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HEVEN'S

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現実はこんな物だと決め付けていた。

真実なんて欲した覚えはなかった。

ただ頭は痛み続け。

私はゆっくり目を閉じた













「隣のクラスの澤田さ。エロゲのキャラだったらしいぜ。」

「うそーマジウケるんだけどwwwww」

頭の悪そうなセリフが頭上を飛び交い、耳に突き刺さる。
奴等の話のネタは最近一つの事に集中してきている。

―――セラフ

そういう名称の感染病についてだ。
この感染症は人間の老化速度を数百倍に速める。感染して約二ヶ月で老衰し、死に到る。
外見はさほど変わらないが、中身は腐ってゆく。新陳代謝は落ち、老廃物は蓄積される。
しかも、今だ治療薬どころか延命措置の方法や感染の予防法、さらには感染経路すら分かっていない。
人はこの感染症に怯え、そして憧れていた。

憧れていた。
それはこの感染症の一番の特徴にある。
ある幻覚が見えるのだ。
【感染者が一番愛しているモノ】
…そう、愛するモノの幻覚が見える。
そして愛するモノに見取られ、死ぬ。
今日の世界、どのくらいの確立で愛するモノに見取られ逝く事が出来るのか。
その甘い死が人を魅了していた。
しかし感染経路が分かっていないため自ら感染できる訳ではなく、人々は怯え、憧れた。
最近ではコレを売りにした宗教まで出来たらしい。必ず貴方に幸福な死を。という謳い文句でダウナー系の若者に支持されているそうだ。

…そうそう
その感染によって見える愛するモノの幻覚。
愛するモノを形取った死神。
それを人は【熾天使(セラフ)】と呼び、感染症の名称にもなった。

「それでさー。澤田の奴、最後『らめぇえええええ!!逝っひゃうぅううう』って言いながら死んだらしいんだよwww」

「うっそーw。最後は幻覚とヤッたのかね?童貞なのに腹上死ってか?うっらやっましぃ~wwww」

いつまでもこんな会話を聞いていたくない。やはり惰性で教室に留まっていたのは間違いだったな。
私は立ち上がり、のろのろとした動きで鞄から弁当を取り出し、屋上に向かった。

屋上と校内の境目。屋上に続く扉。
押せばギシッギシッと音をたてながら、隙間より光を漏らす。
馬鹿な奴等だ。私は甘い死には憧れない。いや、訪れない。だから私は憧れない。愛してたモノなどないんだもの。
冷たい風が頬を撫でる。暖かな光が網膜を焼く。
フェンスにもたれ掛り、ずるずると腰を降ろす。胡坐をかいて、足の間に弁当を置く。
誰も見てないんだ。と考えた後、私はまだそんなこと気にしていたのかと小さく唸った。
弁当のフタを開けると、自作ながら地獄絵図と表現するにふさわしい物が詰め込まれていた。
しかも朝、鞄で痴漢を殴ったせいかオカズは入り乱れ、ご飯は寄りまくっていた。
自分で作った飯に文句は言えない。唯一綺麗に出来た玉子焼きを頬張り、咀嚼して思った。
なんだ、見た目だけか。私の玉子焼きは悲しくも喉を通らなかった。
口の中でぐちゃぐちゃになった玉子焼きを屋上の隅まで行って吐き出す。
やはり強がって一人暮らしなどするもんじゃなかったなと、口の中の不快感をオレンジジュースで消しながら思った。
料理だけは私の責任じゃない。そうも思った。洗濯も掃除も上手く出来るように練習した。
でも料理だけは練習する気になれなかったし、毎日作っても進歩がない事から、ある意味諦めも感じていた。

「ホントに?」

…ホントは。
ホントは違う。今のは建前。嘘。もっともな偽者。

―――ママ
私が料理が下手なのはママのせいだ。
ママは私に何もくれなかった。
思い出の味も、愛情も。
けどオヤジはママを忘れたから、私が覚えてなきゃいけない気がした。
だから私はまずい飯を食う度、ママを怨んだ。
それは悲しい覚え方だろうけど忘れられるよりはマシでしょ?と頭の中のママを鼻で笑ってやった。









3, 2

  

午後の授業をこなし、私は手早く鞄に教科書を詰める。一刻も早く馬鹿の巣窟から抜け出したかった。

「まぁあああああおちゃあああああああああああん!」

…馬鹿の中にも色々秀でた能力が在る奴がいるらしい。奴の場合は嗅覚か?

