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第四話:神様少女と銀河少年

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 家に帰って、自分の鞄の外ポケットを確認してみると、覚えのある文庫本の背が見えた。
 手に取ってみると宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』だった。おまけに自分が通う学校の図書館の分類番号シールが貼られている。結構古いものなのか、少しだけページが黄ばんでいた。
 背表紙を捲ってみると貸し出した人の名前は書かれていないが、貸出日はハンコで雑に押されていた。俺はこの最新二件の借りた生徒を知っている。
 もちろんだが、俺はこんな真面目な本を借りた覚えはない。第一、学校の図書館で本を借りたことすらないんだ。自慢ではないが年間読書数はせいぜい十冊程度だ。
 ということになると誰かが俺の鞄に突っ込んだということになるわけだが、深く考えるまでもなくその犯人には心当たりがあった。
 本人のプライバシーもあるから細かい情報は言わないことにするが、犯人は1年B組出席番号25番の前坂明美、身長は平均ちょい下、胸も同じく。ついでに彼女の意地悪そうに笑う顔まで浮かんだが、別に俺はケータイを取って文句メールを打つでもなく、居間の机上、鞄の横にその文庫本を放り投げた。
 言うまでもなく図書館の本の又貸しは禁止されてる。図書館には返却ボックスがあるから、俺が明日黙ってそこに本を入れてもバレなければ怒られることはないが、なんでわざわざ俺がそんな面倒をしなければいけない。明日会ったときにでも突き返してやろう。
 そこまで考えて、俺はすぐに晩飯の用意に取りかかることにした。
 なぜか買い物帰りの料理は無性にはやくつくりたくて仕方がない。買い物中、その日の料理を思い浮かべながら材料を選ぶためか、はやく買ってきた素材を調理したくなるのだ。
 間違いなく健全な男子高校生の感じることではないな。うん、まあ、そこらへんは諦めている。
 多少そんな悲しさを感じながらも、今晩のメイン、クリームパスタをつくる。ちなみに今日のパスタには車エビを入れる。しかもこの車エビのエビ味噌まで使うのだから、贅沢なものだ。エビ味噌にはおいしさ成分がたっぷり詰まっているが、この味噌を取り出す作業がやたらと面倒くさい。しかし料理というのは手間をかければかけるほど、つくってる本人としてはおいしくなる気がするのだから不思議なもんだ。
 そんな面倒くさくも愛おしい味噌出し作業中に、勢いよく玄関のドアが開いた。
 誰? と確認するまでもなく姉貴だと思ったが、その予想ははずれてはいなかったものの、50%の正解だったようだ。
 玄関の方を確認してみると姉貴の後ろにもうひとり女性がいた。少し戸惑うような声は、姉貴の声より少し高い。これが平均なのかもしれないが、どうも姉貴の声は女性としては低いから区別がつきやすい。
 来客らしきことを察知して、一度作業を中断して、俺も玄関へ向かうことにした。
 近づいてみると姉貴の後ろにいる人は随分と小さかった。間違いなく150センチ台だろう。姉貴が女性の平均より背があるので、余計に小さくみえる。
「姉貴の友達?」
「そそ、モミちゃん」
 はたして「モミちゃん」が本名の一部から取られたものなのか、なにか別の意味がこめられたものなのかは判断がつかなかったが、そのモミちゃんさんは俺の顔を見るなり、ものすごくためらうような表情になった。
 その反応には、なんとなく理解できた。
 別に友達を家に招くなんてことは、まったくおかしくないことだが、俺も姉貴も一人暮らしなわけではない。それも、実家ならまだともかく、弟とふたり暮らししている部屋へ上がりこむなんて、なんとなくだが入りづらいところがあるのだろう。
 俺だってまだ学校の知り合いを家にあがらせたことはない。なのに、姉貴はどうしていきなり友達なんて連れてきたのだろうか。
「は、はじめまして」モミちゃんさんが下手な笑顔であいさつをしてきた。当然俺も丁寧におじぎを返す。
「今夜の料理はなあにかな?」
 姉貴がまだ玄関でそわそわしているモミちゃんさんを放置して靴を脱いで上がりこみ、いつのまにか台所に立ちながらそんな質問をしてきた。
 エビ、チーズ、生クリーム……と並ぶのを見下げながら、姉貴がシンキングタイムに入る。パスタの麺を見ればわかるものと思ったが、フェットチーネ(平たいやつ)だったためか、パスタとは見破られなかったらしい。
「洋風懐石料理?」それは新しすぎるだろ。
「エビのクリームパスタ」
「ほほう、いまから三人分できる?」
「姉貴の分を少し減らせば」
「うん、それなら少し食べてきたから大丈夫」
 姉貴の食べる量と成長期である俺の分を考えて、飯はいつも二人分にしては多めにつくる。いま、はじめて気づいたがこれだと急な来客には合わせやすいな。滅多につかう場面はないだろうが。
 玄関にはまだ靴を履いたままモミちゃんさんが、俺たち姉弟のやり取りをぼっーと眺めていた。
 小柄な体型だが、少し明るく染められた髪はふんわりとセットされていて、薄い化粧が真面目な女子大生らしい雰囲気を出している。姉貴よりはずいぶんと若々しいと思う。
 モミちゃんさんは助けを求めるように「結衣っー」とすでに上がりこんでしまった姉貴の名前を呼ぶが、姉貴はお構いなし完璧に自宅モードになっていた。さきほどの会話からだとモミちゃんさんも一緒に夕飯を食べていく感じだったが、どうなんだろう。モミちゃんさんの方を見てみると相変わらずためらうような表情だったので、こちらとしても固くなってしまう。
「どうぞ、あがって晩飯食べていってください」
「いい、のかな?」
「僕は構わないので」
 緊張しないでください、というのは無茶があるような気がした。
 そんな初対面のぎこちないやり取りを見兼ねてか、姉貴も椅子に座りながら「あがってあがって」とモミちゃんさんを手招きする。どうせなら最初からそうしろ。
「じゃあ、おじゃまします」
 どうして姉貴みたいな面倒くさい人と友達になったんだろうかと、疑問を持ちながらその背中を見送る。いつまでも振り回されないように、モミちゃんさんが姉貴のいい加減さに早く慣れることを願っておく。テキトーな姉ですが、どうか見捨てずに良き友のままであってください、と。


 居間で交わされる女子大生同士の会話を後ろに、俺は味噌出し作業を再開した。
 一度、モミちゃんさんに「手伝いましょうか」と言われたが、来客にこんな面倒くさい作業させるのもどうかと思い、ゆっくり待っていてくださいと丁重にお断りした。
 別に台所という名のテリトリーに入られたくないわけではない。断じてない。むしろ女子大生と楽しくクッキングなんて、俺に強い年上属性があるわけではないが一度はやってみたい。
 もちろん姉貴の方は食い専なので、手伝う素振りなど一切見せない。友達の前だからって「実は私料理もできちゃうんだぞ♪」なんて女子力をアピールすることもない。俺が料理をつくるということがこの家では当たり前なのだ。その関係はもはや崩れそうにもない。
 料理が一段落して、ふと後ろの二人に目をやってみると見事に机の上に置いてあった俺の鞄を漁っていた。「現国の教科書おんなじだったなあ」なんて勝手に思い出に浸られている。なんてこったい。
「なんで勝手に漁ってんだ」
「シュウジ、エロ本が入ってないじゃない」
「あるわけないだろ」
「そっか、時代はネットだよね……」
 そういう問題なのか。
「代わりにしては、ずいぶんと真面目な本を読んでるのね」
 いつまにか姉貴の手にはさきほど放り投げた銀河鉄道があった。ただの日本文学が真面目かどうかはわからないが、どっちみち俺の借りたものでもないし読んでもいない。しかしそんな事実をわざわざ説明するのも何だか面倒くさかった。
「別に、おかしくはないだろ」
「ふーん、でもこれならお姉ちゃんの部屋にあったのに」
 そういえば姉貴の部屋には無駄に本がある。引越しの際やたらと重かった覚えがある。それも芥川龍之介やら太宰治やら川端康成やら古臭い文学ばっかりなので、放縦な姉貴にはとても似合わない。
「姉貴、銀河鉄道の夜って、どんな話か覚えてる?」
 いちおうの確認。これであの本の山がただの置物なら、駅前のブックオフにでも売ってやろうと少し考えた。
「覚えてるっていうか、簡単なあらすじくらいなら説明できるわよ。貧乏な主人公がいつのまにか眠ってしまって汽車に乗って宇宙を駆け巡って、起きて祭りに行ったら親友がクラスメートを助けて死んだ、みたいな。あ、モミちゃんはこういうの詳しい?」
「私もそんな感じにしか覚えてないよ」
「えー、だってモミちゃん文学部じゃん」
「べつに国文科とかじゃないし」
 予想以上に大学生ふたりのあいだでその本の話が盛りあがって、一般人はこれくらいの知識は当たり前に持っているのだろうかと少し不安になる。姉貴のあらすじはよくわからなかったが。
 正直、俺は中学の授業で習ったはずだが、部分的にしか覚えていないのだ。そもそも教科書に全文が載っていなかったのかもしれない。前坂の言ってた話だとそこまで長くないみたいだし、一度読んでみるべきか。しかし読む目的が自分でもよくわからない。普段読書という習慣がない俺は何か本を読む場合、明確な理由がないと読みきる自信が湧かなかった。
 やっぱり明日、前坂に会ったら突き返そう。
 机の上でいじられっぱなしだった俺の鞄ちゃんを救出して、代わりにできたてホヤホヤのクリームパスタを3皿並べた。3皿並べること自体は、別に珍しいことではなかった。いつもおかわり用として1皿に余剰生産物を盛ってるからだ。しかしやっぱり3人で食べるのは珍しいことだった。
「いただきます」
 3人、声を揃えて言う。
 何気に3人共、そういう食に対する礼儀正しさは同じだったらしい。

