07.リヴァイアサン・シンドローム
龍に乗るのはスキーをやるのに似ている。やたらと横に揺れるからだ。べつにまっすぐに飛べないわけでもないが、直滑降はスピードが出すぎてカーブを曲がれずにカンテラのコースラインをぶち破ることになる。愚行だ。
雨が降っている。
ただの雨ではない。死者の霊魂が混じった<異界の雨>だ。この雨が降るとき、龍脈は乱れ、騎手は走る。すべてはこの時のために。いままでの練習はこの日のために。
だが、その本番に駆人が原因不明の体調不良。うしろから見ている限りでも、黒い髪から覗く白い肌を伝うのは雨だけではなさそうだ。だが、化生のモノを従える金剛綱を握るその手さばきに迷いはない。打てば響く、引けば動く、の要領で龍は巧みに<異界の街>を縫うように飛んでいく。並行する<金塊>と終人。銀色の魚が飛んでくる。違う、ナイフだ。終人はナイフを使うのだ。ナイフを手甲をはめた左手で振り払う。そのまま弓矢で迎撃。<金塊>は痙攣するような動きで矢を避けた。防人は思う。距離が遠すぎるのか、それとも見切られているのか。まァ自分は最悪、ただの盾だ。
なにもかも流形に滲む世界を龍は駆け抜ける。カーブを曲がる。曲がりきれない。ロールする。外科手術のような繊細さでカーブを曲がりぬける。いつ見ても惚れ惚れする龍捌きだ。天才でなくてはこうはいかない……。そこにあるというだけで、凡才たち、非才たちの心を引き裂くほどの至高の奇跡。罪深い。
<金塊>が追い上げてくるのを防人は振り返って確認。立て続けに矢を放って牽制。<金塊>は、まるであてつけのようにロールして回避。実力では劣っていないという表明か。あの終人、負けず嫌いだな、と防人は思った。駆人はきっと喜んでいるだろう。潰れた仲間は彼女の実力を発揮させるに値する人材ではなかった。
レースは平均して十二分。だがこの駆人と終人の操る龍どもならば、十分でゴールにあるフラッグに噛み付くだろう。黄金のような十分間になるはずだ。もう二度と味わえないような、そんな走り、そんな勝負に。
雨が降り続いたために、低い場所では水がたまっている。水上ボートのように龍が水面を切り裂いて白い波の傷跡を残していく。陸橋が迫っている。駆人の荒い息遣いが聞こえた。防人は振り返って矢を放ち、ナイフを構えていた終人を妨害。終人はまたロール。前を見る。陸橋にぶつか
「上っ!」
飛んだ。龍の腹を鉄の柵が軽くこする。だがそれ以外は何事もなくクリア。水中に潜ってやりすごした<金塊>との差は広がるばかり。このリードを大切にしていけば今後の展開はラクになるだろう。だがそううまくはいかなかった。
突然、横合いからもう一匹の龍が飛び出したきた。赤い龍<洛陽>だ。<洛陽>は、その名の通り洛陽寺の和尚が乗っていたはず……だが彼はもうこの街にはいない。<洛陽>を呼び出す赤い風鈴は、寺に安置されていなければならないのに。
防人は終人を見やる。狼の仮面をつけた終人は、赤い鈴を揺すっていた。砕ける。
――盗んだのか、和尚が裏切りついでに終人にくれてやったのか。
そんな疑問は<洛陽>の体当たりで防人の頭から吹っ飛んでいった。<氷菓>は烈しくバランスを崩し、<洛陽>ともつれあいビルの壁に激突した。だが<洛陽>が<氷菓>とビルの間に挟まったことと、<氷菓>が腹をビル側に向けて激突したおかげで防人と駆人に外傷はない。どっちが上でどっちが下か一瞬わからなくなっただけだ。ビルにめり込み怒りで吼える<洛陽>を尻尾の鞭打ち一撃で黙らした<氷菓>は再び疾走をし始めた。しかし、<金塊>はすでに遠方で小さな影になっている。大幅なリードだ。駆人が強く雄々しく手綱を振るう。<氷菓>が答えるように怒号した。
