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19.弱虫

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「門倉いづるを取り逃がしたそうね」
「ああ。惜しかったんだけどな」
 羅刹門の最上階、閻魔の寝室に志馬と詩織はいた。どこかの皇族の寝室を中華風にアレンジしたような部屋で、志馬はベッドに腰かけ、詩織はそれを冷たく見下ろしていた。
「あたしはあんたが門倉を消してくれるっていうから手を組んでる。そのためにいろんなお膳立てもしてあげたし、あんたの味方もしてあげている。それもすべてはあの害虫まがいのしぶといクズをあんたが始末してくれるっていうからよ」
「ずいぶんな言い草だな」志馬は修学旅行中のようにくつろいでいる。
「仕方ないだろ。向こうには光明もいたし、ヤンは俺以上に横丁の抜け道には詳しい。俺ァもうここに六十年近く居座ってるが、どうも自分の縄張り以外には疎くてね。興味ねえんだ。どことどこが繋がってるかなんて」
「あんたの事情も都合も知ったことじゃない。あんたはあたしの言う通りに動けばいいのよ。あたしの思い通りにするのがあんたの仕事」
「へいへい。まァ聞くだけならタダだしな、いくらでも言えや」
「――あんたみたいな天邪鬼ともう真剣に会話をしようなんて思うほどあたしも馬鹿じゃないから許してあげる。でも夕原、あんたまさかこのまま門倉を逃がしてやるつもりじゃないでしょうね」
「それはない」
 志馬はベッドから立ち上がって、部屋の中央に置かれた雀卓に座った。緑のラシャも新しい雀卓の上に散らばっている象牙牌を手でも洗うようにかき混ぜながら、
「あんたにはどう見えているのか知らないが、安心していい、俺は正真正銘あいつの敵だ。必ずあいつを殺してみせるし、あんたも首藤も守ってみせるさ」
「どうやって?」詩織は疑わしそうにロシア帽をかぶった頭を傾げてみせる。
「門倉のしぶとさはあたしがよく知ってる。そのあいつをどう仕留める気なのか、それだけでも教えて欲しいものね。雷獣から抽出したあたしの陰陽術がバレてる以上は競神にも乗ってこないだろうし――何かアテでもあるの?」
「アテ? あるとも」志馬は卓縁に打ちつけて整えた牌山をガチャンとひとつに重ねて言った。
「入ってきていいぜ、雪女郎」
 窓のない部屋でふうっと風が吹くと、いつからそこにいたのか、死装束をまとった銀髪の少女が壁際にそうっと立っていた。
「雪女郎のミクニ」詩織が口の中で呟いた。
「あなた、夕原の手下になったの?」
 仲間と言って欲しいね、と嘯く志馬を無視して雪女郎が答えた。
「門倉にはわらわも貸しがある。利害が一致しただけのこと」
「ああ。彼女は大事な友達を門倉に消されてね。ほら、地下でやってる守銭ってあるだろ。それよ。その子の連れは門倉とやり合うことになってな、何もわざわざ悲惨な場面を見ることもないだろうから観戦にいくなと言ってやったんだ。それがなれ初めよ」
「だいたい合ってるが、おぬしの情婦(いろ)になったつもりはないぞ、志馬殿」
「わかってるって。それで、だ――ちょいと彼女には変わった特技があってな。ミク、見せてやってくれ」
 雪女郎は白い吐息をふっと吐くと、それを袖で振り払った。するときらきらと宙を舞う結晶の光が、何かを映し始めた。
「わらわは自分が見たものを雪の結晶に乗せてひとに見せることができる」
「へえ――素敵な特技ね」
 天然のスクリーンに映し出される記憶の中の光景に、言葉とは裏腹に詩織は顔をしかめた。
「これは、門倉?」
「ああ。地下にいる時にミクが見た門倉の記憶だ。どう思う?」
「どうって――」
 詩織には、ただ地下道を知り合いらしいキャスケット帽の少女と黒い執事服の男の二人と歩く門倉いづるにどうこう思うところはなかった。
「門倉でしょ」
「楽しげだと思わないか?」
「楽しげ?」詩織は志馬からスクリーンに顔を戻すが、
「わからないわよ。いつも仮面をつけてるんだもの」
「俺にはわかる」と志馬は言った。
「なァ詩織。これだよ。俺はここに勝機があると思う。よく考えてみてくれ、もし俺の言う通り門倉がただ誰かと歩くことに価値を見出すようになってるんだとしたらだぜ、それは立派な隙だと言えると思わないか?」
「それは――」
「やつがおまえの思ってるような人非人ならば俺とあいつの勝負は五分だ。俺が絶対に勝つ、と言いたいけどな」
「イカサマを仕掛ければいいでしょ」
「俺がイカサマを仕掛けたらあいつも同じことを考える。俺たちの勝負で相手より先に仕掛けを打っちゃ駄目なんだよ。仕掛けを返されて先手を打った方が負けちまう。だからどっちもイカサマを打てない」
「なら、運否天賦の勝負をすると?」
「いや、しない。そんなものに意味はねえ」
「――何を言ってるのかわからないんだけど」
「そうとも」志馬は目を細めて記憶の中の門倉いづるを懐かしそうに見つめる。
「運もあるかもしれない、だが選ぶのはどこまでいっても自分。そういう勝負をする。そして数ある選択肢の中で、自分が負ける道をあいつ自身に選ばせる。何度生まれ変わっても俺には勝てないとあいつ自身の魂に刻み込ませる勝ち方はそれしかない。そうしてやって、俺は初めて飛のを解放してやれる。俺の魂の詰まった勝負を間近で見せて、俺のことをわかってもらうんだ」
「勝負は――」志馬は自分で積んだ山を一撫でしてぶち壊し、掌から牌を水のように零しながら言った。
「勝負は、『9』で決めようと思う」