「まぁあああぁぁぁああああおおおおおおおおおおおおおおお!」

そう思ってしまう程奴は的確に私を嗅ぎ付ける。
この間などは玄関から靴を持ち、女子トイレに行き窓からの脱出を試みたというのに、何故か窓の外でニヤニヤしていた。
いやー。馬鹿でも一つは取り得があるものだなと関心しながら無視して帰ったが。

「うー。」

あぁ、そういえばもう冷蔵庫の蓄えが無いな。帰りにスーパーで買うか。まずい弁当対策に冷凍食品多めで。
最近はひじきの煮付けの冷凍まであるからな、いやはや助かる、助かる。

「せい!」 ←ドロップキック発動

サッ ←華麗に回避

今日は10月15日か。あと10日でオヤジから仕送りが届くな。
今月は修学旅行の積立金のことをすっかり忘れていて仕送りのほとんどをそれに当ててしまったから、中々に辛い生活だったな。
必然的に自炊が多くなるから困ったもんだ。

「こ、ここまで徹底的に無視とは!こうなったら、必殺!大☆跳☆躍!!」

フッと私に影が降り、そして通り過ぎる。そしてその影の持ち主は私の前に着地し振り返る。
あ、何かムカつく笑顔だ。
ただでさえ某配管工のヒゲがジャンプしたような音を響かせながらの行為でイラっとしたのに、
跳躍如きで必ず殺す技と銘打っているのが更にムカつく。
普通ここまで無視されたら諦めるもんだろ。何故にここまで私に執着するんだ。
目の前のチビ馬鹿【岬 加奈】は半開きの口から気味の悪い笑いを漏らしていた。

「ふっふっふ。苦節三ヶ月。ついに真緒ちゃんを追い詰めたわ!学校の構造上、此処を通らなければ玄関には行き着けない!」

確かに奴の言った通り玄関に行くには、この廊下を通るしかない。しかしそれは私が靴下一足を惜しんだ場合の話であり、
私は別段思い入れのない靴下を惜しむほど繊細な心の持ち主でもなかった。
窓に歩み寄りロックを外す。あ!っと馬鹿が声を漏らすが気にしない。窓を一気に開き飛び出した。
そしてそのまま猛ダッシュ、玄関に向かう。靴を取り出すとサッと履き、今度は校門まで走った。

―――普通ここまではしないだろう。何故ここまで私は人が嫌いなんだ。

この小さく深い疑問を飲み込んで、代わりに今日スーパーで買う物のリストを頭の中に書き出した。

…ちょっと買いすぎたかな?
冷凍食品の種類は日を追うごとに多くなってる気がする。目移りしてしまった。
どれを買おうか悩んでるのがアホらしくなり、片っ端から買って後悔したのが今というわけだ。

重い袋を両手にぶら下げていると、次第に指の感覚が無くなって来た。
そして次に腕の、足の、最終的には視界が右上から白に喰われいく。
ゆらりとうごめく世界のなかで、あの馬鹿の顔が浮かんだ。
今度はアイツに荷物を半分持たせよう。
多分喜んで持つだろう。
アイツとは言葉を交わした事はないけど、妙な確信が蛇のように失われた腕の感覚の上を滑った。
私は。
私は、本当は楽しかったのかもしれない。あのやりとりが。
でも友達になったら、本当の私を知ったら。
そう思っていたのかもしれない。
いつの間にか蛇は、私の全身を締め付けていた。
まるでその先の考えを閉じ込める様に。

