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18.180秒の決闘

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「――だからね、わたしはちゃんとやっていたのだよ。ただわたしは運がなかったのだ。それだけのことなんだよ。わかるだろう?」
「ええ、そりゃあもう、もちろんっすよ藤林さん」
「だろう。なあ一つ目小僧くん――ええと名前はなんだったかな?」
「ヤンです。ただのヤン」
「そうだったね、ヤンくん。わたしは真面目に働いていたし、きちんと家族への務めも果たしていた。それなのに最後が酔っ払いに突き飛ばされて線路に落ちるなんて――まったく世の中どうかしてるよ。そう思うだろうヤンくん」
「ええ、そりゃあもう」ヤンもいい加減うんざりきていた。
「もちろんっすよ、藤林さん。あんたはまったくもって正しい人間だし、悪いことなんかひとつだってしちゃあいません。でもそれでも死ぬときゃ死ぬのが人間ってもんです」
「いや、納得できない。これは不当だ。神様のところへ案内してくれたまえ。一言文句を言ってやる」
「神様はちょっと俺にもアテがありませんが」ヤンは砂利道の先をついっと指差した。
「閻魔大王になら会えますよ。すぐにね」
「そいつがわたしをあんなバラバラな目に遭わせたのか」
「あいや、そういうわけじゃ――あ、ちょっと藤林さん、走んないでくださいよ! ったく元気だなあもう」
 藤林氏は肘を垂直に曲げて猛然と羅刹門へと突撃していった。待てと言って止まるおっさんではないことはヤンにもこの短い付き合いでよくわかっていたので、もう声を出すのも煩わしく、体育の授業よろしくとてとてとモーレツ社員の背中を追った。銀行員というよりは体操のお兄さんの十年後と言った方が相応しいだろう藤林氏は、ヤンを待つことなく羅刹門の扉を両手で押し開けた。普通は大の男二人がかりが押して開けるものなのだが、そんな常識は藤林氏には通用しない。
 関所のように長く伸びた羅刹門は二階建てになっており、一階は歴代の閻魔大王たちの像がひたすら立ち並んでいる。入り口の反対側にはもうひとつ扉があり、そこからあの世横丁へ出られるのだが、それも昔の話で今は固く閉ざされている。
「ヤンくん、わたしはあの扉を突破してもいいのかね」
「だ、駄目です」このおっさんなら体当たりでぶち破りかねない。ヤンはどうどう、と藤林氏をなだめた。
「まずは二階にいる閻魔大王に会ってもらいます」
「ふむ。死人が現世で犯した罪に裁定を下す方だな。さぞや立派な方なんだろう。お会いするのが楽しみだ」
「そう言ってもらえると俺も助かるっすよ。たまに会いたくないって駄々こねられることもあって――昔はこんな決め、なかったんだけど」
「ははは。何、わたしは嘘が大嫌いでね。自慢じゃないが小さな嘘ひとつ吐いたことがないんだ。閻魔大王だろうがお釈迦様だろうがわたしの舌を引っこ抜くことはできんよ。怖いことなどあるものか、さ、いこうヤンくん」
「ええ――」
 のっしのっしと朱塗りの階段を登っていく藤林氏の背中を見ながら、ひょっとしたらとヤンは思った。こいつなら、この性格ならひょっとすると成し遂げられるかもしれない。この羅刹門を超えてあの世横丁へ進める最初の死人になれるかもしれない。
 期待が胸に広がった。
「藤林さん」
「なんだい」
「――がんばってください」
 藤林氏は白い仮面を背後へ振り向けたが、にっと笑ったのがヤンにもわかった。かすかにはみ出た頬から人のよさそうな笑い皺がはみ出していた。
「大丈夫、自慢じゃないが、わたしは今まで誰にも何にも負けたことはないんだ。――死んでしまったこと以外はね」
 そう言って藤林氏は堂々と、朱塗りの扉を開け放った。扉が音を立てて開いていき、赤い絨毯が長々と伸びる間に出た。扉枠の上に金で刻まれたその部屋の名前をヤンはたったひとつの目玉で上目遣いに見やった。
 閻魔大王の間。
 つまり、それは、誰の部屋かというと。
「――これはこれは。ずいぶん上等なスーツを着たお化けだな。時計もいいし靴はブランド、そのつやつやした髪に塗りたくってるのは整髪剤か? いいねえ、全身からいいにおいがする。――金のにおいだ」
 その少年の声は、赤い絨毯の終わりから届いてきた。
 鬼の口を象った、恐ろしい色合いの椅子に悠然と座っている。針金のような金髪からはねじれた象牙のような角が一本生えていて、着ている赤いブレザーと黒いカッターシャツはどちらも流血の成れの果てのように胸糞悪い色合い、そして申し訳程度の緩さで結ばれた緑色のネクタイは常識人の代表者たる藤林氏を不愉快にさせるに違いなかった。
 その膝では仮面をつけた少女がもたれるようにして眠っている。その少女を見たヤンの目に血が走った。ヤンはその少女を知っていた。
「きみは誰だ」藤林氏は肩で風を切って廊を歩いていった。
「わたしは閻魔大王に会いにきたんだ。通してくれ」
「それは光栄だね。俺がそうだよ。ええと、おいヤン、その人だれだ」
「――――」
「ヤン」
「藤林」ヤンは目玉を動かさずに言う。
「藤林照仁さんだ。電車の事故で小一時間ばかし前に亡くなったから連れてきた」
「ふうん」少年はにやにやと藤林氏を靴の爪先から頭のてっぺんまで見回した。その目つきがカンにさわったのだろう、藤林氏の声が大きくなった。
「で、きみの名前はなんていうんだ」
「俺――?」
「そうだ。閻魔大王だろうと名前があるはずだ。一つ目小僧の彼にも名があるようにな。まずは初めに名乗るが礼儀というものだ」
「ふむ。そうかな。そんなに名前が大事か」
「大事じゃないはずがあるか」
「いや、ある」少年は少し身を乗り出した。膝に乗せた少女の黒髪がさらりと流れる。
「大切なのは名前なんぞじゃあない。そいつが誰であるか、何であるか、何をするかだ。それだけだ。逆に聞くぜ、あんたは何者だ? 名前以外にあんたを表すものがあるか」
「あるとも」藤林氏はたくましい胸を帆船の帆のごとく張った。
「だが、それに答えるのはきみの名前を聞いてからだ。でなければ答えん」
「モーレツ社員め」少年の口に呆れたような苦笑が広がった。ヤンは知っている。今まで誰一人として、あの日からここを訪れた死人は彼にここまでの顔をさせることさえできなかったことを。
「志馬だよ。夕原志馬」
「夕原――きみはひょっとして、人間か?」
 志馬はこつこつと自分の額から生えた角を叩いた。
「こいつが見えないのか? 俺は人間じゃない。ただのシマだ。だから俺を夕原なんて名で呼ぶな。うっかり名乗った俺が馬鹿だったぜ、今日を最後に苗字なんぞ捨てちまおう」
「なんてことを言うんだ。いいかね夕原くん、苗字というのはご両親から――」
「俺に親はいない。苗字は俺を拾った坊主がくれた。そいつも戦争で死んじまったがな」
「戦争――きみは――」
 重ねて問いかけようとした藤林氏を志馬はぎろりと睨み、黙らせた。
「いいか、勘違いしているようだが質問するのは俺だぜ。あんたは死んで閻魔大王さまに現世での罪を告白しにここまで引っ立てられてきたんだ。どっちが上かははっきりわかっといてもらう」
 藤林氏はフンと鼻を鳴らした。
「わかったよ。名乗ってもらったお礼に自己紹介させてもらおう。名は藤林照仁。銀行員だ。名前は母がつけてくれたもので、他の候補は康仁、照明、照一郎――」
「つけられなかった名前まで自慢か? 俺はあんたに話を聞いてるんだぜ、藤林照仁さん」
 藤林氏は一瞬、憮然とした沈黙を残したが、すぐにまた喋り始めた。
「わたしが何者か、と聞いたな。きみはせっかちなようだから、簡単に答えさせてもらおう。わたしは銀行員で、夫で、父親だ」
「父親――」
「そうだ。いま三歳になる息子がいる。かわいい盛りだ」そこで藤林氏はしょんぼりと声を落とした。自分がなぜここにいるのか思い出したのだろう。
「わたしは、銀行のため、社会のため、妻のため、息子のために生きた男だ。まだ途中だったが、それがわたしだ。これでいいか?」
「ふむ」と志馬はにやにやしながら頷いた。
「なるほど。じゃあさぞかし辛いだろうな? 可愛い奥さんと小さな息子さんを残してきたんだから」
「当たり前だ。できるものなら生き返りたいものだ。だが、それはできないのだろう。これも運命と割り切ってもらった七日間を静かにここで過ごすよ」
「それでいいのか」
「え――?」
「それでいいのかよ。運命?」志馬はそれがさも愚かしい誰かの名のように言った。
「運命、そんなものがあるとして、あんたそいつになら従えるのか。そいつはなんだ。あんたの上司か、あんたの親か、あんたの伴侶か、あんたの子孫か。それはそんなに大事なことか? 守らなくっちゃいけないものか?」
「守るもなにも、運命に抗うことはできまい。誰にも」
「できるさ! 俺にはできる、そしてあんたにもだ。生き返ることはできない。だが前向きに考えてみろ。学校じゃあ教えてくれなかったろうが世の中には表と裏があるんだぜ。確かにあんたは死んだ。これからあんたの魂にふさわしい日数を過ごすわけだが、それは変えられる」
「どういうことだ?」
 志馬は馴れた調子で魂を稼げばあの世に残留し続けられることを藤林氏に語った。それを聞いた氏は深く黙り込んだ。その頭に浴びせかけるように志馬が誘いの文句を口走る。
「俺と勝負をしよう」
「勝負――?」
「ああ、勝負だ。勝負して、あんたが勝てば俺はあんたに魂をくれてやる。このあの世で、百年は過ごしていける魂をやるよ! あの世にはなんでもある。楽しいぞ、な、どうだ?」
 だが、藤林氏は首を振った。
「断る」
「何故」
「わたしひとりがここに留まったところで、意味がない。家族がいなければ、わたしは無意味だ」