 なめられている。
 目を開けると獣の瞳とざらついた舌に出くわした。いづるは何度か瞬きしてから、電介の首根っこを掴んで顔の前からどけた。慰めてくれようとしたのだろう、しかしもう顔面はよだれまみれだ。いったいどのくらいの間なめ回していたのか、全方位やられている。そして被害状況を肌で感じている時にいづるはふと気づいた。
 仮面がない。
「あ、いづるん起きてる」
 木目の天井を背にぬっと顔を突き出してきたのはアリスだ。いつもの人を喰ったような態度はどこへ消えたのか眉を八の字にして見下ろしてくる。
「大丈夫? 痛いとこない?」
「特にない。顔が物凄くかゆい」
「それなら俺が拭いてやるよ」と雑巾でごしごし顔を擦ってきたのは光明。世紀末のにおいが鼻を打った。雑巾を跳ね飛ばして起き上がる。
「よう、ひでえ目に遭ったな」と光明が笑った。
「みっちゃん。僕は、僕は――」
「火澄に、な。仕方ねえよ。操られてたんだ」
「それはわかってる――ここは?」
「俺の隠れ家のひとつだ。心配すんな、志馬だろうが紙島だろうが入って来れない。それとな、言いそびれる前に言っとくけど、仮面が割れちまったからおまえの角が生えてきちまった。さわってみ」
 手を額にやると、髪の生え際の少し上、それまで何もなかった場所に感触が出現していた。
「で、完全に伸びきると鬼になっちまう。志馬は平気な顔してウロウロしてるが、あれだって影響を完全に受けてないのかどうか神様にしかわかんねー。だからその前に先手を打って鬼になるのを食い止めることにした。片目、瞑ってみろ」
「うん――」
 言われた通りにした。闇が広がった。
「みえない」
「黙ってやっちまって悪いが、片目を刳り貫かせてもらった。まァ気にするな、代わりの偽眼はヤンが大量に買って来てたからたくさんあったしよ、一番いい色のやつを突っ込んどいた」
「オッドアイって言うんだって」アリスがことさら明るい顔で言った。
「そっちの世界だと流行ってるんでしょ? 去年案内してあげた死人が言ってた」
「ああ、格好いいぞ。俺が褒めるんだから間違いはねえ」
 いづるを置き去りにして光明とアリスが笑いあう。
 いづるは露になった顔を伏せた。
 片目が見えない。角が生えた。
 そんなことは、どうでもいい。
「――ヅっくんは? 怪我したの?」
 いづるの問いかけに二人はピタリと笑うのをやめ、視線を逸らした。
 背筋が冷たくなる。電介を抱く手に力がこもるのを必死にこらえた。
「嘘――でしょ。嘘だよね。嘘だって言ってよ、ねえ」
「おまえの言い分だと思ったがな」
「――何が?」
 光明は包帯の隙間から刃のような視線を向けてきた。
「蟻塚さんはもう死んでた。ここにいたのはただのロスタイム。べつにいつ消えたっておかしなことじゃない。むしろ長くいすぎた方だ」
「光明!」アリスが叫んだ。
「そんな言い方ないでしょ!? 何考えてんの!?」
 光明はアリスを無視した。
「慣れろよ、門倉。俺は慣れることにした」
「光明ってば!!」
「どんなに泣いて潰れて悔やんでいてえと思っても時間は容赦なんかしてくれねえ。あっという間に癒してくれるよ。それに逆らったって意味なんかねえ。流されちまえ。忘れちまえ。それで前に進めりゃ――」
 光明のセリフの続きは聞けなかった。俯いて黙ったままのいづるに感情移入したアリスが、懐から取り出した金槌で光明を背後から殴り倒したからだ。
 はあはあと荒い息遣いを漏らす幼女と、子猫を撫でながらそれを眺める少年という奇妙な構図が四十秒ほど続いた。
 アリスはまだぜぇはぁしながら、いづるに泣きそうな顔を向ける。
「ご、ごごご強盗が入ったってことに……!」
 苦しい言い訳である。
「指紋がべっとり凶器についてるから無理かなあ」
 いづるが苦笑いしながら言うとアリスは「ヒィ!」と喚いて金槌をぶん投げた。角度を考えずに投げたものだから金槌は光明の頭を再度直撃し、恐ろしい音を立てた。
 またそれであわあわとうろたえ始めるアリスがおかしくて、いづるはほんの少しだけ力を取り戻した。
「キャス子はどこ?」
 アリスがパタリと動きを止めた。
 おそるおそるいづるの顔を窺うような按配で答えた。
「たぶん、煙突の上。ボイラー室から上がれると思う。中庭から向こうにいけるよ」
「煙突? ――わかった。ありがとう」
 なぜ隠れ家に煙突やボイラーなどがあるのかはよくわからなかったが、とりあえず動いてみることにした。もうすっかり血が乾ききってしまったブレザーのポケットに電介を突っ込んで襖から廊下に出て、ふと思った。
 ひょっとすると今あの場にいた中で、一番切れたのは自分でも光明でもなく、アリスだったのかもしれない。


 ○


 少々方向音痴の気のあるいづるだったが、中庭にはさして苦労せずに出れた。どうやらロの字型の家屋らしい。飛び石や小さな池のある中庭からは、煤けた煙突が一本確かに見えた。人影が見える。キャス子かもしれない。
 ひょいひょいと飛び石を超えて庇の下から廊下に上がると、壁に二つ入り口があった。扉はない。はてなにかなと片方に入ってみてわかった。脱衣所があり、番台がある。
 どうやらここは銭湯か、浴場つきの旅館かどちらからしい。
 番台の裏側から細い通路を進むと木戸があり、そこを開けるとボイラー室だった。壁に棒が立てかけてある。それを天井のフックに引っ掛けるとパタンと戸が開いた。どうやってよじ登ろうか考えていると、開いた戸からなまっちろい手が伸ばされてきた。どうもありがとうと手を借りて屋根の上に登った。掴んでいたはずの手も、その持ち主もどこにも見当たらなかった。
 屋根から生えたむき出しの煙突、その脇に備え付けられた梯子を登っていく。後から思えばあの高さをよじ登っていく最中に少しも恐怖を感じなかったことがすでに緊張していたことの証だった。
 てっぺんにキャス子はいた。背を向けて、足を煙突から垂らしながら、あの世横丁を、その果てにある夕陽を眺めている。
「門倉?」
 背中が言った。
 なんでもないその呼びかけに、いづるは身がすくみそうになる。
「起きたんだ。ずいぶん寝てたね」
「――」
「何」
「――」
「何か言いなよ」
 それでも黙り続ける少年にキャス子はため息を吐き、
「だんまりか。じゃあもういいよ。あたし喋るもん。あたしあんたと違って喋ることあるもんね。へへへ」
 言葉とは裏腹にキャス子は長い間、黙っていた。いづるも糊付けされたように口を閉ざしていた。
 仮面が恋しかった。
「――あたしは、平気だって言ったのに」
 素足を抱くキャス子の両手に力がこもる。
「執事なんて、おめかけ役なんて、いらないって言った。なのに母さんが無理やり押し付けてきて。いらないって言ったのに」
「――」
「あんなやつ、いらなかった――いらなかったよ」
 膝に仮面のおもてを当てて、すすり泣くキャス子にいづるは何もしてやれない。
 湿った風が二人の髪を揺らした。
 だが誰もその頭を撫でてくれはしなかった。


