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第8話『私にとってあなたは』

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 結城塔子が朝起きてまずする事は、身だしなみを整える事だ。
 顔を洗い、先日夏服仕様になった制服に着替えて、髪に櫛を通す。化粧はしない。学生の本分は勉強であり、おしゃれは彼女にとって無駄な行為。する必要性がまったくない物。
 好きな男がいるわけでもなく、おしゃれに楽しさを見出した事もない。だから、化粧品なんて一つも持っていなかった。
 洗面台の鏡に映っているのが、いつもの自分であることを確認し、塔子は小さくため息を吐いた。毎朝、鏡を見るとどうしても出てしまうため息だが、その理由は自分でもわかっていなかった。
 洗面所から出て、ダイニングへ。そこではすでに、両親が食事を摂っていた。
 賑やかさとは真逆に位置する、静謐な食卓に、塔子は腰を下ろした。
 なんの会話もなく、食器がこすれる音だけがダイニングに響く。彼女の両親は、別に不仲というわけでもない。
 塔子が覚えている限り、一度だけ大喧嘩をしたことを除けば、大まか無駄な会話に興じた事もなく、お互いに口を開く事が面倒だと思っている様に、必要最低限の事しか口にしなかった。
「……塔子」
 そんな父が、珍しく口を開いた。けれど、その内容について期待はせず、塔子は短く「はい」と答え、齧っていたトーストを皿に置く。
「勉強の方は捗っているかい」
「はい」
 その一言だけで満足なのか、父は満足そうに頷いて、「アレの様になるなよ」と言って、また食事に戻る。
 その一言が、塔子の心を深く傷つけている事など、彼は気づいていない。

  ■

 父は医者で、母は看護師。望まれている道は、父と同じ心臓外科医。
 だから勉強しろ、他の事はいらない。
 そういう事を強いられてきたけれど、彼女自身、別に勉強が嫌いというわけでもないが、医師になりたいかと言われればそうでもない。
 進路を強いられる事は、確かにあまり納得はできていないが、それでも激昂するほどじゃない。
 鞄を持って、家を出て、またため息を吐く。
 いつものように同じ朝食を食べ、いつもと同じ時間に家を出て、いつもの様に授業を受ける。その間に口を開く事はそう無く、一番しゃべっているのが――。

「ごきげんよう、瀬戸先生」

 自分でもわかる。意地の悪い笑顔。
 学校の廊下。朝日が差し込む眩しいそこで、塔子は瀬戸和樹と相対していた。
「……ごきげんよう」
 彼は鬱陶しそうに目を細め、苛立ちを露わにする。彼女にとって、彼は体の良いサンドバックだった。大人でありながら、教師という、国家に保証された存在でありながら、社会不適合者。人間嫌いだというのに、教師。
『立派』という物が大人であると思い込んでいた彼女にとって、瀬戸和樹という存在は、大人でありながら『立派』ではないという、矛盾の塊めいた存在だった。だからこそ、彼女の中で瀬戸和樹は『歯向かえる大人』になっていた。
「今日も給料泥棒ですか? 精が出ますね」
「……必要最低限の事はしている」
 和樹は、胸のポケットに手を伸ばそうとして、舌打ち。そこに煙草が入っている事を、塔子は知っている。保健室や屋上で、嫌なことがある度に吸っているのも知っている。具合が悪くなって、ベットで寝ていると、彼の煙草の匂いが鼻孔をくすぐったことが何度もあるので、よく知っている。
 二人の間に、しばしの無言が横たわる。
 何か言いたい事はないのか? と、目で問う塔子だが、和樹は何も言い返さない。苛立たしげに、眉間と口元を歪めるだけ。
「ふぅ」一仕事終えたようにため息を吐いて、塔子は「では」と言って、その場を後にした。
 背後では、和樹が頭を掻きむしる音。なんだか勝った様で、塔子はこの一瞬でストレスが解消できた様な気がした。
「せんせー、おはようございまーす」
 先生?
 この空間には、瀬戸和樹しかいないでしょ?
 塔子はそう思った。彼は先生と呼ばれる人間ではないはずで、彼を先生と呼ぶ人間は、塔子本人くらいな物。他はみんな、『オートマ』と呼んでいる。
 振り向くと、塔子には見覚えのない女子生徒達、金髪のツインテールと、茶髪のボブカットの女子生徒が、和樹に話しかけていた。
 和樹は困った様に、その二人を見つめている。
「なんだ、巴と華奈子か……」
「おはようさん、先生。今日って抜き打ちテストあるって、本当?」
 金髪のツインテールが、その髪を揺らしながら、きゃらきゃらと人懐っこい笑みを浮かべる。どう見ても、クラスの中心人物特有の、人と人とに壁なんてないと信じているような空気。
「あのな……。そんな事言ったら、抜き打ちじゃなくなるだろうが」
「えへへ、実は勉強してなくって……。二人して、現代文苦手だから」
 茶髪のボブカットの少女は、温和な笑みを浮かべる。金髪の少女に比べると、華やかさには欠けるかもしれないけれど、安心するような笑顔だ。
「まだ時間はあるだろうが。勉強しておけ」
 それだけ言って、和樹はその場を離れる。あの方向は、屋上だろう、と塔子は当たりをつけた。
 また、煙草を吸いに行くのだろう。そんなに良い物なのだろうか、と塔子は煙草を吸っている自分をイメージした。
 小指ほどの棒きれを咥えて、口から煙を吐き出す自分。きっと、一生そんな自分とは出会えないだろう。

