08.竜宮夏臣
霧ヶ峰夜鳥はバスが来るのを待っていた。
山間のバス停に人気はない。ガードレールの向こうにはこの一月を過ごした街が広がっている。もう誰も夜鳥のことを覚えてはいない。最初からそうだったように。
もう魔法は解けたのだ。
ただひとりには効かなかった暗示の魔法。精神力の強い者に、夜鳥が最初からクラスメイトだったと信じさせることは、とうとうできなかった。まったくこの街は、暗示の効かない防人といい、呪いをごり押しで無視してくる駆人といい、無茶苦茶だ。やってらんない。
包帯が巻かれた手をさする。ケガはたいしたことはなかった。失ったものはなにもない。<終人勝負>を仕掛けたにしては僥倖とさえいえる。ただ、なにもなくしていないということが、なにももっていないということを浮き上がらせて、胸の奥が鈍く痛むだけ。
ひらりひらりと、落ち葉が舞い落ちてきた。
もう秋だ。夜鳥はカーディガンの前を合わせる。これからどこへいこうか。どこでもいいか。どこでも一緒だ。
もう一度、街を見る。いい街だった。それは、本当に。
いままで手に入れられなかったどんな街よりも――惜しい。
冷え始めてきた大気のなかに手を伸ばす。
あの場所が、故郷になってくれたらどれほどよかっただろう。帰る場所をなくして彷徨い続けてきたこの旅路の終点だったら、どんなに――
その手を、誰かが掴んだ。
夜鳥は驚いて自分の手を掴む腕を見上げる。
「バスなら来ないぜ」
「竜宮……」
冬服を着た夏臣は、夜鳥の隣に断りもなく腰かける。夜鳥はそんな彼をじろっと睨んだ。
「なにしにきたわけ? 笑いにきたの?」
「そうだよ」
夏臣はいきなりゲラゲラ笑った。夜鳥は憮然としたまま耐え忍んだ。やがて夏臣は真顔に戻った。
「なにカッコつけてんだよ。どこにもいくアテなんかねーくせに。てめーよくも騙しやがったな。フツーのやつだと思ってたのに」
「…………終人は負けた土地にはいられない。その名を背負っている限り」
「おまえの家も、むかしは管理官だったのか」
夜鳥は頷く。
夏臣はあっけらかんといった。
「やめちまえよ、そんなの」
「……。あんたにはわかんないだろうね。あたしには、」
「責任があるってんだろ。代表……波雲もそういってた。家柄ってやつだって」
「波雲……。彼女、いまどうしてるの?」
「さあ。どっかに転校してったよ。手紙も送ったけど返事はまだない。だからいまの管理官は俺」
ぷっと夜鳥は吹き出した。間違いを指摘するように夏臣を指して、
「あんたが?」
「なんだよ。いいだろ。一気にお金持ちになったぜ」
「だろーね。じゃ、今日は自慢しにきたんだ? バスがこない? あんたが止めたわけね。おめでとう、小さな街の新しい王様。罪人はいま、大人しく流されていくところです」
「そんなことねえよ」
夏臣はそれきり黙りこんだ。
夜鳥もそれにならった。
街を見つめる。
陽が沈みかけるまで、二人はそうしていた。
「いたければ、ここにいろよ」夏臣が言った。
「俺が許す」
「無理だよ。あたしの名がそれを許さない。許してくれない」
「だったら、そんなの捨てちまえ」
夏臣は夜鳥を見た。夜鳥は息を呑む。横顔になって見えていなかった方の眼が、緑色になっていた。
「あんた、それ……」
「みんな……いなくなっちまった。兄貴も、部長も、代表も……幽も。だから」
夏臣の双眸から透明な涙が伝う。
「おまえは、おまえだけは俺の隣にずっといてくれよ。ずっと……ずっとさ」
夜鳥は黙っていた。やがて、ふふっと笑った。
「そうだね……嫌われ者同士で、あたしたち、ちょうどいいのかもね」
太陽が崩れるように、沈んでいった。
街に冷たい夜が訪れる。
その寒さから逃がれるように、夏臣は夜鳥の手を掴んだ。優しく握り返してくる手の平の感触は、柔らかすぎて暖かすぎて、辛いことも苦しいことも忘れてしまえる。もう何年も、二人に訪れてこなかった、安らぎ。
二人の影は、張り付いたようにバス停から動かなかった。
カスカの風、ドラゴンの夏
最終話――――うたかたはじけて
文化祭が終わって、学校にはけだるい秋の風が蔓延している。授業をサボって昼の街に繰り出すバカが増え、高橋しのぶがそれを追いかけて教室から飛び出していく。
そんな日常を横目に竜宮夏臣は新しい非日常を形成していった。
美津治の管理官となり、夏臣は事実上就職した。公務員だ。
もともと、龍騎手になったときに下っ端とはいえ正規の公務員として登録されていたらしいので、これは出世というべきかもしれない。