 ○


 煙突からひとりで下りてきたいづるは、ボイラーの際に光明がいるのに気づいた。
「みっちゃん」
「アンナちゃんの様子は? ――聞かなくてもわかるか。それより客が来てるぜ」
「客」
「志馬の使いだよ。話さないわけにはいかねえだろ」
 光明に連れられて、玄関口へやってくると、紺色の着物を着た女性が立っていた。狐の仮面をつけているが、どうも狐ではないらしかった。左手は佩いた刀の柄に添えられ、右手は茶色い包みを抱えていた。
「魔縁天狗の孤后天だ」女性はいづるの顔を確かめるとぶっきらぼうに言った。
「志馬から手紙と荷物を預かってきた」
「へぇ――よくもまァ敵地へ平然と顔を出せたものだね。褒めてあげるよ。みっちゃん手伝ってくれ。こいつぶっ殺してやる」
「わっ、馬鹿!」右手を鉤形にして飛び掛りかけるいづるを光明が羽交い絞めにした。
「死人が天狗に勝てるわけねえだろ。おまえやけに大人しいと思ったら何考えてんだ――気持ちはわかるが落ち着けよ。それに孤后天は敵じゃねえ」
「何故」
「やつは飛縁魔のお袋さんだ」
 風船の空気が抜けたようにいづるが大人しくなった。まじまじと見知らぬ天狗を上から下まで眺め、
「あ――髪が、」
 闇夜に輝きながら流れる運河のような黒髪は、あの世にだってそうはいない。
「土御門」
 孤后天はいづるを無視した。
「受け取れ。志馬をやるなら助太刀はしてやる。だがそれ以外のことは私の知ったことじゃない」
「お、おい? この包みはなんなんだよ」
「見ればわかる」
 それだけ言って、孤后天は出ていった。
 光明は手の中の荷物をいづるに渡すべきか悩むように何度か交互に見やった。
「気にすんなよ」
「べつに気にしてない。それより開けてみよう」
 いづるは手紙を、光明は小包の封を破った。
「こっちは――カメラだな。インスタントカメラ。何か呪がかかってるみたいだが。そっちはなんて?」
 いづるは便箋に斜めばって書かれた志馬からの手紙を光明に見せた。