 一瞬、志馬の顔が耐え難い苦痛を受けたように歪んだが、それを見たのはヤンだけだった。
「家族――。おまえもか」
「何?」
「いや、いいんだ」志馬は綺麗に笑って頷いて、
「そうだな、忘れてた。家族のこともフォローしなくっちゃな。あんたが勝てば、あんたと、いづれやってくるあんたの身内にも等しく百年プレゼントしよう」
「――なんだかあやしいな。どうしてそこまでしてくれる?」
「べつにくれてやるとは言ってない。あんたが勝てばの話だろ」
「じゃあ、きみが勝ったらわたしはどうなるんだ?」
「どうもしないよ」志馬は笑った。
「ただここで、消えてもらうだけさ。記憶が薄らがないままで、魂に戻るのは、存在していたことを後悔するほど痛いらしいが、ま、一瞬の話さ。そうとも。勝てば永遠、負ければ刹那。悪い博打じゃないだろう?」
 藤林氏は石のように考え込んでいた。
 だが、おそらく、最初から答えは決まっていたのだろうとヤンは思う。
 どんなに藤林氏が常識を弁えていても、それが孤独を癒してくれたりはしないのだ。
 彼は、家族に会いたがった。
 それだけの話だ。
「やろう」
 そうこなくっちゃな、と嬉しそうに言って、志馬は膝の上の少女の髪をいとおしげに撫でた。仮面の少女は、死んだように動かない。彼女のほつれた髪を見下ろしながら、
「じゃあルールを説明しよう」と志馬は言った。
「といってもなにも複雑なことはなにもない。俺がひとつ質問するから、あんたが答える。答えはあらかじめ俺が用意しておくから、あんたはそれを答える。当たっていればあんたの勝ち。あんたの家族の死は、未来への手痛い片道切符となるわけだ」
「待ってくれ、夕原くん」
「志馬だ」
「志馬くん。それはちょっと卑怯だぞ。わたしが答えてもきみが違うと言ったらそれでわたしの負けじゃないか」
「いや、それは違うんだ藤林さん」と口を挟んだのはヤン。
「あの世での博打は一度両者納得して取り決められたことは絶対なんだ。だから志馬があらかじめ決めていた答えを後で変えても、負けるのは志馬になるんだ。それは安心してもらっていい」
「ほんとうかい? ヤンくんの言うことなら正しいのだろうが――」
「よかったなヤン。信頼してもらってるみたいだぜ。なあに、藤林さん、あの世の博打はね、言っちまえばイージーモードなんですよ。現実だったら博打にゃ抑止の力がなくっちゃ成り立たないが、死んでまで小面倒なお膳立てはしたかないでしょ。だから神様がちょいとばかし弱者救済してくれてるんだ。いやァあんたはツイてるよ、俺が閻魔大王の時代に死ぬなんてね。死に得ってやつだな」
「その言い方は気に喰わないな。列車事故に巻き込まれたこともないくせに」
「前向きになろうって言ってるだけさ。あんたみたいな人間は好きだろ? 信じれば救われるとか、いつか夢は叶うとか。俺がちょっと口汚くそういうことを語って何が悪い?」
 ぴりぴりとした空気が、睨み合う二人の髪さえも逆立てるようだった。が、藤林氏が顔を背けたことでそれは嘘のようにパチンと消えた。
「早いところ済ませよう。質問してくれ」
「ああ。そうだ、言い忘れてたが制限時間は三分だ」
「三分? それはちょっと短すぎないか?」
「勝ったときのことを考えろよ。これ以上欲張ろうっていうのか」と志馬は肩をすくめ、
「それに死人はあんただけじゃないんだぜ。交通ルールは守ってもらおう」と続けた。
 むう、と藤林氏は唸ったが、結局は頷かざるを得なかった。志馬の言葉の穴を見つけられなかったからだ。
「わかった。それでいい」
「よし、じゃあ聞こう。藤林さん」
「ああ」
「――あんたは自分にいくらなら値をつけられる?」
「値? 値というと――」藤林氏は戸惑ったように頭に手を当てて、
「自分に値段をつけろということか?」
「そういうことだな。――残り二分四十六秒。ま、せいぜいがんばりな」
 そう言うと志馬は背もたれに後頭部を当てて寝息を立て始めた。どう見ても狸寝入りだが蹴っても殴っても起きるつもりはないだろう。
 藤林氏は腕を組んで考え込み始めた。
「自分に値段――考えたこともない、いったいどうすればいいんだ。ヤンくん、答えを知ってるかい?」
「知ってますよ」
「え、じゃあ――」と喜色満声をあげた藤林氏に、ヤンはゆるゆると首を振った。
「すんません、言えないんです」
「そこをなんとか」
「いや、ほんとに言えないんですよ。そういう決めなんです。志馬がズルできないように、藤林さんもそうなんです」
「そうか――そうだな、フェアにやらねば」藤林氏は自分で勝手に納得したらしく、うんうんと頷いた。
「ではここで独り言を言っているから、相槌を打ってくれるかね? それならできるだろう」
「ええ、まあ――」
「よし。――値段か。イメージとしては、わたしがもし誘拐された時に支払える額、のようなものだろうか。そうだな、家、車、貯金、わたしの財産をすべて売却して一億程度か」
「い、一億――」
「ああ。だがまだだな、わたしの身内や会社の上司、友人たちに頼めば、少しは出してもらえるだろう。彼らにも路頭に迷えとはまさか言えまいから、そうだな、それでもまた一億――」
「うわあ――金持ちって。金持ちって」
「金持ちかな? まじめに生きていれば普通さ。努力は必ず実をつけるからね」
 藤林氏はそれから指折り数え始め、
「さっきは友人たちと一くくりにしてしまったが、はてわたしにどれほど頼りになる友人がいたかな。百はくだらないが千には届かんだろう」
「千? 千って友達数えるときの数字じゃなくないすか?」
「ははは、自慢じゃないがわたしは人好きされる方でね。いやありがたいことだ。――よし、決めたぞ。そろそろ三分経つだろう」
 藤林氏はパンパンと手を打って志馬を起こした。
「志馬くん。決まったぞ」
「うむ? そうか、早かったな。それで、いくらなんだ、あんたは」
「ああ、人ひとりを金で換算なんて考えるだけでもおぞましいが――わたしが誘拐された場合、二億七千万までは支払い可能だ。それがわたしの、値段だろうな」
「へえ、ずいぶん高いね」
 志馬はふわあと可愛らしくあくびをして、言った。
「でも違うよ」
 その一言で藤林氏は凍りついた。
「え――そんな、どうして。誤差か? いくらだ? ちょっとの誤差なら納得しないぞ! 誤差はいったい」
「二億七千万」
「――――な」
「だから、誤差は二億七千万だよ」
「馬鹿な!」藤林氏は地団太を踏んで喚いた。
「五億四千万だと!? そんな金はさすがのわたしでも用意はできんぞ! ――まさか横領か? わたしが社会的な立場を横領して稼げる額まで含むというのか!! そんな、汚い、汚い考え方だぞ志馬!」
「汚いのはあんただよ」志馬はもう笑ってはいなかった。
「誰があんたに五億も値打ちがあるなんて言った?」
「え――」
「ゼロだよ」
 藤林氏が音もなくへたりこむ。
「ゼロ、って――そんな馬鹿なことがあるか! わたしが、一円の価値もないというのか!? ふざけるな、たとえ誰にも金を払ってもらえなかったとしてもだ、だとしてもだ、人間には内臓がある! 臓器が金になるはずだ! その分も入れれば百から二百は絶対――まさかわたしに自分でも気づかなかった身体的欠陥があったと!? ありえない、わたしは毎年人間ドックに欠かさず入り、二十代のように健康だとちゃんと会社が選んだ医者から太鼓判だってもらって――ま、まさか会社と医者がグル? わたしを働かせるため? そ、そんな――」
 ひとりぐるぐると頭を抱える藤林氏を、志馬が冷たいまなざしで見下ろした。心の色をそのまま映したような赤い眼で。
「なんて、穢れた――穢れたやつなんだ。ああだこうだと綺麗事を並べていたくせに、土壇場となったらやっぱり金だ。金で計るほかにおまえらに尺度なんてものはないんだ。おまえは結局、自分の言葉なんてこれっぽっちも信じちゃいなかったんだ」
「自分の、言葉――?」
「誰が誘拐された時に身内が自分に払ってくれる金額なんて言ったよ」志馬は心底うんざりしているようだった。
「そんなこと俺は言ってない。俺は、あんたが自分をいくらだと思うかって聞いたんだ。そして俺があんたを査定した値はあんたがどこの誰だろうとハナから決まっていたんだ。――ゼロだよ。誰でもゼロなんだよ。あんたは自分が二億七千万だと言うが、じゃあ二億七千万一円とあんたの間にある境はなんだ? その境界はいったいなにで決まっているっていうんだ? あんたは二億七千万一円より自分に価値がないことに納得できるのか? どうして納得なんてできるんだ? 納得なんてことができるから、あんたには、運命を超えることはできない。その資格なんぞありはしない」
「あ、あ――」
「金なんてものは、所詮、ただの交通整理のための切符と同じものだ」と志馬は続けた。
「金そのものに価値なんぞあるものか。ましてやそれが人ひとりの肩代わりになんぞなりはしないんだ。金は概念であって幻でしかない。あんたはそれを忘れていた。だからこの土壇場で胸を張って言えなかった。自分はゼロだと。ゼロだと答えることでしか、金を無視する解答にならないんだよ。あんたの言う通り、人間に必ず金の値がつけられるなら、あんたみたいな健康な人がタダなわけないんだからな」
「わたしは、わたしは、そんな、ちがう、わたし、は――」
 膝に伸ばされた薄汚い手を、志馬は無造作に払いのけた。
「もう遅い。もう終わった。勝負は決まり、あんたは負けた。だからあんたを――いただくぜ」
 そして藤林氏は見た。
 自分の額にかざされた志馬の掌を。そこにぱっくりと開いた口と並んだ牙を。
 ヤンがこっそりと耳を塞ぐ。
 そうしていないと、もう二度と眠れなくなるからだった。


