楽しかった夏休みは終わりを告げ、景色はその色合いを変える。
生命の躍動に溢れた姿は、すこしばかり寂しさを漂わす装いへと移り行く。
この道を彩る街路樹は、それを否定するかのような黄金の倫舞曲を奏で出した。
すっかり暑さも薄れ、日中も羽織るものが欲しくなる季節になった。
涼しい風と差し込む日差しは、人を詩人へと変えて行く。
実りの秋。
ボクは一体、この先どんな実りをその身に結ぶのだろう?
今は全てが希望の色に満ち溢れていた。
学校が始まり、既に数週間が過ぎた。
夏休みの慌しさはその身をいつの間にか潜めてしまった。
本当ならガラスに映るボクの顔は、幸せに彩られた微笑のはずだった。
なのにそこに居るのは暗い影を落としたダレカ。
見つめ返してくる瞳は、全てに絶望したかのような。そんな色合いだった。
「今日も尼子はお休みだそうだ」
教壇で出席を取る担任の先生がそんな事を呟く。
そう、ボクの後ろにはアイちゃんが居ない。
数日前に連絡があったきり、アイちゃんは学校に来ていなかった。
理由はわかっている。
お兄さんが事故にあったからだ。
アイちゃんのお兄さんは水泳の選手だったそうだ。
もし退院出来ても、選手生命は絶望的だと説明を受けたと言っていた。
いつもと変わらない様子で家を出た後、交通事故にあってしまったと聞いている。
最初のうちは連絡があったが、ここ数日は携帯に電話しても出てくれない。メールの返事も来なくなった。
たぶん、ずっと病院につきっきりなんだと思う。
アイちゃんは本当にお兄さんが好きだった。
会話にも良く登場するお兄さんは、会った事も無いのに知らない人ではないようだった。
今日はどうしたとか、彼女を家に連れて来ただとか、どこどこのキンツバに目がないとか。
他愛もないことばかりだったけど、アイちゃんがお兄さんの事を好きだったことは良くわかった。
そんなお兄さんが交通事故にあった。
初めて聞いたときのアイちゃんの取り乱しようは酷いものだった。
ボクの声が聞こえていないような、独白めいた一方的な電話。
幸い一命は取り留めたとの事だったが、どこの病院に入院しているのかをその時に聞けなかった。今となってはその事が悔やまれる。
何度か家まで行っては見たけど、誰も居ないようでどうすることも出来なかった。
ボクはこんなにも無力で、何の力にもなってあげられない。
頼って欲しかったけど、それはボクにそれだけの器がなかったって事なんだと思った。
窓の外の景色は、まるで冬が訪れたかのように色合いをなくしてしまっていた。
学校から帰ると、珍しく姉さんが帰っていた。
部活は休んだのだろうか?
そんな事を思っていると、険しい目つきでボクに声をかけてきた。
「ヒロ。すぐに着替えてきな」
「?どうしたの姉さん。そんな顔して?」
「いいから着替えて来い。なんならそのままでもかまわないんだぞ」
「話が見えないよ姉さん。どうしたって言うのさ?」
「尼子の病院に行く。さっさと着替えろ」
姉さんが口にした言葉に頭が追いつかないでいた。
でも、体は弾かれた様に階段を駆け上がっていたんだ。
隣町にある総合病院へと向かうタクシーの中で、姉さんは事の次第を教えてくれた。
アイちゃんのお兄さんは姉さんの学校の一年後輩なのだそうだ。
コウ兄の部の後輩でもあるらしい。
通学路で事故にあったアイちゃんのお兄さんは、現在意識不明の重態だと聞かされていた。
お母さんとアイちゃんが付きっ切りで看病をしているそうだが、目が覚めるのはいつになるとも保障されていないとの事だった。
病院にはコウ兄も向かっているそうで、事情を聞いて姉さんに面会謝絶が解けたことを伝えたらしい。
今はただ、病院につくまでのこの時間さえもどかしかった。
病院につくとコウ兄がロビーで迎えてくれた。
「遅かったな。こっちだ。3階の個室にいる」
「すまない。ヒロ、行くぞ」
3人で頷きあい、エレベーターで3階へと向かった。
病室の前まで来ると、コウ兄がノックをして中からの返事を待った。
「…はい」
弱々しいが、間違いなくアイちゃんの声。
「失礼します」
コウ兄が先頭に立ち、ボクらは病室へと入った。
殺風景な白い壁、ベッドが一台と簡単な造りのイスが数席あるだけの部屋。
ベッドに寝かされている男の人の傍に、見知らぬ女性が二人と、アイちゃんが座っていた。
「部長、とーこちゃん…」
「こんにちは。ご連絡頂きましたので伺わせて頂きました。二ノ宮もご苦労さん」
「アカリ、大丈夫か?」
アカリと呼ばれた女の人は、前にアイちゃんから聞いたお兄さんの彼女だったはずだ。
すると、もう一人の女性はお母さんだろうか。
「東さん、ありがとうございます。どうぞこちらにお座り下さい」
お母さんと思しき人が、ボクら3人のぶんの席を作ってくれた。
コウ兄がお礼を言って、その席へと座った。姉さんも続く。
だのに
ぼくは座れないでいた。
視線は一点に固まったまま、どこにも外せなかった。
だって、あそこに居るのは本当にアイちゃんなのか?