気づけば私の住んでるアパートの前まで来ていた。
気づけば蛇は消えていた。

気付けば私は泣いていて
気付けば考えていた事を忘れていた。








私の住んでいるアパートの鍵は小さくて可愛い。
裏を返せば若干防犯性に不安が残るという事だけど。
片手に荷物を集め、鍵穴に差し込んだ鍵をグルリと回す。
カチャッという小気味良い音を立てて、私のだけの世界が顔を見せる。

「あ、お姉ちゃん!おかえりー。」

…訂正

「お姉ちゃん?どうしたの?開けっ放しだと虫入っちゃうー。」

私の目の前には私の世界を犯すもんがのほほほほんとした顔で突っ立ていて、
私のことを『お姉ちゃん』と呼んでいて、
それは同時に私の体を犯している証でもあった。

私には幸福で、甘い死は訪れない。
でも【死】は訪れる。
そして私には加速した死が訪れている。
あどけない顔をして、私にしつこく纏わりついている。

「あんたさ。消えないの?私は別に死ぬのはいいんだけどさ。あんたウザい。」

ドアを閉めて、靴を脱ぎながら私は言う。なるべく声のトーンを落とし、脅すように。

「えー。弟にそんなこと言うの?ひどいよぅ、お姉ちゃん。」

「私は独りっ子。漫画もゲームもしない、TVも真剣にみたことない。誰も愛してない。あんた誰?」

「あんた誰?ってー。初めて会ったときお姉ちゃんに僕の名前付けてっていったじゃん。なのに無視するんじゃーん。」

これ以上話しても無駄だ。そもそもこれは自問自答に近い。
こいつは私の体を腐らせる死神が見せている幻覚だ。
こいつとの会話は、私の脳にある情報を繋ぎ合わせてできた知識をもう一度私にぶつけているだけだから。





出会ったのは一ヶ月前。
朝起きたら私の布団の中に入っていた。
初めはどこかの家出少年が窓でも割って進入してきたのかと思ったが、ガラスの破片も欠けも見つからなかったし、
部屋の鍵は全て閉まっていた。

次の可能性として幽霊というものが浮かんだ。
しかしそれら幽霊や、怪物というものは、【ケルプウィルス】によるものだと証明されている。
ケルプウィルスは既に発見されており、幻覚を見せるのはもちろんのこと、
人間の体内に入り込むと一時的に体の機能を低下させたり、五感を麻痺させる事がわかっている。
そして見せる幻覚は【畏怖の感情】のイメージに反応する。
だから暗いとこや心霊スポット等で増幅した不安感や畏怖の念が、取り込まれたケルプと反応して幽霊や怪物を見せるのだ。
心霊スポットで幽霊を見ることと、遭遇時に動きが鈍ったり、体が重く感じたりする事にはこんな背景があったのだ。
さらに体内で浄化される速度には個人差があり、長く体内にケルプが留まった時【憑く】という感覚に陥るのだという。

だが今日の世界では、人間が住む、もしくは行く可能性のある場所のケルプは取り除かれるはずなので、この可能性も無い事に気付いた。

最後の可能性は…セラフ。
この考えが頭を走り回ったとき、心臓がドクンと跳ねた。
だけどそれはすぐに治まり、次に妙な感覚が背中を這いずり回った。
セラフは愛したモノの幻覚を見せるはず。
しかし私はこんな餓鬼に覚えは無い。
死を自分自身のこめかみに突きつけても怖くはなかったが、やはり納得ができなかった。
甘い死を迎えられない糞感染病は私になんの気持ちも与えてくれなかった。喜びも、恐怖すらも。

「う、う~ん…。」

見た目小学五年生と言ったところか。そっち系が趣味の人間に取って喰われそうな顔だ。
だが、あいにく私はショタコンじゃないし、どうせコイツは私にしかみえないんだ。

段々とイライラしてきた私は布団の中でもごもごしているソレを蹴っ飛ばした。

「ぎゃん!」

短い叫びと咳が部屋の静寂を貪っていった。

「い、いたいよお姉ちゃん!起こすなら優しく起こしてよー。」

お姉ちゃん?
私を軽く睨んでいる目。
膨らませた頬。
そしてへの字に曲げた口。
その口は確かに「お姉ちゃん」と言った。

「あんた…誰?」

言った後、そんなこと言っても無駄な事に気付いた。
所詮こいつは私の脳が作った幻覚なのだ。私が分からない事がこいつに分かるはずがないと思ったからだ。
そういえば蹴っ飛ばした感触はなかったな。これでこいつがセラフによる幻覚という説が強まった。