新しい仕事は街を取り巻く障気と龍脈の調整。龍に乗る以外にも土地を鎮める方法というのは無数にあり、その勉強に追われる日々だ。
いっそ高校もやめてしまおうかと思ったが、夜鳥がちゃんと最後までいけとうるさい。自分は家でごろごろしているくせに。
なので今日も夏臣は頬杖を突いて、どこか遠いバカ騒ぎに頬をゆるめている。
「新学期にはもう慣れた?」
もう夏臣以外誰も使わなくなった体育倉庫に、二人はいた。三島楓はいつかの誰かのように跳び箱に腰掛けて、上履きをぷらぷらさせている。
「最初は元気なかったから心配したよ。自殺するんじゃないかと思った」
「ひどい目に遭ったからな。目もかたっぽ盗まれたし。うんざりはしたよ。でもまあ、なんとかやっていくしかねえだろ。今日が終われば明日が来ちまうんだしよ」
夏臣はかかっている守護外套のすそをなでる。もうそれを着るものは二人しかいない。
「納得してるんだね」
「そうか? 俺は自分でもよくわかんねえよ。結局、代表も部長もいなくなっちまった。残ったのは夜鳥と、あんたと、弓と龍」
「それと、この街」楓が付け加えた。
「竜宮くん、きみならいい街を作れるよ。静かで、死ぬときにそれからあとのことを心配しないで済むような街を」
どうだかな、と夏臣は苦笑する。先のことはわからない。祈るしかない。
楓はひらりと身を翻した。
「いくのか」
「うん。あの子がいなくなっちゃったから、あたしの仕事が増えたもの」
ねえ、と見上げてくる楓と夏臣は目を合わせない。
夏臣の緑色の右目が、入り口から広がる青空をたたえて、揺らめいている。その心をかくして。
「救われてしまうのがわかるから、それを拒絶してしまうことだって、あるんだよ」
「そんなの、どうかしてる。……狂ってるよ」
「だったら、あの子の狂気を、あなただけは覚えておいてあげて。あの子が束の間、相乗りする気になれた、あなただけは」
「買いかぶりだけどな……でもそうするよ」
夏臣は泣きそうな顔で、笑う。
「俺は覚えてるよ。あいつが俺のことを忘れて置き去りにしても、俺は忘れない。負けてたまるかっての、このぐらいでさ。なめんじゃねってんだ、あのバカ女」
歌方幽はもういない。
だが、彼女が最初からいなかったわけではない。荒ぶる街の怒りは鎮められた。
そして、新しい鎮魂の担い手たちもいる。まるで幽はそのためにいたかのように。苗木が育つまで傘として使われ、やがては間引かれる成木のように……。
風の噂によると、真鍵釘矢はどこかでラーメン屋台を始めたらしい。すっかりオカルトからは足を洗い、気ままに諸国漫遊のラーメン道を楽しんでいるらしい。なんだかんだ言って一番幸せになったのは彼かもしれない。関わらないことこそが幸福獲得へいたるただひとつの道だった、というのはいささか寂しいけれど。いつか夏臣は屋台を探し出して一杯おごってもらおうと考えている。
波雲いずみは管理官としての資格を失い、遠縁の親戚の家に引き取られていった。一度だけ会いにいったとき、夏臣を見返す彼女の瞳は電池が切れたように静かだった。弓と龍、そして街。夏臣は期せずして彼女の大切なものを順繰りに奪う結果を呼んでしまった。どうか戦いも責任もない穏やかな街で、波雲いずみには第二の人生を歩んでいってほしいと思う。
三島楓は白ブレザー組の新たなリーダー格として頭角を見せ始めた。地下の鎮魂教室の管理も彼女頼みだ。管理官とその部下として、三島楓とは長いつきあいになりそうだった。心なしか、以前より気が強くなったらしく、それを残念がる声も絶えないとか。
竜宮夜鳥は名を捨てて、竜宮家に転がり込んだ。飛び入り家族に最初は面食らっていた両親も最近では笑顔を見せるようになった。母も兄の遺影を眺めることが少なくなり、たまに夜鳥と二人で墓参りにいっている。今度は夜鳥の過ごした街で、彼女の先祖を参ろうと夏臣は密かに計画している。
歌方幽の父親は、ひっそりと眠るように死んだ。元々病弱だったのに加えて精神的にもガタがきていたらしい。死んだのは、ちょうどあの日の丑三つ時だった。彼がただひとつの、暴れたがる龍をつなぎ止めていた鎖だったのかもしれない。
そして夏臣は――――相も変わらず龍に乗っている。ただし、駆人は変わっていたが。今度の相棒は、前の相棒よりもわかりやすい。なにせ一緒に住んでいるのだから、放っておいたって相手のことなんか自分の中に染みこんでくる。よくも悪くも。
いまでも夏臣は、時々、龍の背中で鈴の音を聞くことがある。
そういうときは、自慢の弓がよく当たる。