『九人のあやかしを集めろ
 できなければ おまえの負け
 揃えたなら、七つ後
 クズ鉄山で待っている      閻魔』


 七つ後、というのはおそらく日付が変わるたびにあやかしたちによって放たれる大砲のことだろう。あの世横丁に夜は訪れないが、現世での真夜中に撃ち放たれることから闇ドンなどと呼ばれている。
 光明が手紙に目を向けたまま言った。
「九人のあやかしって――あいつ何をやるつもりなんだ?」
「対抗戦か何かかな」いづるはまるでそこに書いてあるかのように言う。
「とりあえず、そのカメラがあやかし集めに何か関係してるんだろうね。何か撮ってみよう」
「おまえ撮ろうか」
 光明がカメラを構えたがいづるは嫌そうに顔をしかめた。
「やめてくれ。写真は嫌いなんだ」
「なんでだよ」
「なんでってなんだよ。嫌なものは嫌なんだ」
 光明は怪訝そうにカメラから顔を離したが、ふとその目に理解の色が浮かんだ。
「おまえ、写真に写ると魂を抜かれるとかこのご時勢にまだ信じてるクチか? 馬鹿だな、んなことあるわけねえだろ。専門の俺が言うんだから間違いねえ」
「そんなこと信じてるわけないだろ。ただ、そう、志馬が何か罠を仕掛けてるかもしれないし」
 撮る撮らないを二人で押し問答していると、どこかから猫の鳴き声がした。二人が視線を下ろすと、いづるの制服から電介が顔を出していた。
「よお電介」言って、光明がシャッターを押した。フラッシュで目を焚かれた電介が泡を食ってポケットの中に戻っていった。孕んだように膨らんだポケットを撫でながらいづるは光明を睨んだ。
「いきなり何するんだよ。驚いちゃっただろ」
「気にするな」と光明が的外れなことを言う。
 カメラが写真を吐き出してきた。染みこむように絵が鮮明になっていく。ポケットから両手と上半身を垂らした無垢な電介がこれから自分を襲う驚愕など知る由もない目でこちらを見上げているさまが写っている。が、写真の右上に弾痕のような歪みがひとつ生まれていた。
「故障ってわけじゃなさそうだな」光明が面白そうに言う。
「他のやつも撮ってみようぜ。何かヒントになるかもしれねえ。ヤンを撮って見るか」
「そういえば、彼はどこに? 起きてから見かけていないけど」
「ここだよ」
 光明は右腰に下げたデッキホルスターから一枚抜き取って見せた。手に平に収まる程度の大きさの式札に、ひまわりに寝転んで宙をぼんやり眺めているヤンが描かれている。
「ヤン――式神に?」
「一時的にな。あやかしは実体を保たずに、何かを依代にしてた方が回復が早いんだ。おまえの荒っぽい肩代わりは言っちまえば全身の血液を一瞬で総入れ替えしたようなもんだ。そら」
 光明は手馴れたスナップで宙に式札を打った。不可視の壁にぶつかったように空中に貼りついた式札から学生服を着たヤンが飛び出してくる。少し充血した一つ目が二人を交互に見やった。
「おお、光明にいづるか。――今度ばかりは俺も駄目かと思ったぜ。いや助かった。ありがとう」そう言ってぺこりと頭を下げた。
「礼と言っちゃなんだが、俺にできることがあるなら何でも手伝うぜ。志馬とやり合うんだろ?」
「そう言ってくれると助かるよ」いづるは笑って、
「じゃあ早速、写真を一枚撮らせてくれるかな」
「おっけい」
 ヤンは玄関脇、ピンク色の公衆電話の傍に腕を組んでもたれかかった。
「ポーズはこんなんでいいか」
「うん、ポーズはすこぶるどうでもいいんだ。みっちゃん、撮って」
 人使いが荒いなァとぼやきながら光明がフラッシュを焚いた。じぃーと夏の蝉のように鳴きながらカメラがほろ暖かい写真を吐き出す。三人が三方向からそれを覗き込んだ。
「ううん、もうちっと顎を下げるべきだったぜ」
「んなことどうでもいいんだよ。それよかいづるよ、また弾痕が出来てるぜ。今度ァ多いな。七つか。しかし、どういう意味があるんだ?」
「たぶん、この弾丸は妖怪の格みたいのを表してるんだと思う」
「格?」
「うん。九人集めろっていうのは、このカメラで写真を撮って、弾痕が一から九までのあやかしを揃えろってことだと思う」
 九、といづるは心覚えのある言葉にそうするように、口の中で呟いて、
「みっちゃん、どう思う。この弾痕の数は、あやかしの強さに比例してると思う?」
 光明はヤンを胡散臭そうに見つめた。
「こいつが七っていうのは釈然としねえが、ま、そうかもな。――ん?」
 ひらひらと何もない空中から、一枚の写真が降ってきた。光明がそれを取った。
 孤后天が刀に手を添えて、憂鬱そうに横を向いていた。その周りを幼児の手形のようなランダムさで弾痕が飾っている。
 八つ。
「味な真似するなあ、おまえの義母ちゃん」
「うるさいよみっちゃん」
「でも、これでやることは決まったみたいだな」とヤンが言った。
「早速、あの世中のあやかしを撮って、面子を揃えようぜ。俺、ちょっと一っ走りして横丁にお触れを出して来る」
 お触れ? といづるが首を傾げた。
「うん。表向きは詩織もいるし、志馬には誰も逆らえない。人間の陰陽師たちはみんな妖怪のことは妖怪がなんとかしろって言って取り合ってくれないし。でも腹ン中じゃムカついてるやつは沢山いるはずだ。そういうやつらをここに集めようぜ、勝負にゃ関係なくても一緒にいたら心強いよ」
 そう言うとヤンは矢のように飛び出していった。
「あの気力はどこから来るんだか」
 光明がヤンの写真を真っ二つに折りながら言った。そして、いづるに悪戯っぽい視線を投げかけ、
「でも、おまえもあれくらいの元気出せよ」
「僕? 僕は元気だよ。心配いらない」
「そういうことはな、鏡を見てから言え」




 その後、台所にいたアリスにお茶漬けを作ってもらったり、光明とひとっ風呂浴びたりしている間にヤンが腕に覚えのある妖怪たちと大挙して戻ってきた。その数の多さに光明の隠れ家『黄泉ノ湯』は一時騒然としたが、いづるも光明も、それが嬉しい苦しみだと信じて疑わなかった。
 全員の写真撮影が終わってから、ある問題が明るみになった。

117, 116

  



 ヤンのおかげで、半刻(一時間)もしない内に黄泉ノ湯には腕っ節には自信があるというあやかしたちがこぞって集まってきてくれた。廊下は面接を控えた異類異形たちでごった返してまさに百鬼夜行の体をなしている。
 面接は順調に進んでいった。
 寺子屋程度の和室に長卓と座布団が一枚置いてある。あやかしたちは座布団にあぐらをかけるものはかき、いづるたちは卓の向こうから簡単な質問をいくつかし、写真を撮る。
 最後の面接が終わった。
 どうやって運び込まれたのかとうとう謎だった朧車が退室すると、畳に傷ましい轍が残った。家主の光明が渋い顔になったが、それは別に畳のことが原因ではない。
「アリス、朧車の階位はいくつだった?」
「ん」とアリスが写真を放った。ひらひら舞う一葉を光明がぱしっと掴む。
 無人の黒塗りタクシーが和室に鎮座しているというシュールな画だったが、重要なのはそこに刻まれた弾痕の数だ。五。決して悪くはない。
 ないが、光明はため息をついて写真を宙に放った。
「参ったな」
「そうだね」いづるが頷いた。
「もう他に志願者はいないのかな」
「今ので最後だ」
 三人はこっぴどく叱られたように俯いた。
 大勢が志願してくれたことは喜ばしい。来ないよりはマシだ。
 だが、問題は――
「足りない階位は、結局、一、三、四、九か。ひとりも来ないとはな」
「仕方ないよ。志馬とやるって噂は出回ってるんだ。階位が低い、弱いあやかしは怖がって当然だ」
「ね」とアリスが言う。が、視線を前に向けたまま、表情もなかった。アリスらしくない。
 いづるの黒と赤の瞳がそれを一瞬盗み見た。
「……。ここでこうしていても仕方ない。こっちから出向こう。そもそもそれが道理ってやつだったかもしれない。勝手な戦争にみんなを巻き込もうって言うんだから」
「あの世のためでもあるだろ。見てみぬフリしてんのがおかしいんだ」
「正論じゃどうにもならないことだってあるよ」
 ちょうどその時、タイミングよくキャス子が顔を出した。いづるは一瞬顔を硬くしたが、すぐにそれは緩んだ。
「キャス子、どうしたの」
「低い階位のお化けを探しにいくんでしょ」
 キャス子は親指で背後を指差した。
「ヤンと電介が連中の隠れ家を見つけたって。いってみようよ」
「わかった」
 いづるは頷いて立ち上がった。光明がそれを面白そうに見上げる。
「おまえら息ぴったりだな」
「殺すよみっちゃん。そういう冗談嫌いだって言ってるだろ。そんなことより」
 いづるはじと目になって、まだ包帯の隙間からにやけ顔を覗かせている陰陽師を睨んだ。
「本当に階位九のあやかしにアテはあるんだろうね。あんなにたくさん腕利きが来たのにひとりも九はいなかったってのに」
「任せておけよ。階位一が電介以外にいればたぶん平気さ。それより今はタマを揃えにいこうぜ」
「みっちゃん」
「怒るなよ」
 四人は連れ立って黄泉ノ湯を後にした。