「誰って?弟だよー?」

「私は独りっ子だし、あんたの名前も顔も知らない。」

「僕の名前?名前…。」

弟と言った幻覚は、腕組みしながら首をひねってしまった。
私の中に無い記憶は出せないみたいだ。
もしかしたらピッキングの達人で、部屋に忍び込んだのがばれたので弟と言い張って混乱に乗じて逃げる気か!
それは新しい可能性として一理あるな、と私も首をひねったが、徐々に『弟』がふわふわと浮き始めたので、
人間という可能性と共に、その新しい可能性は消えた。

「お姉ちゃんが…。お姉ちゃんがつけていいよ!僕の名前。」

は?

「我ながらいい考えだと思うな♪うん!お姉ちゃんが決めていいよ。」

…あ、もう学校行く時間だ☆真緒のお寝坊さん♪

私はババッと着替え、今日はコンビニ弁当だなと、ちょっぴり自分の胃を救った気になって鞄を掴んだ。

「いってきまーす。あ、お部屋には誰もいないんだっけ☆真緒ったらまだ頭がおねむみたぁ~い(はぁと」

「お、お姉ちゃんまって!」

「…ついてくんな。」

最後のソレは、本当に私が出したのかと思うほど低かった。

「…う…ん。僕、良い子だから、お留守番…してる…ね。」

私の世界の扉を閉めると、私はセラフのある事を思い出していた。

―――設定

セラフによって生み出された幻覚は、その設定に逆らえない。
それは感染者が甘い死を迎えるための幻覚である事を強く認識させられる事実だ。
決して裏切らず、絶えず自分のみに愛情を注ぐ。
おそらく奴はあの部屋から出られないだろう。
そう私が設定したんだ。
私は死に縛られて、奴は設定に縛られる事が今、決定した。

段々と加速してきた世界と共に、私の体も腐る事を加速させていった。

そして死神同居人が私の世界を犯し始めてから一ヶ月。
私の体は今何歳だか分からない。
病院には行かなかった。
どうせ、点滴と入院で死ぬまで収容されるだけだ。
しかも入院しようがしまいが、私が生きる長さは変わらない。

死は怖くない。
だけどセラフで死ぬのが気に食わない。
愛したモノがないなら、せめて静かに死にたかった。
余計なものまで引っ付けて、私の命は枯れていく。







今日も『弟』は私の布団の中で寝た。

5, 4

  

オヤジから仕送りが届いた。
幻覚は部屋を浮遊している。
仕送りが届いた日には、必ずオヤジから電話が入る。
もうすぐ私が腐ることは伝えていない。
言ったとしても、ママと同じ様になるだけだ。
『きっとあの人は来てくれるわ。』
そう言ってママは死んだ。

…何で死んだんだっけ?

私が三歳の時に死んだことも、最後の言葉も覚えている。
いいにおいがした事も、私にそれ以上の何もくれなかった事も覚えている。

Piru Piru Piru…Piru Piru Piru…

私にそれ以上の考えをさせないような意図すら見え隠れするタイミングで家の電話が鳴いた。
あいかわらず幻覚は浮遊を続けていた。

受話器を取ると電話は鳴くのを止めた。

「…もしもし。」

「もしもしー?誰か分かるかなー?パパだぞー。」

…ガチャ

今日の夕飯は冷やし中華にするか。
最近は麺類を作ることにハマッている。まぁハマッている事と味は全く関係してこないのだが

Piru Piru Piru…Piru Piru Piru…

ふぅ。多分オヤジは私と10分以上話すまで、この嫌がらせを続ける事だろう。
仕方なく私は、また鳴き声を止める。

「もう。何で電話切っちゃうの?」

「そのテンションうざい。」

「真緒ちゃーん。パパにそんなこといっちゃ駄目だぞー。」

いつからだろうオヤジがこうなったのは。
初めからだろうか。それともママのことで罪悪感にでも囚われているのだろうか。
ピアニストという仕事とママを天秤に掛けた事を後悔しているのだろうか。

