第五話:憂愁の美
屋上へと続く鉄扉がある踊り場から、少し階段をおりたところ。そこで俺と鈴村はふたりで待ち伏せをしていると、鈴村の予想どおりに天原が急いだ様子で階段を駆け上がってきた。
もちろん、あいつの目的地は屋上だ。
一番上の踊り場まで辿りついた天原はまず窓の外を確認すると、なおも慌てた手つきで鍵を開け、あのボロボロ椅子を踏み台に窓を飛び越え屋上へ出た。
屋上の奥の方へと行く足音を確認してから、俺たちも階段をあがる。
ちなみに俺たちが屋上を出てから、再び窓を閉めて鍵をかけたのは、天原が鈴村を閉じ込めたときと同じ状況にしておくためだ。だからあんなに天原は慌てている。俺が窓を開けて、鈴村はいま俺の後ろにいることも知らずに。
俺がゆっくりと階段をあがっていると、鈴村は足早に俺を追い抜いていった。そして先に踊り場に辿り着き、靴下だけの足で窓の下の椅子に乗って、天原が出て行った外を覗く。足の先を精一杯伸ばしているけれど、それでも窓の下枠からは頭しか出ないらしい。ゲージに前足をかけて顔を出す小型犬みたいだな、本当に。
「天原くん、私ならここよ」
その体勢のまま、屋上にいる天原に聞こえるような大きな声で、鈴村が声をかける。
それを見てやっぱり俺はもう少し隠れておくことにした。もしかして天原と一対一で話があるのかもしれない。俺が姿を見せても面倒くさくなるだけかもしれないしな。
「鈴村! よかった、あんなところに上履きがあったからびっくりしたし」
鈴村の声を聞いてか、いつのまにか人心地がついた様子の天原が窓のところまで戻ってきていて、俺の位置からでも上半身だけが少し見えた。
ちなみに、さっき俺は鈴村の上履きを屋上のフェンスの外側に置いてきた。それが鈴村の“手伝え”の内容のひとつだったのだ。もちろんその作業はかなり怖かった。なんたって、少し間違えれば15メートル下の地面に真っ逆さまなのだからな。
天原が窓から外を確認したとき、屋上にすでに鈴村の姿はなかったが、天原は俺が置いた上履きを見て慌てて屋上にはいったのだろう。そりゃ、あんなのを見たら誰だって慌てる。遺書さえないが、飛び降りたのではないかと思ってしまうだろう。
ちなみにこれは全部鈴村が指示したことだ。天原を屋上に入れさせるための餌。まったく、よく思いつくよな、こんなこと。
「窓、誰かに開けてもらったのか」
「ええ」
「誰にだ? あとあの靴はお前のじゃ――がっ」
そこでいきなり天原の言葉が強制的に途切れる。鈴村がなにかを天原の顔面に向かって思いっきりぶつけたからだ。どうやら俺にさっき屋上でぶつけたものと同じ文庫本。
銀河鉄道の夜。
あの至近距離で当てられたらただでさえ痛いだろうに、わざわざ当てる箇所まで同じ、顔面。その痛みのせいか、天原は窓の枠にかけていた手を離してしまい、屋上の外側に力なく落ちてしまう。
「いってーな、なにすんだよ」
「まずは謝れよ、このナルシスト野郎」
「は?」
その瞬間、ガタンと鈴村が勢いよく窓を閉めた。そして、天原の目の前で鍵まで閉めた。
しばらくはその様子を天原は呆然とした様子で眺めていたが、ようやく事態の深刻さに気づいたのか、慌てて窓を叩きはじめる。見事なまでの仕返しだ。
そこまで確認して、俺も再びゆっくりと階段を登る。
「おい、開けろ! ちゃんと謝るからさ」
「誰が開けるか。一生そこにいろっ」
「なんだよ、急にキャラ変わりやがって。怒ってるのか? なら、この通りだ、俺が悪かった」
天原が手を合わせて謝罪をする。なんだかカップルが喧嘩でもしてるような光景だったけれど、もうこいつらは別れてるんだよな。それとも復縁を彼氏が迫ってる光景か。それにしては屋上に閉め出すなんて、物騒な元カノ様だ。
「謝るなら土下座でしょうが。額をつけなさい、そのきったなーい床に」
そのきったなーい床にさっきまで寝転がっていたのは誰だよ、とはとても突っ込めるような雰囲気でもない。
しかし、天原も本当に反省しているのか、鈴村の言うとおりに身を低くして、その身体が窓の枠から出て見えなくなる。