防人は目を細めた。影にしか見えない<金塊>が、垂れ下がった枝から<龍桃>に喰らいつこうとしている、気がした。矢を放つ。<金塊>は首を引っ込めてまた小さな点に戻った。その付近を通り抜けるとき、矢が刺さった<龍桃>が水面に浮いていた。これ以上リードされてたまるか。
オフィス街を抜け、郊外へ抜けていくトンネルへ突っ込んでいく。障害物はない。直線だ。若干カーブしているが、気兼ねなくスピードをあげられる。問題は、そのトンネルが水没していること。息ができない。上からトンネルを越えていく選択肢もある。だが、<氷菓>とうちの駆人の速さなら、溺死する前に通り抜けられるはずだ。
水柱を立てて、龍が潜った。冷たい水に包まれる。耳を済ませば、苦しげな呻き声。眼を開ければ、無数のドクロ型のしみのようなものが、周囲に。すべて無視する。
<氷菓>は進む。突き進む。
なにもかも振り切るように――
だが、突如静止した。防人は何事かと思い、駆人の肩から先を窺うべく首を伸ばした。そして納得した。
その手があったか。
<金塊>がとぐろを巻いて出口を塞いでいた。終人は、仮面を外して、酸素マスクをはめている。コートの裏に続くチューブの先にはボンベがちらり見えている。
ゴーグルの向こうから、嘲るような両眼が<氷菓>に向けられていた。駆人が手綱を振るい、<氷菓>をけしかける。だが、そのたびに、<金塊>がディフェンスして先へゆくことができない。
このレースで勝つ必要は必ずしもない。相手を殺してもいい。これは練習でも稽古でもなかった。実戦だった。上回れた。
駆人は諦めずに果敢に龍の障壁を潜り抜けようと奮闘している。それを見る防人の息は限界だった。意識が遠くなる。溺死は嫌だが、痛くはなさそうだ。苦しいだけで。苦しいだけなら、生きているのとさほど変わらない。なにもかも滲んでいく。
胸倉をつかまれて、呼吸を吹き込まれた。すぐそばに駆人の顔がある。口がなにか柔らかいもので塞がれている。碧い瞳が防人のすべてを見透かすように輝いていた。
ゴゴォ……ン……と鈍く重たげな音が水中に響き渡ってきた。ゆっくりと、トンネルの天井が落ちてくる。駆人の顔が目の前から消える。急発進。トンネルを抜け、水面から脱した。死者の手のように水が龍を二人に絡みついたが、離れていった。防人の肺に新鮮な空気が戻ってくる。<金塊>はやはり先行している。だが、なぜ必勝に近かったあの布陣を崩し、わざわざ天井を落とすなんて真似をしたのだろうか。おかげで<氷菓>はレースに復帰してしまった。焦ったのか。なにに?
答えもわからぬまま、空に向かって弓を向け、矢を放つ。数秒してから、前方の<金塊>がすっと横に動いた。水面に小さな水柱。小さなロス。
<氷菓>が<金塊>に追いついた。終人は酸素マスクも、狼の仮面もつけていなかった。防人はその顔を見た。
「夜鳥」
霧ヶ峰夜鳥はにやっと笑った。それは、夏臣が見たことのない笑い方だった。嘲りと諦めの混じったマイナスの表情。夏臣は一瞬、なにもかも忘れた。自分が龍の上にいることも。敵が目の前にいることも……。
銀色の閃光が走った。それは、夏臣の手綱を切り裂いた。続けて放たれたナイフが足の拘束帯の金具を吹っ飛ばす。夏臣の身体は宙に投げ出された。
伸ばした手が虚空をかく。
水没。
夜鳥はちらっと一瞬だけその行方を見守ってから、くすっと笑い、<金塊>を<氷菓>に近づけた。
「こんばんは……」
盲目の騎手は正確に夜鳥の顔を見据えた。
「こんばんは」と幽も律儀に返事をする。
「へえ。きみだったんだ」
「意外と平然としてるね。もっと驚くかと思ってた……」
「わたしは夏臣とは違うからね」
「あ、そ。ま、もうなんでもいいけど」
