「あのさっ。あたしがキスしたいって言ったら、してくれる?」
まだクラスメイトの揃いきっていない朝のホームルーム前。
教室に着くなり、さっそくリナは、それほど親しくもない子を含めた数人の女子に話しかけてまわった。何気なく近づいて内緒話をするように。ある意味これは実験だ。今のうちに確かめておきたいことがあったのだ。
一つは魔法の信用性について。さっきのナツミはなんの躊躇いもなくリナを受け入れようとしたけれど、それは仲が良いからこその反応だったかもしれない。ぶっちゃけると魔法なしでもキスをさせてくれそうな雰囲気が彼女にはある(大変失礼)。だから他の子、つまり常識的に考えてキスを拒否するであろう相手でも確かめる必要があった。
もう一つは魔法の条件について。悪魔との契約によると、魔法はあくまで「キスしましょ」と合意を求めることで発動する。なにも言わずに急に唇を奪おうとしても魔法は掛からない。そこを間違えるとびっくりされて、反射的に頬をひっぱたかれて、リナは見境のない女というイメージを広められた挙句この学校にいられなくなるだろう。シャレの通じない人にしたら大問題になりかねないわけで、切実に、それだけは回避したいのだ。ちゃんと合意してくれるかどうかの確認作業は怠るわけにいかなかった。
ちなみに実験対象が女子に限られているのは、決してリナが同性愛者だからというわけではない。ただ、好きでもない人とキスをするときに抵抗がないのは女子のほう。それだけの話だ。本当に、それだけの話。
さて、結果から言うと魔法は絶大な効果を発揮した。上述のリナの台詞に対して全員がキスを快諾したのだ。あまりに上手くいきすぎて、リナのほうが戸惑ってしまったほどだ。
わざとなにも言わずに、寸止めのつもりでキスしてみようともした。すると相手は、えっ? と驚いて顔を引く。これがまともな反応。しかしそこで「ごめん、キスしてみたかったの。していい?」と改めると、人によって態度の違いはあれど、基本的には「それなら言ってくれればいいのに」というように、彼女たちは全く拒否する素振りを見せずに唇を差し出すのだ。
怖いくらいの威力。結局くちづけは誰にもしなかったけれど、魔法に間違いはないという確証が得られた。
しかし、である。いくらリナと相手が合意の上であっても、その周りから見たらやっぱり変に思われるかもしれない。今朝のナツミとのやり取りを思い出してほしい。あの、ふたりをいぶかしげに見つめる通行人たちの視線。いけないことを咎められているような感覚。ちょっぴり興奮しちゃった、というのは置いといて、人前を避けるべきなのは当然のことだ。ジョークで女の子同士、軽くちゅっとするのは無きにしも非ずだが、人前で堂々と
「ねえ、キスしていいかしら。うっふん」
「よろしくてよ。うっふん」
なんて始めたら、そりゃ怪しい。そっち側の人なのかと疑われ、異議を唱えたところで不純同性交遊の罪を免れる術はなく、やっぱりこの学校にいられなくなるだろう。仮にクラスの誰もが優しくて「リナさんはそういう趣向みたいだから、みんな偏見を持たずに接してあげようね」なんて憐れみの空気を醸しだされたとしても、それはそれで死にたくなるだけだ。
キスはやっぱり、こっそりするに限る。人前ですればハレンチ扱いになるそれは、ふたりきりなら愛の営みになる。できればロマンチックに、大切なイベントにしたい。少なくとも、ノルマをこなすためだけの質素なものにはしたくなかった。
それからリナは機をうかがった。そしてお昼休みの時間がやってきた。いつものように仲良し五人は集まり、その辺の空いた机をくっつけてお弁当タイムに入る。
一時間目が始まってからリナはずっと脳内シミュレーションを続けてきた。キスをするなら、誰とするか。そしてどこでするか。いつするか。そればかり考えていたせいで午前の授業はさっぱり頭に入っていない。ぼうっとしていたところを、ちょうど真後ろの席のマユに突っつかれて我に返ったりもした。頭に浮かぶのは女の子の艶っぽい唇。原因は、今朝のナツミのせいだ。
