外の風は頬にひんやり心地よく、ほろほろとした酔い気も吹かれて流れてどこかへ飛んでいってしまった。かわりにやって来るのは夜の高揚感だ。うらびれたスラム街をわたしたちは歩く。この通りは電灯がすくない。とても薄暗い。そしてとても静かだ。ここでは誰も声なんて使わない。みんな有線で直接交信する。そっちのほうが安心だから。くだらない世間話だってここでは貴重な情報だ。そんなことでうっかり殺されてしまうのは誰だってイヤだから。でも、わたしたちにはそんなの関係ない。
「ね、ほら、あれ見て」
とひいちゃんが指差す先、低い屋根をとびこえて現れるのは、中央街はド真ん中にすっくそびえるセントラル・タワーのいと高きだ。その比類無き偉容がわたしたちを見つめている。きらきらと宝石のような明かりたちはとてもきれいで、おもわずほう、とため息をついてしまった。
「こんなところからでも見えるんだね、あれ」
ねー。と相づちをつく。ひいちゃんは卑猥なてつきをして、続ける。
「まるで男根だよ。でかくて黒くてビンビンで」
「どわっひゃーだよね。さて、こんなに静かな夜ですが、わたし、歌います。聞いてください。♪みっつならんでだんこん! だんこん!」
「どわっひゃーだよね。つうかきみも古い歌知ってるよね」
「死んだおばあちゃんから教えてもらったの」
うふ。
物陰から投げつけられる強い視線を感じる。とびきりの恐れと我慢とを添えて、いくつも、いくつも。数えきれない。なっちゃんは馬鹿な子だから三までしか数えられない。わたしは違うよ、百だって千だってお手のものだ。でも数えきれない。なぜってなぜって、とっても面倒くさいんだもの。あは。
こういう吹きだまりこそ、むしろわたしたちには安全だ。誰かさんの大切な商売道具は壊しちゃいけない、てなことをみんなよく知っているから。手っ取り早く毒を制したいならより強い毒を飲めばいいんだ。
誰かがわたしに触れようものなら、そのとき飛んでくるのは視線ではなく銃弾で、その日はきっとホットで素敵な夜になることを約束できる。流れる赤色は情熱の色。憤怒の色でもあるかな。ぷんすかぷん! お仕事を助けてくれるお兄さんたちはみんな優しいけれど、わたしたちに向けるかわいい笑顔の裏には、ぎんぎら輝く拳銃が隠されている。そんなことくらい誰だって知ってるんだ。銃口がこっちには決して向けられないことも。ね。
中央街はダメだ。あそこは潔癖症ばかりだ。警官はわたしたちを見るなりとっ捕まえようと追っかけてくる。逃げるのは大変。疲れるし、足がいたくなる。捕まることも多い。ばーか、ばーか。ほんとは逃げるまでもないんだ。だってわれらが誰かさんは警察のお偉いひとたちとも仲良しだもの。でも夜のお散歩を邪魔されるのはいや。だからそんなところいかない。ラリパッパーなジャンキーどももいるしね。かっこつけて悪い子ぶってるくせに、スラムには来れない中途ハンパーたち。ナンパはできるけどレイパーにはなれない馬鹿野郎たち。あいつらもきらいだ。
もういちどセントラル・タワーのほうを見やる。とってもきれい。堂々としてて格好いい。ああ、中央街のなかでも、あれはいいよね。だいすき。
「お嬢ちゃんたち」
とふいに声がした。横を向けば太った女のひとが地べたに座っている。その前にはたくさんのがらくたたちが並べられている。
「おもしろいおもちゃがあるよ。見ていかない?」
……声は優しいけれど気をつけなければいけないよ。スラムでの買い物なんてバクチみたいなもんなんだから。
ひいちゃんがそっと耳打ちしてくる。わかってるよ。ちいさくうなずく。
「ほら、これなんてどうかしら」
おばさんは口調こそ露天商のそれなのだけど、動作からはどことなくやる気のない怠惰な印象をうける。まのびした動きで差しだしたのはバイブレーションだ。その、なんていおうか、もちろん性的なアレだ。スイッチいれてぎゅいんぎゅいん。あの子にいれてあはんあはん。そんなやつ。これは電脳に無線でつないで動かせるやつ。上手なひとはつぶつぶのひとつひとつまで自由自在なやつ。これがなかなかいいんだよ、うっへっへっへ。