「わかった……これでいいか」少し遠くなった声。
「ここからじゃ見えない!」
「「なんだよ、それ」」
鈴村のあんまりの言葉に、思わず天原と声を合わせて突っ込んでしまう。まさかこんなところで息があってしまうとは。
たしかに外からじゃ見えないけどさ、外では天原もちゃんと土下座してるだろうに。
「なんでシバノンまで突っ込んでくるのよ」
「いや、つい……というかいつまでもそんな小学生みたいな罵りしてないでさ」
「小学生じゃない!」
「わかってるって!」
ただ、その華奢な容姿で小学生みたいなことを言っていると本当に小学生にしか見えないぞ。
「ほら、やることはやったんだから、さっさと戻るぞ」
鈴村はまだ天原に言いたいことがあるのか、納得できてない様子だったが、俺が肩を軽く押すと諦念したのか、ゆっくりと階段をおりはじめる。
「おい、芝野か。そこにいるのか? ここ開けてくれ!」
その声に振り返ると窓越しに天原と目が合ってしまって、少し困惑する。反対方向で鈴村が立ち止まってこちらを睨んでいるのがわかる。大丈夫、心配しなくても開けやしないって。
「頼む、芝野。開けてくれ!」
「うん、それ無理」
若干引きつった笑顔でも俺は爽やかに言ったつもりだったが、そのあと教室に戻る途中で鈴村に「なに、さいごの気持ち悪い」と言われてしまった。いいんだよ、お前は知らないだけなんだから。
「というか、天原が先にちゃんと謝ってきたら、許してやるつもりだったのか?」
「そんなわけないじゃない」
「あっそ」
結局は天原は屋上に幽閉される運命だったわけだ。残念。いまの鈴村は誰にも止められそうにもないからな。
天原もケータイを持っているだろうから、そのうち誰か友達でも呼んで開けてもらえるだろう。いちおうHRまでに帰って来なかったら様子を見に行ってやろうか。
天原がこの仕返しの仕返しをしてくる可能性も考えたが、元々は向こうからやってきたのだからあまり表立ったことはされないだろう。
それにしたって、こいつに付き合うと本当にろくな事がない、と前を歩くちいさな黒い頭を見ながら思う。きっとそれはこれから先も、変わりないんだろうな。
そのことを考えながら少し早足で教室に戻ってきて、教室にはいろうとしたが、前を歩いていた鈴村が教室の入り口で急停止してしまって、思わずぶつかってしまう。
「ん? どうした」
「いや……あの……」
さっきまであんなに溌溂としていたのに、急に萎縮してしまった様子の鈴村を不思議に思いながらも、誰もいないと思っていた教室内を覗くと、まだひとりだけ席に座ったままのやつがいた。
次は移動教室だってのに、こいつら絶対に遅刻だな。
「ほら、なにしてんだ。行け」
「いや、でも……」
「お前を待ってるんだろうが」
「うん……」
新谷と鈴村が寄り添う横を通りすぎ、教科書だけを手に持って足早に教室を出る。
新谷の俺を呼び止めるような声が聞こえたような気がしたが、それも一瞬で、すぐにチャイムの音に掻き消された。そしてチャイムの音とともに、俺は逃げるように廊下を走った。
だけど、後ろめたい気持ちなんて、何もなかった。
むしろなんだか生まれてはじめていいことをしたような、会心と達成感で満たされる。
きっとこれから少しずつ元に戻っていく。なにもかも。憂鬱は吹き飛んだのだから。
○
「帰る方向同じでしょ。乗せていってよ、後ろ」
その日の放課後。
校門の右を少し奥に行ったところにある自転車置き場から、愛車のママチャリ号を出そうとしているところに、いきなり後ろに立った鈴村にそんなことを言われて、思わず振り返って驚いてしまう。
たしかに鈴村とは方向も同じで、家もさほど離れていないということは知っていたが、どうしていきなり……。
「ほら、早く」
鈴村は俺の承諾も許可もなしに、いつのまにか勝手に自転車の荷台に飛び乗っていた。どうせ最初から拒否権なんてないんだろ。今日はこんなことばっかりだ。本当に心身ともに疲れる一日だ。
「あのな、途中の分かれ道までは押見たちと歩いて帰るから、自転車は漕がないぞ」
「じゃあ、このまま手で押していってよ。乗っとくから」