何時間も悶々とし続けたせいか、お弁当の味もよく分からなかった。自分でも気づかぬうちにすごいスピードで口に運んでいたようで「リナ、なに焦って食ってんの」とカナに笑われた。喉が詰まりそうになって、慌ててお茶で流し込む。今からこんな緊張しているようではダメ、と自分を落ち着かせた。
決心は固めたはずである。キスをいつするか、それはお昼休みの今だ。
「ね、ちょっといい?」
「ん? いいよ」
みんながお弁当を食べ終わり、適当にくだらない雑談をする時間。リナはさり気なく一人に声をかけ、席を立った。
こういうとき、女子高生の間に違和感はない。友達ならなにも言わずに付いてきてくれるし、他の三人も相変わらずおしゃべりに夢中になっている。女の子は単独で行動せず群れる習性があるから、なにかをするときに誰かを呼ぶのはおかしなことではない。このさり気ない感じからして、みんなはリナがきっとトイレに行きたいのだと思った。思ったというより、普通のことすぎて誰も気にとめない。だから「リナたちどこ行くの?」なんて止める子はいないのだ。
教室を出たふたりは廊下を通り、階段を上った。リナの目指す先は屋上だ。
「あれ、トイレじゃないの?」
途中、彼女はあてが外れたというように尋ね、リナは「うん、まあ」と濁した。
「どこ行くの?」
「いいから、いいから」
まるで、なにも知らない幼気な少女を連れ去ろうとしている気分。不思議そうな表情を見せる彼女は、まさか自分がこれから唇を奪われるとは思ってもみないだろう。
校舎の四階にあたる屋上にはすぐに着いた。ドアを隔てた踊り場は誰もいなくて、静かで、ちょっと肌寒かった。
その一つ階下は三年生の教室が並び、廊下からは楽しそうなざわめきや話し声がかすかに聞こえる。聞こえるといってもその程度で、向こう側がなにを話しているかなんてこっちには聞こえるわけもない。それは当然、逆も然りというわけだ。
「なに、屋上? 勝手に入れないんじゃなかったっけ」
試しに彼女が屋上のドアを開けようとするが、施錠されたドアノブは回りきらない。この学校では基本的に、生徒だけで屋上には入れないことになっている。だからこそ都合がいい。キスをどこでするか、それは屋上の前の踊り場だ。
ここは秘め事をするにはもってこいのスポットだ。いつだったかリナがネット上で読んだ大人の漫画では、周囲を気にするカップルが踊り場で誰もいないのをいいことに大胆に求め合う描写があり、それがムッツリ少女の琴線を大きくくすぐった。いつか自分もこんなスクールラブを味わってみたいと、涎を垂らす勢いで興奮したのを覚えている。その実現が今、限りなく近いところまで迫っていた。
「屋上じゃなくてここに用があったの。ていうか、お願いがあってさ」
「えーなに、なに?」
リナは息をのんで、ターゲットである彼女――キョウコを見つめた。
「まあその……キスしない?」
言葉に詰まった上に声が震えてしまった。成功するのは分かっているはずなのに。
キョウコの反応もまた、みんなと同じだった。一瞬だけきょとんとした目をこちらに向けると、すぐに表情を緩め
「いいよ」
と、ハートマークが一つだけくっついたような、そんな甘い声で返事をした。
リナはほっとして一息ついた。最初のキスを誰とするかなんて、キョウコ以外考えられなかった。友達を順位付けするわけじゃないけれど、やっぱり一番の親友は彼女だと思っているから。
「なに、リナちんってばそのためにこんなトコに連れてきたわけ?」
「別にそういうわけじゃないんだけどさ……」
「もしかして、みんなに見られるのがイヤだったとか?」
「そ、そんなんじゃないし」
「リナちん、かーわいっ」
「ちがうっつの!」
明らかな図星を突かれ、リナは慌てた。キョウコは小さくかがみ、見透かすような上目使いでリナを見た。
「あたしはリナちんとならいつでもどこでもオッケーだよ」
そう言ってぐいっと身体を近づけるキョウコ。こぼれた髪をかきあげる仕草で、彼女の漆黒のロングヘアがさらっと揺れた。