でもこんなもの、お仕事先にもあるっての。見飽きてる。そもそもわたし電脳ないしね。使えないしね。却下だ。
「いらない」
「あら、そう? 残念」
なんて言いながら声にはまったく残念そうな響きがなかった。スラムにはこういう人もいるにはいる。あくまでも少数派だけれどね。もちろん多数派をしめるのは、もっと暴力的で荒っぽい人たちだ。物陰からわたしたちの動きをじっとうかがっている人たちだ。ぐーでもちょきでもナイフでも銃でもなんでもいい。使えるものは何でも使う。意地でも買わせて高笑い。平和なことでご立派です。
うへへ、ま、わたしらが言えることじゃあないけどね。
「じゃ、これはどうかな」
今度はねずみのおもちゃが出てくる。ぱっと見じゃ本物と見分けがつかない人造機械生物(アニマトロニクス)。おばさんが背をなでると、ちゅーちゅーとかわいい電子音がひびく。してえ。超してえ。もふもふしてえ。
「でも、いらないよ」
「こんなにかわいいのに?」
「ねずみなら今だってしょっちゅう出てくるもん。しょぼいんだ、うち」
「あら、かわいそうに。儲けてるんでしょ?」
「べつに引っ越してもいいんだけどね。昔から住んでるところだから」
「そうなの。まあいいわ。じゃ、次いくわね」
「どんとこーい」
次に差しだされたのは首吊り人形だ。かわいい女の子の首にロープがひっかけられていて、その先っぽをおばさんが持って、ぶらーんぶらん。右に左に揺れている。しかも。
「あ、てめえ、これTOKYOちゃんの人形じゃないか。なにしてくれんだこのくそばばあ。ぶっ殺すぞ」
隣から声がする。ひいちゃんのきよく澄んだ声がする。わりと本気で怒っている。話題のネットアイドルTOKYOは、ひいちゃんの大のお気に入りだから。でも、こんなにこんなに取り乱すことがあるなんてね。ちょっと想像できなかったな。むう。
なんとなくむかつくので、足下の鉄クズをけっとばした。明後日の方向に飛んでいった塊は廃墟同然のビルにぶつかって、はね返って、そのまま暗がりへと消えていった。きい。
「TOKYOちゃん? はて、はじめて聞くけどねえ」
おばさんは言った。
「うるさいな情弱は黙ってろよ。いいからそれさっさと目の届かないところにどけてくれ。気分がわるい」
「わかったわかったわかったよ。わかったからあんまり怒らないでくれ。心臓に悪いガキだなあ、まったくもう」
と、おばさんは人形を背後に隠す。それから途方にくれたように、ほう、とため息をついた。
「ふんふん、困ったな。そうなるとなにを見てもらうべきか、ちょっとわからなくなる。逆に聞くけど、あんたらなんか欲しいものないのかい?」
「わたしはなにも」
首をふると、おばさん今度はひいちゃんの方に話をふる。
「ポニーテールのお嬢ちゃん、それじゃあ、あんたはなにが欲しいのかな」
「私? うーん、欲しいものか」
一拍ひと呼吸だけあった。しん、と静かな夜のとばりが降りて、あたりは無音につつまれる。誰もが静寂を知覚したであろう絶妙なタイミングで声がした。
「私は、そうだな、生きる糧が欲しい」
ひいちゃんは真顔で言う。もともと表情の変化が少ない子だから、それは見慣れた顔だ。声だっていつものトーンで、もう何度も何度も聞いてきた口調だ。
だけど、その言葉はさきほど取り乱していたひいちゃんの何倍も鮮烈にうつった。もうきっと忘れることはないだろうな、と思った。
生きる糧。こんなにも悲しい言葉は他にないだろう、と思った。
それをおばさんは笑った。ひい、ひい、ひい。お腹を抱え、大袈裟なくらいに笑った。
「生きる糧? ひい、ひい。そんなものが欲しいのか。いいよ、くれてやるよ、ほら」
そう言って放り投げてきたなにか。ひいちゃんが上手にキャッチしたなにかは、さっきも見たTOKYOちゃん首吊り人形だ。ただし今は縄が外れている。だから、これはただのTOKYOちゃん人形だ。
「あたしの答えはそれさあ。悪いけど、他に持ち合わせはないね。で、どうだい? 買うかい?」
おばさんは言う。しばらく押し黙ったままのひいちゃんは、何度かわたしの顔を盗み見ると、うなずいて、
「買うよ。いくらだ?」