あくまで降りる気はないらしい。どこまで図々しいやつなんだ、まったく。
「今日はなんか疲れたから」
そう鈴村は言い足すように言ったが、疲れてるのは俺の方だって同じだっての。
そんな文句さえ呆れて言葉に出来ず、自転車の鍵を外し、鈴村を乗せたまま発進する。
「痛いっ」
自転車が前へ進むとともにスタンドがあがってガタンとなったためか、荷台に乗ってる鈴村にそんな文句を言われる。しかし、そんなに文句にいちいち答えるのも面倒くさい。
そのまま自転車を手で押していき、押見たちの待つ校門に着くと、案の定驚かれた表情で迎えられた。
「えーっ!」
「なにそれ」
一瞬、押見に“それ”呼ばわりされた鈴村がきりっと睨んだが、それでも坂本と押見のぽかんと開いた口はふさがらなかった。
「今日は鈴村さんと帰るの?」
「いや、いつもどおり分かれ道まで行くぞ。こいつは、その……おまけだ」
今度は“おまけ”呼ばわりした俺が睨まれる。俺の少ない語彙では適当な表現が浮かばなかったんだよ。
「そっか」
一応納得してくれた押見と坂本は、いつものように自転車のかごに鞄を突っ込む。
それを見た鈴村が「私も」と荷台に座ったまま鞄を放り投げた。鞄は見事にかごの枠内に入ったが、かごにはすでに俺の分を合わせて三人分の鞄が入っているから、当然溢れそうになる。
それを慌てて片手で押さえ、きっちり四人分の鞄を整頓してかごに入れる。案外入るもんなんだな。
「ナイスアシスト」
「うるせえ、ちゃんと丁寧に入れろ」
そんなやり取りを、横で押見と坂本はどこか他人行儀な感じで傍観していた。黙られると俺的にも何か申し訳ないんだが。
「やっぱり……僕たちおじゃまかな?」
「なんだよお前ら、付き合いだしたのか」
「そんなわけないでしょ」
押見の言葉に鈴村は蹴りで返そうとしたが、荷台に乗ったままだったためか、反動でバランスを崩して落ちそうになる。
「あわ、ちょ――うわっ」
「なにやってんだよ」
危なっかしい様子を見て、とっさに右手を鈴村に肩に手を伸ばし、なんとか支える。妙に近くなった距離。その瞬間、万華鏡に赤い紙片でも落としたかのように、鈴村の表情が夕日の色に染まった。
「う、うるさい。さっさと進め」
またしても文句を言われてしまう。
しかし、校門前でいつまでもこうしてるのはたしかにまずい気がした。さっきから周りの視線が厳しいのだ。ああ、怖い先輩に体育館裏に呼び出されてリンチされたりしないだろうか。って、そんなヤンキーマンガのような時代じゃないか。
結局鈴村を自転車に乗せたまま、押見たちといつもの帰り道を歩く。
当然、男三人でいるときとは違う気まずい雰囲気がずっと流れているが、一方の鈴村は大して気にしていない様子だった。それどころか、馬車に乗ったお姫様気分なのか悠々と景色を楽しんでるようにも見える。いったいなんなんだよ、この状況は。
「お前いつも歩いて通ってるのか?」
「そうだけど」
「チャリ通にすりゃいいのに。俺の家からでも15分くらいだぞ」
「坂がしんどいから嫌」
坂がしんどい。多い。だるい。
チャリ通にしたがらないやつらの理由の大半がそれだ。たしかに山の近くで自転車でのぼるには少しきついところもあるが、のぼり坂と同じ数だけ颯爽と下りられるところがあるというのに。
「なんか変わったよね、鈴村さん」と坂本が少しためらいながらも言った。もっともな感想だ。
「新しい男でも出来たんじゃないか」
鈴村の正面を歩いていた押見の肩にすかさず鈴村の蹴りははいった。さっきの失敗をちゃんと考慮してか、今度は少し軽めに蹴ったようだったが、それでも靴を履いたままでだ。少し当たっただけでもそれなりに痛いに違いない。
「だから違うって言ったでしょ!」
「いってーな、いきなり蹴るなよ! 俺はあの時の消しゴムだって忘れてないからな!」
堂々と言い張ってるが、結局はやられっぱなしじゃねえか。
いつもとは違うメンバーになってしまった帰り道も、いつのまにか駅方面との分かれ道にたどり着く。
毎日のことなので特に別れを惜しむこともなく坂本と押見は駅の方へと歩いていく。