 ○

『銀河鉄道の夜』という本が、俺が予想してた以上に鈴村にとっては関係性の深いものなのかも知れないと、その日思わされることになった。
 教室に入ると自分の席で本を読んでいる鈴村の姿があった。もちろん、鈴村の前の席では天原が向かいあうように座っている。すでにそれはこの一年一組にとっての日常の風景だった。
 本を読みながら彼氏の話を聞くなんて、相変わらず器用なことやってんな。3人の話を同時に聞く聖徳太子じゃあるまいし。何にしろ、ふたりの関係は、さほど大きく変わっていないようだった。
 しかし、それよりも気になったのが鈴村が読んでる本だった。遠くから表紙が目にはいっただけだったが、それでもそれが何の本なのか、俺は一瞬にしてわかった。
 それはというのも不思議な感覚だが、それと同じ本が俺の鞄のなかにも入っていたからだ。もっとも俺が借りたものではなく前坂にいつのまにか突っ込まれたものだが。

『銀河鉄道の夜』

 ひとつ違う点をあげるとすれば、鈴村の本の表紙には学校の貸し出しシールがついていないというところだろうか。つまり、この前は学校で借りて読んでいた本を、鈴村は今度はわざわざ買って読み返しているということだ。
 後になってその本はブックオフで100円で購入されたものだとわかったが、値段や古本という事実はともかく、読書の習慣のない俺にとっては、同じ内容の本を読み返したいという気持ちがよくわからなかった。まあ、それだけ気に入ったということなんだろう。いわゆる愛読書のようなものだろうか。
 もともと読書量の乏しい俺は愛読書なんてそんなものがないから、なんとなくそういうものをみつけた鈴村がとても知的に思えた。
 前坂の言っていたとおり、鈴村にこの本の話題を振ってみれば案外会話に華が咲くかもしれないな。俺はいまさらそんなことする気もないけれど。
 そんな鈴村の前で、俺は全く同じ本を鞄のなかから取り出すわけにもいかなく、仕方なく鞄を持ったまま再び一組の教室を出て、前坂の教室に向かった。もちろん、この本を突き返すためだ。
「前坂」
 他のクラスの教室に行くことなんて滅多にないものだから、少し緊張しながら俺は二組の教室にはいった。前坂は教室の中心で囲まれるように座っていて、苦労せずともみつけることができた。どちらかというと人をかき分ける方が大変なくらいだ。人気者なんだな、こいつは。
「ん? どうしたの? 芝野くんの方から来るなんて珍しいね」
「どうしたのじゃない。こんなもん、どさくさに紛れて突っ込みやがって」
「おお、どこに行ったかと思ったら芝野くんのところに遊びに行ってのか。悪い本だな、このっ」
 前坂が本を受け取ってぽんっと一度表紙を叩いた。確信犯が何を言ってるのやら。
「芝野くん、中身読んだ?」
「そんな時間なかった」
「そっかあ」
 もしかして俺に読ますために突っ込んだろうか。それなら直接読んでとでも言ってくれたらいいのに。
「ちゃんと自分で返却しろよ」
「うんうん、分かってますって」
 いつのまにか、二組の教室中の視線が俺に集中していた。「誰だ」と言わんばかりの視線だ。別に敵とは見なされていないようだったが、それでもあまり長くここに居続けるのは申し訳ない気がしたし、俺だって居心地が悪い。
 用事は済んだことだし、さっさと去ろう。
「んじゃ」
「ちょっと待って」
「……なんだ?」
「用事ってこれだけ?」
「そうだけど」
 あの本を前坂がどういう目的で俺の鞄に入れたのかはわからないままだったが、俺は別にあの本を読むこともしなかったし、これ以上前坂に伝えることはなかった。
「まあ、ひとつ言うとすれば……」
「うんうん、なになに?」
 どうしてそんな嬉しそうな顔をするんだ。俺になにを期待している。
「お前が思ってる以上に、鈴村はその本、好きかもしれないぞ」
「へー、……え?」
「んじゃ」

 ○

 梅雨前の3日間の中間試験は、あっさりと終わった。
 最終日の最終科目のテスト終了を告げるチャイムが鳴ると同時に教室に響く「終わったー」の合唱は全国共通のものなんだな、なんてことを確認し、試験が終わったその帰り、俺は坂本と押見のいつもの顔ぶれと息抜きと称し、少ない財産でマクドへ乗り込んだ。
「死ぬー」
 なぜか押見は現在形でずっとそう言い続ける。
 テストの内容が「死んだ」ならともかく、なぜ押見が現在生死の堺を彷徨っているのか、よくわからないまま俺はしおれたポテトをぼちぼちと消化する。
 ちなみに、自慢ではないが俺は今回の試験、なかなかの出来だったと思っている。
 高校に入ってはじめての試験だから、周りの連中がどれくらいのレベルか定かではないところがあるが、それでも平均を下回ることはないだろう。スタートダッシュにしては悪くないはずだ。
「坂本はどうだった? 試験」
 むしろ今まで何を話していたんだと突っ込まれるくらいの今更な話題を坂本に振ってみる。
 現在形で「死ぬ」などと机に突っ伏しながら連呼している押見に勉強で張りあっても何の意味もないので、勉強のことは坂本だけに尋ねるようにしている。
 そんなぐったりしている押見をニコニコと眺めながら、少し迷うように坂本が口を開く。
「まあまあ、だったかな。どうしても数学は自信がないんだけど」
 コーラの入った紙カップを手にしてから「暗記系は得意なんだけどな」と付け足す。
 坂本は真面目なタイプだから、成績も悪くないことくらいは知っている。勉強面ではクラスの中で一番身近なライバルだと俺は思っている。もちろん、坂本の方はそんなことまったく意識していないかもしれないが。
「どうせ俺は全部自信ないよ……」
 そうぼやきながら押見が俺のしおれたポテトを奪って食う。わざわざお前には話題を振らないでおいたのにどうして自分から首を突っ込んでくるんだと思うのと同時に、ポテトを奪われたことに無性に怒りを感じた。
「自分の分があるだろ、自分のを食え」
「どうせシバノンも自信あるんだろ。“俺、ノーベンだわー”とか言っておきながら満点取るやつなんだろ」
「それとポテトは関係ないし、そもそも俺は“ノーベンだわー”なんて言ってない」
 押見の前では勉強の話は一切すべきではないということを再確認して、結局そのあとはどうでもいいような話をぐだぐだとした。
 押見が一ヶ月以上先の夏休みの予定について意気揚々と話しだしたが、夏休みの手前にある期末試験の存在なんか、こいつの頭にはキレイさっぱり消えているんだなあと思った。要するにアホだなあと思った。
「男三人で華がないねえ」
 いつのまにか昼のピークも過ぎて店内の客も減った頃、そんな風に俺たち三人に声がかかった。いきなりその言い方は失礼なんじゃないかとも思ったが、事実でもあったため俺は黙ってその声の主を確認した。
 俺と同じく確認した押見が試験の話をしていたときのような溜息をつく。
「なんだ、新谷か」
「なんだとはなんだ」
「どうせお前がはいったところで華なんて咲かないよ」
「こいつは何様のつもりなんだろうねえ」
「痛いです。冗談です」
 新谷の失礼を失礼で返した押見が、新谷に髪を引っ張られる。そういう発言は通路側の席に座ってない時にするべきだと思ったが、新谷なら腕を伸ばしてでも制裁を下しそうだな。
「新谷はいま来たところなのか」
 試験もあったためか、明るい色が落ちて髪がちょっぴり伸びた新谷は不思議と真面目っぽさが増してみえた。肩にはまだ薄い鞄がかかってある。もしかしたら今から帰るところなのかもしれない。店内にいたならば声が聞こえてきてもおかしくないはずだが。
「そそ、いま帰りで寄ったところ。そんで地味ーズ三人をみつけた」
「悪かったな、ジミーで。ところで、なんでこのタイミング?」
 帰りの寄ったと言われても、このタイミングでは少し不自然な気がした。何せ試験が終わったのはいまから一時間も前のことだ。その間、なにをしていたかという空白の一時間が出来てしまう。
 ということになると俺たち地味ーズはファーストフード店で一時間近くも無駄話をしていたことになるが、カラオケに行くような金も持っていないから仕方がない。たしかに地味だな、この試験後の息抜きの仕方は。
「なんでって、学校で部活やってたんだよ。少しだけだけどね。いまも文芸部のみんなと来たところ」
「あー、なるほど。ぶ……」
 ぶ……部活はまあ、納得した。しかし、部活名をなんと言ったか。
 ぶ……文芸部?
 思考が停止しそうになりながらも俺はポテトを摘もうとしていた右手を急遽ルート変更し、新谷を指さした。
「文芸部?」
「そう、文芸部だけど」
 失礼な話だが、本当に失礼な話だが新谷のことを完璧に体育会系だと思っていた。俺にどういう偏見があったかは詳しく言わないが、新谷の活発そうなイメージは俺の脳内の運動部女子と見事にシンクロしていたのだ。まさか文芸部員だなんて、俺にとっては驚愕すぎる事実だ。
「あれ、初知り?」
「初知りだ」
「あれ、結構絡んでるんつもりなんだけど、そういう話全然してなかったっけ」
「全然」
「そっか、私は芝野が帰宅部だって知ってるよ」
「そりゃどうも」
 別に絶対に知りたいと思っていた情報のわけではないけれど、部活のことくらい2ヶ月も同じクラスにいたら耳に入ってもおかしくない情報なのに、俺は意外とそういうことに鈍いのだろうか。
「お前ら、知ってた?」
「うん」
「知ってる」
 坂本も押見もなにを今更という表情だった。やっぱり俺は鈍いらしい。
 新谷は文芸部の人に呼ばれて奥の6人席の方へと消えていった。俺たちもポテトLとジュースMを注文しただけで1時間以上居座るのもそろそろ申し訳なく思えてきて、昼下がりマクドを出た。
「ゲーセンでも行くか」
「金がない」
「じゃあ、帰るか」
 それが賢明な判断だった。3人ともまだバイトに関してはなにも考えていない。
8, 7