夜鳥は懐からナイフを一本取り出した。それを投げて、隣を走る女の額につきたててやれば、それでおしまいだ。ラクな仕事。その前に冥土への土産話をくれてやるのも悪くない。
夜鳥はナイフで幽の頬を叩いた。幽は無反応。
「真鍵釘矢に誘われてさ。学生に化けて、あんたの防人候補に近づいたの。この街に防人になれそうな素質があるのは、竜宮だけだったからね……死んだあいつの兄貴以外は」
「ふうん。で、成果は?」
「ご覧の通り……。あたしはこのナイフ一本で帰る家を手に入れられる。長かったよ。あたしも終人に故郷を追われた身分だから、本当に長かった」
夜鳥はナイフを振りかぶる。<金塊>を<氷菓>から離す。騎手を失って気が立った龍に噛み付かれるのはゴメンだ。
「じゃ、さよなら」
銀色の刃が空気を引き裂いた。
○
大気さえ溶けてしまいそうな、夏の庭にいる。父方の祖父母の家だ。
芝生の向こうで、真夏の日差しでも溶けない万年雪がかかった山脈が銀色の牙となって天に反逆していた。
セミが鳴いている。
十一歳の兄が胴着を着て立っている。八歳の自分は斜めうしろで芝生に座り込んで兄を見ている。屋敷の縁側、開かれた障子の奥から母と祖母が台所で楽しげに昼食を作っている声が聞こえる。
兄は歌舞伎役者みたいな色気のある切れ長のあの眼を的に注いでいた。
鳥が嫌うぐるぐる模様のカスミ的。ずっと見ていると気が狂いそうになって、自分はど真ん中に黒丸があるだけのホシ的の方が好きだった。カスミ的に怯えていたのは二、三歳の頃からだというから、これはもう一生怯え続けるハメになったのかもしれない。
兄は笑っている。
これは夢だ、と気づいた。
兄は決して弓を射るときににやついたりはしなかった。弓を射る兄の顔は、一切の感情が抜け落ちた人形か機械のものでしかありえない。
けれど夢に出てくるときだけは違う。
夢の中で、兄はいつも笑っているのだ。
右手に矢、左手に弓。的を見る。足を開く。息を吸い丹田に精気をこめる。
下げていた弓を持ち上げ、頭上で弦と弓を引き離す。弓と弦に力が宿る。それは見えない力だ。兄が触れているときから隅々まで染み渡り、蓄えられ、いまようやく隙間なく拡散し充実しきった力だ。
星に重力があるように。
兄は弓と矢に魔法をかける。
弓手の人差し指が的を指している。あの人差し指を向けられて、これまで何度金縛りにあっただろう。
兄は微笑みを崩さない。張り詰めた会。そのままどこかに保存しておきたくなる調和の姿勢。
――兄さんはすごいなあ。
悔しいが、認めざるをえない。自分には、あんな会はできない。
あの形は、あの造詣は、心の髄まで自分が的を外すなどと夢にも思っていないやつにしかできない。
何も恐れず、何にも属さない。それはたったひとりの孤独な世界だ。
あまりにも悠久な修羅の領域。
こんなにも近くにいるのに、どうしてか、兄の姿が触ろうとすればするほど遠ざかっていく霧の幻に思える。願い請い求め追いかけるほどに嘲笑って逃げていく蜃気楼のように。
張り詰めていた弦が、震えた。
ヒュ――――ン……
矢が夏空を切り裂いて飛んでいく。
兄は的の行く末を見届けずに、気まぐれな猫みたいな笑顔を弟に向けた。
トォン、と軽い音がどこか遠くでして、
――腹ァ空いたな、夏臣。
この人みたいになりたい、と思った。
神様みたいな、この人に。
○
だから、見てろよ兄貴、この俺を。
なあ。
――――てめえにこれができんのか?
○
ナイフが消えた。夢のように。
夜鳥は絶句する。確かに投げたはず。だが、歌方幽の額に突き立つものはなにもない。
後方を振り返る。
弓を構えた手が、大きな波に飲み込まれるところだった。
――――竜宮ァ!!