 ○



 あの世の手紙は基本的に紙飛行機にして飛ばされる。届けたい相手の顔と名前を思い浮かべて空に飛ばせば勝手に風が運んでくれるが、たまに手紙同士がぶつかって撃墜してしまうこともあり確実性はそれほどでもない。
 が、ヤンからの手紙はきちんといづるたちの下へ届いた。
 手紙に書かれていた場所へみんなでいくと更地ばかりの通りへ出た。遠くには森が見え、それを夕陽が黄金の汗を飛ばしながらかじっていた。
 土手のように少し浮いた道路のど真ん中に鉄でできたカマボコのような建物が見えた。何かの倉庫だろう。
 下りたシャッターにヤンがもたれかかっていた。電介もその足元で襟巻きのように丸くなっている。
 いづるたちを見つけるとヤンが笑って手を挙げた。いづるも笑って手を振り返した。いづるを見つけた電介が手馴れた様子で制服を駆け上り、ポケットにもぐりこむ。
「よ。こン中にみんないるぜ」
「みんなって?」
「少なくとも猫町はいるみてえだな」
「どうしてわかるの?」
「ヒコーキ飛ばしたんだよ。そしたらここの壁にぶつかって落ちた。猫町は階位三か四だろうし、あれで意外と馬鹿じゃないからみんなで隠れようって言い出したのはあいつかもしれん」
「わかった。――反応は?」
 ヤンは肩をすくめた。
「あったら凱旋してるよ。何呼びかけても反応なし。ヒキニートもいいとこ」
「そっか」
 いづるは観光名所にそうするように、どこか圧倒されたように倉庫を見上げた。その背後でキャス子と光明がやいのやいのと言い出した。
「みっちゃん、あたしが許すからこの倉庫吹っ飛ばして」
「アンナちゃん、十年経っても変わってねーな。そういうことすると俺が上に怒られるんだよ」
「陰陽師はあやかしに極力干渉するなって? あんたたちまだそんなつまんないこと言ってんの? 陰陽師がお化けと闘わなかったら誰が闘うのよ。競神やってガンバッタネアリガトウ代をスポンサーのお化けからもらうだけで喰っていけたってそんなに全然面白くないよ。超かっちょわるい」
「俺に言われてもなあ。まァやってもいいんだけど、中のやつらが無事じゃ済まんぜ。階位低いんだから。女子高生の丸焼きなんか俺ァ喰いたくねえ」
 あーでもないこーでもないと言い立てる二人のうしろでアリスが黙っているのを、いづるは見過ごしてはいなかった。
 アリスの階位は二。
 倉庫を見上げる青い瞳は、さざなみのように揺れている。
「怖いの?」
 いづるが言うと、アリスは顔を前に向けたまま、首を振った。
「怖くなんてないよ」
「膝、震えてるけど?」
 ばっとアリスが膝を見下ろした。が、着物に隠された膝など見えるはずがない。唇を噛んでいづるを睨む。
「う、嘘つき……いづるん、めっちゃ嘘つきじゃん」
「あいこだろ?」
「……。平気だよ。怖くなんてない。だって、誰かが、やんなきゃだし。それはわかってるから。ほんとだよ。いづるん、あたしほんとに怖くなんか……ない」
「ねえ」とアリスが続けた。いづるに並んで倉庫を見上げ、
「志馬と闘ったら、誰か、死ぬかな」
 死ぬだろう、といづるは考えていた。蟻塚のように。
 そして、それは猫町だってわかっているはずだ。
「猫町」
 物も言わないシャッターにいづるは呼びかける。
「話だけでも聞いてくれないか」
 自分でも薄っぺらな言葉だと思う。だが、無意味でも、伝えようとしなければ何も始まらない。
 答えはなかった。
 いづるは両目を閉じる。
 腕っ節に自信があるやつも血気盛んなやつもいくらでもいた。
 ただ、困ったことに。

 いま必要なのは、弱虫だった。




 猫町はシャッターの蛇腹に背中を預けて、魂を抜かれたように俯いていた。
 もう外からシャッターを叩く者も、話をしようと呼びかけてくる者もない。
 いづるたちは、もう何刻前だったか思い出せないが、猫町たちが立てこもる倉庫を解放することを諦めて帰ってしまっていた。
 俯いて、視界を隠す髪の向こうから、気遣わしげないくつもの視線を感じる。ここにいるあやかしは女子供や老人のあやかしが多かった。一番腕っ節があるのは猫町か、黄泉ノ湯で掃除夫として勤めている垢なめだったろう。つまり大した連中ではないということだ。
 大したことなくて結構だと思う。全然恥ずかしいなんて思わない。
 恥じ入るべきは、勝手に始めた戦争に、勝手に巻き込もうとしてくる方だ。
「だいじょうぶ? 猫町」
 背丈が猫町の半分ほどしかない猫童の少年が、セーラー服の袖をついと引いてきた。猫町は無理やり口だけで笑って、
「うん。だいじょうぶ。あんたは気にしなくていいから。ほら、向こうでみんなと遊んでおいで」
「うん……」
「だいじょうぶだから」
 やっとのことで猫童を追い立てて、猫町は自嘲気味に顔を歪めた。
 なにがだいじょうぶなのか、詳しく言えと突かれたら猫町はおそらく泣き出しただろう。そんなものは自分が教えて欲しかった。
 あの世はもはや世紀末か黙示録の到来のごとき混迷ぶりをさらしていた。志馬による魂の独占は、まだみんな気づいていないが、力の弱い妖怪に餓死者を出し始めている。野良犬が減った程度のその変化を皆が知るのはもっと後のことだろう。だが、いずれはそれだけじゃ済まなくなる。志馬は、いつかあの世そのものを喰らい尽くしてしまうだろう。
 いづるにつこう、と言うあやかしが倉庫内にもいないわけではなかった。が、猫町は徹底的にそれを拒んだ。
 確かに、門倉いづるは夕原志馬と同じ博打撃ちだ。味方をすれば、志馬を倒してくれるかもしれない。それはその通り、
 だが、
 いづると志馬が違うものだと、誰に言える?
 いづるが勝ったところで、また新しい暴君が玉座に座って気取った足を組むだけではないのか。
 だったら、どちらにも与しなければいい。
 ひょっとすると勝手に食い合って相打ちになってくれるかもしれないし、あの世中を巻き込む大戦争になったらいつも偉そうにどくろ亭で冷え酒をかっ喰らっている男衆がいまこそ無駄飯喰らいの汚名を返上するべきなのだ。
 強いやつが、頑張ればいいじゃないか。
 そこに自分たちを巻き込まないで欲しい。
 猫町はその場にしゃがみこんだ。
 頭の中で自分が組み立てた論理を解こうとする自分の声がする。それを止めたがって猫町は頭を抱えた。
 いづると出会った時、自分は言った。
 応援する、と。
 その気持ちに嘘はなかった。
 でも、
 生命まで賭けて味方をするなんて、一言だって、言ってない。
 言ってないのだ。
 塩辛いあまえが目尻から垂れてくる。
 それでも猫町は怖かった。
 ニンゲンが、怖かった。