  



 ○

 いつも本鈴の15分前に学校に着く。
 警報寸前の大雨が降っても、信号に運悪くたくさん引っかかっても、それが大きくずれることは少ない。押見はそんな俺を「変にまじめなやつだな」と言ったが、こういうのは規則正しい方がいい。俺がそう言うと押見は「お前絶対A型だろ」と言ってきた。その通りだ。
 その日もいつもの時間に学校に着いた。
 しかし、珍しいことに教室にはまだ押見の姿も坂本の姿もなかった。自慢ではないけれど、クラスに話し相手が多い方じゃない。周りのやつらもいつものメンバーと駄弁っているし、いまさら割り込むわけにもいかない。
 鈴村は俺の前の席でひとり、今日も本を読んでいた。確認はしてないけれど、たぶんいつもの本だ。試験も終わったから、元通り授業も始まったし部活も始まった。天原はたぶんサッカー部の朝練にでも行ってるんだろう。このクラスではすっかりおのろけキャラのイメージがついてしまったけれど、あれでもサッカー部では期待の一年生で、試合にも3年生に混じって何回か出ているらしい。羨ましいほどの青春っぷりだ。
 横を見ると新谷までもが本を読んでいた。こいつが読書している姿なんてはじめて見たけれど、そういえば新谷は文芸部なんだっけと、昨日知ったことを思い出す。
 すると俺の視線に気づいた新谷が、一度確認してからにやっと笑顔を浮かべて、本を閉じた。もしかして、わざとだったのか。
「文芸部って、やっぱ小説とか書くのか?」
 なんとなく気になっていたことを聞いてみる。
 新谷は少し驚いたような顔をしたあと、「そのイメージはちょっと単純すぎない」とまた笑った。
 そう言われると、たしかにそのイメージは決めつけすぎな感じがした。しかし文芸部というのがどういう活動するのか、俺はよく知らなかった。
「じゃあ、どういうことするんだ?」
「たしかにそういう創作活動する人もいるけど、だいたいは本の紹介文書いたり、同じ本を読んで感想を言い合ったり、そんな感じかな」
「へえ、いろいろしてるんだな」
「そうだ、芝野くん、一度部室来てみない?」
「は? いきなりなんで」
「今日の昼休み。案内するからさ」
「いや、俺、部活は入る気が……」
「まあまあ、そう言わず。一度だけでも、ねっ」

 ○

 結局なぜか、俺は文芸部室の前に立っていた。
 普段は立ち寄ることのない主に小規模文化部の部室が集まる旧校舎。昼休み、弁当を食い終わると新谷が半ば強引に俺をここへ連れてきた。
 連行されようとする俺を、いつものように一緒に飯を食べていた坂本と押見は「この裏切り者め」という視線で睨んだけれど、できれば助けてほしかった。どうも部活というものと関わるとろくなことがないような気がするのだ。それは中学の頃の思い出のせいだろうか。
「あの、新谷……」
「まあまあ、そう言わず入ってっちょ」
 扉の前で躊躇する俺の背中をさっさと開けてと言わんばかりに新谷が押す。
 教室のものとは違う木製の扉。「文芸部」というプレートが機械的にぶら下がっている。とりあえず言われるがままにその扉を開けてみて、中を覗いてから俺は思わず立ち止まる。
「えっ、誰もいな……」
「入って入って」
 またしても強引に背中を押される。部室に入った瞬間、少し黴臭いが鼻をついた。
「ようこそ、文芸部へ」
 窓を開けながら新谷が歓迎する。もしかしてさっきまでの「入って」は部屋に入ってじゃなくて、文芸部に入ってだったんだろうかなんて思う。窓を開くと風がたくさん入ってきて、一気に室内が涼しくなった。ついでに黴臭いも吹っ飛ぶ。
「だから部活に入る気はないって。というか、誰もいないのか」
「基本は昼休み活動なんだけどね。いまは特に忙しい時期でもないから、自由参加」
 じゃあ、なんで俺を連れてきたんだろう。活動もしていないんだったら、勧誘もなにもないだろう。
「まあ、ゆっくり見学でもしていって」
 新谷はいつのまにかノーパソを部屋の奥に置かれた机の上で広げていた。
 部室を見回してみると、教室とは違い、ずいぶんと狭かった。部屋の両脇を本棚が固めているから、なおさらそう感じるのかもしれない。部屋にはその他に長机がふたつとパイプ椅子がいくつかあって、部室というよりかは小さな会議室のようだった。
「いつもここで活動しているのか」
「まあね。時々図書館で作業することもあるけど」
 本棚を見てまわると、文庫本やハードカバー本だけではなく、雑誌のようなものもあった。中にはなぜか図書館の貸出シールがついたものまでも置かれている。
「それは図書館で処分になった本をもらってるの。あと、そこに『北高だより』っていうのが並んでるでしょ」
「ああ」
「いまの一年生はまだ知らないけど、学期の終わりに配られる校内誌で、文芸部はそこに書評とか載せてもらってるの」
「へえー」
「学期末に配られるもんだから、一年生はたいてい文芸部がなにやってるかなんて知らない人が多いんだ。その証拠に今年の新入部員は私はひとり」
「そうなのか」
「一つ上が二人で、3年生も2人。ギリギリでやってるって感じ」
「そんなこと言われても入らないぞ」
「あちゃー、残念。乗っ取るって選択肢もありだよ」
「乗っ取る?」
「SOS団結成ってね」
 ああ、そうですかと俺は笑ってごまかす。新谷はあの寡黙な宇宙人ポジションにしては、ずいぶんとおしゃべりだ。
 その後のしばらくはお互い黙ったままで、二人だけという気まずさもあって教室に戻らせてもらおうかと思い始めてところに、本棚のなかに『銀河鉄道の夜』をみつけて思わず手にとってしまった。
 この頃よく見るな、この表紙。いまだに中身を読んではいないがな。
「さいきんずっとそれ読んでるよね、鈴村さん」
「あー、知ってたのか」
「うん。あの子、中学の頃からそれ好きだったし、……いまの彼女にとっては物語の意味が変わってしまったかもしれないけど」
 俺は本を手に持ったまま、驚いて新谷の方を向いた。いま、こいつはなんて言った? なんで鈴村を昔から知っているような言い方なんだ。
「中学、同じなのか?」
「そう。ついでに同じ吹奏楽部。ついでに仲のいい友達……だったよ」
 楽しそうだった新谷が、言葉の途中で寂しそうな表情になった。そんな表情の新谷を見るのははじめてだったから驚いたが、それよりも新谷の言葉は驚愕の事実だらけだった。
「……冗談だろ」半ば同意を求めるように、少し笑いを混ぜてそう聞いたが、あっさりと否定される。
「ほんと」
「だって、いま全然仲良くなんかないじゃないか」
「だから、『友達だった』って言ったでしょ」
 言葉を失って、しばらくその場に立ち尽くす。本を持ったままの右手をだらんと下におろして、新谷の言葉をなんとか整理しようとした。
 新谷もいつものように笑顔なんて浮かべておらず、とても嘘を演じ通してるようには見えなかった。いったい、どうなってるんだ。
「……喧嘩でもしたのか」
「喧嘩とか、そういう理由じゃないんだよ。ただ私と楓の他に、もう一人仲のいい紗季って子がいて、同じ吹奏楽部でいつも三人で一緒にいた。その紗季が転校して……」
 楓というのが鈴村だということに気づくのに少し時間がかかった。そして下の名前で呼んでいたほど仲がよかったということが伝わってきて、不思議な感じがした。
「それから、あまり付き合わなくなった……?」
「ううん、それからもよく二人でいた。信じられないと思うけど、中学の頃は彼女、すごくおとなしくて、でも優しくて、目立つような子じゃなかったけど、誰にでも笑顔でこたえるような子だったんだよ」
 たしかにいまの鈴村からじゃ想像もつかないな。だけど逆にどうしていまのようになってしまった?
「じゃあ、なにがあったんだよ」
 そう聞いた瞬間、懐かしむように話していた新谷が俯いた。あまり話したくない過去なのかもしれない。いまの鈴村の様子と比べれば、なにか深刻なことがあったに違いない。それでもここまで話されたら、聞かずにはいられなかった。