私が高校に行くとオヤジに告げた時、海外から声を掛けられている事を聞いた。
一緒に行こうとも言われた。
だけど私は断った。
『私は外国とか嫌いだし。』
そう言ってやった。
本当はこれ以上オヤジの枷を増やしたくなかった。
罪悪感と後悔に縛られているのに、更に私は重すぎた。
私はオヤジを嫌いな訳ではなかったから。

「金…ありがと。」

「学校はちゃんと行ってるかい?」

「うん。」

「ご飯は?」

「食べてる。」

不味いけど。

「怪我とか病気は?」

「してない。ていうかうざいって。」

「真緒ちゃんホントにこっち来る気はないの?」

「無い。てか今何処いんの?アメリカ?」

「いや、フランスだよー。パリ、パリ。」

「ふーん。フランスの女は締まりはいいの?」

「ぶふぉ!ま、真緒ちゃん?」

「冗談よ。」

「真緒ちゃん、いつの間にそんなエキセントリックなギャグを。」

「で、実際どうなの?」

「そりゃもう最k」

「死ね。」

「なんだよー。パパだってギャグ言いたいよー。」

「ふぅん。…そろそろ飯作るから。」

「そっか。じゃあ切るね。」

「うん。」

「何かあったら電話するんだよ。」

「うん。」

「それじゃあ、おやすみ…かな?そっちは。」

「うん。夜。」

「良かった。じゃあ、おやすみ。」

「おやすみ。」

オヤジの声は消えた。

私は嘘をついたとは思っていない。
私のは病気じゃない、『寿命』だ。
ふぅ。と息を吐き出すと、私には黒い煙が口から出たように感じた。
部屋を見渡すと、幻覚は布団に入っていた。

私はあと約二十日で死ぬ。
願わくば、誰の声も聞こえぬ静寂に喰われて死ねますよう。

仕送りから一週間。私は確実な体力の衰えや様々な場所の老化を感じていた。
見た目は全くといっていいほど、変わりはないのに、
時折、ミシッと骨が大きな音を立てて軋んだり、
胃の中がグルッと反転し、嘔吐することも多くなった。

相変わらず『弟』は名前、名前と五月蝿く、
相変わらず私は無視を続けていた。

私が死んだら、何人の人が悲しんでくれるのだろう、
なんていう月並みな言葉が頭を過ぎる事は無かった。
私が死んだ後の世界には興味が無かったし、
そもそも私は人に興味がなかった。

恐らくこの部屋で死ぬんだろうと思うと、
大家に多少申し訳なく感じるけど、
『仕方ない』という方が多かった。

でも。
でも、私は最近おかしい。
体がイカれていくのは構わなかった。
体が腐って死ぬことは理解していた。
しかし、夜になると何故こうも、苦しいのか。
何故、涙が流れそうになるのか。
死にたくないと思うわけじゃない。

思い浮かぶ、あの女の顔。
人には興味がないはずなのに、私の中には嫌な感情が吹き荒れていた。
この感情に名前をつけるなら、罪悪感がふさわしいだろう。
私はまだ逃げていた。私はオヤジと同じになろうとしていた。
ママがオヤジを待っていたように、
あいつは私が止まるのを待っていた。
オヤジがピアノを弾いていたように、
私は死に弾かれていた。
死が私の体を撫で回すたび、
パキッとかポキッ骨が、間接が、体が鳴いた。
ピアノの音のように綺麗ではなかったけど、
私はソレが耳に心地よかった。
けど、オヤジと同じようにはなりたくなかった。
それは決して、私がオヤジを嫌いな訳じゃなく、当時のオヤジが見るに耐えなかったからだ。