 
 牛頭天王が姿を消してから三ヶ月ほど経った頃にはもう四十九日の噂も絶えて、誰もあのふらりと現れた巨漢のことを思い出す者はほとんどいなくなっていた。後釜に座った志馬のインパクトが強かったということもある。何せあの世横丁の入り口に突貫で巨大な門を打ち立てて、やってくる死人と逐一勝負しその魂を喰らってしまう業突く張りの閻魔大王なんてものはどれほど代を遡っても彼だけだったろう。
 もちろん最初は反発もあった。だがせっかく集った有志たちによる一揆まがいのかちこみも、門前で十二の神獣を従えた件の黒巫女、紙島詩織によっていとも容易く鎮圧され、無血降参の苦渋をなめた一座が腹立ちまぎれにたむろしてその日のどくろ亭の売上は四倍にも達したというが、それはその後のあの世不況を鑑みれば屁のつっぱりにもならなかった。
 言ってしまえば重税である。
 死人があの世へやってきた際にとっとと志馬が勝負を持ちかけてしまい、魂を総取りしてしまう。水先案内人はおまんまの食い上げである。かといって志馬に逆らえば奴か詩織に面と向かって唾を吐かねばならず、そこまでする理由も勇気も誰にもなかった。
 奇妙なことに、どこからともなく横丁の中に真新しい魂貨は流通し続けていた。誰がどうやって持ち込んでいるのかは謎だったが、誰も好き好んで口頭に上らせなかったことにはおそらく意味があったのだろう。
 妖怪たちはとても窮屈になった箱庭の中で、それでも見上げる空の赤に変わりがないことにささやかな慰めを見出しながら、何かを待つように自分たちのねぐらに逼塞していた。
 ヤンもまた、そのひとりだ。
 めっきり活気の失せた横丁の通りをぶらぶらしているだけで気が滅入った。砂利を見下ろしながらも見ているのは胸の内の鬱屈だけだ。そうかといってじゃあ本当はどうしたいのかという問いに対していっぱしの啖呵を己にすら切れるはずもなく、ヤンの丸まった背中の行き着く先はどくろ亭しかなかった。
 のれんを手の甲で上げる様だけは格好になっている。
「――親父」
 骨だけのくせにやたらと恰幅がいいガシャドクロの親父はひとりで鍋をかき混ぜていた。何も言わずにぐい飲みで牛乳を注いでくれる。カウンターに座ってそれを一気に煽ると腐ったような味が口の中に広がった。
 文句を言おうとすると、親父が言った。
「またか」
 またなのは俺のツラを見ればわかるだろうがハゲがと言い返す気力も湧かない。腹だって減っていたしこの牛乳は毎回ツケだ。いい加減三ヶ月も食い扶持を奪われていれば蓄えだって底を見せてくる。そろそろ本気で身の振り方というやつを考えなければいけない時期が迫っていた。
「鬼だよ、あいつ。――マジで鬼」
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 ヤンが言うと親父はまた黙ってぐい飲みをどぼどぼと満たしてくれた。今度は酒だった。それだってどこからか仕入れてきたものであるわけもなく、おそらく二階か裏手で残り少ない米を使ったどぶろくだったろうが、手をつけずにはいられなかった。喉仏を晒して一気に飲み干すと冷酒だろうが熱い吐息が漏れてくる。
「クソ、あいつ、あの野郎、ぜってえ許さねえ。あれが人のやることかよ。死んで右も左もわかってねえ死人にとんちみてえな真似させて外しゃあ喰っちまうんだ。まだ情け容赦ねえ牛頭の方がマシだったぜ」
「牛頭か」親父の声はもうほとんど諦めている。面倒くさそうに紫色をした何かをお玉でかき混ぜながら言う。
「あいつもどこにいっちまったんだかな。急にいなくなりやがって」
「さあな。あの調子だと志馬が消したんじゃねえか。あいつならやりかねねーよ」
「まさかだろ。人間だぜ」
「元、な」ヤンは空になったぐい飲みをタンと卓に打ちつけて胸を張った。
「あれは人じゃねえ。まさに人非人だよ。――くそぉ、このままじゃ俺まで博打で魂を稼がなくっちゃならなくなっちまう」
 ヤンはぐずぐずと鼻をすすり始めた。
「親父ぃ、俺ここで働いちゃだめかなあ」
「そんなことしてみろ。俺が行き倒れになる」
「だよなあ」言ってヤンは初めて店の中に自分しかいないことに気がついた。
「――そういや他の連中はどうしてんだ。鎌イタチや兜転がしは? 最近見ねえけど」
「いなくなったよ」
「――冗談言うなよ」
「冗談じゃねえや」親父はどくろの双眸の奥で燃える青い鬼火をすうっと弱めた。
「鎌イタチは麻雀、兜転がしは賭けフットサル。二人とも負けて消えた。相手は言わないぜ。相手が悪いわけじゃねえ。お互い納得ずめの花火だったんだ」
 花火とは、古参妖怪たちの間でいうところのオールインのことである。負けた時に炸裂するように魂貨をばら撒いて終わるところから来ているらしいが、今の世相では性質の悪い冗談にしか聞こえない。
「あいつらが――畜生、兜はともかく鎌の麻雀は昨日今日のもんじゃねえぞ。俺なんか一荘で消えちまう」
「だろうな。だからおまえは大人しくしておけよ。何もおまえが頑張らなくても――」
 どくろの親父が鍋から目を上げると、ヤンはとぐろにした腕の中に逃げ込むようにして眠っていた。倒れたぐい飲みがさざなみのように揺れている。