「紗季が、転校先の学校で飛び降りたんだよ」

 校庭の見える窓から風が吹きつけ、少し伸びた新谷の髪をゆらした。それはたしかにゆれ動いていたのに、その瞬間、俺はなんだか時間が止まったような妙な錯覚に陥った。
 その事実を、いままで感じてきた疑問と結びつけようとしたが、結局途中で思考が止まってしまった。それは、想像もできないような現実だったから。途方も無いような現実だったから。
「もちろん即死だったよ。遺書もきれいにあった。毎日が辛い、クラスメートが憎い、ってね。さいしょ聞いたときは信じられなかった。だって紗季は気の強い子じゃなかったけど周りに溶け込めない子じゃなかったし、私たちの前ではいつも明るかったし、絶対なにかの間違いだって思った。でも、県外まで葬式に行って、マスコミの群れを見て、同じ年頃のやつらを見て、こいつらが殺したんだって思ったら、はじめて人を殺したいって思った。たぶん、紗季が死んだことを認めたくなかったから、でも、なにもできなかった。紗季は本当に死んでたから……。それからだよ、楓と話さなくなったのは。私とだけじゃない、誰とも話さなくなった」
 いじめが原因で生徒が自殺したなんてニュースはテレビや新聞で見てきたけれど、そのどれが新谷のいうものかはわからなかった。あまりにも、それは多すぎるから。
 ただなんとなく見てきたそれらのニュースが、急に憎らしくなってきた。この感情は偽善なんだろうか。関係ない人間の死を悲しく思うのは、偽善なんだろうか。いまの俺には、なにもわからなかった。
「芝野くん。黙られると、辛いよ」
「……悪い」
 言いたいことや聞きたいことはたくさん頭の中にあったのに、言葉に出ないんだ。あんなちっこい鈴村やいつも笑っていた新谷がこんなことを抱えていたんだと思うと、なにも言葉にならないんだ。
 近くにあったパイス椅子に、腰をおろす。軋むような音がする。背もたれに体重を預けて顔を上げてみると、新谷はいつのまにか校庭の方を向いていて、その表情は見えなかった。
「どうして、急に話してくれたんだ」
「急に、じゃないよ。ここに誘ったときから話そうと思ってた。いつか話そうと思ってた。それが今日」
「どうして、俺なんかに……」
「芝野くんだからだよ。鈴村さんは責任を感じてる。私はケータイ持ってなかったけど、彼女はずっとメールとかで頻繁に連絡とってたから、自分が救えなかったんだって。ずっと、いまもずっと思ってる。私だって、電話でよく話してたっていうのにさ、救えなかったのは私もなのに、自分一人のせいだって、ずっと思ってる」
 新谷がこっちを振り返った。当たり前のように、涙が頬をつたっていた。彼女の声を聞いていれば、それは簡単にわかることだった。
「芝野くんが、救ってあげて。私はもう、彼女から遠くなりすぎちゃったから」
「……だから、どうして、俺なんだ。あいつには天原がいるだろ」
「あんなの、彼氏彼女じゃないよ。天原は美人の彼女つくって自慢したいだけだし、鈴村さんだって見てれば全然興味ないのがわかる。
たぶん天原と付き合って敵を作りたかっただけなんだよ」
「敵?」
「天原くんのこと、好きな女子多いから。きっと鈴村さんに嫉妬してる娘多いと思う。なんとなくわかるんだよ。彼女、きっと“ひとり”なりたいんだよ。無愛想な態度だってそう。あの自己紹介だってそう。結果的に注目されるようになったけど、みんなに距離を置かれたくてしたことだと思う。そうやって、紗季と同じ立場になろうって……」
「そんなの意味ねえよ!」
 自分でも驚くほど大きな声が出て、新谷の言葉を遮った。右手に持っていた『銀河鉄道の夜』は強く握り締められ、S字を描くようにゆがんでいる。その手から、力が抜けなかった。
「そう、意味なんかないんだよ。私も中学の後半、学校サボったり、髪を染めたり、不良ぶって周りと距離をとろうとした。でも、意味ないんだよ。誰もそんなの望んでないし、誰も得しないし、償いなんかじゃないんだよ」
「……もう、新谷、お前には無理なのか」
「私は、なにもできなかった。ずっと」
「俺にだってなにができるか、わからない」
「それでも、私は鈴村さんに、楓に戻ってきて欲しい」
 そこではじめて俺は新谷が鈴村の呼び方を言い分けているのに気づいた。そうか、彼女の中では鈴村楓は変わってしまったのか。。
 俺は変な形のついた本を机の上に置いて、黙って部室を出た。扉を閉めた後、部屋から新谷の泣き崩れる音が聞こえた。俺になにができるって言うんだ。誰に文句を言うわけでもなく、慣れない旧校舎を歩く。
 どうも、この世界は壊れている。


 ○

 その日の午後の授業は、前の席も横の席もあまり見ることはできなくて、授業終わりのチャイムが鳴る度に逃げるように席を離れた。
 今日は高校生活始まって以来、もっとも楽しくない一日になりそうだ。
 人間はいろんなことを知って、そうやって前へ進んでいく生き物だけれど、なかには知らない方がいいことだってあるに決まっている。ただ今回のことが知らない方がよかったことなのか、それは自分ひとりじゃ判断できそうになかった。きっとこれから先の俺の行動で、その答えは変わるものなんだろう。
 一度聞いたことは簡単に忘れられることができない。人間の頭はそんなに簡単にはできてないからだ。いや、そういう機能を持っていないだけなのかもしれない。どっちにしたって、今更なかったことになんかできやしないのだから、俺は授業中、頭のなかを整理するとともに「逃げる」という選択肢を黒いマジックペンで塗りつぶして消した。
 新谷はその日、それ以上話しかけてくることはなかった。周りにはいつものように、何もなかったように振舞ってはいたけれど、俺だけはいつものように彼女を見れなかった。
 だって、あんな表情の新谷を見たのははじめてだったんだ。
 普段の彼女からまったく想像もできないけれど、あのときの新谷の表情はいまでも俺の脳裏にくっきりと焼きついている。
 前も横もリラックスして見れない俺は逃げるように窓の外に目をやる。いつのまにか外はぱらぱらと雨が降っていた。天気予報どおりの“晴れ後雨”だ。
「シバノン帰ろうぜ、さかもっちゃん今日部活だってよ」
「悪い、今日は先帰るわ」
「えっ……」
 放課後、押見の誘いを断って、あらかじめ持ってきていてた紺のレインコートを、鞄から取り出して羽織る。
 こんな天気の日に、急いで帰ったって下手に濡れるだけだが、それでも坂を駆け下りるように自転車で走った。

 ○

 新谷は鈴村にとって『銀河鉄道の夜』の物語の意味は変わってしまったとあの時言っていた。姉貴は『銀河鉄道の夜』は親友が死ぬ話だと簡単に説明した。
 それは、鈴村が物語の主人公に自分を重ねあわせたということなんだろうか。だから作品の見方が変わってしまった?
 そんなことを確かめるには自分で一度読んでみるのが一番手っ取り早い。そう思い、姉貴の部屋に勝手に忍びこみ、本棚から『銀河鉄道の夜』を取り出す。部屋にはいろんなものが散らかっていたが、一気にそれらを片付けたいという条件反射的衝動を押さえて、居間に戻る。
 勝手にはいったことは申し訳ないが、姉貴もよく俺の部屋に勝手にはいってくるから、まあ許されるだろう。本以外には別になにも持ち出していないし(ベッドの上の下着らしきものとか)。
 姉貴の持っていた本は学校の図書館に置いてあったものや、鈴村の持っていたものとは違う表紙だったが、おそらく内容は同じ『銀河鉄道の夜』だろう。
 軽くページを確認してみると、短編とは言え、それなりにページ数があって、少し不安になる。
「今日中に読み切れるか? これ」
 断片的に読んでみようとも思ったが、意味がわからなすぎてやめた。諦めて最初から読もう。
 俺は遅いスピードながらも文字を追った。不慣れながらも必死で文字を追った。


 いつのまにか眠ってしまっていたらしく、目を開けると俺を起こす姉貴の姿があった。
 服装を見る限り、いま帰ってきたところらしい。相変わらず化粧は薄いけれど。
 固い机の上で腕を枕にして寝てしまっていたためか、ものすごく腕が痺れている。動かすのさえ大変だ。ああ、変な寝方したなあ。
「シュウジ、夕飯は?」
「……ごめん、つくってない」
「なっ……」
 その時見せた姉貴の表情は、世界が滅んでしまったんじゃないだろうかと思うような絶望的な表情だった。
 夕飯もつくらず本を読み始めて、そのまま寝てしまったから、夕飯は本当になにも準備していない。
「慣れない読書なんてするから居眠りしてしまうんだよ……シュウジは黙っておいしい料理だけつくってればいいんだよ、このバカ……」
 それはどういう侮辱だよ。確かに慣れないことして疲れてしまったけどさ。本当に姉貴は一日を飯のために生きているんだなと少し申し訳ない気持ちになる。
「悪かったって、いまからつくるから」
「いまからじゃ遅いよ、その前にお姉ちゃんは死にます」
「じゃあ、台所下にU.F.O.あるから」
「オッケー!」
 ぐったりとなりかけていた姉貴が蘇生したようにパッと起き上がり、慣れた手つきでお湯を沸かし始めた。どれだけ好きなんだ、カップ焼きそばが。これでは自分の手料理に価値を感じられなくなるじゃないか。
 それにしても俺も随分と姉貴の扱いに慣れたもんだ。なにもかもこれくらい単純だったらいいのに。