ママが死んだ当時、オヤジはやっと周囲に認められ始めていた。
だからママより仕事を優先した。

「ママならきっと大丈夫だって、この仕事が終わったらすぐに病院に行くって約束したんだ。
だから、パパはピアノを弾いた。ママがいってらっしゃいと言ってくれたから。
でも…ごめんな真緒。」

オヤジの言い訳は私への懺悔で締められた。
何故私なの?何故ママじゃないの?
ママに謝ってよ。
ママは待ってたの。

涙は出なかった。
『ママ』というものを失くしたこととオヤジが約束を破ったこと以外は分からなかったから。
まだ、何も貰っていない状態でママを失っても悲しくなかったし、
オヤジが約束を破った事も、私との約束じゃないからいいと思った。

しかしオヤジは確実に罪悪感に心も体も貪られていた。
頬はこけ、表情は消えた。
今こそ、海外を飛び回る気力を得たものの、当時の私に確実に悪魔に取り付かれる恐怖と
それがあまりにも身近に潜んでいる事をオヤジを苦しめた悪魔は植えつけた。

だけど私はあの女と何か約束を交わした訳でもないから、こうもおかしくなるのは不快だった。
罪悪感が私を食い破ろうとする度に、私は悪くない!あいつがしつこいんだ!
と、鎖に噛み付いた。

だからこそ私は布団の中で決意を固めた。
私は明日あいつ【岬 加奈】と向き合う。
それは罪悪感を殺すためで、
それはあいつを諦めに向かわせるためで、
それは誰も何も思わないうちに死ねる様にするためだった。




私の涙はついに零れてしまった。
やはり理由があろうが無かろうが涙は不快だった。

7, 6

  

「が~んばってねぇ~。」

家を出るときに『弟』はそう言って手を振った。
別に不思議な感じもしなかった。
こいつは私自信であり、死神であることはちゃんと理解していた。

今日、私は岬 加奈と契約する。
私と一日だけ、友達になる、そのかわり明日からは私に構わぬ事を約束させる計画だ。
きっと岬 加奈は契約に応じるだろう。
確信の蛇はもう私に巻きつく事をよしとしなかった。

昼休み
やはり不味いままの私の飯はゆっくりとじゃないと胃に入っていかなかった。
屋上への階段も、吹き付ける風も、この体を痛めつけたが、
教室の屑の巣よりは幾分マシだと思った。

セラフの話題は日に日に学校を包み、
自分の幻覚を自慢する奴、自分の体の限界も知らず血反吐を吐いて倒れる奴、
そんな馬鹿が溢れかえっていた。

勝負の時は迫っていた。
柄にもないと分かっているが緊張していた。
なにしろ今まで突っぱねていた相手だ。
急に態度を変えたら一気にあいつの何かが冷めるかもしれないし、
何か裏にあるかもしれないし…

ああ!なにを考えているんだ。
冷めればどちらかといえば儲けモノじゃないか。
裏に何かあるってなんだ。何に怯えているんだ。
やっぱり緊張しているのか。
私の思考は纏まらず、放課後まで頭が痛かった。




…こんなに教室から玄関まで長かったっけ?
私は背中から胃をえぐる吐き気と戦いながら廊下に足音を響かせていた。
ぐるんぐるんと空間が捩れ、更に吐き気を増幅させた。

「―――ちゃん?――おちゃん?」

次第に私は今動いているのか止まっているのか、
立っているのか、倒れているのか、分からなくなってきていた。
白に囲まれきった世界では何も分からなかった。

「真緒ちゃん!!」

―!?
現実はかなりのスピードで私にぶつかり、はじけた。
目の前にはちびっこい女が眉をハの字にして心配そうな顔を覗かせていた。
現実が残した衝撃波で一瞬目的を忘れていたが、なんとか取り戻した。