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 ヤンは昔から冷めているところがあった。頭のどこかで、いつも限界を考えているようなところがあった。度胸試しの悪戯を仲間と仕掛けていようとも、運なく見つかりとんずらを決め込もうとも、いつも結果から考えていた。終わった時にどれぐらいのリスクが降りかかるか、それが仕方のない必要経費かどうか。夢のないやつと言われたことも決して一度ではないが、それでもヤンにとってはそれが一番いいやり方に思えた。明日を無視して突き進むのは気持ちがいいし格好もつくかもしれないが、道は平らなばかりではない。落ちるのはごめんだった。
 飛縁魔のことは生まれた時から知っている。閻魔大王と魔縁天狗の子だったやつは、名からすればもう少し大人しくてもよさそうなものだったが、どっちの血が災いしたか乱暴者で手がつけられない子どもだった。そのせいで他の木っ葉妖怪たちとぶつかり合うことも少なくなく、ヤンはその時々で組する形勢を変えていた。卑怯者だと自分でも思ったが、それがヤンのやり方だった。
 それでも、つるんでいた時の方が多かったろう。飛縁魔はよく外に出たがり、子どもの妖怪で数少ない現世への道を知っているやつは少なかった。だいたい現世へ出てもいい頃だと周りが認めるとそれとなく道をいくつか教えてくれるのが常だった。
 外はいつも夕方だった。大人の妖怪ならいざ知らず、まだ己の存在さえもあやふやな子どもたちは、現世とあの世がほんの一瞬繋がりあう黄昏時しか外に出られなかったからだ。
 現世に出る時は、いつも顔の中央にある目玉を端に寄せて、反対側を髪で隠した。
 二人は五時の鐘が鳴るまで、公園で同じ背丈の人間たちとよく遊んだ。何をやっていたのか、もうほとんどヤンには思い出せない。ただひたすらに走り回っていたような気もするし、がむしゃらにボールを追い掛け回していたような気もする。よく転んだし、よく笑った。
 それでもヤンには頭のどこかでわかっていた。あっちへ飛ばせば向こうへ飛んでいく笑い声のキャッチボールと小突きあいの貸し借りの中でも、自分が向こう側のものであることを片時だって忘れたことはない。人間たちは五時の鐘が鳴れば住処へと帰って両親が待っている。だが《つちから》のヤンには親などない。飛縁魔のように妖怪の両親を持たない、どこからかやってきてどこへもいくあてのない《つちから》には、帰る家は自分でこさえない限りはない。
 だから、飛縁魔は自分と相手の違いがよくわかっていなかったんじゃないかとヤンは思っている。
 飛縁魔はあまり大人数で遊ぼうとはしなかった。最初はヤンに混じって、誰かの友達のような顔をして集団の中にすっと紛れ込む。が、ヤンがふと周りを見渡すともういない。最初はひとりで帰ったのかと思い放っておいたのだが、どうも違うらしいというのが段々とわかってきた。
 どこの世界にもあぶれ者というのはいて、のん気者の多いあの世にだって時たまあるぐらいなのだから、生きたり死んだり忙しく何がなんだかわかりもしないまま時を過ごしていく人間たちの世界が苛烈でないわけがなかった。
 あぶれ者はおおよそ砂場にいた。
 どこに猫の糞が隠されているとも知れない砂を寄せては固めて、誰かが自分を見つけてはくれないかと知らん顔をしながら待っている。やつらはここの演技がミソだと固く信じていて、作りたくもない城を熱心にこさえては細部にまで拘ってみせるが、ボールと放物線と笑い声が支配する子どもの世界のスポットライトがそんなものに当たることはいつまで経ってもないのだった。
 ヤンはそういうやつらを無視した。
 べつに自分まで仲間はずれにされることを恐れたわけじゃない。
 妖怪の自分が友達になってみせたところで、いつか手ひどく別れることになるだけだ。だったら最初から知らん振りしていた方がいい。その方がお互いのためだ。理屈で考えれば絶対にそうなのだが、残念ながら偽名のひとつも自分で考えられない馬鹿にはそんな道理は見えやしないのだった。
 あぶれ者はおおよそシャイである。
 ゆえに、突然近寄ってきた見知らぬ女の子に対してみんな最初は警戒した。遊び狂いの外側にいるためにそれが普段自分たちの面子ではないことに気づくのも早かった。だから話しかけられてもまともな返事をすることができず、飛縁魔からいらぬ不興を買ってしまうのだった。
 走り疲れたヤンが砂場を見ると、あぶれ者のほっぺは彼岸の姫君の手によってつねりあげられているのが常だった。あうあうするあぶれ者とぶつかるほどに顔を突きつけてムッとした顔の飛縁魔は何か言っていたが、おそらくあれは耳が聞こえないのかそれとも口が利けないのかどっちだと拷問していたに違いないとヤンは思っている。
 よせばいいのだ、そんなこと。
 よほど進言しようかと思ったこともある。なあひのえん、よっく考えてみろよ、おまえは昨日あっちゃんと仲良くなった今日はよしくんを手下にしたと嬉しそうに言うが俺たちは人間じゃない。あいつらが大人になっても友達でいることはできないんだ。妖怪を見ることができるのは子どもの内だけだし、現世に顕現できる素質を持ってるやつは生まれつき決まっていて、それは俺とおまえじゃない。
 言おうとは、何度も思った。が、ついに口にできずに見逃した。
 今でも後悔している。
 あっちゃんにしろよしくんにしろ、お化けと違ってきちんと生きている友達の誰もが小学校の半ばを超えた頃には公園になど来なくなっていた。それでも一度だけ、あっちゃんが公園へ顔を見せた時があり、たまたまヤンと飛縁魔はそこに居合わせた。遊ぶ友達は年下ばかりになっていた。
 眼鏡をかけたあっちゃんは飛縁魔の横を通り過ぎて、夕飯とテレビをダシにして弟と妹を連れて帰っていった。
