リナが魔法の契約をして二日目の朝。
寝ぼけ眼をこすりながら一階に降り、顔を洗い、パジャマ姿のまま朝食をとる。当然のことだけど、特別な力を手に入れたからって日常は変わらない。その日もいつもと同じような朝だった。
リビングでは父と弟がすでにテーブルに着いていた。「おはよー」と挨拶すると、父は読みかけの新聞から目を離して「おう」と返す。母は「もうちょっと早く起きなさい」とたしなめながらトーストを用意してくれた。そんなとても平和な一日の始まり。でも、テルだけがこっちを見てくれなかった。いったいどうしてだろう。お姉ちゃんよく分からない。
なんて、とぼけている時間の余裕はなかった。朝のテレビ番組に表示される時刻を見て焦る。リナは急いでトーストを頬張り、部屋で制服に着替え(指先が不器用なので胸元のリボンを結ぶのに手間取る)、家族で一番最後にいってきますを言って家を飛び出したのだった。
それにしても昨夜はひどい目に遭った。それはリナとテルと悪魔、全員の意見として一致していた。
哀れなテルは純潔を奪われ、悪魔はその件についてリナにこっぴどく叱られ、リナは無駄なキスをした上に命の危機にまで陥りかけた。
例の悪魔の言い忘れていたこととは、魔法が成功する対象について。それは基本として血縁者を除いた他人とのキスでなければならない。つまり昨夜のリナとテルのキスは失敗であり、魔法も掛からず、ノルマの達成にもならなかった。ふざけんな、である。
「あんたさあ、人間ナメてるわけ? ねえ、それって一番最初に言っておくことなんじゃないの? 忘れてたって言い訳にならないよね? どういうつもりで契約とか偉そうなことぬかしてたわけ? つーかあんた本当に悪魔なの? 本当は詐欺師とかでしょ?」
悪魔はいつの間にか正座を強要されていた。腕を組みながらそれを見下ろすリナ。彼女の切れ長の目は氷のように冷たい。悪魔の彼はどうして人間にここまで怒られなければならないのか理解に苦しんだが、それでも従う他なかった。だって、リナさんがとっても怖かったから。
結局のところ、昨日のノルマに関しては悪魔が妥協することで落ち着いた。彼のミスが原因なのだから当然といえば当然だ。
その後、リナは悪魔との契約を文書に残すことで明文化させた。リナにしてみれば命が懸っているのだ。大切な部分をあやふやにされ、そのせいで死にましたなんて冗談じゃない。悪魔の世界はどうか知らないが、人間の世界の契約はきちんと文書に記すのが常識だ。面倒臭がる悪魔に説教をしながら、リナは契約に関する一通りをまとめた。もちろん記述されていないこと(悪魔の申告漏らし)が起こった場合にリナが責任を問われることはない。そこまで悪魔に確認を取り、納得した上での契約だった。
リナはこれまでにないくらい頭を働かせて、もう帰りたいと駄々をこねる悪魔を叱咤しながら、夜遅くまで頑張ってまとめた。学校の試験のよりも集中し、ケアレスミスはないか見落としている点はないかとチェックを重ねた。おかげで睡眠時間はいつもより少なくて、眠さと気だるさが朝に響いている。足りないぶんは通学の電車の中でうつらうつらしながら補うことにした。
「えーこの先カーブが続きます。揺れますのでー、えーお近くの吊り革手すりにお掴まりください」
その車内アナウンスが聞こえると、半分眠っていたリナの身体がビクっと反応した。最寄りから二回乗り継いだあとの三つ目の電車。車掌の事務的な口調は、いつもの地点でいつもの調子で電車内に響いた。リナはそれを苦手にしたまま、どうしても克服できないでいる。
リナは電車が嫌いだ。
とくに嫌いなのは朝の通勤ラッシュ時の満員電車。そりゃそんなもん誰だって好きじゃないって思われるだろう。しかし彼女の場合はちょっとした悲劇が関わっている。
ことの発端はこの年の四月に遡る。その日は始業式、つまりリナの高校デビューの初日だった。天気は今日と同じような快晴で、少しだけ暖かい、穏やかな春の気候。うきうきするような朝だった。
地元の中学を卒業したばかりのリナにとって通学に電車を使うのは初めてのことで、とても新鮮な気持ちだった。最寄り駅に着いて朝の人の多さを知っても、それが妙に嬉しくてテンションが高くなる。スーツを着たサラリーマンたちと一緒に電車に乗る自分がなんだか大人の仲間入りしたように感じられたのだ。