顔には生気がなく、まるで幽霊を見たみたいな感覚に襲われた。
そんなアイちゃんが視線を上げて、こちらを見た。
一瞬の間をおいてその目に涙が溜まる。
声にならない泣き声を上げて、アイちゃんはボクに走りよってきた。
慌てて抱きとめて後ろに倒れそうになる。
姉さんが無言で外を指していたので、お母さんに挨拶だけして二人で外に出た。
病院の屋上までアイちゃんを連れて行き、そこで落ち着くのを待った。
嗚咽の間隔が長くなり、少しずつ震えが収まってくる。
頬に流れる涙を拭って、ボクは話を聞くことにした。
アイちゃんはずっとごめんね。ごめんね。と繰り返しながら、ポツポツと話し始めた。
お兄さんが事故にあった日のこと、お医者さんから昏睡状態から目が覚める保障ができないと説明されたこと、お母さんが精神的疲れから何度か倒れたこと、お父さんもほとんど寝ないで会社にいっていること。
すすり泣きながら、時間をかけて話してくれた。
ボクはそれを聞きながら、自分の無力を呪う事しか出来なかった。
ボクが彼女の為にして上げられる事はなんだろう。
考えても考えても、ボクのちっぽけな存在は、こうして抱きしめる事しか出来やしなかった。
1週間が経ち、2週間が過ぎた頃、その知らせがボクに届いた。
いつもの様に学校が終わり、家で病院へ行く準備をしていると、階下から姉さんの怒鳴り声が聞こえてきた。
「ヒロ!すぐに降りて来い!!急ぐぞ!!!」
いつもと様子の違う姉さんの声に、ボクは用意を切り上げ階段を駆け下りた。
「来い!表にタクシーを待たせている!!!」
うなずきで返事を返し、ボクは姉さんに従って車へと乗り込んだ。
車中で姉さんが喋る事はなかったが、その切迫した表情を見て嫌な考えが頭の中を覆っていく。
なにが…あったんだ…
答えはもうすぐ解る。
病院に向かっている事は道を見てすぐに理解出来た。
つまり、ソウジさんのことに違いなかった。
病院に着くと姉さんはすぐに走り出した。
ロビーのカウンターから制止の声が飛んできたが、それを無視してエレベーターへと向かう。
3階に着くまでが凄まじく長く感じる。気は焦るが今は落ち着かなければ。
病室のドアを荒々しくノックし、返事も待たずに姉さんが中に入る。
慌てたがボクもそれに続いた。
病室に入ってすぐに目に入った光景。
暫くボクは呆然としていただろう。
ソウジさんが、
起きていた。
頭の中には嫌な想像ばかり浮かんでいた。その為すぐに声が出てこなかった。
ベッドの横ではお母さんとお父さん。それにアカリさんが泣いていた。
ソウジさんは困ったような顔をしていて、状況が把握出来ていないようだった。
アイちゃんがボクに駆け寄って抱きついてきた。
わんわん泣いているけど、それはすごく嬉しいからなんだって。
ずっとよかった。よかったよぅ。と泣く彼女を抱きしめ、ボクはウン。ウン。とうなずく事しか出来なかった。
夜になり、面会時間の終わりを看護師さんに告げられた。
アカリさんを除いてボクらは退室することになった。
部屋を出たところでアイちゃんに声を掛けられたので、姉さんとコウ兄には先に帰ってもらった。
「キヒロ君、ありがとうね。それからごめんなさい」
「なんでアイちゃんが謝るのさ」
「私、いっぱい迷惑かけちゃったもの。だから、ごめんなさい」
「ううん。ボクこそアイちゃんの力になってあげられなかった。本当に謝らなきゃいけないのはボクのほうだよ」
ソウジさんが目を覚ましたお陰で、今ここにいるアイちゃんは、以前のアイちゃんだった。
まだ目を腫らしてはいるけれど、あの夏の日に見たアイちゃんの笑顔だった。
しばらく止め処ない話を二人でした。
お互いに何度もありがとうと、ごめんなさいを言い合った。
星が空を覆う頃に、看護師さんに見つかってお開きとなった。
アイちゃんは来週から学校に戻ってくるそうだ。
それまではボクがノートを持って家に教えに行く事にした。
病院のロビーでもう一度オヤスミと声を交わし、ボクは家路に着いた。
ボクは誓おう。
今が無力であるのなら、いつの日にか頼られる存在になろう。
今が無力であるのなら、一日も早く頼られる存在になろう。
今が無力であるのなら、今出来る事を精一杯にやってやるんだ。
アイちゃんが学校に来たら僕は告げよう。
ボクは
キミを
愛しています。と。
貴方の心を癒せる様に
ボクは大きな果実を実らせよう。
あの日
「空中庭園」とアイちゃんが呼ぶあの場所で
ボクはそう誓ったんだから。