 五時の鐘が鳴って、蜘蛛の子散らすように公園から人気が消えた時、ヤンは飛縁魔の顔をまともに見られなかった。たったひとつの目を背けながらも、頭の中では冷静な文句が流れていた。これでいいのだ。手を出してどうなる。寂しければ同胞がいくらでもいる。わざわざ人間に拘ることはない。所詮これは度胸試し混じりの幼い冒険で、俺たちはそろそろ夢から覚めて死人のひとりふたりはあの世へ案内してやらねばならない時期で、それがたとえ知った顔であろうと知ったことじゃない。それを含めての度胸試しであることは現世の夕陽を拝む前に確かめ合ったはずだった。
 拳を震わせて、肩を泣かせている飛縁魔に、ヤンはとうとう一言も言えなかった。
 よせばよかったのだ。
 どうせ泣く羽目になるだけなのだから。
 なのに。
 あれから、背が伸び切るほど時が経ったのに。
 それでもあの馬鹿は反省しなかった。
 その挙句に今、たちの悪い鬼にとりこにされてくすぶっている。
 べつに自分の責任だなんて思いはしないが、それでもあの時、はっきり言ってやればよかったのだろう。突き放すことになっても、傷つけることになっても、それでもあの文句は言っておくべきだった。
 そしてそれは、まだ遅いとも言い切れない。



 ぼおっとしている内に店を出たらしい。どくろの親父が何か言っていた気がするが頭の中は親父の無駄口どころではなく何ひとつとして覚えていない。
 ヤンは公園のベンチに座っていた。あの世の公園には彼の他に誰もいなかった。新品同様の滑り台はいつまでもペンキの匂いがして、ブランコの鎖は鏡のような銀色で、鉄棒には誰の手垢も錆もついていない。偽物のような公園の中で、ヤンは顔を伏せている。
 やはり決闘しかないのだろうと思う。
 だが、おそらく志馬は乗ってこないだろう。第一に自分には魂がそれほどない。オールインで乗せ合えばお互いの差額は無視されるが、そんな勝負はそもそも志馬にこそ無視されてしまうのがオチだ。安い挑発に乗って来るタイプでもない。
 第二に、ヤンが志馬に勝てるとしたらそれは運否天賦の勝負しかない。たとえば丁半博打やジャンケンのような必勝法の存在しない、技術の介在しないギャンブル。麻雀やテホンビキ、ポーカーやブラックジャックなどの長期戦では万にひとつも勝ち目はない。やつと自分ではそもそもの出来が違う。それをヤンはこの三ヶ月で痛烈に感じ取っていた。素人がボクサーを殴り殺せるだろうか。リングの上で正々堂々と。できるとかできないとか、やるとかやらないとか、そういうことではなく、ヤンは自分が勝つ姿を想像できない。それでもやるというのなら、それはもはや自殺であって勝負じゃない。
 それでもやろうと思う。
 ただ、何かすがれるものが欲しい。
 それになら自分を賭けてもいいと思えるもの、そして志馬が納得して乗ってきてくれるもの。
 賭けの対象はまんざらアテがないこともない。志馬を消滅させることはできないが自分の目的は達成できる。
 問題は、勝負の内容。
 大切なのはリアリティだとヤンは思う。
 自分が思いつきそうで、なおかつ勝てると踏むだけの目算を得られ、そして志馬を釣り上げられそうな隙を孕んだ博打。
 だが、考えれば考えるほど答えが遠のいていくような気しかせず、なんだか自分のやることなすことすべてが愚かしいような鬱々とした気分にさえなってきた。ベンチにごろりと寝転んで思考を一端止めてみる。
 眠たくなるような夕焼けだった。
 そのまましばらくウトウトしていたのかもしれない。
 きゃっきゃと子どもの声が聞こえてきて、ヤンはとろんとした目を広場に向けた。お、と口を丸く開ける。
 広場でひとり戯れている子どもも一つ目だった。宙をかくように手を伸ばして、青い蝶を捕まえようと跳ね回っている。端から見れば踊っているか気が狂っているかにしか見えない。
 まだ夢の続きを見ているような心地で、ヤンはその子どもを眺めていた。そういえば自分もよくやった気がする。あの青い蝶はあやかしではなく、針弾きという刺青師が彫ってくれる飛び出す刺青で、ヤンの身体のどこかにもまだいるはずである。一度彫ったらもう二度と消えないことを言ってくれないものだからトカゲやネズミを彫ってもらったやつらの悲惨さたるや惨憺たるものがあった。ガキのうちは見せびらかしてヘラヘラできていたが、大人になってくると腹を爬虫類が這いずり回っているのに上手な言い訳が思いつかなくなってくる。まだ自分は蝶の刺青でよかったとヤンは思い、あの刺青は今身体のどこにいるのだろうかと思う。今度風呂に入ったら探してみようか。
「アッ」
 子どもが転んだ。その弾みで一つ目がまぶたから落っこちてコロコロと転がった。それだけでも落ちた視界から上手く身体を操って目玉を拾わねばならず面倒なのに、青い蝶が目玉を拾って舞い上がってしまったからさァ大変、子どもはあっちへふらりこっちへふらりしながら必死に蝶から目玉を取り返そうと躍起になったがあともうちょっとで指が届かない。
 その様がおかしくてハハハとのんきに笑って眺めていたヤンだったが、まさか次の瞬間、ド頭に天啓が飛来してくるとは夢にも思っちゃいなかった。
 それは、まるで世界が切り替わってしまったかのような衝撃だった。
 がばりと起き上がる。
 今の今まで自分が笑って見ていた天然の喜劇を驚愕の顔つきで見つめる。
 ぴくりとも動かずに、ただ頭の中でこれから起こり得るあらゆる可能性が閃いては消えていく。それは隙間を見つけた者にだけ味わえる感覚。理解不能な数式の解がはじき出せた時のような、あるいは模倣されすぎて誰が思いついたかもわからなくなる詐欺を初めて考案した瞬間のような。
 これでいいのかと不安にさえなる。
 だがこれしかないと直感でわかる。
 ヤンは自分の身体にも彫ってあるはずの蝶を探そうとした。普段見かけないからには腹か背中にでもいるのだろうと思ったが、それは違った。この時だけは刺青の蝶はなぜかすぐ近くにいた。
 掌のスクリーンを泳ぐ青い蝶の刺青。
 誘うようなその羽ばたきを見て、ヤンはいても立ってもいられなくなった。拳を握って、忘れていた約束を思い出したように駆け出した。車止めの柵を飛び越えてそのまま走り去って見えなくなった。
 寄せては返す波のように静けさが戻ってきた。
 いつまでも五時の鐘が鳴らない公園で、いつまでも目玉をなくした子どもが跳ね回る。