いいなあ、っていつも思う。自分もこれくらい綺麗な髪だったら、キョウコみたいに長くするのに。不意にリナは自分の髪の先を指でつまんだ。
リナはあまり自分の髪が好きではない。だから考えなしに染めちゃったし、肩に掛かる程度の長さから変えようとせず、髪型で遊ぶこともしない。物心ついたときからオーソドックスなセミロングのままでいる。
「実はさ、あたし前から一度リナちんとキスしてみたかったんだよね。キス詳しいしさ、どんなテク持ってるのかなーって」
そんなものはございません。リナは追い詰められたように後ろへ一歩下がった。その一歩を、キョウコが容赦なく詰め寄る。キスしようと言ったのはリナの方なのに、主導権は完全にキョウコが握っていた。これが知識だけのニセモノと、キス慣れしたホンモノとの差なのだろうか。威圧感さえ覚える彼女のアダルトチックな雰囲気に、リナは完全にのまれていた。
そして無言の合図の上でふたりの唇は繋がった。それはキスというよりも接吻と表現した方が適当かもしれない。リナの唇とキョウコの唇は、隙間もないくらいに密着して重なりあった。ぷるんとした柔らかい感触と、彼女の漂わせる化粧品の匂いが鼻をつく。
その唇を割って、キョウコの舌がリナのなかへと入ってくる。「うわ、マジかこいつ!」と頭の中で叫んだ。舌と舌が重なりあい、リナはようやくそれがディープキス(その中でも激しい部類にあたるカクテルキス)であることを自覚した。
キョウコの舌には妙な甘さが残っていた。ペロ……これは、さっきまで彼女が飲んでいたフルーツ・オレの味。同様に自分の飲み物も思い出して、リナの血の気が引く。玄米茶(焼きたての香り)などという、とても女子高生らしからぬものだったからだ。健康には良いけれど、思春期の女子がキスの前に飲むようなものではない。
リナは全てにおいて完敗だった。最近よく耳にする女子力なるものが実在するのであれば、それは限りなくゼロに近いだろう。しかしこのまま引き下がるわけにもいかなかった。ここでヘタレたら、かつて披露したキスの知識が実践によるものでないとバレてしまう。ましてキョウコはリナに一目置いていたのだ。失望する彼女を想像するだけで胃が痛くなった。
こうなったら刺し違えるつもりで殺るしかない。窮鼠猫を噛むとばかりに、リナは必死になって反撃に転じた。
「んんっ」
大きく瞬きをしてから、キョウコは「やったな」という表情に変わった。
そこからは、女の意地をかけた闘いである。いつの間にかふたりは手を絡め合っていた。キョウコの握りしめる力が強くなって、指のまたがちょっと痛い。
静かな空間に響くのは、ふたりの吐息と舌の交わる音だけだった。呼吸が苦しくなっても止められない。ふたりはなにかに取り憑かれたようにお互いを求め合っていた。撫でて、絡めて、包む動きを続けるふたりの舌。ほんの十数秒が、何倍にも長く感じられた。
そして同じようなタイミングでふたりは唇を離した。
「あっ」
手まで離すと、キョウコはその場に腰を落としてしまった。
「やだあ、腰が抜けちゃった……」
尻餅をついたまま、恥ずかしそうにリナを見上げた。とろけた表情。少なくとも、女友達に向けるものではない。リナはそのとき自分がどんな表情をしているのか分からなかった。
「もー、リナちんってばすごすぎ……こんなの初めてだよ」
「そんなの、あたしだって……」
リナの舌にはまだキョウコの感触が残っていた。柔らかくて、あたたかくて、痺れるほど甘かった。
リナがキョウコの腕を引っ張り上げると、ふたたび顔が近づいて、んふっとキョウコは笑みを浮かべた。
「ありがと。じゃ、教室に戻ろっか」
終わってみるとあっけないものだった。キョウコは満足そうに笑うと、階段を一段一段飛び跳ねるようにして降り始めた。彼女の艶のある髪がふわっと膨らんで跳ねる。リナはやばいなあ、やばいなあ、と思いながら彼女のあとに続いた。
女の子同士なのに、キスにハマってしまいそう。リナは自分の唇を指で確かめながら、その余韻をいつまでも味わい続けた。