 ○

 翌朝、長らく続いていた俺の約15分前登校記録がついに大きく崩れた。
 とは言っても、遅刻をしてしまったわけじゃない。なぜかその日いつもより大幅に早い、30分前に学校に着いてしまった。
 いつもより少しだけ早く家を出ただけなのに、こんなにも早く着いてしまったのは通学路にも慣れてしまったからだろうか。いまではもう多少の考え事をしながらでも道を辿れるようになった。自転車だからぼっーとするのは危ないのだけれど。
「おっ、シバノン今日は珍しく早いな」
 早く学校に着いてしまったけれど、押見や坂本の姿はすでに教室にあった。押見にこんなことを言われ方をするのはちょっぴり屈辱だ。というか、こいつら、いつもこんな時間に来ているのだろうか。
 いつもより少し早く着いても、特にやることは変わらず、いつものように三人で席を固める。
「なあ、もしも俺が死んでもさ、お前らふたりは友達のままか?」
 三人でいつものように話をしていて、少し話のネタも尽きてきた頃、ふとそんなことを聞いてみた。
 それは昨日、新谷から話を聞かされてから気になっていたことだったが、そんな事情を知るはずもない押見と坂本にとっては、ただただ不自然な質問にしか聞こえなかっただろう。
 それも、いつもはバカな話ばかりをしているのだから、こんな深刻な“もしも”の話はおかしすぎる。それでも俺は聞いてみたかった。
「なんだよ、シバノン急に。余命何ヶ月とでも申告されたのか? 昨日だって一人で帰っちゃうしさ」
「いや、そういうわけじゃないんだが、その、なんとなく気になっただけだ」
 押見にあまり深い疑いはかけられないように適当にはぐらかす。それで一応の納得はしてくれたみたいだった。
「別に俺はさかもっちゃんとは友達のままだと思うぜ」
「えー、僕はちょっと距離取るよー」
「なんでだよっ」
「だって、一緒にいたら死んだシバノンのこと思い出してしまって悲しくない?」
「バカ、逆だよ、逆。死んでしまったシバノンのこと一番話し合えるのはさかもっちゃんくらいなんだから、俺は一緒にいるね」
 ふたりの意見はまったく逆だったけれど、それでもこいつららしいな、と聞いてて思った。でもこいつらの“もしも”は、きっと俺の思っている“もしも”とは違うんだろうな。あくまで病死や、事故死の想定だ。
 やっぱりいつまでもこんな話をするのは俺たちらしくないと思い、またテキトーな話でもしようかと思っていると、一気に教室が騒がしくなった。
「なんだ?」
 まだチャイムまでは時間もあるし、特に慌てだす時間ではない。気になって周りを見てみると、後戸の方にクラスメートたちの視線が集まっていた。
 その注目の的は鈴村だった。まあ、こいつなら納得というかなんというか。
 いまさら鈴村が入ってきたくらいでべつに騒ぎ立てることはない。しかし、その日鈴村に注目がいくのには納得できるちゃんとした理由があった。
 鈴村があの長かった黒い髪を、バッサリと切っていたのだ。
 それも本当に刀で斬られたかのように後ろ髪がきれいに直線に揃っている。後ろ姿だけでは一瞬で鈴村だと判断できないほどの変わり様だった。
「しかし、まあ、あれもアリだな」
 押見がこぼすようにそう口にする。
 それにはいちおう同意はするが、なんであいつはまたあんな大胆な行動するんだろうか。

 ――彼女、きっと“ひとり”なりたいんだよ。

 新谷の言葉が一瞬思い出されたが、すぐに頭のなかで打ち消す。これでは全然逆じゃないか。鈴村の行動は注目を集めるばかりだ。
 昨日のことを思い出すと気になって、新谷の席に目をやったが、新谷はまたいつものように笑みを浮かべていた。少しでも心配した俺がアホだったのか。
 いったいなにが楽しいっていうんだ。

 ○

 次の日も、新谷とはいままでのように話すことはできなかった。
 そして今日も、空は雨模様だった。本格的に梅雨にはいったらしい。自転車通学者にとっては結構な困り物だ。
 新谷とギクシャクしてしまったのはお互いの間にいろいろな考えや思いが交錯しすぎてしまっているからだ。そのことはお互い理解しているのだけれど、解決方法がわからないから、どうしようもない。それが余計にもどかしい。
 新谷は俺に鈴村を救うヒーローになってくれと頼んできた。きっとそれにきっちりと答えれば、いっそのこと断ってしまえばいいのだろうけれど、不思議と変に俺自身が諦めきれないんだ。
 そんな複雑な思いに似たものを、俺は鈴村に対しても持っているが、それは新谷とは違って一方的なものだから、鈴村の俺に対する態度はいつもと大して変わらなかった。
 だからこそ、こいつに話しかけにくいんだ。それでも伝えない要件ができてしまった。俺たちは共通の役目を背負っているからな。
「なあ、鈴村」
 放課後。天原が鈴村になにか話しかけているところ申し訳ないが、後ろから呼び止める。
「なに?」
「今日、クラス委員会あるんだって」
「いつもと曜日が違うじゃない」
「そうなんだけど、今日は緊急かなんかで。文化祭のことでなんかあるみたいなんだ。いま連絡来てさ」
 北高の文化祭は一学期末にある。受験生に配慮した時期なのかもしれないが、俺たち1年生にしてみれば忙しいだけだ。そもそも俺はクラス委員になったとき、文化祭の仕切りまでやらされるとはまったく聞かされていなかった。
 俺はついさっき前坂から送られてきたメールの内容を鈴村に説明する。あいつ、鈴村のメアドも知ってるんだからそっちにも送ればいいのに。なんで、わざわざメールの最後に「鈴村さんにも伝えてね」なんて書いてあるだよ。
「そうなんだ」
「文化祭か、もうそんなこと考えないといけないとか大変だな」
 一緒に話を聞いていた天原が感心するようにそう言う。いまから、鈴村と帰りところだったかもしれないから、少し申し訳ない気がしないこともないが、鈴村に用事ができたということを説明する手間が省けてよかったということにしようか。
「ねえ、委員会まで、もう時間ない?」
 いつもならパパっと委員会に直行する鈴村が、はじめて開始時間を気にした。
「いや、まだ時間あると思うぞ」
 集合時間は特に聞いていなかったが、いつも遅刻だらけの委員会だから、あまり時間を気にすることもないだろう。
「そう、よかった。天原くん、少し話があるの」
 鈴村がそう言った瞬間、天原だけじゃなく周りにいたやつらまでもが反応した。もちろん俺も目の前のふたりを瞠目して見つめた。
 鈴村は天原のこと「くん」付けで呼ぶんだな。俺は苗字すら呼ばれた覚えがないけれど。
 しかし、こいつにあまり期待しても、たいていはとんでもないことになる。そんなこと、頭のなかではある程度理解できているのに、いつも忘れてしまうんだ。
「な、なんだ? 鈴村から話なんて、はじめてだな」
「私たち、別れましょう」
 やっぱり、こいつに期待したらダメだ。
 2週間ほど前に告白をしてきた相手に、鈴村はあっさりと別れを告げた。いつもの喜怒哀楽のよくわからない整然とした表情で。


 呆然としながらも納得のいかないような声をあげていた天原に、鈴村は「委員会があるから」とだけ言って、やっぱりパパっと教室を出て、視聴覚室に直行した。
 委員会まではまだ時間があるはずだったが、俺がふたりのあいだを引き止めることもできるわけなく、仕方なく俺はそのちいさな背中と短くなった後ろ髪を追いかけて視聴覚室にはいった。
「あら、今日も一組は一番ね」
 視聴覚室にはすでに、いつものように資料をそれぞれの机にならべている先輩の姿があった。なぜかいつもの俺達はクラス委員のなかで一番にこの視聴覚室に入る。それは最初のときも、鈴村がわざわざ少し時間をとって別れ話をしてきたときも、変わりはしないらしい。
 ほら、やっぱり今日だってまだまだ時間に余裕はあったって言うのに。新谷の言うとおり、元々鈴村は天原に興味がなかったのかもしれないが、あれではいくらなんでも天原が可哀想すぎるだろ。
 俺はいつのまにか顔馴染みになってしまった先輩に軽く会釈をして、鈴村と一緒にいつもの席に座る。またこいつがあの本を取り出す前にいろいろと訊いてみよう。
「髪を切ったのは、別れ話をするためだったのか?」
 なんとなくそんな話をどこかで聞いたことがある。女にとって髪っていうのは男が思っているよりも大事なもので、それをばっさりと切る時は強い覚悟を決めた時だ、と。
「髪は長くなったから切りたくなっただけ。別れを切り出したのは別れたくなっただけ」
「そ、そうか。さいきん蒸し暑いもんな」
 別に、そういうわけでもなかったわけだ。というかなにテキトーなこと言ってんだ、俺。
 それ以上は話すこともなく、机に肘でもついていると「本、読んでいい?」と鈴村が尋ねてきた。
 俺に読書の許可を求めているわけではないだろう。ただ単に本を読むからこれ以上話しかけるなってことなんだろう。
「いや、もうひとつだけ聞いていいか?」
「なによ……」
 鈴村にあからさまに嫌な顔をされる。いや、それでも昨日からひとつ聞いておきたかったことがあるんだ。
「その本、好きなのか?」
 鈴村がずっと持っている本、『銀河鉄道の夜』。そのストーリーは俺の頭のなかにまだ残っている。昨晩読んだばかりだからだ。
「この本?」
「ああ、さいきんいつも読んでるだろう。俺も読んだことあるからさ」昨日読んだのだけれど。
「別に……好きとかそういうわけじゃない」
 そう言って、言葉に詰まるように鈴村は少し目を伏せた。好きというわけではない、それでも読むのはやっぱりいまの鈴村にとって大きな意味を持っているからなんだろうか。
「カムパネルラはさいご、死んでしまうでしょ」
「ああ」
「私もね、昔、親友が死んだの」
 その瞬間、一瞬にして自分の肩に力がはいったのがわかった。思わず声をあげてしまいそうなほどの圧迫感が全身を襲う。
 まったく理解できなかった。
 どうしてこいつは、こいつらは、そんな簡単に他人に話せることができるんだ。過去の出来事と決めつけているからか? それでも、いまでもお前らはそれを背負ってるんだろ。苦しんでるんだろ。そんな軽いもんなのかよ、それって。
「だから、なんとなく思うところがあるのよ。考えさせられるというか……」
「なんでっ」
 力のはいった身体から絞り出すように声を出したためか、少し大きな声が出て鈴村の言葉を遮ってしまう。少し興奮してしまった俺を、鈴村が不思議そうにみつめていた。
「なにが?」
「なんで、そんな大事なこと、簡単に話せるんだよ、おかしいだろ」
「なんでって……」
 また鈴村は目を伏せた。同時に両手のなかにあった文庫本を、机のうえに倒すように置く。
「あなたがきいたからよ」
 そのときの鈴村の表情には、少しだけ哀しみがあったが、やっぱりこいつのことはなにもわからなかった。
10, 9