反対側の電車では満員を承知でさらに乗り込もうとする人で溢れ、押し合いへし合いする様子が見られた。それはまさしく朝の格闘。お尻で押して自分のスペースを確保しようとするスーツ姿のオバサンが輝いて見えた。
しかし、いざリナが電車に乗り込むと、待っていたのは過酷な現実であった。人混みから伝わる不快な熱、淀んだ空気の苦しさ。押され、潰され、誰かの肘で小突かれる。「ちょっと、いまの誰?」なんて振り向くことすらできない。最初の乗り継ぎ駅に着いたときにはすっかり気分は悪くなり、もう帰りたいとすら思った。
そんなものを二回乗り継ぎ、ようやく最後の電車に乗る。あと一本、二十分も掛からない辛抱だと決意するリナ。そのときに聞こえてきたのが、例のカーブを告げる車内アナウンスだった。
せめて吊り革か手すりに掴まることができれば違ったかもしれない。人の壁に挟まれて辛うじて立っていられた彼女は、カーブによる電車の揺れ、重力の移動、人の圧力の変化を無抵抗のまま全て味わった。頭の中でギエエ、と叫んでも誰も助けてくれない。世間を知らなかった十五歳の少女にそれは過酷と言わざるをえない。
そのときだった。揺れを利用してか、何者かによる見えざる手がリナを襲った。
どさくさに紛れて、しかし確実にリナのお尻に指が触れる。それが故意か過失かは触られた女性には分かるものだ。明確な意図を持ってリナに触れる指。年季の入ったオッサンのものであろうゴツゴツしたそれは、スカートの上から遠慮がない。いま思い出しても不愉快で胸糞が悪くなる。
満員の電車内はいつだって沈黙に包まれている。無駄な労力を使わないように皆が無心になっているのだろう。その静かな車内は、余計に彼女を孤独にさせた。本当は早くやめさせたい。しかしそのためには注意したり誰かに助けを求めて声を出す必要がある。車内の沈黙は、その勇気を奪っていくのである。テレビで痴漢の報道がされるたびに「痴漢なんて、やめてくださいって言えばいいのに」とリナは考えてきた。それがどれだけ浅はかだったか、身をもって思い知らされたのだ。
結局、神楽町駅に着くまでリナは好き放題されてしまった。神楽町駅は彼女の通う大見高校の最寄りであり、同じ電車に乗り合わせた同じ制服の生徒たちが大挙して下車する。痴漢の手はそこで止まり、どこかへ消えた。
この路線を使っている人なら、その制服を見れば大見の生徒だと分かる。きっと痴漢は狙っていたのだろう。もしかしたら隙だらけの新入生に的をしぼり、リナはその絶好のカモと思われたのかもしれない。彼女はすぐに駅のトイレに駆け込んだ。個室にこもってからの数分間は、涙が出ないように自分を落ち着かせることで精一杯だった。
電車は今日も目的地に着いた。リナは無事だったことに安堵して下車する。この通学の四十分は、本当に彼女の神経を磨り減らせるものなのだ。まあ、今朝の大半は眠りこけていたのだけれど。
神楽町駅の改札を抜けると、辺りには見通しの良い景色が広がっている。
ここは昨年改装されたばかりの綺麗な駅で、それに連動してニュータウン化の計画があると聞く。まだ開発されきっていない広々とした区画には新しい街路樹が均等に並べられ、せめてもの景観を作っていた。リナはその中途半端だけどごちゃごちゃしてない雰囲気が好きだ。
そこからちょっと歩くと、屋根のない商店街に囲まれた広い道にでる。綺麗に舗装されたこの道をまっすぐ行けば、私立大見高校はすぐそこだ。通学路となったその商店街の道を、リナと同じ制服を着た大勢の生徒たちが彼女の前を歩き、後ろにも続いていた。安心する見慣れた光景。ここでようやく、リナは本当の朝を実感するのだ。
「リナ、おっはよっ」
道の途中で弾むような声がして、振り向くと同時にリナは後ろから抱きつかれた。振り向かずとも声の感じで誰かは分かっていた。
「ナツミかあ。おはよ」
「ちょっとー、なんか反応うすーい」
「あたし寝起きだから」
ナツミの表情は明るかった。今朝のお通じの具合でも良かったのだろうか、なんて品のないことはなるべく言わないようにしたい。本当は言うまでもなく分かっている。彼氏ができてからというもの、彼女は毎日こんな調子だ。