 子供の頃、陰陽師の話を聞きに、よく大人たちの足を縫ってどくろ亭に忍び込んだ。
 ヤンや飛縁魔と知り合ったのもその頃だ。二人は猫町と出会う前から、剣術道場で知り合っていたらしく、時折二人でちゃんばらを演じているのを猫町はよく見かけていた。
 あの世には映画も漫画もない。だから、死人や陰陽師が語る噂や体験談だけが博打を知らない子供たちにはたったひとつの娯楽だった。
 陰陽師、と言うと妖怪退治が本業のようだが、それほど妖怪を相手にしている風ではなかった。だいたいが競神で喰っていたが、武闘派はよく人間を相手にするために現世へ繰り出していた。
 あやかしや死人を見ることのできる人間は生まれつき、そういう目を持って産まれる。そしてまたその中の一握りが、あやかし相手に悪事を働いた。捕まえて服従させ、使役してしまうのだ。そういった悪党を退治するのも、陰陽師の務めだった。
 金井という陰陽師がいた。血筋は定かではない。野良上がりの術者だったのだろうが、陰陽連にその時手配されていた悪党の首を十個送りつけて、正式な陰陽師として登録された。古風に言うなら賞金稼ぎのようなもので、だから子供たちにはことさらに人気があった。
 ざんばらな癖毛を櫛も通さず流して、若いのに無精ひげを伸ばした男だった。
 もう顔のつくりも、語ってくれた物語の大半も、猫町には思い出せない。
 だが、いつも最後に金井は言うのだ。
 ――猫っこ、向こうへ行ってみたいか。一つ目、飛の、おまえらはどうだ。ん?
 その頃から怖いもの知らずで鳴らした飛縁魔は不敵に笑ってこう言った。――いつか絶対行くんだ。怖くなんてないぞ。あたしは最強だからな! なにがあるのか、見てきてやる。
 その頃は、今より少し生意気だったヤンはこう言った。――俺だって怖くなんかない。先生に剣の目録をもらったら、すぐにでも行ってやる。
 猫町は、どうしようか迷ったが、金井の暗い瞳を見ているうちにふいに意気が殺がれて、首を振った。
 金井はいつも満足そうに笑って、ぐい飲みを煽った。
 ――そうだそうだ、向こうになんて無闇に渡るもんじゃない。いいかおまえら、人間はな、おっかねえぞお。
 その後は大抵、金井がお決まりの嘘っぱちを酒の勢いでまくし立てて、その話はもう何千回も聞いたのだと怒った飛縁魔が殴る蹴る叫ぶ噛みつくの大立ち回りを演じるのがお決まりだった。それを横目で見ながら、猫町はいつも、金井の言葉を噛むように考えていた。
 人間はおっかない。
 ――どう、おっかないんだろう。
 今。
 猫町には、金井が言った言葉の意味がよくわかる。
 志馬も、いづるも、恐ろしい。何を考えているのかわからない。
 ケセランパセランたちの噂で、ヤンが志馬に挑んだ、というのはその後の顛末まで猫町にも伝わってきていた。驚いたのは、ヤンが負けたことよりも、挑んだことだった。
 あのヤンが志馬に仕掛けたというのなら、きっとあらん限りの策を持って挑んだのだろう。
 そのヤンが、負けた。
 志馬には届かなかった。
 命は拾ったようだが、それだって偶然そうなっただけで、死んでいておかしくなかった。
 死ぬ。
 死なんて、
 彼岸の――向こう側にしかないものだったはずなのに。
 いつからこんな風になってしまったのだろう。
 世紀末、と猫町は確かめるように呟いた。
 救世主なんてどこにもいない。
 生き残るのは悪鬼か羅刹か、どちらかひとり。
 もう馬鹿馬鹿しいとすら思う。勝手にしろというのだ。
 自分たちには、関係ない。
 猫町は、倉庫に隠れ潜むあやかしたちを見た。
 この子たちを死地へ追いやる権利が、どこのどいつにあるというのだろう。
 金井に、
 金井に聞いてみたことがある。
 どうして頑張るの、と。
 そうしたら彼はこともなげにこう答えた。
 ――困ってるやつらがいたからさ。
 猫町は、自分の小さな身体を強く抱いた。
 今だ。
 あたしたちが困ってるのは、今なんだ。
 今どうにかしなきゃいけなくて、それはきっと、誰かが代わりにやってくれるようなことじゃない。
 だったら自分たちでやるしかないじゃないか。
 それのどこが悪いっていうんだ。
 これは、あたしの闘い。
 誰も守ってくれないというなら、あたしが守ってみせる。
 志馬もいづるも、関係ない。
 逃げもする、隠れもする、這い蹲りもすれば命乞いだってしてみせる。
 それで生き延びられるなら。
 ――あたしは全然、構わない。