  


 ○

 次の日からは、元通りの15分前登校に戻った。
 いつものように早起きして2人分の朝食と自分の弁当をつくり、いつものように今日こそはと急な坂道をさいごまで自転車で駆け上ろうとして、途中で諦めて押してのぼった。
 押見たちとなんでもない会話をしていると、周りはなんにも変わっていないんだなと気付かされる。変わっていくものといえば、季節くらいなものだ。
 きっと俺の生活のリズムが少し崩れたのは、他人のことばかり考えていたからだろう。
 どうも俺はそういうことには向いていない。自分のことでいっぱいというわけではないが、いくら考えたところで、その人の立場になれるわけではないのだから、意味のないことのように思えてしまう。
 俺は文芸部室でのあの頼みを、心のなかで断った。
 新谷に面と向かってそれを言えないのは、申し訳ない気持ちだけではなく、口にしてしまえば嘘になってしまうような気がしたからかもしれない。
 逃げているんだろうか、俺は。それでも、お人好しだ。
 その日の教室はいつもに比べて、少しだけ静かだった。
 天原が鈴村に話しかけなくなったからか、ふたりが別れたことをあちこちでこそこそと噂しているからか。
 天原と鈴村が別れたという事実は、あっという間に校内に広まった。
 それもそのはずだ。昨日の放課後、鈴村が堂々と別れを告げるのを、帰り支度をしていた何人ものクラスメートが聞いていたのだから。
「ほらな、俺の言ったとおりだ」
 昼休み。押見が自信満々の表情でそう言った。
「なにがだ」
「なにがって、俺言っただろ。鈴村と天原はすぐ別れるって」
「そうだっけ」
 あまりよく思い出せない。いつか言ってたような、というかいろんなやつがそんなことを言っていたような気がする。押見もそのうちのひとりだったというわけか。
「だいたいあんな関係が長続きするわけないんだよ。タイミングも微妙だしさ、すべてダメダメだね」
「じゃあ、お前はいつ、どんなふうに彼女をつくるんだ」
「そ、そりゃおめえ、あれだよ、そのうち運命の美女が舞い降りてくるんだよ」
 ダメダメなのは押見のほうだった。運命とか舞い降りるってなんだよ。現実を見ろ。鏡を見ろとまでは言わんが。
「チャンスじゃねーか、シバノン」
「チャンス?」
「鈴村と付き合っちゃえよ」
 俺は口のなかの玉子焼きを飲み込んでから、深く溜息をつく。どうしてそうなる、と。
「あのな、そんな気ないって」
「なんでだよ、性格はあれだけど、かなり美人だし、同じクラス委員なんだからいくらでもチャンスあるだろ。それに文化祭の準備とか増えてるらしいじゃんか。ふたりきりの放課後の教室で……」
「あほか」
 ちゃんと一文字ずつ区切って言いつけてやる。この妄想野郎め。
「もったいないなあ」
「そう思うんならお前が鈴村にアタックすればいいだろ。俺に押し付けるな」
「無理無理。性格が合わない」
「俺だって合わねえよ」
 そもそもいまのあいつは他人と合わせる気なんてないのだから、彼氏なんてつくったほうが間違いなんだ。
 それに俺にあいつの彼氏になる権利なんてないんだ。救うことを諦めたからな。あいつの彼氏になることが救うことになるとも思えない。
「おまえ、鈍感だから気づいてないかもしれないけど」
「うるせえ」
「鈴村はお前に気あると思うぞ」
 今度は口の中のものを飲み込むことができなかった。それどころか吹き出しそうになってしまう。なにを突然と突拍子もないことを言ってるんだ、こいつは。
「あのな……」
 しつこい押見に再度言い返してやろうとしているところを、教室の隅で起きた歓声が遮った。正直良い言い返しが思いついていなかったので、その歓声はありがたかったが、歓声の原因が鈴村と天原なのを確認して思わず頭を抱えそうになる。
「なんだ、あのふたりやっぱりやり直すのか?」
「さあな」
「あのふたりを止めるなら今しかないぜ」
「あほか」
 よくわからないが興奮気味の押見を短い言葉であしらって、弁当を空にすることだけに集中する。決して失敗したわけではないのに、ああ、どうしてだろうな。全然うまく感じねえわ。
 天原が鈴村に話しかけたのは、いまのが今日初めてだった。それだけでもクラスの連中の興味をあつめたが、鈴村が天原の言葉に頷いて、二人揃って昼休みの教室を出て行くと、一気に教室が騒がしくなった。
「いったいどこへ行くんだ?」「復縁か!?」「ドラマみたい!」「追いかけようぜ!」
 そんな風に誰もが期待するように騒いでいたけれど、どうしてか俺だけは少し不安を感じた。
 あのふたりが再びで付き合いだしたところで、お互いにとって何の益もないようなきがする。たしかに鈴村はなんの理由も言わずに一方的に別れを告げたが、天原はまだ諦めていないのだろうか。そこまで本気で愛していたようにも見えなかったが。
「シバノンは興味ないの? あのふたりのこと」
「興味ないことはないがな」
 ただ他人のことでいっぱいいっぱいになるのは、もう勘弁だ。

 ○

 まだ俺が大阪に住んでいた、中学時代の話だ。
 俺は中学校の三年間を、バスケ部員として過ごした。それまでに経験があったわけでもなく、高校にはいってからはやめてしまった。
 いま思い返しても、大した技術もセンスも俺は持ってなかったが、背がそれなりに高かったこともあってか、二年の後半から試合のレギュラーになれた。それが妙に俺に自信を持たせた。
 とはいっても、うちのバスケ部は弱小で、部活の練習も厳しくなく、真面目に練習するやつだってほとんどいなかった。
 誰も勝とうだとか、上の大会へ行こうだとか、ちいさな目標さえも立てず、ただだらだらと三年になると引退していく。それがうちのクラブだった。
 そんな怠惰的だったバスケ部に、俺が三年の代になった春、新しい顧問の教師がやってきた。
 なんでも自分が学生時代のときは強豪なバスケ部に所属していたらしく、全国大会の経験も何回もあるそうだ。
 それゆえ、バスケ部の練習は一気に厳しくなった。
 なんで弱小のうちの学校なんかにおまえみたいなやつが来るだよと、厳しくなった部活に愚痴をこぼしながら退部するものも何人もいた。
 それでも俺はバスケ部を続けた。別に顧問に退部届けを突き出す勇気がなかったわけじゃない。まだレギュラーだという責任と自信を持っていたのかもしれない。いま思い返してもちゃんとした理由は浮かばないが、それでも俺は最後の試合までやりきってやろうと、厳しい練習に耐えた。
 もしかしたらずっとこんな練習がしたいと、心のどこかで思っていたのかもしれない。
 そうやって必死でバスケをやって迎えた、夏、さいごの試合。
 これだけ頑張ったのだから、それなりの成果は得られるのだろうと、部の誰もが思っていた。
 しかし、結果はこれまでとなにも変わらない、一回戦敗退。あっさりと負けた。特にいいところもなしに。
「お前らが負けたのは、俺が来るまでさぼっていたからだ。それがお前らの三年間だ」
 試合が終わった後、熱血新任顧問は俺たちにそう言い放った。同じ三年の連中は陰であいつは自分が指導しても勝てなかった責任を俺たちに押しつけてるだけだと文句を言っていたが、俺はどこかその顧問の言葉に納得した。
 たしかに俺たちは必死に練習した。しかし、それはいまの顧問が来てからの半年にも満たない期間だ。相手はこんな練習を一年のときからやってきたのかもしれない。そうだとしたら、俺たちが負けるのは当然じゃないか。
 はじめて試合で負けて悔しいと思った。それはさいごの試合ということだけではなく、一生懸命練習したのに負けたからなんだろう。
 こんなことなら、練習なんてしなければよかった。いままでの三年生みたいにだらだらと負けて引退すればよかった。俺もあのとき退部届けを突き出しとけばよかった。レギュラーなんか選ばれない方がよかった。
 勝負に敗者は必ずいる。それも一回戦で負けるところなんて、ほぼ全体の半分じゃないか。少しでも希望持って負けて、ショックをうけるのならば、何にも期待せずに生きていたほうがいい。
 俺はそれでいいと思った。
 そんな風にすぐにあきらめる自分を、俺は嫌いにもなれなかった。そんなことさえ、あきらめていた。