「それにしても朝っぱらから元気だね」
「リナが見えたから走ってきちゃった」
「ふうん。よく後ろから分かったね」
「分かるよお。リナって結構、目立つから」
「えっ。あたしって目立つの?」
「目立つよー。とくにお尻とか」
ナツミは含み笑いでそう言うと、リナのお尻を触れるか触れないかの感じでさっと撫でた。
「あっこら、チカン!」
リナはわざとらしく反応して、軽くこぶしを振り上げる。きゃー、と笑ってショートヘアの小さな頭を押さえるナツミ。周りを歩く生徒たちは、こいつら朝から元気だなと言わんばかりの冷めた目線をこちらに寄越した。正直恥ずかしいけれど、こういうのってドラマの一場面みたいで、はしゃいでる本人たちは本気で楽しんでいたりするものだ。
ついさっき痴漢のエピソードを思い起こしたばかりだけど、ナツミのスキンシップはその忌々しさをかき消してくれた。同じ触られるにしても友達なら気にならない。むしろ、ちょっと嬉しかったりして。ナツミだけじゃなく、きっとキョウコにされても同じだろう。マユにだって構わない。カナは、うーん、なんか手つきがやらしそうで怖い。
友達が横にいる安心感。話し相手がいる幸福感。リナの頭はすっかり醒めていた。それから学校に着くまで、ふたりはくだらない話をして盛り上がった。それでも話題を提供するのはほとんどがナツミだった。
女の子は恋をするとおしゃべりになる。愛しのカレがいるなら尚さらだろう。ナツミの口は非常によく動いた。その唇をリナはじっと見る。乾燥しがちな季節だけど、ちゃんとリップクリームがしてあるみたいで、かさつきは見られない。
「リップ、気合入ってるじゃん」
リナが何気なく指摘すると、ナツミは照れて笑った。
ナツミはこの唇で、彼氏と何を語り合ったのだろうか。この唇で、どんなキスをしたのだろうか。垂れ目がちなナツミは目をつむると微笑むような表情になるのを知っている。それは、キスのときも同じなのだろうか。変な方向に冴え渡るリナの頭は、そのムッツリな思考回路を遺憾なく発揮した(決して威張れることではない)。
「ね、ナツミ。あたしとキスしてみない?」
なんの脈略もなく、リナはナツミに問いかけた。もうちょっと言葉があっただろうけど、考える前に言葉が勝手に口をついてしまったのだ。醒めたつもりの頭はまだ寝ていたのかもしれない。
「いいよ?」
ナツミは答えた。なんの抵抗もなく、そんなの聞くほどのこと? と言わんばかりの表情で。
魔法の力は本物だった。
学校へ向かうの大見生の流れの中を、ふたりだけが止まった。ナツミは薄く瞳を閉じ、唇をこちらに向けた。自分より少し身長の高いリナのために顎を少し上げ、白い喉を見せる。それはリナのためというより、もしかしたら彼氏とのいつもの形なのかもしれない。
ナツミの唇は、リナを誘うように瑞々しい輝きを放っていた。無言のまま、思わず吸い込まれそうになる。でも、ちょっと待て待て。
気づくとふたりは注目を浴びていた。何人かの大見生たちが、ふたりの近くを通り過ぎるついでに好奇の視線を向けてくる。やっとリナの頭は完全に醒めた。「公開キスショーかよ!」という叫びと共に。
「ナツミ? いやいや、冗談だよ?」
慌てて彼女の肩を揺するリナ。ナツミはゆっくり目を開けると、残念そうに眉をひそめた。
「冗談なの?」
「えっと、ほら、みんな見てるから」
「えー。わたしは別にいいのに」
「あたしが良くないっていうか……」
「リナとなら、わたしどこでもキスできるんだけどなー」
びっくりした。ドキドキした。どっかの中坊とするのとはワケが違う。友達とはいえ、他人とするキスはこんなにも緊張するものなのだろうか。本物のキスは、やっぱりどこか……怖い。
そしてあまりに効き過ぎる魔法も考えものだった。魔法と言っても「キスしよー」「いいよー」「チュッ」なーんて程度の軽いものだと思っていた。しかしナツミの表情は明らかに、友達同士のスキンシップという範囲を超えたものだった。それはまるで愛しい恋人に向けてするような、そんな艶のあるキスの顔。
ふたりは改めて学校へ向かった。リナは顔が火照りすぎて冷や汗が出る思いだった。その間、となりを飄々と歩くナツミの顔を見られなかったのは、言うまでもない。