掛けてくれた。
「おそまつさまでした。なんだか観客がいると恥ずかしいなぁ」
「お疲れ様でした。ううん、キヒロ君のフルートは上手だもん。謙遜しなくてもいいよ。」
照れた笑いで相槌を返す彼。本当に恥ずかしそう。
もっと自信をもてばいいのにといつも思う。
片付けも済み、教室へと向かう。
まだ時間も早いせいか、人はまばらだ。
この時間に彼が練習を止めるのは、きっと私への気遣いなんだと思う。
まだ私が練習を覗きにいってなかった頃は、彼はいっつもHRの時間まで帰ってこなかった。
私が行くようになって、彼は練習時間を早く切り上げるようになってしまった。
気付いたときには申し訳なくて、覗きに来ないほうが良いかと尋ねたこともある。
でも彼はいつもと同じように微笑んで、大丈夫だよ。って言ってくれるだけだった。
甘えている事は解っていたけど、せっかくの彼の好意を受け取る事にしたんだっけ。
チャイムが始業を告げて、今日も授業が始まった。
時に集中し、時に外を見ながら一日が過ぎていく。
昼休みを迎える時間を、今か今かと待ち構えてる自分がちょっと恥ずかしい。
4限の終わりを告げるチャイムが高らかに鳴り響き、教室がわいわいと賑わい出す。
先生も授業続行を諦め教室を後にする。
目の前の背中をチョイチョイとつついて、こちらに振り向かせる。
「ハイ。今日のお弁当。今日はハンバーグになってます」
「あ、いつもありがとう。ボクの好きなおかずだ」
そう言って彼はまた照れ笑いをする。
朝の練習を覗かせてもらう代わりに、私のほうから彼にお願いした事。
いつも購買のパンを食べてる彼に、お弁当を作ってくる事。
最初はものすごい勢いで遠慮されたけど、私がそこは譲らなかった。
受け取ってもらえないと練習を覗きづらくなるとか、家族のお弁当を作るついでだからとか、いろいろ言った気がする。
仕舞いには調理部で培った技術の練習台だとかなんだとか。
思い返すと酷い言い訳だったなぁ。
本当はそうじゃないのに。
お昼休みが終わる頃、彼が笑顔で包みを持ってくる。
「いつもごめんね?本当に洗ってかえさなくてもいいの?」
「ぜんぜん気にしないで!どうせ家族のお弁当箱も洗うんだから」
「でも、なんか悪いなぁ。ボクばっかり」
「だから、練習を覗かせてもらうお礼なんだから。断られたら私が行きにくくなっちゃうもん」
「うん。甘えさせて貰うね。ありがとう、今日もとっても美味しかった」
今日もとっても美味しかった。
この言葉が聞けるだけでも、毎朝がんばるかいがあるというものだ。
ちょっと余韻を楽しんでみたり。フフフ。
午後の授業はいつも楽しい。
お昼休みの後なら、どんな授業だってハッピーに聞ける。
あ、体育だけはちょっとゴメンナサイ。
この学校も、最近の風潮を早く反映してくれると嬉しいんだけど。どうしてもあのブルマだけは喜べない。
校舎から降り注ぐ視線には、女子全員が辟易としているのに。
スパッツの即時導入を強く要請する!ほんとにお願いします。恥ずかしいから。
6限も終わり、生徒がめいめいに席を立つ。
帰宅部の子は友達とどこに遊びに行くか、部活がある子はそれぞれの部室に。
私も家庭科実習室へと足を向けた。
私の部活は競技要素が全く無い。
みんなでテーマを決めて、毎日料理をするだけ。
お菓子だったりかんたんなお惣菜だったり。
要は女の子が、部活の名を借りてオシャベリするための場所みたいなものだ。
おかげで遅くまで活動する事も少ない。
だいたい2時間の活動でお開きになる。
だから本格的な料理やお菓子を作ることは皆無だ。
今日も簡単にできるクッキーを焼いて、後はオシャベリに終始して部活は終わった。
みんなそそくさと片づけをして家路につく。
うん。私を除いては。
いつもの様に部活を終えると、私は急ぎ足で校門を出る。
向かうのは家とは反対の方向。
このまま進めば高台になっている展望公園があるだけ。
階段を一足飛びに駆け上がり、広場に着いたところで息を整える。
顔を上げると、いつもの場所にいつもの姿があった。
人も少ないこの公園で、誰に聞かせるでもなく流れるフルートの音色。
夕焼けに映えて、銀色のフルートが黄金に輝いている。