 ○

 午後の最初の授業は、ずっと騒がしかった。
 授業がどんな状況だろうと絶対に注意しないじいさんの古文ということもあってか、みんながしゃべりたいことをしゃべっているからだった。
 その話題の的は、またしても鈴村だ。
 鈴村が帰ってこないのだ。授業が始まってからずっと、俺の前は空席。あの昼休み天原に連れ出されてから、教室に帰ってきていない。
 それで騒いでいた。あいつは変わってはいても、授業をサボることはなかったし、学校を休んだことさえなかったのだからなおさらだ。
 おまけに一方の天原は悠然と自分の席に座っている。周りの席のやつが天原に鈴村はどうしたのかと尋ねたらしかったが、ちゃんとした答えは返ってこなかったらしい。
 これでは、昼休み二人の間になにかあったと言ってるようなものだ。
「帰ったんじゃねーの」
 自然とそういう推測がささやかれる。
「天原にがつんと言われて泣いたんじゃないか」
 どんどんと話題は発展していく。あいつが泣くなんて想像もつかなかったし、ありえないと思ったが、文芸部室でのことを思い出して考えを改める。
 その新谷のいる横の席を見ると、天原のいる方向を不機嫌そうな表情でじっと見ていた。こりゃ、天原、振り返ったら驚くだろうなあ。
「あの野郎、なにしたっていうんだ、胸ぐら掴みあげて吐かしてやろうか」
「やめとけよ」
 恐いことを口走っている新谷を止める。ほかのやつに聞こえてたらどうするんだよ。
「じゃあ、芝野が言ってよ」
「俺が言ってもおかしいだろ」
 新谷はしばらく納得のいかない表情を俺に向けていたが、しばらくしてあきらめたようだった。
 悪いな、いつも期待させて。
 心の中で謝る。他人に俺と同じように生きろとは言えないから、ごめんなと。
 教室の喧噪はもはや収まりそうにもなかったし、弱々しくどこかふるえてるような古文のじいさんの声では、この教室の隅の席までうまく届きそうにもなく、俺も気を抜いて休むことにした。
 なんとなくゆっくりしたいとき、授業中よく窓の外を見る。これは窓際の席の特権だと思っている。
 だけどその特権がこんなかたちで働くことになるなんて、なあ。
 見上げた曇りがちな空の景色の端でゆれた、人影。L字の校舎の屋上に立っていたそいつの姿は、遠いはずなのに、カメラでズームでもしたかのように目に飛び込んできた。
 なにやってんだ、あいつ――
 その瞬間思わず席を立ち上がってしまった。少し勢いがよすぎて椅子が大きな音を立てて後ろに倒れてしまい、あんなに騒がしかった教室が一気に静まり返ってしまった。
「ど、どうした、えっーと芝野」じいさんが座席表を確認して言う。
「えっーと、あの……」
 自分でもいきなりの行動にどう言ったらいいのかもわからず、言葉に詰まる。本当のことを言うわけにもいかないしな。
 じいさんだけじゃなく、クラス中の視線が俺に集まっている。まあ、屋上に目をやられるよりかマシか……じゃなくて、まずはなにか言わないと。
「あの……トイレ行っていいですか」
「あ、ああ、我慢できないならいきなさい」
 教室中に笑いが起きて、再び騒がしくなってしまう。それもそうだ。いきなり立ち上がって注目を集めておきながら、こんな素っ頓狂な答えでは。
「なんだ、クラス委員らしく怒るのかと思ったよ」
 そんなことを心配していたのか。残念ながら俺にそんなことを言う勇気はないんだ。
「新谷」
 横の新谷もなんだよと笑っていたが、こいつだけにはちゃんと伝えておこうと思い、ちいさく声をかけた。
「なに?」
 こっそりと俺は視線を屋上へと促す。しばらくして新谷の表情が変わって、確認したことがわかった。
「うそ……」
 こぼれるように、そんな声が漏れた。
「どうした、芝野。行くならさっさと行きなさい」
「あ、はい」
 もしかしたら新谷はいまの光景を見て昔のことと重ね合わせたかもしれない。それでもパニックになるようなことはなかった。俺が思っている以上にこいつらは強いから、俺がトイレなんか行く気ないということも、きっとわかったんだろう。
 少し早足で教室を出る。新谷の後ろを通るとき、なにか言われたような気がしたが、それが「おねがい」だったのか「ありがとう」だったのかはよくわからなかった。
「シバノン、そんなに急いで大の方か?」
 押見が大きな声で小学生みたいなことをいう。しかし、まあ、そっちだと思ってくれたほうが今回ばかりはありがたい。少し時間がかかりそうだから。


 ○

 以前、どこかで聞いたことがある。
 うちの学校の屋上は扉が固く施錠されていて、職員室にある鍵を借りなければ扉を開けることはできないが、扉横にある窓から入ろうと思えば入れるらしい。
 しかし、俺が階段を一番上まで駆けのぼり、最後の踊り場に着いたときには、その窓は閉まっていて、鍵までかかっていた。当然窓の外からは鍵はかけられないし、扉の方だってがっちり閉まっている。
 もしかしてもう屋上にいないのか?
 しかし、窓から外の屋上をのぞき込んでみると、まだ鈴村の姿はそこにあった。それも汚い屋上の床で大の字で仰向けになって、ひなぼっこでもしているようだった。なにやってんだ、こいつは。
 ここまで来て放っておくわけにもいかず、窓を開けて屋上にはいる。窓を越えるにはそれなりの高さがあるためか、窓の下には入りやすいよう丁寧に椅子が置かれている。誰かがよく使うのだろうか、少しだけ椅子の表面ははげていて、載ると少し軋む音がした。
 とうっと華麗に窓を乗り越え屋上に着地。やっぱりそれなりに高さがあって足がしびれた。
「そんなところで寝てると汚いぞ」
 鈴村は窓を開ける音や足音で誰かが入ってくるのに気づいていたためか、俺がそんな風に声をかけても大して驚くことはなかった。少しだけ首を持ち上げて視線をこっちを向けて、俺のことを確認するとまただらんと頭を下につける。だから汚いって。
「授業はどうしたの? さぼり?」
「さぼりはお前だ。俺はいちおうトイレということで抜けてきた」
「屋上でトイレなんて、変なの」
「しねーよ」
「もしかして汚いってそういう意味だったの? いま私が寝てるところでいつも……」
「しねーよ! いままでしたこともないから! トイレっていうのは嘘だ。嘘をついて授業抜けてきたんだよ」
「なんだ、やっぱりさぼりじゃない」
「お前もな」
 俺は生まれてはじめて屋上という場所に来た。小学校も中学校も扉は施錠されていて、この学校みたいに抜け道もなかったから入る機会なんて一度もなかったからだ。よくドラマとかじゃ屋上で弁当を食べたりしてるシーンがあるが、たいていの学校は転落とかの危険性を考えて簡単にははいれないようになっているだろう。
 この学校の屋上も、四方を囲む緑のフェンスは簡単には越えられそうにもないほど高い。
 俺は鈴村みたいに汚い床に体をつけるのはごめんだったので、そのフェンスにもたれることにした。さっきの鈴村のように教室から見られないように、ちゃんと反対側のフェンスに。
 遮るものがないからだろうか、屋上は風がよく通って涼しかった。少し風が強すぎるくらいだ。
「窓の鍵閉まってたんだが、どうやってここに入ったんだ?」
「窓から入ってきたのよ」
「じゃあ、誰かに閉められでもしたのか?」
「そう」
 しばらく白い雲の浮かんだ空で見上げて、考え込む。すぐに鍵をかけたやつは思い当たったが、わざと長く考え込むふりをする。
「もしかして……天原、か?」
「そう」
 どんな感じで閉められたかはわからないが、鈴村がまだ外にいることを知らずに閉めたという事故ではないんだろうな。ひどいな話だ。いちおうとは言え彼女だった相手をひとりでこんなところに閉め出して、自分は悠然と教室に戻ってきて。
「それで平気なのかよ、お前」
「最初は二人で屋上で話してたんだけど、別れの理由を訊かれて、ちゃんと話したら先に窓から出られて閉められた」
「理由って、昨日言ってたあれか?」
「そう。別れたくなったから別れよって言った。たぶん悔しかったんだと思う、天原くん。彼、自信家だから、私にふられたっていうのが」
 たしかにその理由では漠然としていて納得がいかないのはわかる。天原もどうして別れたくなったのかを聞きたかったんだろうし。でも、だからってこんなの、男のやるようなことじゃないだろ。
 そこでようやく鈴村がむくりと起きあがった。相変わらず小さい。広い屋上の真ん中にちょこんといるから余計そう見えるのかもしれない。少し広げた太股の間に両手を置いて、行儀よく座らされた人形のようだった。突き抜ける屋上の風が、その短くなった黒髪を揺らした。
「ところで、どうしてここに来たの? よく来るの?」
「いや、ここに来るのははじめてだ」
「そう。じゃあ、あの窓の下の椅子は違う誰かが置いたものなのね」
 本当にあの便利な椅子は誰が置いたものなんだろう。あれだけ古い椅子だから、もう置いた生徒は卒業してしまってるかもしれない。それとも使わなくなった古い椅子を誰かが持ってきたのだろうか。どっちにしても、その生徒にとってこの屋上は特別な場所なのかもしれない。たしかに広くて風が心地いいが、少し寂しい場所だ。
「お前はあの椅子がないと絶対に窓を越えられないだろうな」
「う、うるさい。別にこんなところ来たくて来たわけじゃない」
 そう言う割には、気持ちよさそうに寝ていたがな。
 こいつは体のことを言うといつも怒る。コンプレックスというやつなんだろうか。それ以外の容姿は完璧だと言うのに。
「俺がここに来たのは、教室からここにいるお前が見えたからだよ」
「えっ……見えるの」
 驚くような声をあげられる。やっぱり気づいていなかったのか。
「お前、さっきフェンスの向こう側に立ってたろ」
「んっ……」
 そう、あのとき鈴村はフェンスの外側に立っていた。決して視力がいいわけではないが、それはたしかに確認できた。
 フェンスは結構な高さがあって、俺でも乗り越えるのは大変そうだったが、よく見てみると端の方に抜け穴がある。これなら鈴村が簡単に向こう側に行けたのにも納得がいく。それにしてもこの学校の屋上の管理はずさんなんだな。屋上には窓から入れるし、フェンスは意味をなしていない。
「だからここに来たの?」
「そうだ」
「授業さぼってまで?」
「そうだ」
「どうして……」
 どうしてだろうなと、一度考え込む。だいたいはとっさの行動だった。席を立ったのも、教室を抜け出したのも。
 ただあのとき、屋上に立つ鈴村を見て、俺は――