  ■

「塔子、お昼食べようよ?」
 結城塔子には、たった一人だけ友人が居た。きらびやかな茶髪を、肩口で乱暴に切ったショートカット。猫みたいに丸い目と、左耳にはハートの三連ピアス。名前は|夏樹鈴音《なつきすずね》。
 彼女が、塔子の席の前に立ち、弁当箱をぶらぶらと手に提げていた。
「あぁ……」
 クラスの中心人物で、顔も可愛く、塔子とは正反対の彼女だが、何故か不思議と馬が合い、彼女が転校してきた時から仲良くしていた。
 他に心を許せる人間がいない彼女にとって、鈴音との時間は数少ない癒しの時間でもあった。
「うん、そうね」
 塔子の前に机を引いてきて、鈴音はそこへ腰を下ろし、弁当を開く。
 塔子も、母が作った弁当を広げ、二人で食事を始めた。
「――んでねえ、新しいピアスほしいんだけど、お小遣い足りないし、バイトでもしようかと思うんだけど、どういうとこがいいのかなあ?」
 思考回路が鈍っていた塔子は、鈴音の話をあまり聞いていなかった。そういう事は顔に出る物で、鈴音は首をかしげて、マヌケな顔で、塔子の顔を見つめていた。
「……あれ。塔子どしたの、なんか気ぃ抜けてない? 珍しい」
「え、あ……ごめん」
 塔子は頭を振るい、脳裏にあった映像を振り払おうとする。そういう、自分の心をコントロールするのは、彼女にとって得意な事の一つだったはずなのに、消えてくれない。
 瀬戸和樹が、生徒に慕われている光景。
 あれは、絶対にあってはならない事だった。
 あの二人に言ってやりたい。そいつは立派な大人じゃないし、教師としても失格で、人間として半端者。話していて得する事なんて、見下せる程度の事。
「なんか悩み事? 私でよければ聞くよ」
「……悩み、ってわけじゃないけど」
 話そうかどうか迷う所だが、友人に、それも唯一と言ってもいい彼女に嘘を吐くのは、どうにも憚られた。
 なので、
「……大嫌いな人がいるんだけど」
「え」驚いた様に目を見開く鈴音。
「……なに?」
「いや、普通そこは、『気になってる人がいるの』とか『好きな人がいるの』とかじゃないの? 絶対そういう話だと思ったのに」
「生憎、恋バナじゃないの。……大嫌いな人がいて、人間性も最悪で、友人も恋人もいなさそうな人が、今日女性と仲よさげに話してて。それがすごく納得いかないの」
「ん、え、ええ?」
 鈴音は、上を見たり下を見たり、なんと言っていいか考えた。それが数秒ほど続き、結局鈴音は肩を落とした。
「……好き、とかじゃないんだよね?」
 鈴音は、見た目に反して賢い少女だった。
 普通の女子生徒と話すように「えーっ! 絶対塔子、その人の事好きだって!」なんて声を高くして言えば、塔子の気分を害する事はわかっていたし、塔子が自分の気持ちを冷静に見つめる事ができる事も知っていた。
 だから塔子は頷いて、「ごめんね」と謝る。
「いや、謝られても。――私から言えるのは、そんな人とは関わらない方がいい、ってことかな? わかってると思うけど」
「うん、そうなんだよね……」
 結局、そういう事になってしまう。
 塔子が瀬戸和樹に抱いているのは、つまるところ、自分の嫌いな人間が人気者になっていくことが気に入らないという、醜い気持ちだけだから。