足音を立てないようにすぐ傍のにあるベンチに腰掛け、その音色に耳を傾ける。
もうすぐ日は落ちる。
そんな中、彼は一人音色を紡いでいる。
喝采もなく、感嘆のため息も聞こえない、たった一人の演奏会。
この音色を独り占めしている自分が、とても特別な存在に思えた。
いつの頃からだろう。
この高台が特別な場所になった。
遮るものもない丘の上、彼だけが世界を支配するような。
フルートの旋律と、彼の動きだけが作り出す、地上から切り離された楽園。
まるでおとぎ話にでてくる「空中庭園」のような美しさ。
だから、
いつの頃からか彼に惹かれていた。
優しい笑顔も、
照れた顔も、
男の子にしては細いその指も。
今となっては何もかもに…惹かれている。
大嫌いだったあの夜に、彼の笑顔が思い出されるようになった。
だから夜中に目が覚めても、それは悲しい夢のせいじゃない。
だから夜中に涙を零していても、それは悲しい夢のせいじゃない。
自分がどれほど彼を想って、どれほど焦がれているのか。
それが解ったから、こうして私はこれを手渡そうとオモイマス。
大嫌いだったあの夜が、今は大好きな夜に変わりました。
あの夜の色が、自分の名前と同じあの色が今は好きになりました。
大切な想いをしたためた。藍色の空の下で書き上げた。
彼が振り返ったらこう言うだろう。
「やあ、今日も聞きに来てくれてたんだね」
きっとあの笑顔で語りかけてくるだろう。
「やっぱり恥ずかしいな。ボク、ヘタだから」
きっとあの照れた顔で頭を掻くのだろう。
「どうしたの?何かあったの?」
きっと私の変化に気付くだろう。
「どこか痛いのかい?」
その優しさに、ずっと触れていたいから。
私はほんのちょっぴりだけ勇気を振り絞るのだろう。
「ううん。どこも痛くないよ。ちょっと考え事をしてたの」
「そうなの?ならいいんだけど」
「うん。ありがとう。ねぇ、キヒロ君――あなたのことが、スキでした」
彼はすこし戸惑って、それからふぅと息をもらす。
最初にこぼれた言葉は、
「ごめんなさい」
世界が一瞬にして凍りつく。
足元からがらがらと崩れていくように。
ばかだばかだばかだ。
なんてバカなんだろう。
自分だけで勝手に盛り上がって。
彼の迷惑も考えないで。
死んでしまいたい死んでしまいたい!
このまま世界から消えてなくなってしまいたい!
「ごめんね。アマコさんにこんなこと言わせてしまって」
「…え?」
あれ?
なにかおかしい?
まだぐるぐると回る世界の中で、それでも彼の言葉を聞き逃すまいと必死に足を踏ん張った。
「ボクはやっぱりだめだなぁ。キミにこんなことを言わせるなんて、男として恥ずかしいよね」
「…」
「本当ならさ、こういうのは男のボクがすることなんだよね」
「…」
「また姉さんに怒られちゃうかなぁ。あははは」
「…」
「アマ…アイちゃん」
「は、はい」
「これはボクからの返事です。受け取って下さい」
彼はそういうと背中を向けて、黄金に輝くフルートを口に当てた。
知ってる。
この曲は知ってる曲だ。
私が初めて彼にリクエストした曲―「アヴェ・マリア」
静かに、切なく、私の大好きな曲が流れる。
演奏が終了し、彼がそっと目を開く。
「これがボクの答えです。スキです。付き合ってもらえますか?」
彼の口から紡がれる言葉に、どう返答していいか解らなくなってしまう。
きっとはたから見れば、滑稽な顔をしていることだろうな。
私が返事を出来ずにいると、彼はもう一度同じ言葉を繰り返した。
「アイちゃんのことがスキです。ボクと付き合ってください」
涙がポロポロ零れてしまう。
嬉しいはずなのに涙は止まらない。
彼は照れたような、困ったような顔をして頭を掻いている。
こんなに嬉しいことがあるんだろうか。
私だけじゃなかった。私だけが見つめていたわけじゃなかった。
私はただ、何度もうなずく事しか出来なかった。
彼が肩を抱きしめてくれて、何度も何度も囁いてくれた。
ごめんね。ありがとう。って。
したためた想いが、
彼の笑顔で包まれる。
あなたのことを、スキでよかった。
空はだんだん、藍色に包まれていく。
とても幸せな夜がまたやって来る。
今はただ、藍色の空がとても綺麗に見えた。