当然、分岐点のミラーの下で残される、俺といまだ荷台の鈴村。
二人を見送っていると坂本は手を振ってきてくれたが、押見の方はまだ腑に落ちないような、疑いの目をこちらに向けていた。
さて、どうするか。
「まだ乗るのか?」
「もうちょっとだけ」
「ここから漕ぎたいだが」
「漕げばいいじゃない」
「二人乗りはいちおう違反なんだぞ」
「へー、根性なし」
「なっ」
その言葉に少しむきになってしまって、飛び乗るように自転車のサドルに跨った。
ゆっくり加速。やはり後ろに人を乗せているといつもより漕ぎにくい。それでも鈴村は大して体重もないだろうから、少し重い荷物を載せている程度に考えればいいか。
「ここで下りなかったことを後悔させてやる」
「ん?」
鈴村は不思議そうに少しだけ俺の背中から顔を出し、前方を確認して俺の言葉の意味を理解したらしい。しかし、自転車を止めるように俺に指示するのではなく、ぎゅうと俺の腹部に後ろから手を回した。落ちないように。
もちろん俺だって鈴村を本気で落としてやろうなんて思っていないが、それでも鈴村の両腕は力強く、抱きしめられている腹だけじゃなく、いろんな箇所が締め付けられるように苦しくなる。
どうして女の子の体は、こうも柔らかいんだろうな。
ぴったりとくっついた背中に、鈴村の胸らしき膨らみを確認することはできなかったけれど、それだけは感じることができた。
「ちょっと、本気でいくの?」
「降りるならいまのうちだぞ」
「誰が、そんなこと……」
言葉ではそう言ってるけれど、弱気になってるのが簡単にわかった。
目の前にはアスファルトの深い谷がある。U字型に急な勾配を描いたこの坂は、通学路のなかでも一番の難所だと俺は思っている。途中までは駆け下りることができるが、少しのぼりはじめるとすぐに失速して止まってしまう。そこからがいつも大変だ。
「いくぞ」
その坂をいまから駆け下りようとしている。
二人分の体重が乗った自転車のチェーンはちいさな悲鳴をあげながらも平坦な道の終わりに近づく。
そして、次の瞬間、一気に加速した。
風は凪いでいたのに、空気の塊が俺たちにぶつかる。俺たちからぶつかりにいっている。
そのままどこまでも、どこまでも、加速して、自転車は駆けていきそうだったけれど、やっぱり谷の底を越えてのぼりはじめると、すぐに勢いを失ってしまった。
「うーん! 楽しかった! ねえ、もう終わりなの?」
「無茶言うなよ。いい加減降りてくれないか」
「じゃあ、この坂のぼったところまで」
よりによってどうして一番きついところまで。元々少し鈴村を怖がらせようと下りた坂なのに、結局自分だけが苦しめられてしまう。結局、あきらめて途中から手で押してのぼる。
「ここでいい」
坂をのぼりきったところで、約束どおり鈴村は荷台から下りた。俺はタクシーですか。
「……つ、つかれた」
「いい運動になったでしょ」
「うるせえよ!」
疲れきって息を荒らげる俺を見ながら、鈴村はいたずらっぽく笑った。
「もう絶対乗せないからな、これっきりだからな」
その言葉を了承するわけでもなく、鈴村は笑い続ける。その表情に、はじめて会ったときのような感情に陥ってしまう。
「ここから帰れるか?」
「近所だから、わかる」
「そうか」
「うん、じゃあ」
「おう」
そんなぎこちない別れから、少し経ってから「ありがとう」という言葉が聞こえてきた。ぎりぎり耳に届いたような、ちいさな言葉。
風に運ばれるように聞こえてきたその言葉は、いろんな意味を持っているような気がした。
姉貴の大学での友人であるモミちゃんさんは、あれから何度か我がボロアパートの一室を訪ねてくるようになった。
たいていはやってくるのは週末で、いつもモミちゃんさんは姉貴に強引に連れてこられたように玄関前まで来る。
「こんなに何回も来て迷惑じゃない?」
「大丈夫よ、私の弟はただ料理をつくるだけの存在だから」