112, 111

  


 どくろ亭の二階を借りた。ヤンも麻雀は嫌いな方ではなく、たまに二階の八畳間であやかし仲間と牌を摘まむことがあったため部屋の間取りで手間取ることはなかった。部屋の両端に押入れがあるという謎構造だが、これは曲者が出た時に両側からとっ捕まえるためだと親父は言う。が、そもそも曲者が出るようなお宝の一つでもまずは置けとヤンは言いたい。盗人の目から見ればどくろ亭は犬小屋と変わらないだろう。だが今だけは、ヤンの目にはこの家具ひとつないボロ部屋が一攫千魂のチャンスを孕んだ宝物庫に見える。
 部屋の奥、出窓のすぐ下にヤンは座布団を敷いて座っていた。服装はかつて死人から譲ってもらった学生服から、三途の川辺で拾った特攻服へと変わっている。頭には無論鉢巻、白地に『圧シテ勝ツ』と墨で印したのがつい先刻。
 準備は万端だった。よろず屋で買い付けもした。志馬ショックによるあの世不況で普段なら札一枚で買えるものに魂の三割近く持っていかれたが、仕方ない、最初のリスクも背負えずに博打ができるかと奮起して弱気を押し切った。
 畳んだ膝を掴む手が震える。
 逃げることばかり考えていた。できないことではない。出窓から飛び出せばすぐだ。後は屋根を伝って横丁の真上をどこまでも走っていけばいい。それだけだ。それだけで自分は助かる。
 凍ったように膝が動かない。
 一分一秒がこれほど長く感じたことはない。過ぎていく一瞬一瞬が、自分が助かる可能性が消えていく音に聞こえた。
「俺は馬鹿だ――」
 言葉に出してみた。急に笑えて来る。そう、馬鹿だ。失敗したら目もあてられない。もっとうまいやり方はないにしても、もっと賢い逃げ方はあったはずなのだ。なのに自分は今、ここにいる。
 飛縁魔のことを考える。
 馬鹿だ阿呆だと好き放題に言ってきた。本気で怒ってるんだろうなとわかってもいた。面白半分にからかっているような顔をして、本当に構ってもらっていたのはどちらだったか。
 もっと優しくしてやればよかった。何を照れていたのだろう。でも、どうしても気取った愛想なんて晒したくなかった。
 後悔している。
 でも、たとえ何度やり直しても、俺はああしたと思う。
 どこかから、火の爆ぜるような音が近づいてきた。志馬の単車だ。ヤンも一度見たことがある。一匹の鉄鼠と二輪の火車を融合させて式神にしたバイク。あの音は火車が燃えながら土を噛んで走る音だ。
 コロポックルたちはちゃんと果たし状を届けてくれたらしい。
 壁に頭を預けて一つ目を瞑る。
 これでいい。もう逃げられない。いや、まだ出窓からの道は残っているが、もう自分がそうしないことはわかっていた。
 やれることはすべてやった。
 やらなければならないと信じることもできている。
 なら、やろう。
 砕けるんじゃないかと思うくらいに軋む階段を誰かがゆっくりと登ってくる。閉め切られた襖の前で立ち止まる。
 襖が開かれる。
 ヤンは目を開けた。
「よお、志馬」
「ヤン」
 志馬はポケットに手を突っ込んだまま、哀れそうにヤンを見下ろした。
「おまえはもう少し頭がいいと思ってたよ」
「ああ、俺もだ」
 志馬はポケットから取り出した紙切れをふわりと放った。
「果たし状ね。時代劇じゃあるまいし、まさか自分がもらうことになるとはな。古風なことしやがって」
「おまえは結構、こういうのが好きなんじゃねえかと思ってさ。――座れよ」
 ヤンが余った座布団を放ってやると志馬はその上にあぐらをかいた。ちょうど部屋の中央だ。
「ひとつ勝負をしよう、どくろ亭にて待つ。――確かに嫌いじゃないぜこういうの。で、何をして遊んでくれるんだ。ありきたりなものならもう飽きたぜ」
「そう言うと思ってさ、ちょっと変わった遊びを用意した」
 言って、ヤンは指を顔に突っ込んで自分の目玉をくりぬいた。ひゅう、と志馬が口笛を吹く。
「別に痛くないんだ。脳味噌が中にあるわけでもないしな。――ところで志馬、かくれんぼは好きか?」
「生きてた頃、住んでた寺でよくやったけどなァ」
 志馬は懐から煙草の箱と一枚の魂貨を取り出した。魂貨を親指でへし折って鬼火を作ると、それで煙草を深々と吸った。吐き出す煙が雷雲のように稲妻を孕んでいるのを見てヤンが顔をしかめた。
「おい。なんかまじないしてるんじゃないだろうな」
「ハハハ。疑い深いな。心配するな、誓って妙な術は使わねえよ。それに俺ァまだ未熟者で詩織みたいには――いや、とにかく、心配するな。第一、賭けの取り決めの時に陰陽術を使わんと決めておけばそれで勝っても取り立てはできねえんだ」
「そうなのか?」
「決めておけばな」志馬は美味そうに暗雲を吐き出しながら、顎をしゃくって先を促した。
「勝負の内容は簡単だ。俺がこの目玉をこの部屋のどこかに隠す」
 志馬の赤目がきらりと光った。
「ほお?」
「俺が隠した目玉をおまえが見つけ出す。それだけだ。制限時間は三分」
 志馬はぐるりと何もない部屋を見渡した。
「――どこに隠すって?」
「とっておきの場所を知ってるんでね。ヒントをやるよ。俺の目玉はいつもおまえを見てる。じぃっとな。もしおまえのカンが本当にみんなの言うように冴えてるってんなら」
「――視線を感じるはずって? ふふふ」志馬は楽しげに笑う。
「おまえも妙なことを考えるやつだなァ。こんな博打は確かにやったことがねえ。いや面白いな。面白い――しかし本当にいいのか? どこに隠すんだか知らないが、この部屋には何にもないんだぜ」
「俺の心配をする前にやることがあるんじゃないか」
「賭けの対象か。言っておくが花火は受けんぜ」
「怖いのか」
「ぬかせよ貧乏人。俺はおまえの魂すべてをもらったって嬉しくともなんともねえんだ。それに俺はおまえのことがそんなに嫌いじゃない。べつに消えてもらわんでも結構」
「俺が――俺が火澄に惚れててもか」
「――あァ?」
「だから、俺はやつが好きだ。幼馴染だしな、あいつのことも俺は昔からよく知ってるし、あいつだって俺をわかってる。お似合いだと思わないか?」
 ばちち、と志馬の吐いた煙から噴き出す雷が増えた。細めた双眸が夕陽のように燃えている。
「それで、つまり、何が言いたい」
「俺は『全部』を賭けてもいい。だから、おまえは『飛縁魔の火澄』を賭けろ」
 沈黙。
 おもむろに志馬は吸っていた煙草を摘まむと、拳を作って握り潰した。煙の残滓越しに睨み合う。
「おまえも俺の恋敵ってわけね。なら――消さねえわけにもいかねえか」
 そう言って、志馬は懐から一枚の札を取り出した。
 大きな蓮の花に座った仮面をつけた戦装束の少女。それをひゅっと放って天井に突き刺した。
「賭けるぜ、飛のを。だからおまえも賭けろ。いくらだか知らねえが、おまえが今持ってる魂――その全額を」
「ああ」
 後戻りはできない。
「賭けるよ」
「――よし」志馬がにまっと子どもみたいに笑う。
「後悔するなよ。目ぇ瞑っててやるからとっとと隠せ」
 そう言うと彼はまた別の式札を取り出してぱぁんと宙に打った。すると胴のひょろ長い管狐が一匹飛び出してきて、志馬の顔に巻きついて目と耳を器用に塞いでしまった。
 始まった。始まってしまった。
 あとは仕掛けるだけ。
 ヤンは一度、手元にあった目玉を顔にはめ直した。
 何もない部屋のどこに隠すんだ、と志馬は言った。
 が、しかし、勝負は『何もない部屋』でやるとは言っていない。
 ヤンは襖に向かって両手を伸ばした。簡単な気を飛ばして襖を開ける。
 待ってましたとばかりに両端から飛び出してきたのは、無数の目玉。
 あっという間に八畳間は目玉の海と化した。
 この中に自分の目玉を隠せば、とも思うが、それは危険な賭けになるだろうとヤンは読んでいた。よろず屋で大枚はたいたこの偽眼の群れ、本物そっくりとはいえそれはヤン個人のために作られたものではなく、目の虹彩がそれぞれ微妙に違っているのだ。
 志馬の洞察力を侮りたくない。
 本物をポンと混ぜれば一発で見抜かれる危険性もある。
 だから、もう一手。
 追い打つ。
 ヤンは掌をかざした。肌から青い蝶が現れて宙を羽ばたき始めた。子どもの頃は言うことを聞かなかった刺青だったが、成長した今はよく訓練された馬を駆るように、言うことを聞かせることができるようになっていた。
 顔の真ん中に手を突っ込み、目玉をくりぬき、それを褒美のように放る。
 その目玉を蝶が掴んで、すうっと志馬の背後に回りこんだ。
 これで完成形。
 『じぃっと』見つめているぞ、と志馬には言ったが、『じっと』しているぞなんて、言った覚えは決してない。
 三分間。
 それだけでいい。
 それだけの間、志馬を騙せればそれでいい。飛縁魔を――火澄を助け出せれば、後はどうなっても構わない。
 それに、勝算はまだある。
 名前だ。
 火澄というのは門倉いづるが名づけたらしい。そして三ヶ月前、いづるは突然あの世横丁から消え去った。みんな志馬が消したのだと言っていたし、嘘か本当かその場を見たというやつもいた。
 あやかしは名付け親には特別な思いを抱くものだ。だから、きっと火澄はいづるの仇を討ちたいと思っているだろう。火澄が自由になったらば、いくら志馬がもう立派なあやかしになっていたとしても、殺し合いで彼女に勝てるわけがない。紙島詩織がやってくるまでにすべては終わっているはずだ。
 変則的なオールイン。
 ポケットから砂時計を取り出して、逆さにトンと置いて、ヤンは言った。
「終わったぜ、志馬」
 志馬が管狐を顔からはがして、周囲へ目にして固まった。
 視界はその後頭部を追跡しながら、ヤンは膝を握り締めた。
 祈るようにまぶたを閉じる。
 大切なのはリアリティ。
 まるで真剣勝負のように。