「お前が死のうとしてるのかと思った」

 俺は人が死ぬ瞬間というのを、いままで見たことがない。小学校のころ、母方のじいちゃんが脳梗塞で死んだが、それは突然のことだったし、葬式に行ったのもそれが人生でまだ一度きりだ。
 四国に住んでいたじいちゃんに会うのは年に一度あるかないかくらいで、葬式も悲しいという気持ちよりは好奇心に満たされていた覚えがある。
 だから新谷や鈴村のように近しい人間を亡くしたことはまだない。それがどれほどショックなことなのか、わからない。わからないから、目の前で起きようとしたことが怖くて仕方なくて、ここまで来てしまった。
 結果は、この箱庭で猫みたいにひなたぼっこをしているこいつがいたのだけれど。
 暢気な姿の鈴村を見ていると視線が合ってしまって、あわてて空を見上げた。さっきより少しだけ雲が山の方へ流れていた。
「命を大事にしろ、とか怒りにきたんじゃないの」
「まだフェンスの向こう側にいたらいってやろうと思ってた」
「じゃあ……もし地面に倒れてたら?」
 再び鈴村の方に目をやると、今度は鈴村がうつむいて視線をずらした。
「あのとき、死のうとしてたのは当たってる」
「なんで、そんなこと」
「死んだら、天原くんも一生後悔すると思った。私を殺したっていう罪悪感を一生背負わせてやることができるって」
「そんなしょうもないことに、命捨てようと思ったのか」
「そんなしょうもないことでも、しなければ相手に一矢を報えないことだってあるの。私にはやっぱりできなかったけど」
 それが紗季さんのことを言っているのだと、すぐにわかった。
 きっと新谷の言っていたことは当たっている。それは一番近くで鈴村のことを見てきたからわかったことなんだろう。
 鈴村はひとりになりたがった。それは自分を追い込むため。自殺しなければいけないような、孤独に。
 やっぱり、この話につながるだよな。どう話せばいいものか、面倒だなと頭を掻いてみる。結局は新谷の頼みを、俺は諦めきれないんだ。
「それは、紗季さんに対する償いのつもりか」
 予想どおりの鈴村の驚いた表情。でもそれも一瞬だけだった。すぐにどこか納得したように口の端が少しあがる。
「陽子に聞いたのね」
 陽子というのが新谷の下の名前だと気づくのにしばらく時間がかかる。たしかそんな名前だったような気がする。新谷陽子。なんとなくあいつに合った名前だ。
 そういえば新谷も鈴村のことを下の名前で呼んでいたんだっけ。本当に、それくらいの仲だったわけだ。
「あんな自己紹介したのも、ずっとぶっきらぼうな態度を取ってるのも、ぜんぶ人を寄せ付けないためだったんだろ。でも結果的には注目を集めるだけでさ、下手くそだよな、お前。俺ならもっと人に嫌われるようなことできる。第一お前はその……天性というかさ、人に嫌われないような人間なんだって、いい加減気づけよ。お前のやってることは全部無駄だ。もうあきらめてさ……」
 俺は頷く代わりに言いたいことを言ってやる。だいたいは新谷から教えてもらったことなんだけれど。俺の少ない国語力じゃうまくまとまらなかったけど、伝わるには伝わったような気がする。
 きっといまの鈴村は俺の中学三年のときよりずっと無駄なことをしている。きっとそれは三年間続けてもなんの成果もあがらないような無駄なことだ。
 しかし、俺のそんな言葉も、途中で止まってしまう。なにか思いっきりぶつけられたのだ。しかも顔面。
 鼻のあたりが猛烈に熱くなって、あわてて鼻の下を手で押さえてみたが、血は出ていなかった。ただただ痛い。
 前を向いてみると鈴村はいまにも泣きそうな表情で、でもまだ強気な表情で、俺に向かってなにかを投げましたよと言わんばかりのポーズを決めていた。
 足下にはひとつの文庫本が落ちている。そりゃこんなもの当てられたら痛いわ。
「お前は言ってたよな、自分とジョバンニは似た境遇だから共感できるって」少し鼻声になりながらも言葉を続ける。
「うるさい」
「どこがだよ、全然似てねえじゃねえか。お前は親友の死を受け入れてないしさ、紗季さんだってカムパネルラみたいに他人のために死ねたわけじゃないだろ」
「うるさいっ、だまれ!」
 もう投げるものがなくなった鈴村は立ち上がって自分の足で俺に向かってくる。そうだ、俺を黙らせたかったら自分の手足で殴るなり蹴るなりすればいい。
 目の前まで来た鈴村は潤んだ双眸で見上げて俺を睨むが、まったく威圧感がない。
「私のなにを知ってるって言うの、なにも知らないくせにわかったような口を利かないで!」
「わかるわけないだろっ!」
 大きな声で言われたので、さらに大きな声で返す。それでも目の前の鈴村は怯むことなく一心に俺を睨み続けた。
「お前がなに考えてるとか、なにがしたいとか、まったくわからない。でもな、これだけは言える」
 死者の言葉を代弁する力なんて、俺にはない。それでも――
「紗季さんが自分と同じ苦しみをお前に味わってほしいと思ってるわけないだろ。新谷だって、俺だって、みんな思ってる」
 それでも言ってやる。ジョバンニにも、ハルヒにも、ひとりにもなれない少女に。

「いい加減、お前は、お前らしく生きろよ」

 その言葉だけは大きな声でも、怒鳴るようにでもなく、優しく言い聞かせるように言った。ちいさな体の、ちいさな頭にぽんと手を置いて。柔らかい、軽い頭。
 ちょうどその時チャイムが鳴って、五時間目が終わったんだとわかる。結局教室には戻れなかったなあ、どれだけ長いうんこだよ。
 鈴村は、それ以上なにも言い返してこなかった。少し心配だったが、俺は先に屋上を出ることにする。
「窓、開けとくから早く戻ってこいよ」
「……待ってよ」
 帰ろうとする俺の背中に鈴村がそう言ったが、これ以上屋上で話すようなことはない。あまりにも弱々しいその言葉を俺は無視することにした。

「待てこらっ! シバノン!」

 無視するはずだったのに、思わず立ち止まって、振り返ってしまう。
 振り返った先の鈴村の目はまだ潤んでいて、ちいさく震えるチワワみたいだ。とても弱々しい。それでも強い口調で吠えるように。
 ――シバノンって、いまこいつが言ったのか?
 はじめて俺の名前を呼んだと思ったら、そのあだ名かよ。でも、こいつから言われるとそれはやはり他人とは違い、端的に響く。はじめてこのあだ名も悪くないかもなって思えるくらいに。
「あのな、そのあだ名あんまり気に入ってないんだが……」
「うるさい、言いたいことだけ言いやがって何様のつもり? そこまで言うんならちょっとは手伝いなさい! シバノン!」
「はああああああ!?」
 いきなりキャラが豹変しただけじゃなく、なに言ってんだ。しかもこいつ絶対わざともう一度“シバノン”って言いやがったよ。
 ちょっと待てって。次の時間は化学で移動教室なんだぞ、もう一時間さぼらすつもりですか。
「手伝うってなんだよ。たしかにさっきのは言い過ぎたかもしれん、それは謝るからさ……」
 いつのまにか鈴村はすたすたと歩き、窓から俺より先に屋上から出ようとしたが、無理だった。
 屋上の外側にはあの便利な椅子は置かれていなかったのだ。あの窓を当然鈴村の身長で越えられそうにもない。
「あの……」
「てっ、手伝いなさい!」
「手伝うって、このことかよ……」
「それだけじゃない!」
 なんでこいつはさっきからずっと怒り口調なんだよ。
 仕方なく言われたとおり鈴村の窓越えを手伝うことにした。鈴村が上履きを脱いで、俺の肩の上に乗る。上を見たら絶対にスカートのなかが見えそうだったので、ちゃんと汚い屋上の床をみつめながら。
「上履き忘れてんぞ」
 先に窓の向こうへ行った鈴村に忘れ物を渡そうとしたが、なぜか手で止められる。
 そして、鈴村はにやっと笑った。
 いつのまにか目の端の涙は拭ったようだった。さっきまで泣きそうだったくせに、おもしろい顔すんじゃねえか。釣られて俺まで笑ってしまいそうだった。
「もうちょっと手伝いなさい」
 そこで一度深く俺は溜息をついた。
 そう言えば鈴村はハルヒをほとんど知らないんだったな。お前に言ってやりたいよ、前より今の方が涼宮ハルヒっぽい感じだって。
「これ以上なにを手伝えと?」
「私が、私らしく生きるためのスタートよ」
 
12, 11

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