何で俺は料理に生きる男みたいになってるんだよ、と玄関前から聞こえてきた問答に文句を言いたくなる。たしかにモミちゃんさんが来たからと言って迷惑というわけではないが、俺も人様を毎回満足させられるほど料理の腕に自信があるわけではないのでモミちゃんさんが来た日の料理は少しだけ緊張する。
姉貴はなぜかモミちゃんさんしか家には連れてこない。このアパートは姉貴の通う大学から歩いてこれる距離にあるので、他の人を連れてきてもおかしくはないはずだ。モミちゃんさんの話を聞く限り姉貴の大学での友達がモミちゃんさんだけというわけでもなさそうだし。
そんな疑問を一度姉貴に訊ねてみると「わたしたちはまだ飲みにいけないし、お金もないから」と言われた。
――だからってなんでこの家なんだよ。
そんな不満を持ちつつも、表情には出さず、その週末の玄関にひとり取り残されたモミちゃんさんを迎える。
「どうぞ、あがってください」
この人も俺と同じで姉貴に振り回されながらもなぜか着いていってしまう人なんだろうな。
モミちゃんさんも何回もこの家に来ているためか、緊張が取れて段々といろいろな表情を見せるようになってくる。
俺もいろいろな表情をできているだろうか。そういえば最後に人前で泣いたのはいつだったか。中学の部活で泣いた覚えはない。どうもさいきんは怒ってばっかだしな。
その日のモミちゃんさんはなぜか嬉しそうな表情だった。
笑って口角が上がると女優のようなきれいなえくぼができる。上品に笑う人だなと思うと同時に、やっぱり姉貴とは正反対のような女性だなと思った。
どうしてこんな二人が親しくなったのだろうと不思議だったが、友人関係というのは案外そんな感じの方がうまく行くもんなのかもしれないなと自分の周りとも比べて一人納得する。
「きゅうりは千切りでいい?」
「はい、冷やし中華的な、あんな感じで」
「あー! 冷やし中華的な。わかりやすい!」
モミちゃんさんはいつのまにか夕飯の準備を手伝ってくれるようになった。はじめのうちは俺がひとりでやりますからと断っていたが、食べてばかりで悪いからと自前のエプロンまで持ってこられたのでそれ以上は断れなかった。案外頑固な人なのかもしれない。
そんなモミちゃんさんの姿を見ても、姉貴は皿を並べる素振りさえ見せない。つくづく正反対なふたりだ。
モミちゃんさんは手伝うと言っても料理が上手いというわけではないらしく、よく俺が手順を教える側になることがあった。
中学生のころは母に教えられてばかりで、逆の立場になるのははじめてだったので戸惑ったが、モミちゃんさんは俺が言ったことはなんでも丁寧にこなすので、料理の進行は決して遅くなることはなかった。
「玉ねぎも細かく切っていい?」
「玉ねぎは、薄くのほうがいいかもしれません。そのあと水にさらして……」
「あ! 辛みを抜くのね」
「そうです。軽くつけてから水分をふきとれば魚の臭みだけうまくカバーできると思います」
モミちゃんさんには鰹を使ったカルパッチョを担当してもらっていた。大して手間のかかる料理ではなかったが、途中何度もモミちゃんさんは驚きの声をあげる。楽しそうに料理をする人だ。一緒にやってる俺もそんな気分になってくる。
そんな台所を見ながらリビングでおっさんのように野球の阪神戦を観戦していた姉貴は不満そうになに二人だけで盛り上がってるのよと文句を言ってきた。
それならば姉貴も料理をすればいいのに。姉貴が入ってくれば確実に料理の進行は遅れそうだけど。
俺も少しだけ気になってテレビの画面を見てみると7回の表なのにまだスコアは0ー0だった。ちょうど甲子園球場でカラフルなロケット風船が飛ぶ。どうやら試合の方はあまり盛り上がっていないようだ。
「ふふん、今度妹にも教えてあげよ」
モミちゃんさんが皿に丁寧な盛り付けをしながらご機嫌そうにしている。この料理を教えるのだろうか。
「妹さんいるんですか」
「ちょうどシュウジくんと同じくらいかな。シュウジくんは高1?」
「はい」
「じゃあ、同い年だ」
妹いるのかー、同い年かー、お姉さんに似て美人なんだろうなー。
そんなたまには男子高校生らしい想像を膨らましていると姉貴の声がリビングが聞こえてきて、それを言葉に思わず包丁を持っていた右手が急停止する。