「金はいらないよ。どうせここで受け取ったってあいつらに盗まれるのがおちだからね」
指差す先には、じろじろたくさんの視線がこちらを向いている。さすがはスラムだ。心地良い腐り加減。だいすき。
でもひとつ分からないことがある。
「それじゃあ、おばさんはなんでこんなところで露天商なんてしてるの? ばかなの?」
おばさんはニンマリ笑った。真っ白な歯が露出して、その作り物めいた光沢に、はじめて、この人がアンドロイドなのだ、ということを知った。
「そんなこと、キミ達は知らなくともいいんだあよ。ま、そのうち分かるさ。そのうちね。たとえ永遠に分からなくたって、それはそれで問題ない」
話ながらおばさんは片付けをはじめる。大きなナップサックの中にがらくたを乱雑に詰め込んでいく。ぱんぱんになった袋の中から電子ねずみのちゅーちゅー鳴く声が聞こえてきた。それがなんとなく哀れで、よりいっそう可愛らしく思えて、ああやっぱり買っておけばよかったな、なんて今更ながらに後悔したり。
ひいちゃんは隣に突っ立って無言。ぼーっとTOKYOちゃん人形を眺めている。頭を撫でたり、頬をぐにぐにしたり、そんなことをしている。こうしてわたしが横顔をじっと見つめていてもまったく気付かない。
そんなにTOKYOちゃんがいいのかよ、馬鹿。
「それじゃ、あたしゃそろそろ帰るよ。また縁があったら顔会わせることもあるだろう。さもなくばずっとさよならさ! ひい、ひい。それじゃあな、お嬢ちゃんたち」
そう言っておばさんは去っていった。その時ですら、ひいちゃんは人形を見つめている。やがておばさんの背中が夜の暗がりに隠れてしまっても、まだ。
「ねえ」
なんだか無性にいらついて、ひいちゃんの袖をかるく引っ張った。するとようやく視線、こっちに向けて一言だけ。
「やっぱりちょっと似てるよね」
「ほへ?」
「うん、そうだね、私たちも散歩続けよっか。ちょっと行きたいところもあるし。きみはどう? どこか寄ってく?」
「ん、ん、んん。んんんん。ううん、わたしは大丈夫だよ」
「そう? じゃ、歩こうか」
そう言って自然な動きでわたしの左手を取って進みはじめる。その隣をちょこちょこ歩いていくと、足音の規則はバラバラで、それが可笑しくてちょっとだけ笑う。ひんやりとした夜気の中、ひいちゃんの体温だけがやけに熱い。
「だれがだれと似てるの?」
ふいに気になってひいちゃんに聞いた。
「似てるって、なにが?」
「さっきのTOKYOちゃん人形の話」
「ああ、それか」
ひいちゃんはしばらくじっと黙り込んで、それからとぼけるように視線を右上に泳がせて、それからうっすらと微笑んで、握る手の力をぎゅうと強くして、それから、それから、
「内緒だよ」
「え、ずるい」
「あは! ひとつ教えてあげようか。お姉さんっていうのはね、みなことごとくずるいものなのさ」
「むう、一体いつお姉さんになったんだよう」
「なんだよ、私はいっつもきみのこと、妹みたいに大事にしてきたのに」
「そーかー? だったらもっと構っておくれよ。今日だってひさびさしぶりじゃんかよ」
「おーけー。おーけー。ま、気がむいたらね」
ばらばらの足音と、降り注ぐ月明かりと、ひいちゃんの体温と、いっぱいの暗がりと。夜の底、ふたりきり、それだけが全てだった。
ふと思う。そういえばひいちゃんと手を繋いだのなんてはじめてじゃないのかな。
ひい、ひい、ひい。
嬉しくなってついほんとうに笑ってしまった。演技でないときの嬌声はこんなにも歪なかたちで、それをひいちゃんに聞かれたものだからついうつむきがちになってしまう。
ああん、あのおばさんくらい強くなれたらなあ!
自分の笑い声が恥ずかしいだなんて、そんな自意識過剰、それこそ笑い飛ばしてしまえればどれだけいいだろう。
それでもやっぱり反応が気になって、上目遣いでひいちゃんをのぞき見ると、けれどいつもの無表情だ。わたしの視線に気がつくと、どうしたの? という顔をして、ちっとも気にしちゃいない様子で、
ひい、ひい、ひい。
それが嬉しかったから、また笑った。
夜のお散歩は、まだまだまだまだ続きます。