飽きる、
飽きるって言葉がとてつもなく低俗卑猥な印象を抱かせるときってのは、たとえばツイッターで常駐クラスタ外のひとのフォローを外すときなんかに、自己嫌悪とともに思い出されたりするね。
無意識下の思考はいつも行き過ぎて、だから毎度ぼくは自縄自縛に呪いで縛られてしまうわけで、飽きてはいけないと思っていやしないかと気づいたのもついさっきらしいんですね。
飽きてはいけないと無意識に思っていたらしい。何を? というのはつまり今まで自分が好きだと信じていたあれこれを、であって。おれに限ってそんな、一度好きになったものを今更無関心に捨て置くなんてことはしないであろう。そう思っていたらしい。
つくづく堅苦しい野郎だ。
おまえはもういらない、とかあなたにはそろそろお帰りいただきたい、とかそういう言葉をつかいたくなかったわけであるね。それを宣言することでなにか大切なものでも失いそうな予感でもしていたんでしょうね。たいした博愛主義ですね。偽善者め!
よかろうきみが、善人でありたいならばだ、ならば。
なにもかも嫌いになってはいけない。それに、目にみえるなにもかもさえ好きになることは許されないぞ。
だってそうだろうよ。好意も、嫌悪も、しょせん感情の極端な偏りだろ? いいかげん、世の中は善と悪で二分できるんだなんて、そんな迷信をいつまでも信じ続けるのはやめたまえな。
ベクトルが逆さを向いていたらどちらかを味方に、どちらかを敵に分類しないことには気が済まないんだろうこのガキんちょめ! クソがき! 大人になりなさい。たぶん大人ってのはそういうもんだろうからね。
好意も、嫌悪も、きみの感情を揺さぶった要因としては絶対的な位置付けをしてあげたほうがいいんじゃないの?
みんなが一様にそう思っているからという理由で悪と決めつけて排斥するのは法律の範囲だけの決まりごとにしておこう。既存社会に洗脳されすぎているぜマッタク。
悪を仲間はずれにするなよ。鬼は内の伝説を知っているかい? この調子じゃ善を信頼しすぎるのもいただけないぜ。もしそれら二者間の線引きが本当にそういうことだったならね。
飽きることも愛せよ。飽きたことを自覚するのも、自分に飽きられたなにがしかさえも。飽きたからなんだってんだ。なんだったらまた好きになるかもしれないし。全部をひっくるめてなんだかなんとなく良い雰囲気でまとめにしめくくってしまう便利な言葉をつかおう! 愛だよ、愛。
ぼくが間違ってるって言うならおしえてくれ。たのむぜ。