「その妹って、シュウジが言ってたハルヒの自己紹介した子よ」
野菜を切る音も、水の音も止まって、部屋の中が一気に静かになる。そのなかで野球中継をするテレビだけが盛り上がっていた。どうやらでかい当たりが出たらしい。0ー0に、ようやく点数が入りそうだ。
「は?」
「いやあ、私もモミちゃんと知り合った後からわかったんだけどね。あ、モミちゃんの妹ってシュウジの言ってた子だって。でも、モミっちは変というか全然まじめな感じで似てないなってずっと思ってたわけ。あ、これ、イッツアスモールワールドって感じ?」
「ちょっと待て、なんでいままで言わなかったんだよッ!」
「だって聞かれなかったし」
姉貴の発言に思わず頭を抱えたくなる。でも、まだ右手に包丁を持ったままだしな、とりあえずこれをどっかに置かないと。いま包丁なんて使ったら指のカルパッチョでもつくってしまいそうだ。
隣でモミちゃんさんは「ハルヒ?」と疑問符をつけてつぶやいている。この人はそういうの知らない人なのかもしれないな。まあ、妹がどんなことを始業式でやらかしたなんて知る必要はないと思うけれど。
「え、なに? シュウジくん、楓と知り合いなの?」
モミちゃんさんが口にした名前で99%の確信をする。そう言われればどことなく顔が似ているような。身長も同じように低いし。
「あの、もしかして名字って鈴村ですか?」
「う、うん。鈴村紅葉」
あー、だから“モミちゃん”なのか。
鈴村紅葉だなんてどこかの女優と一文字違いだなと思ったあとに、父親と母親は千秋さんとか秋子さんとかなんだろうかなんてどうでもいいことが頭をよぎる。それとも二人とも秋生まれなのかもしれない。
「あ、俺も北高に通ってて、妹さんとは同じクラスです」
「そうだったの! ああ、いつも楓がお世話になってます」
「いえいえこちらこそ……」
なぜか急に行儀良くおじぎをしあってしまう。
本当に妹さんには迷惑をかけられてますよなんて言葉は口が裂けても言えず、どう説明すればいいか言葉の続きに困る。
少ししてからモミちゃんさんこと紅葉さんも、姉貴に向かってなんで教えてくれなかったのと文句を言う。姉貴は笑って誤魔化して、テレビに映った打者に向かって「打てー!」と叫び応援をする。本当にどこまでも意地悪な人だ。
「あ、あの、妹さんって普段はどんな感じですか」
これ以上姉貴を詰問しても大したことも聞けそうになかったので、ふと気になったことを訊いてみる。俺はいつのまにか家でも学校でも大して変わりようのないような生活になってしまっているが、そうではないやつもいるだろう。
「楓は、そうねえ。少し前まではいろいろあって、どこか塞ぎがちだったんだけど、さいきんはまた昔みたいに笑うようになってね」
「そうですか」
「だから、私もさいきんは嬉しいの。学校に意地悪な男の子がいるんだって、この前言ってたんだけど、もしかしてシュウジくんのことかな?」
「い、いや、そんなことは……」
訊ねるモミちゃんさんの目は優しいものだったけれど、あわてて否定せずにはいられなかった。意地悪ってそんな小学生みたいなこと、本当に俺のことを指しているんだろうか。きっと押見のことだよな、うんうん。
「まーた二人で盛り上がってるう」
姉貴がそんな無責任な文句をまた言ってくる。こうなるような爆弾発言をしたのはどこのどいつだよ。
「あの……」
少しためらうようにして、モミちゃんさんが言葉を口にする。それは料理の質問の教えてほしいとは違い、純粋に知りたいという気持ちが伝わってくるようなトーンだった。
「楓は、学校ではどんな子?」
俺はその質問に一度を料理を再開するような素振りを見せて間を置いてから、素直な言葉を吐き出す。
「普通の、女の子っすよ」
モミちゃんさんがほっと微笑む。どこか見覚えのあるその笑顔は、とても優しかった。
〈おわり〉
たいていはやってくるのは週末で、いつもモミちゃんさんは姉貴に強引に連れてこられたように玄関前まで来る。
「こんなに何回も来て迷惑じゃない?」