「あ…ぅ…岬…さん。」

ちびっこ娘は丸くぱっちりとした目を更に開き、あからさまに驚きの表情を作った。
向こうも物凄く戸惑っているようだ。

「い…今私の名前…呼んでくれた?」

「うん…。」

「あ…。えと…。」

世界中の人間の驚きを凝縮したような表情は徐々に喜びに変わる様子がはっきりと伝わってきた。
しかし私はそれを感じながらも『契約』を始めようとした。

「岬さん…。」

「か、加奈でいいよ!」

元気いっぱいな声で、愛らしくも感じる笑みで…加奈はそういった。

「じゃあ、…加奈。」

「な、何?」

一瞬肩をビクッと震わせる。

「な、何で私に話しかけてくれるのかな?」

あくまで、冷静を『装って』私は問う。

「それは…と、友達になりたかった…から。
真緒ちゃん綺麗だし、私、真緒ちゃんみたいになりたかったし、
ひ、一目惚れ!?かな。」

「加奈、レズビアン?」

「ち、違うよ。」

「そう、良かった。」

コレで、契約の準備は整った。
今までの質問も意味はあった。
『友達になる』という部分が加奈のなかで重要でないと判断した場合
即時、逃げるつもりだった。
そこさえ確認できればこれ以上罪悪感は襲ってこなかっただろうし、
これが例え敗走に見えても、もうすぐ死ぬ私には気になる事はなかっただろうから。

「あ、のさ。友達…なってあげても、い…いいよ。」

声が裏返らないように注意しながら、私は言葉の契約書を提示し始めた。

「え!ほ、ホント!?」

「で、でもお願いがあるの。」

「何々!?私に出来る事ならなんでもするよ!」

「これっきりにしてほしい…。」

「え?…。」

「今日だけ…なら友達になってあげられるの。」

「あ…。な、なんで今日だけ…。」

「別に加奈が嫌いなわけじゃないの。でも今日だけ。」

「う…。あ。」

「…。」

一秒の沈黙が五分にも十分にも感じる。
沈黙に押しつぶされそうになるとはこのことだな、と心の中で笑った。
これが私の限界の強がりだった。

「わ、分かった。」

「…そう。」

「そのかわり!今日が楽しかったらずっと友達でいて…。」

「…分かった。」

加奈は分かっていなかった。今日がどんなに楽しくとも、ずっと友達になれないことを。
どんなに楽しくとも私が楽しかったという事が無い事を。
こうして一日限りの友達契約は成立した。

「それじゃあいこうか!時間がないから早くしないと!」

加奈は私の手を引いて玄関へ走る。
玄関が見えたとき、その扉が地獄へ続いているのか、天国へ続いているのか、私には分からなかった。




高校に入って初めて女の子と遊んだ。

服を見て回ったり、ケーキを食べてみたり、
声を掛けてきたゴキブリのような肌の男達を鞄で殴って逃げたり、
今時の女子高生はとてもパワフルであることを知った。
いや、鞄で殴ったのは自分だが。

私は万人が持つ友達像の平均に沿うように演技を続けていた。
楽しくなかったといえば嘘になるが、楽しかったというよりは、むしろ悲しかった。
これが脅迫じみた行為の上で成り立った契約なら、罪悪感はそこに漬け込んだろうが、
同意の上での友達ごっこは、大丈夫だ、と思っていたのに。

加奈は私をリードするように服の袖を引っ張っていた。
まぁ、私は学校で孤立していたから、どうしていいか分からないと思われているんだろう。
実際に分からないだけあって、少し悔しかった。

「真緒ちゃんプリクラとか撮った事ある?」

「んーん。ない。」

「じゃあ撮ろう♪撮ろう♪」

町の喧騒に半分声を呑まれながら、私たちはゲームセンターに入った。

ほえー。
すげぇうるせぇ。
みみいてぇ。

正直な感想はコレだけだった。
以外と女も多くて、クレーンゲームに張り付いていたり、
男の腕に絡み付いていたり、
大根というより、カブみたいな足を丸出しにして歩いていたり、
様々だった。

「じゃーん!これがプリクラです!」

バスガイドか、と突っ込もうとしたが、やめた。
私は演技の範疇を超えようとしている感情に全力を注ぎたかった。
注ぎざるをえなかった。

ビニールのれんをくぐると、小さい画面と、変な棒があった。
後ろには、何故かカーテンが幾重にも重なっていた。
加奈はお金を入れると、棒で画面をタッチし始めた。
そして、後ろのカーテン(星柄)を引くと、私の腕に絡みついた。