 昼食を終えた塔子は、鈴音に「ちょっと出てくる」と告げて、生徒会室でちょっとした雑務を片付け、教室へ戻る途中、ふと、屋上への階段が目に留まる。
 瀬戸和樹は、いつも屋上に出て煙草を吸っている。それってそんなにいいものなのか。
 ちょっとした気まぐれ。今日は違う道から帰ってみよう、という程度の物。
 一歩ずつ階段を上がって、薄暗い踊り場を抜け、少しだけドアを開ける。

「なんで立ち入り禁止の屋上にベンチがあるか、知ってるか?」

 屋上には四人の人間がいた。瀬戸和樹と、先ほど彼に話しかけていた二人の女生徒。そして、以前塔子に告白した、御厨二郎という生徒だった。
「ええ? そういえば、考えたことなかったけど……。でも、昔は屋上に入れたってだけじゃないんですか?」
 茶髪のボブカットの生徒が、目を輝かせながら二郎を見つめる。その、期待の眼差しが心地良いのか、二郎は人差し指を左右に振りながら、舌打ちをする。
「ちっちっち。巴ちゃん、それならさ、この屋上が閉鎖された理由を考えなきゃ」
「あ、それ私も知ってるかも」
 金髪のツインテールが、パックのフルーツ牛乳を吸って、言った。
「さっすが華奈子ちゃん。そう、実はこの屋上で、昔自殺未遂があったんだってさ」
「ええっ。自殺未遂!?」
「くだらねえ話だな」和樹はそう言って、吸い終わった煙草を灰皿に落として、もう一本咥えて、火を点ける。
「いやいや、マジだって。マジであった話。軽音楽部の先輩に聞いたから間違いねえって」
「その手の話の常套句だな」
「マージでオートマってば釣れないねえ。つか、教師なんだったら真相知ってんじゃねえの?」
「……知ってる様に見えるか」
 塔子は、いよいよ耐え切れず、その場から立ち去る。胃の中で先ほど食べた弁当がグルグルと回っているような感覚が消えてくれない。理由はわかっている。不愉快な話と、不愉快な光景があったから。
「あの人に関わると、ロクなことにならない……!」
 階段の前で口元を押さえ、理不尽な気持ちを必死に抑えこもうとする。どうしてこうも、瀬戸和樹という人間は自分の感情をかき乱すのだろう。
「……おい、大丈夫か」
 背後から低い声。塔子は振り返って、そこに立っていた瀬戸和樹を睨んだ。
「……ずいぶん人気者になったようですね、瀬戸先生」
「はぁ? なんの話だ」
「立ち入り禁止の屋上に、生徒を招き入れて、楽しく休み時間を満喫ですか……」
「いや、お前な。具合悪そうなくせに嫌味って、どういう神経だよ……。」
 なんだか途端に、自分が惨めな物みたいに思えてきて、塔子はすぐに踵を返し、「放っておいてください……!」と、声に苛立ちを滲ませて、その場を去った。当然、瀬戸和樹が追いかけてくる事はない。
 そういう所は楽でいい。それだけは、瀬戸和樹を褒めてもいいと思える。
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