「ふうん――こりゃあ一本取られたな」志馬は管狐を式札で吸い取り、周囲を見回した。ヤンからは表情は見えないが、笑っているのかもしれない。
「この量の中に目玉を隠されちゃ、三分間じゃ探し切れそうにねえな。ふうん。困ったな」
 少しも困っているようには聞こえない口調で志馬は言う。頬杖を突いて、目玉の海を見渡す。さっきから見渡してばかりだが、部屋の中央、自分とヤンを繋ぐ直線以外はすべて目玉で埋め尽くされているので首を振ることしかできないのである。
「想像力が足りなかったみたいだな、志馬? 顔が白いぜ」
「マイナス五十点」
 え、とヤンは口を開けた。
「マイナスってなんだよ」
「俺の顔が見えてるなら顔のことについて口にしたりしない」
 志馬はヤンの身体に背を向ける形に座り直した。ヤンの目玉を持つ蝶もその動きに合わせて後頭部を追尾する。なので志馬に目玉のありかを見抜かれたわけではない――が、それでもヤンの目玉はいくらか緊張で乾いてきた。たった一言、うっかり口を滑らせただけでこれだ。志馬はもう部屋の半分、志馬の顔が見えていた位置の目玉に本物はないと見切りをつけた。そしてそれは正解であり、たった一瞬のやり取りで部屋にある目玉の半分を選択対象から弾いてしまった。
 ヤンがブラフをかけた可能性もあるのに。
 あると知りながら、ここでブラフをヤンがかけることはない、と言い切れる洞察力。いや、もはやそれは親しみとさえ言える。
 志馬はヤンのことをよく知っている。
 それがまた、恐ろしい。どこまで自分のことを観察されているか、底が知れない。だから誰も志馬と勝負しようとは思わない。
 ――だからと言って、いまさら退けるか。
 ヤンはぐっと目力を込めた。
「うん?」志馬が首筋をぽりぽりかいた。
「なんか視線を感じる」
 超特急で視点をぼかす。視線を感じればおまえの勝ちだと言ったがそれは本当にそうなのだ。もしバレたら逃げ場はない。
 志馬は少し振り返ってヤンの身体の方を見ていたが、すぐに向き直った。首を傾げている。前向きに考えようとヤンは思った。これで見切った半数の目玉にまた疑惑を向けてくれるかもしれない。制限時間三分において選択肢の多さは毒でしかない。最後の最後まで、志馬にはこの眼球の海原で溺れていてもらわなくてはならない。
「ヤン、喋らなくなったな」まるで友達に話しかけるように志馬が言う。
「やっぱりさっきのはおまえにとって失言だったらしいな。よし、やっぱおまえ側の半分は見切ることにする」
 こいつ――
 ヤンはまた目に力が入りそうになるのを必死で堪えた。志馬はつまりこう言っているのだ。――ブラフをかけたのは俺の方でもあったんだが、どうやらおまえは糞真面目にオリてくれたようだな、と。
 その通りだ。志馬の見切りに感心して口を固く閉ざしたのは愚の骨頂だった。そこで軽口のひとつでも返せば志馬もここまで完璧に見切ることはなかったかもしれない。ヤンは唇を噛みたくなるのをギリギリで堪えた。勝負の最中に相手から学んで反省してどうするというのだ。二度目も再挑戦もないんだぞ。
 だが、ここでまた言い訳がましく軽口やブラフ、挑発等を打っても無意味。ここはせっかく無言でいる状況に乗って、このまま口を閉ざしていよう。消極的だがこれも攻めの一手だ。これ以上、口から情報は掘り当てさせない。
「だんまりか。賢いな。俺でもそうするよ」
 志馬は膝前の目玉のひとつを手に取って、ためつすがめつ顔に近づけた。ヤンはいつ志馬が眼球の色合いの差異に気づくか気が気ではない。今、志馬の手にあるものはいくらか錆びたような茶が混じっており、どちらかといえば猫町の目に近い。
「ふむ――しかし三分間か」振り返って砂を落とし続ける時計を見やり、
「自分で了承しておいてなんだがちっとばかしきついな。ざっくりと削らなくっちゃならねえらしい。よし、どうしよう。うーん。あ、閃いた」
 ポンと手を打ち、ヤンの身体へ顔と角を向け、
「おまえの目玉は俺のことをずっと見てるんだよな? 視線を感じて本物を見つけ出せって博打で俺から視線が逸れてたら、それはちょっとお話が違うってもんだ。そうだろ? そこから俺は思うんだが――こういうのはどうだ?」
 志馬は両手を左右に伸ばした。指先を、見えない弦でも弾くようにのたうたせる。
「我祈球巣浮昇下廻我似環――」
 ふわっと目玉の海から目玉たちが浮かび上がった。だがそれは表面に見えている目玉だけで、その下に積み重なっているものはそのまま転がっている。志馬は浮かんだ目玉たちを右手の動きで凧揚げのように宙に留めながら、左手を横一線に走らせた。
「死把」
 ぱぱぱぱぱぱん、と余った目玉が一斉に割れた。残った目玉は志馬の頭上をゆっくりと回り始める。それでも量はまだ多いが。
 これで、ヤンの肉体側(部屋の奥側)すべてと、志馬の前(部屋の内側)で積み重なっていた部分の目玉すべてが消滅したことになる。
 少々追い詰められた形にはなったが、しかしヤンはむしろ形勢はこちらへ傾いたと目玉の中で考えていた。なぜなら今のやり取りだけでどれほどの秒数が失われただろう? 砂時計はもう半分以上流れ落ちてしまっていて、それは決して戻らない。なにもまだすべての目玉を見抜かれたわけじゃない。麻雀牌一揃えぐらいの目玉がまだ志馬の選択肢として残っている。
 そのしがらみを越えなければ志馬には辿り着くことはできない。
 ヤンにも、勝利にも、彼女にも。
「思ったよりも残ったな」志馬は頭上を見上げ、ヤンの身体の方に向き直った。
「だが、あらかた片付いた。な?」
 ヤンは無言。
 志馬は鼻で笑って、右手を振った。宙を回っていた目玉がぽこぽこと壁にぶつかって転がり落ちる。どの目玉も吸い寄せられるように志馬を視線で捉えて外れない。
 壁際一直線に並んだ目玉とその真ん中で顔を伏せるヤンと志馬が向かい合う形になった。
「さて、大詰めだ」
 志馬は膝でずっていってヤンの身体の前にでんとあぐらを組んだ。近くにあった目玉をひとつ手に取り、瞑目した顔を覗き込んだ。
「おいヤン、これ? これか? 見えてんだろ? どうなんだよこら」
 おそらく、とヤンは思った。志馬はこちらの緊張を解そうとしているのだろう。親切心からではなく、油断や軽蔑でこちらのガードが下りた時の反応を狙っているのだ。そうはさせるか。
 情報は渡さない。表情からも声音からも呼吸からも視線からさえも。
 勝負は、あと三十秒もせずに決するのだから。
「反応なし、ね」志馬は手元の目玉を覗き込み、お、と言った。
「いま気づいたぜ。この目玉、おまえのと色が違うな」
 その瞬間、ヤンは思わず叫び出しそうになった。
 勝った。
 この残った眼球の色を残り時間で精査することは、時を止めない限りは不可能。
 そして時間は、いつも人外の味方だ。
「くそ、ちっとは顔色変えろよなァ――ヤン。こんな色男が頼んでるんだぜ?」
 志馬がぐっと顔をヤンのそれに近づけた。後頭部からではよく見えないが、鼻の頭に何かがぶつかってむずがゆい。鼻の頭同士でもぶつかっているのだろうか。文句を言いたいがあと数秒の辛抱なので我慢する。
 最初に定めた無言の誓いも貫き通した。
 勝つ。勝つのだ。ヤンの目玉にはもう志馬の金髪頭など映ってはいない。勝った後の流れがまるで知っていることのように浮かんでくる。決着後、ヤンは手元に降ってくる火澄の式札を打つ。怒り狂った志馬の攻撃でヤンは死ぬかもしれないがそれでもよかった。べつにいい。戻って来るものにはそれだけの価値があると思えたし、たとえ消えても、あやかしもニンゲンもないどこか遥かな混沌で、火澄が惚れたあいつとまた会えるというなら、それもそんなに悪くない。そういえばちゃんと話したことはまだ無かったかもしれない。
 志馬がヤンから顔を離した。
 砂時計の最後の砂粒が落ちようとしていた。これまでがたったの三分間の出来事だったとは到底思えない。丸三日はしのぎを削っていたと言ってもらえなければ納得できないほどの、三分間。
 それが終わった。
 志馬の掌がほんの少しの迷いもなく、自分の背後へと放たれた。
 かわす暇などそれこそなかった。
 生暖かい人肌を感じ、蝶がひしゃげて潰されるのがわかった。
 視界一杯に志馬の顔が映った。
「みいつけた」
 最後の砂粒が落ちる音が聞こえた気がして。
 どうして、と口に出したはずはなかったが、志馬は答えてくれた。
「いや――いやいやいや。危なかった。危なかったぜ。本当だ、嘘じゃねえ。気づかなかったよ。視線を感じればわかるはず――確かにそのルールに則ればおまえは反則をしたってわけじゃねえ。この蝶はなんだ? 式神か? まァ今更どうでもいいが」
「だがほんのちょっと甘かったな」と志馬は続けた。
「最初に妙だと思ったのは、目玉を割った時だよ。俺はあの時、確信を持って選択肢から省いた目玉を割った。でもな、それをおまえは黙って見てた。おかしいだろ? だってもし俺が省いた中に本物の目玉があれば止めるはずだし、そうでなくったって止めていいはずなんだ。それは当然の権利だよ。別に省き方なんていくらでも他にある。押入れにしまいこみ直すでも、窓から捨てるでも、廊下に出すでも。気を飛ばせばどれでも一瞬で済むしな。だが、おまえは俺を止めなかった。放っておいた。ただ見てた。なぜなら、」
 目玉の海のどこにも、本物はなかったから。
 お客様気分で、ただ見ていたのだ。
「でも、その時はまだタネに気づいたわけじゃなかった。ただ変だな――って引っかかっただけ。本当に気づいたのは、最後の最後だ」
「最後の、最後――」
「そう」志馬は甘美な果物でも見るようにヤンの目玉を覗き込む。
「おまえ、俺が目玉の色合いの差異に気づいた時、勝ったと思っただろ」
 もはや、この男がかつてニンゲンだったとはヤンには信じることができない。
「わかるんだよ」志馬は笑った。
「俺は、勝負師だからな」
 そう言うと志馬はヤンのまぶたを無理やりこじ開けて手中の目玉をその中に押し込んだ。肉体を取り戻したヤンはその場に両手を突いてうなだれる。
 負けた。
 負けた。
 負け、た――――
「後は時間をかければすぐわかった。あの並んだ目玉の中に正解がないなら、それがどこにあるのか? 大切なのは角度を絞ることだった」
「角、度」
「そう。俺がおまえの顔を覗き込んでる時、鼻がむずがゆかったろ。あれは鼻同士がぶつかってたんじゃなくって、舐めてたんだ」
 ぶはっとヤンは噴き出した。
「な、舐めたっ?」
「ほら、嫌だろ。見えてたら絶対抵抗する。でもおまえは逆らわなかった。平気な顔してた。つまり、俺の顔が見えてなかった。壁に並んだ目玉でもねえ、俺の顔も見えてねえ、だったらもう、背後しかなかった」
 ぽんぽん、と志馬はヤンの頭を軽く叩いた。
「いや、惜しかったぜ。自慢していいよ。おまえは俺を追い詰めた。実際ギリギリだった。それだけは本当のことだ。だが、」
 天井に刺さった式札がぽろりと落ちてきた。
 それを志馬の大きな手が顔の前で掴み取る。
「それだけだったな」
 空いている左手がヤンの顔の前にかざされた。
 掌に傷口のように、獣じみた口が開いている。吐き出される息からは肉の臭いがした。
「そう落ち込むなよ」優しい声が降ってくる。
「もう何も悩まなくていいし、もう何も怖れなくていい。本当は、素晴らしいことなのかもしれないぜ?」
 掌の中の口が、ぐあっと歯を剥いた。
 次の瞬間。
 耳朶を劈く轟音と気狂いじみた衝撃が、二人もろとも何もかもを吹っ飛ばした。
 突然だが爆発である。