前を向く。
追いかけなければ。<氷菓>を追い越さなければ。
もうどこにも帰るところがないのは、いやだ。
でもわかってしまう。<氷菓>はもうゴールしてしまう。水中から鉄パイプが突き立ち、その先に風雨を受けてたなびく、龍のぼり。
間に合わない。
<氷菓>がその鉄パイプに噛み付いた。
パイプは真っ二つに割れる。派手に。
それは夢の壊れる音。霧ヶ峰夜鳥の敗北の音。
ハッと気づいたときにはもう遅い。
黄金の龍を、大きな波がさらっていった。
○
握った手綱から神経が広がっていく。延焼する炎のように、傾斜を滑る水のように、ソーダ色の糸が伸びていって、自分が龍と同化していくのを、風を切って飛ぶ鱗をなでる大気の流れを、あぶみを踏むブーツが癒着していくのを、黄金色のたてがみが逆立ち、チョコレート色の二本の角に痺れるような衝撃を――――感じる。
青い夜のなかを、死んだ街の上を、飛んでいる。生命の光は、弱々しく降りしきる雨のなかに混じるばかり。一粒一粒に物語を秘めた雫が、街と龍を優しく洗う。ビー玉のような水滴が、龍の航跡を一瞬だけ浮かび上がらせる。
鋼色のビルディングの森を銀色の龍は縫うようにして飛び去っていく。カーブのたびに一枚の鱗がわずかに剥がれ、龍孔が口を出す。いまならそのパイプ状の筒のなかを通り抜けていく圧縮空気さえ感じ取れる。やっぱり想像通りすうすうした。圧縮空気をぶつけられたビルの外壁はパラパラと欠片をはるか遠い地上へとばら撒く。峡谷の底は薄明の空を溶かし込んだような青い闇。けれど少しも怖くはない。このまま塵と散れるなら、なんて素晴らしい死に様だろう。私の死骸はあの美しい闇に溶けて一抹の泡となり、そこにあるのはただ充足。
わたしが望んでいたもの。
わたしが焦がれていたもの。
ここにはなにひとつとして余分なものはなく、
ここにはだれひとりとして愚鈍なものはない。
闇色の海が競りあがって来る。身体が霊水に没する。冷たい。痛いくらいに、冷たい。けれどその痛みが、苦しみだけが、全身を覚醒させ燃え上がらせる。絶対零度の夜の水が、炎のようにわたしを抱きしめてくれる。冷えた熱が神経をちろちろとなめる。
眼を凝らす。
記憶の水に沈没し、想いの葉をつけた樹木に身を委ね、終わった都市が安らかに眠っている。そこは静かでなめらかな墓地。
骨のように丸みを帯びた建物を壊してしまわないように気をつけて飛んでいく。過ぎ去った建物は一秒ごとに色をなくし、黒いシルエットと化して後方へ消えていく。
摩天楼はどこまでも続いている。
どこへいくのでもいい、どこへ連れ去られてもいい。
このままでいたい。
――――このままで。
○
手綱を握っていた。それを無意識に引っ張る。自分の意識をそうするように。
竜宮夏臣は目を覚ました。<氷菓>の上にいる。自分は確かに<氷菓>と幽がフラッグパイプを叩き折るのを見たはずだ。
なのにレースは続いている。
顔をあげる。アタマを振る。雨は止んでいた。いや、あまりにも速すぎて飛沫が追いついてこないのだ。顔の皮膚が引きつる。眼球が裏返りそうになる。
それでも目を開けた。
見慣れない龍が飛んでいる。
透明の龍だ。それが<氷菓>の少し先を飛んでいる。綺麗な龍だ。なにもかもが白熱した世界を、心地よさげに飛んでいる。夏臣にはその龍の名前がわかった。知っていた。
あれは、<泡沫>だ。
透明の龍はますます速くなる。<氷菓>は熱した鱗が剥がれかけているというのに、<泡沫>は気にした様子もない。
夏臣は手綱を握り締める。そして思う。
このままいかせてやろう、と。
あいつは、ああしているのが一番似合っている。ただ風になっている方が。この世にあいつを繋ぎとめられるモノがいくらあるっていうんだ? あいつを満足させられる、あいつに生きてると実感させられるものが、どれだけあると?
いかせてやろう。自由に、ありのままに。
たとえそれで人間じゃなくなっても。
あいつは最初から、人よりも龍に近いやつだったのだ。
だが、<氷菓>は止まらない。いくら手綱を引っ張っても、アタマをめぐらせてそこから去ろうとはしない。もうレースは終わっているのに。役目を果たしたというのに。
「そんなに好きか、あいつが」
<氷菓>は飛ぶ。飛び続ける。うしろに夏臣がいることなんて気にもせず。
「そうだな……神様になんてなっちまったら、退屈なのかもな。おまえは知ってんのか? なァ<氷菓>よ……」
夏臣は弓を構える。矢をつがえる。その赤い眼をぴたりと的に据える。弦にたまった力が震える。
放った。
一瞬、<泡沫>を超える速さで飛んだ矢は、透明の鱗を突き破って、尾羽近くまで埋まった。
おおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉ……
<泡沫>が悲しげに鳴く。<氷菓>が<泡沫>に並ぶ。夏臣は鞍の上に立ち、透明の龍に向かって飛んだ。ひび割れた鱗のなかに手を突っ込む。血が迸る。構わない。
戻って来い。
おまえには、生きてる方が似合ってる。
たとえ、うしろにいる俺のことなんて、とうとう一度も振り返らなかったとしても。
それでも。
自分をぜんぶ見限るなんて、
速すぎる。
音が消え、感覚が消え、視界が消えた。
白い世界で、ただ、掴んだ手を握り締める。
そしてなにもかも、
流星に――――