「大丈夫よ、私の弟はただ料理をつくるだけの存在だから」
何で俺は料理に生きる男みたいになってるんだよ、と玄関前から聞こえてきた問答に文句を言いたくなる。たしかにモミちゃんさんが来たからと言って迷惑というわけではないが、俺も人様を毎回満足させられるほど料理の腕に自信があるわけではないのでモミちゃんさんが来た日の料理は少しだけ緊張する。
姉貴はなぜかモミちゃんさんしか家には連れてこない。このアパートは姉貴の通う大学から歩いてこれる距離にあるので、他の人を連れてきてもおかしくはないはずだ。モミちゃんさんの話を聞く限り姉貴の大学での友達がモミちゃんさんだけというわけでもなさそうだし。
そんな疑問を一度姉貴に訊ねてみると「わたしたちはまだ飲みにいけないし、お金もないから」と言われた。
――だからってなんでこの家なんだよ。
そんな不満を持ちつつも、表情には出さず、その週末の玄関にひとり取り残されたモミちゃんさんを迎える。
「どうぞ、あがってください」
この人も俺と同じで姉貴に振り回されながらもなぜか着いていってしまう人なんだろうな。
モミちゃんさんも何回もこの家に来ているためか、緊張が取れて段々といろいろな表情を見せるようになってくる。
俺もいろいろな表情をできているだろうか。そういえば最後に人前で泣いたのはいつだったか。中学の部活で泣いた覚えはない。どうもさいきんは怒ってばっかだしな。
その日のモミちゃんさんはなぜか嬉しそうな表情だった。
笑って口角が上がると女優のようなきれいなえくぼができる。上品に笑う人だなと思うと同時に、やっぱり姉貴とは正反対のような女性だなと思った。
どうしてこんな二人が親しくなったのだろうと不思議だったが、友人関係というのは案外そんな感じの方がうまく行くもんなのかもしれないなと自分の周りとも比べて一人納得する。
「きゅうりは千切りでいい?」
「はい、冷やし中華的な、あんな感じで」
「あー! 冷やし中華的な。わかりやすい!」
モミちゃんさんはいつのまにか夕飯の準備を手伝ってくれるようになった。はじめのうちは俺がひとりでやりますからと断っていたが、食べてばかりで悪いからと自前のエプロンまで持ってこられたのでそれ以上は断れなかった。案外頑固な人なのかもしれない。
そんなモミちゃんさんの姿を見ても、姉貴は皿を並べる素振りさえ見せない。つくづく正反対なふたりだ。
モミちゃんさんは手伝うと言っても料理が上手いというわけではないらしく、よく俺が手順を教える側になることがあった。
中学生のころは母に教えられてばかりで、逆の立場になるのははじめてだったので戸惑ったが、モミちゃんさんは俺が言ったことはなんでも丁寧にこなすので、料理の進行は決して遅くなることはなかった。
「玉ねぎも細かく切っていい?」
「玉ねぎは、薄くのほうがいいかもしれません。そのあと水にさらして……」
「あ! 辛みを抜くのね」
「そうです。軽くつけてから水分をふきとれば魚の臭みだけうまくカバーできると思います」
モミちゃんさんには鰹を使ったカルパッチョを担当してもらっていた。大して手間のかかる料理ではなかったが、途中何度もモミちゃんさんは驚きの声をあげる。楽しそうに料理をする人だ。一緒にやってる俺もそんな気分になってくる。
そんな台所を見ながらリビングでおっさんのように野球の阪神戦を観戦していた姉貴は不満そうになに二人だけで盛り上がってるのよと文句を言ってきた。
それならば姉貴も料理をすればいいのに。姉貴が入ってくれば確実に料理の進行は遅れそうだけど。
俺も少しだけ気になってテレビの画面を見てみると7回の表なのにまだスコアは0ー0だった。ちょうど甲子園球場でカラフルなロケット風船が飛ぶ。どうやら試合の方はあまり盛り上がっていないようだ。
「ふふん、今度妹にも教えてあげよ」
モミちゃんさんが皿に丁寧な盛り付けをしながらご機嫌そうにしている。この料理を教えるのだろうか。
「妹さんいるんですか」
「ちょうどシュウジくんと同じくらいかな。シュウジくんは高1?」
「はい」
「じゃあ、同い年だ」