114, 113

  




 弾丸頭というあやかしがいる。
 名の通り弾丸が頭となって細い手足がついているだけの妖怪なのだが、便利なことに何度爆発しても本人は無傷なので事あるごとに爆発したがる厄介なやつでもある。しかし一ヶ月前、運悪く志馬と火澄が不転池(ころばずいけ)をボートに乗ってデートしている真っ只中にボート小屋を爆破してしまった。まァ気持ちはわからないでもない。が、それ以来、「次に舐めたマネをしたら解体して鉄クズにしてやる」と志馬に脅されてしまい、爆発しない俺ってなんなんだろうと思い悩んでいたところに救世主が現れた。しかも二人だ。
 間に合わないから吹っ飛ばそうと言い出したのは光明だったはずである。志馬と詩織の話を盗み聞き手の目から友達のアリスへ、そのアリスから我らが門倉いづるへと伝言されていったこれまでの一件の全貌は彼のメンタルを粉々に吹っ飛ばして数時間の散歩を要した。その間にヤンがどくろ亭を出たり入ったりして志馬に果たし状を送りつけたと知ったのがつい先刻。慌ててどくろ亭まで一同が戻ってきた時にはもう勝負が始まってしまっていた。もう終わっていてもおかしくない頃合だと親父が口を滑らせたのがまず第一の運の尽き、光明が通りを俯いて歩く弾丸頭を見かけたのが第二の運の尽き。
 そして最後の運の尽きは、どうせ宿屋にしても儲からない二階ならふっ飛ばしても問題ないだろうと同時に思ったやつが二人もいたことだ。
 キャス子とアリス、それに電介は周囲のあやかしを避難誘導しにいったので、ここには男衆しかいない。
「まったく」蟻塚は弾丸頭の狙いを微調整するいづると光明に冷たい声をぶつけた。
「私は知らんからな。後でどくろの親父に絞ってもらうといい」
「はは」いづるは首だけ背後に向けて、
「ヅっくんから謝っといてよ。そういうのキャス子で慣れてるだろ」
 蟻塚は肩をすくめた。
「私がなんでおまえらの尻を拭かねば――いや、ま、いいか。それも」
 その呟きはいづるには届かなかった。
 火の式札を構えた光明にぐいっと親指を上げてみせる。光明は包帯に包まれた顔をにやっと歪ませて準備万端の弾丸頭に式を打った。
 轟音と衝撃。尻から火を噴き出した弾丸頭は一瞬その場に留まったがコマ落としのような速度でどくろ亭へと突っ込んでいって華々しく爆裂した。
 大した建築でもなかったどくろ亭だったが、いづるも光明ももうちょい頑丈だろうと踏んでいた。が、それは残念ながら買いかぶりで、弾丸頭の爆撃を受けたどくろ亭は二階どころか一階からして吹っ飛んだ。
「――なあ」光明がごくりと生唾を飲み込む。
「やばくね?」
「いや、大丈夫だ」といづるは、腰に下げた虚丸の柄を指でなぞりながら言った。
「最初から生きてる人間はあそこには誰もいなかったのさ」
「そりゃそーかもしれねーけどよー。お、ヤンだぜ」
 木片と煙の中からヤンがふらふらと立ち上がった。なぜか特攻服を着ている。いづるは一目散に一つ目小僧に駆け寄った。
「やあ、一つ目小僧。ヤンって言うの? いい名前だね。久しぶり」
「おまえ――」ヤンは一つしかない目を見開いた。
「志馬に消されたって聞いてた」
「それガセ。ところで君、オールインしちゃった?」
「え? いや――でも全額いっちまった。火澄を賭けてな。もう取り立てが始まるはずだ。ちくしょう――」
「よかった」いづるはほっと肩を落とした。
「なら僕が肩代わりしてやる」
 言って、断りなくヤンの肩に自分の掌を埋め込ませた。
「うおあっ! なにしやが――」
 言いかけたヤンの身体からじゃらららららと魂貨が溢れ出した。溢れた魂貨は一直線に飛んでいく。その先にいるのは――
「――くそ、無茶しやがって。飛のを出してなかったら頭から落ちてたぞ」
 左手でヤンから飛んでくる魂貨を喰いながら毒づいたのは志馬。その顔は怒りで形相が歪み、額から生えた角もあって本物の鬼さながらだった。どこか負傷したのか、飛縁魔が現れて肩を支えている。
 ぎょろりと燃える鬼の目がいづるを捉えた。
「戻ってきたか、性懲りも無く。守銭はどうだった、え? 慣れない運動で筋肉痛になったかよ、門倉くん」
 いづるは答えない。取立てが終わり、ヤンの肩から手を抜くと少しふらついたが、それでもしっかりとした足取りで志馬の方へ近づいていく。
「気をつけろ門倉」と追いついてきた蟻塚が言った。光明は爆発に巻き込まれて気絶した親父を通りまで引きずっていって介抱している。
「やつは一筋縄ではいかんぞ」
「知ってる」
 いづると志馬は木片と瓦礫に埋もれるようにして、相対した。
 いづるが言う。
「首藤を消せよ」
 唇をゆがめる志馬。
「ああ、やっぱり。手の目が盗み聞きしてたか。そんな気はしたんだ。――じゃ、もう全部知ってるわけだ? いろいろと?」
「あれはあいつの望んだ姿じゃないはずだ。消せよ。紙島が何を言おうが関係ない。消せ。あいつはもう死んでる」
「親友にずいぶん冷たいじゃないか」
「親友だと思うからだ」いづるの声が珍しく震えていた。
「友達だと思うから、あんな姿でいて欲しくない。だから、消せ!」
「嫌だね」
 志馬は懐から一枚の札を取り出した。
 札には藤色の百日草が描かれ、その花弁を覆い隠すように蹲った牛頭天王の姿。
「返せよ」
 いづるが届くと思っているかのように手を伸ばす。
「それはおまえのじゃない」
「そうとも。俺が詩織から借りてる。こいつが喰う魂はいま全部俺が稼いでやってる――なにか文句があるか?」
「おまえは間違ってる」
「正しさなんかに用はない」
「志馬――!!」
「いいか!」指で挟んだ式札の角で、志馬は血まみれの少年を指した。
「おまえがどう思っているかはともかくとして俺は首藤の気持ちを踏みにじってなんかいない。俺は首藤と話をしたんだ。おまえと違ってな。首藤は言ってたよ。悔しいと。憎いと。誰が? おまえが!!」
「――僕が?」
「そうとも。首藤は憧れていたらしいぜ、俺やおまえのような気狂いに」
「嘘だ」
「嘘じゃない。何が嘘だ? そもそもおまえが見せびらかしていたんじゃないのか? 生きてた頃に、おまえの強さを。語って、喋って、見せて、晒したんだ。非才なやつに天賦の力を。勝ち続けるおまえを親友のこいつはきちんと見てくれていたわけだ。内心はおまえの想像とは違っていたようだが」
「――――」
「俺は首藤の遺志を尊重してやってる」
 志馬は撃つ気を削がれたガンマンのように式札を下げた。
「今では首藤は俺の手札の一枚。おまえの敵で俺の味方だ。このあの世でたったひとり生きてた頃のおまえを知ってる紙島詩織もな。何もかもがおまえの敵だ。そう――飛縁魔も」
 いづるの視界にはずっと入っていたはずである。
 飛縁魔は昔と同じ格好で、似合わぬ白仮面を被って、志馬を支えていた。
 志馬に無理やり式神にされて、操られている。
 そうとわかっては、いても。
「彼女を解放しろ」
「馬鹿じゃねえのか」
「志馬」
「俺が譲ると思うか。おまえの薄っぺらな言葉なんぞで」
「気持ちはわかるよ――」
 いづるの声から怒気が消えていた。
「でも、これで彼女が喜ぶと本気で思っているのか? 違うだろ?」
「いつかわかってくれるさ。何せ俺たちには時間がある。永い時間が――その果てに、あらゆる恋敵を排除してさ、ふふ、そしたら彼女だって俺に振り向いてくれるかもしれないだろ? 対抗馬がひとりもいなけりゃ優勝は決まってんだ」
「じゃあ――じゃあ、世界中の誰よりも、彼女がおまえを嫌いになったらどうするんだ?」
 志馬は乾いた笑いを浮かべて、言った。
「そん時ゃ闘うだけだ。たとえ最後のひとりになるまでだろうと、な」


 最初からわかっていた。
 どの言葉も交わす前から知っていた。
 いづるは思う。
 夕原志馬は自分の信念を曲げたりはしない。
 そして、
 門倉いづるもまた、そうだ。
「白か黒か、なんだな」
 思っていたよりも弱々しい声が出た。
「途中は全部、ないんだな」
「いや、引き分けならあるぜ。彼女の前に二度と現れないってんなら、おまえを見逃してやってもいい。どっかの暗がりで細々と魂の欠片をかじるだけの餓鬼に堕ちるってんなら、止めはしない、むしろ勧める。――どうする?」
「その生き方が今の僕とどれだけ違うか言葉にはできないけど」
 いづるは拳を握る。
 行き場を見つけた拳を、握る。
「でもな志馬、僕だって白か黒かでしか物が見れないんだ」
「じゃあ交渉決裂、だな」と志馬は言った。
「最初からわかってただろ。似たもの同士は仲良くなれない」
「ドッペルゲンガーよろしく、か」
 いづるは呟くと、手に持っていた虚丸を飛縁魔めがけて放った。飛縁魔は宙でそれを受け取ると、小首を傾げていづるへ仮面を向けた。
 それを見て本当に、彼女にはあんな白い仮面は似合わないといづるは思った。
「返すよ。取り戻してきたんだ、」
 姉さん、と言おうとして、やめた。
 もうそんな資格、どこにもなかった。
 いや違う、最初からなかったのだ。
 わかっていなかったのは自分だけで。
 ただ自分には、あまりにも眩しい夢だった。
 目が眩むような時間だった。
 それだけでいい。
 いづるは背中を向けた。
「決着は、また今度――」
 志馬は頷いて、冷たい目でいづるの背中を見つめ、言った。
「飛の」
 仮面に支配された少女は冷たい面を主に向ける。
 昆虫のような待機の静寂。


「斬れ」


 ぞろりと濡れたような刃が鞘から抜かれた。
 刹那。
 ためらいなど何一つない一刀が袈裟切りに、血に染まった制服に吸い込まれそうになって、
 その時割り込めるのは、
 蟻塚しかいなかった。

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