119, 118

  




 垢なめが体調を崩した。
 無理もない、もう篭城を始めてから三日目。垢をなめることを存在理由として生まれてきたものが、それをせずに生きていけるわけもなかった。
 横たわった垢なめをガリバー旅行記よろしくコロポックルたちが介抱している。
 それを見た猫町が一肌脱いで、
「こ、この際、仕方ない……垢ちゃん、あたしの腕でなんとか我慢して! さ、最近シャワー浴びてないし!」
 垢なめの目前に白い腕を差し出したが、垢なめは整った顔を苦しそうに歪めて首を振るばかりだった。
「そんな……」
 猫町はうなだれた。乙女の柔肌が垢まみれの湯船に負けたというのはかなり堪えた。
 うな垂れた猫町を見かけたのか、最近ひっそりと地上へ舞い戻ってきた河童がポンポンとセーラー服の肩を叩いた。
「気にすんなよ猫町。どんな別嬪の肌でも駄目だろう。湯船じゃなきゃ駄目なんだよ」
「そんなわがままな」
「わがままでも仕方ねえ。それがこいつの生き方だからなあ」
「どうしよう」
 垢なめの美しい黒髪を、猫町が指でそっと梳いた。
「このままじゃ垢ちゃん死んじゃうかもしんない」
「連れてってやるしかないだろ。誰かが黄泉ノ湯まで連れて行って垢なめを引き渡すんだ」
「で、でも」猫町はあがいた。
「黄泉ノ湯は光明たちがいるんでしょ。捕まっちゃうよ」
「そこまであいつらは外道者じゃねえと思うが……まァ、とにかくここで干からびさせておくわけにもいくまい。問題は誰が連れて行くかだが」
 河童は周囲を見回して、ため息をついた。
「猫町、おまえしかいねえらしいな」
「いいよ、あたしで。どっち道、垢ちゃん運べるのあたししかいないし」
 光明にバイクを破壊された猫町だったが、ここへ立てこもる少し前に西のはずれにあるクズ鉄山までいってフレームからタイヤまで一番いいのを見繕って新車に仕立て上げていた。クズ鉄山はあの世のゴミ捨て場で、大抵のものならなんでも転がっている。
 猫町は垢なめの細い身体をシートに乗せて、ぶかぶかのレインコートを二人羽織りにして垢なめと密着した。そして居残り組の妖怪たちに何があっても、倉庫から出ないようにきつく言い残して、あぜ道を突っ走っていた。
 点々と散らばるあばら家が走っていくうちに密集し始める。ちょっとした通りになるともうそこからはあの世横丁だ。だが、今はすっかり活気が失せて、文字通りゴーストタウンと化している。見慣れた風景を見る猫町の赤茶けた瞳が、少しだけ潤む。が、風と埃を払うように瞬きすると、元の気まぐれな猫の瞳に戻っていた。
 黄泉ノ湯は通常通り営業していた。しかし客はいないらしく、塀の前に土御門光明がぼんやり突っ立って、肉まんを頬張っていた。猫町を見つけると包帯の隙間からにやっと笑って片手を挙げた。
「よお」
 とだけ言う。猫町はブレーキをかけてバイクを停めた。
「光明」と言って、なんと続けるべきか迷い、
「――久しぶり」とだけ言った。
 光明がもぐもぐと肉まんを噛みながら、猫町のありさまを面白そうに眺める。
「垢なめがへばったのか。結構持ったな。もっと早く来ると思ってた」
「知ってたの?」
「ああ。うちから消えてたからな。豪傑ってわけでもなし、いるならおまえんとこだと思ってた」
 光明は入り口に首を伸ばして、おおいと声を上げた。すると狐の仮面を被った女性が暖簾の奥から出てきて、垢なめを担いでまた黄泉ノ湯へと入っていった。
「――今のって、孤后天さま? なんであんたたちと一緒にいるのよ」
「お仲間だからさ」
 光明は喰い尽くした肉まんの包みをくしゃくしゃに潰した。
「おまえもどっかから聞いてるだろう。それとも志馬が自分で噂を流したのかな。――今度の勝負は、強弱、清濁、もろもろ混合でいろんなあやかしの手が必要なんだ。なあ、くどいかもだが、俺たちと一緒に闘ってくれねえか」
「あんたが式神でも出して面子を揃えればいいでしょ」
「おまえ意外と頭回るよなあ。でも駄目なんだよ。式神は本物の妖怪じゃないからな。本物じゃないと意味がねえんだ」
「あたしには」
 目を逸らさずに言った。
「あたしたちには、関係ない」
 光明はその言葉の意味を考えるように黙っていたが、やがて、
「そうか」
 とだけ言うと大人しく黄泉ノ湯の中へと消えていった。そのあっさりとした引き際に猫町はかえって怪しく思ったが、なんだか何を思っても向こうの思う壺に嵌っているような気がして、こっちも潔く帰ることにした。バイクにまたがり、偽造した鍵を回してエンジンをかけ、どこから掘り当てたとも知れない燃料を燃やして走り出した。
 走りながら、思う。
 門倉いづるの姿はなかったが、どこにいたのだろう。
 あの黄泉ノ湯の中にいたのだろうか。
 それともどこかで猫町たち以外の弱虫狩りでもしているか。
 不意に、何かとんでもない間違いを犯しているような気持ちになってきた。
 首を振って雑念を振り払う。
 門倉いづるに手を貸したところで、助かるなんて保証はない。
 これでいい。
 これでいいんだ。
 そう思っているうちに、道を曲がり損ねた。と、猫町は自分では思ったが、ひょっとすると倉庫へ帰ってまた徹底的な篭城を始めることを無意識に避けたのかもしれない。
 迷いは、あった。
 答えがすぐには出ない、重苦しい、重油のような迷いだ。それは遠い未来にしかない解答を求めて心の回路をあてもなく彷徨い続ける黒い泥。
 そして、その泥のにおいをよく知っているやつが、猫町が間違えた道の先で、彼女を待っていた。