妹いるのかー、同い年かー、お姉さんに似て美人なんだろうなー。
そんなたまには男子高校生らしい想像を膨らましていると姉貴の声がリビングが聞こえてきて、それを言葉に思わず包丁を持っていた右手が急停止する。
「その妹って、シュウジが言ってたハルヒの自己紹介した子よ」
野菜を切る音も、水の音も止まって、部屋の中が一気に静かになる。そのなかで野球中継をするテレビだけが盛り上がっていた。どうやらでかい当たりが出たらしい。0ー0に、ようやく点数が入りそうだ。
「は?」
「いやあ、私もモミちゃんと知り合った後からわかったんだけどね。あ、モミちゃんの妹ってシュウジの言ってた子だって。でも、モミっちは変というか全然まじめな感じで似てないなってずっと思ってたわけ。あ、これ、イッツアスモールワールドって感じ?」
「ちょっと待て、なんでいままで言わなかったんだよッ!」
「だって聞かれなかったし」
姉貴の発言に思わず頭を抱えたくなる。でも、まだ右手に包丁を持ったままだしな、とりあえずこれをどっかに置かないと。いま包丁なんて使ったら指のカルパッチョでもつくってしまいそうだ。
隣でモミちゃんさんは「ハルヒ?」と疑問符をつけてつぶやいている。この人はそういうの知らない人なのかもしれないな。まあ、妹がどんなことを始業式でやらかしたなんて知る必要はないと思うけれど。
「え、なに? シュウジくん、楓と知り合いなの?」
モミちゃんさんが口にした名前で99%の確信をする。そう言われればどことなく顔が似ているような。身長も同じように低いし。
「あの、もしかして名字って鈴村ですか?」
「う、うん。鈴村紅葉」
あー、だから“モミちゃん”なのか。
鈴村紅葉だなんてどこかの女優と一文字違いだなと思ったあとに、父親と母親は千秋さんとか秋子さんとかなんだろうかなんてどうでもいいことが頭をよぎる。それとも二人とも秋生まれなのかもしれない。
「あ、俺も北高に通ってて、妹さんとは同じクラスです」
「そうだったの! ああ、いつも楓がお世話になってます」
「いえいえこちらこそ……」
なぜか急に行儀良くおじぎをしあってしまう。
本当に妹さんには迷惑をかけられてますよなんて言葉は口が裂けても言えず、どう説明すればいいか言葉の続きに困る。
少ししてからモミちゃんさんこと紅葉さんも、姉貴に向かってなんで教えてくれなかったのと文句を言う。姉貴は笑って誤魔化して、テレビに映った打者に向かって「打てー!」と叫び応援をする。本当にどこまでも意地悪な人だ。
「あ、あの、妹さんって普段はどんな感じですか」
これ以上姉貴を詰問しても大したことも聞けそうになかったので、ふと気になったことを訊いてみる。俺はいつのまにか家でも学校でも大して変わりようのないような生活になってしまっているが、そうではないやつもいるだろう。
「楓は、そうねえ。少し前まではいろいろあって、どこか塞ぎがちだったんだけど、さいきんはまた昔みたいに笑うようになってね」
「そうですか」
「だから、私もさいきんは嬉しいの。学校に意地悪な男の子がいるんだって、この前言ってたんだけど、もしかしてシュウジくんのことかな?」
「い、いや、そんなことは……」
訊ねるモミちゃんさんの目は優しいものだったけれど、あわてて否定せずにはいられなかった。意地悪ってそんな小学生みたいなこと、本当に俺のことを指しているんだろうか。きっと押見のことだよな、うんうん。
「まーた二人で盛り上がってるう」
姉貴がそんな無責任な文句をまた言ってくる。こうなるような爆弾発言をしたのはどこのどいつだよ。
「あの……」
少しためらうようにして、モミちゃんさんが言葉を口にする。それは料理の質問の教えてほしいとは違い、純粋に知りたいという気持ちが伝わってくるようなトーンだった。
「楓は、学校ではどんな子?」
俺はその質問に一度を料理を再開するような素振りを見せて間を置いてから、素直な言葉を吐き出す。
「普通の、女の子っすよ」
モミちゃんさんがほっと微笑む。どこか見覚えのあるその笑顔は、とても優しかった。
〈おわり〉