「ほら!真緒ちゃん、あそこがカメラね。あそこ見てにこーって!にこー!」

私はなるべく自然な笑顔をつくりカメラを見つめた。
フラッシュと共に、はい、もう一度行くよ、3・2・1。なんていう声が機械から出て、もう一度光った。

「でねー。このペンで字とか書けるんだよー。」

そういうと加奈は画面にペンを走らせた。
後ろから画面を覗くと『祝!友達記念!』
そう書いてあった。しかもなんかキラキラして見づらい

「真緒ちゃんも、何か書いて♪」

そう言って私にペンを押し付けると、後ろに下がった。
…何て書こう。

「時間制限があるから早くしないとー!」

加奈に急かされながら私は急いでペンを動かす。

『初めてプリクラを撮りました。フラッシュが異様に眩しかったので目が痛いです。』

自分たちに被らない部分を字で埋め、無事?時間切れとなった。

もう一度ビニールのれんをくぐり後ろにまわると、機械から16分割された写真が機械から吐き出されていた。
加奈はそこに鎖で繋がれた鋏で写真を半分にすると私に手渡した。
ニコニコとしている彼女の手から写真を受け取ると、私はソレを鞄に閉まった。

「あれー?加奈!っと…神崎さん!?」

後ろから、全く聞き覚えの無い声で苗字を呼ばれて、同じく名前を呼ばれた加奈と一緒に振り返った
そこには三人、うちの学校の制服を着た女が立っていた。
加奈を見ると明らかに動揺した顔で、その女達を見ていた。

「うっわー。加奈マジで神崎さんと友達になれたんだー。凄いよ!」

「あ…。」

私は笑いそうになるのを必死で堪えていた。
決して友達のふりをしているだけの関係を滑稽に思ったわけじゃない。
この笑いは狂った笑いだった。
嫌な、嫌な予感が全身を舐めまわしていた。

女三人が、徐々に間合いをつめる。

「はぇー。本当に神崎さんと友達になるなんてなぁ。正直あの話したとき絶対無理だと思ったモン。」

「でもぉ。加奈ぁ。頑張ってたもんねぇ。毎日無視されたりしてたのにぃ。」

「そうそう、神崎さん美人だから何か話しづらかったのにねー。」

三人はそれぞれに盛り上がってきている。
私は珍獣か。
自分で冗談を言っても嫌な予感は息を潜めていた。まるで私の心を食らう瞬間を狙ってるかの様に。

「あ、そだそだ。加奈、これ。」

そういって一人の女が更に間合いをつめたとき、加奈の顔は今にも泣きそうだった。
まるで凶器を突きつけられたかのような顔で、焦点がぶれていた。
女が鞄に手を突っ込み、財布を取り出した。
他の女も一斉に財布を鞄から取り出し、千円札を抜いていた。

「はい。賭けはあんたの勝ちだわ。でもあんたホント根性あるねー。」

三人が加奈に千円札を突きつけると、私の中の嫌な予感が身を震わせながら私に襲い掛かってきた。
しかし、私の頭はクリアだった。
いや、クリア過ぎた。
嫌な予感の顎を叩き割ると、腕を目に突っ込みグルグルとかき回した。
ソレが絶命するのを見て、堪えていた笑いが私の手の中に剣となり収まっている事に気づいた。

「それでさー。私たちも友達にしてくれないかな。神崎さんみたいに綺麗な人と友達になりたかったんだよねー。」

「あー。でもぉ。合コンとかぁ、困っちゃうなぁ。」

「男全部持ってかれたら私達サビシくて死んじゃうかもー。」

私の足は市松模様のタイルを蹴って、推進力を生み出していた。
人の波に突っ込みながら。私は私を止める声を聞いた。
しかし今となってはどうでもいい。
私は自由になった。
罪悪感から逃れる事が出来た。
あまりにクリアな頭のなかで私の笑い声だけが嫌な予感の亡骸を刻み続けていた。
9, 8

サナ 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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