 ○


 砂利道に珍しく人だかりができていて、バイクを停めざるを得なかった。何事かと思う。あやかしたちは、みんな顔を上げて何かを囁き合っている。ごろごろした唸りが周囲を取り巻いていた。
 場所は、いざなみ社の石段の下だった。あの世にある神社のひとつで、普段は御神刀が一振り奉ってあるだけの場所だ。傾斜のきつい十三段の石段の上に鳥居と祠があるだけで、その周囲を森になりきれない雑木林が囲っている。
「何? どうしたの?」
 猫町があやかしのひとりに尋ねると、彼は黙って石段の上を顎でしゃくった。猫町は誘われるように、顔を上げた。
 門倉いづるだった。
「あ――」
 思わず声が出る。
 いづるは、仮面をつけていなかった。猫町は、初めて彼の素顔を見た。
 志馬との小競り合いで片目を失ったという噂は聞いていた。顔に薄汚れた包帯を斜めに巻いていて、余った帯が風を受けてたなびいている。
 だが、なぜだか知らないが、どうやら今は残った方の左目に包帯を巻いているらしい。開いている右目は偽眼にしか思えない、造り物くさい瞳をしていた。黒光りするその目は害虫の背中を思わせる。死んだ時の血で染まったブレザーを着て、足を組み、石段の最上段に座っているその姿は、人形のように生気がない。
「――いづる」
 怖くなった。猫町の脳裏を悪夢が駆け抜ける。いづるが立ち上がって一歩一歩と階段を下りて来る。その顔は憤怒と憎悪に歪んでもはや元の顔がわからず、耳を澄ませば噛み締めた歯の隙間から蛇の鳴き声のような呪詛が聞こえて来る。そうしていづるは責め立てる。猫町の弱さを責め立てる。
 なんで逃げるの。
 ――我に返った。
 いづるは、まだ段上にいる。その顔はふと窓から外を眺めた時のように遠い。怒ってもいなければ、呪ってもいなかった。その頭上で、風が吹くたびに和紙がひらひらと舞う。
 猫町は初めてそれに気づいた。
 鳥居に、国旗のように連ねられた和紙が吊るされていた。三段、並んでいる。和紙にはそれぞれ手形のようなものが墨汁で描かれていた。最初、目に入った時はその意味がわからなかった。あまりにも懐かしかったからだ。
 グー、チョキ、パァ。
 ジャンケンだ。
 まるで、猫町がそれに気づくのを待っていたかのように、人身燕頭のあやかしが人だかりから一歩出て、砂利の上を進んだ。よくよく見れば、足元に小さな木の枠が張り巡らされている。枠は三つ。それぞれ、やはりジャンケンの絵柄を描いた札が刺さっている。左からグーチョキパァ、の順。
 燕頭は、ふむ、と鼻息を吐いて砂利の上をがらがら歩いていたが、やがてグーの札の前で立ち止まった。彼が頭上を見上げたので、猫町も釣られて顔を上げた。
 相当に猫町はいづるを見て動揺していたのだろう。彼の傍にキャスケット帽をかぶった少女が、鳥居の柱にもたれるようにして座っていることにその時ようやく気づいた。白仮面を着けているその少女は、指先でつんつんといづるの肩を突いた。いづるが目覚めたように瞼を広げて、小脇に置いてある壷に手を突っ込んだ。
「じゃん」
 逡巡するように手を揺すり、
「けん」
 ひとつの小石を掴み取って、
「ぽん」
 それを石段の下へ軽く放った。石ころはかっかっと弾みをつけて落ちていき、燕頭のぞうりにぶつかって止まった。道に敷かれた白砂利と違って川から拾ってきたような灰色の石だ。それを燕頭は拾って、
「ふむ」
 またひとつ息を吐き、無造作に後方へ投げた。誰かがそれを掴んで叫んだ。
「パァ!」
 燕頭の足元の札は、グー。
 ああっ、とあやかしたちがどよめいた。石段の上でキャスケット帽の少女が筆で和紙にさらさらとチョキを描いて、それを鳥居に吊るした。それが彼女の役目らしい。
 燕頭が掌から一炎玉をひねり出して、石段に指で弾いた。見るとすでにそこにはかさぶたのように赤い小銭が散らばっているのだった。その小銭を見つめる猫町に、背後から誰かが囁いた。
「みんな一炎玉ずつ寄付していってるのさ」
 まぎらわしいが、寄付、とは博打の負けのことを指すこともある。
 猫町は振り返らずに尋ねた。
「いづるが、負けたら?」
「壱千万炎」
「――桁、合ってなくない?」
「いや、実は裏があってな。いづるというやつはいろんなことを考える。この勝負、実はみんなほんとは十炎賭けてるのさ」
「じゃ、残りの九炎は?」
「取り立てないのさ。そうすると、あやかしはいづるに負い目を背負ってる形になる。べつに式神にされるわけじゃないが、新たに勝負するにはいづるに九炎払わなくっちゃならない。だがやつは受け取りを拒否する。その決済が済むまで、あやかしはニンゲンとなんら交流を持てなくなる。志馬に式神にされずに済むんだ」
「じゃあ、みんな最初から一炎だけ残していけばいいのに」
「それじゃ勝負にならない。それに、そんなことしたら志馬に目をつけられて火澄に斬られるか詩織に燃やされるかだ。だからこれでいいのさ。いづるを倒して手土産にしようとして返り討ちにされた。中にはやはり、本当にいづるを倒して貯蓄にしたいってやつも混ざっているだろうし、この形が一番収まりがつくんだ」
 猫町は息を呑んだ。
「いづるは、そこまで考えて……?」
「ああ、考えて、いま九十七連勝中だ。あと三人で、百人斬りだな。おまえもやれば? どうせ失うものなんて、もうないんだから」
 だが、猫町はその場に棒立ちになったまま、なかなか動こうとしなかった。
 失うものはない。
 確かにそうだ。いや、これほど美味い話はまたとない。負けても志馬に目をつけられるわけでもなし、勝てば――
 もう、
 もう、みんなの食い扶持だってロクに残ってはいないのだ。
 どこかで、魂をどかっと稼ぐ必要があることなんて、最初からわかっていた。所詮どの道、いつまでも隠れているわけにはいかない。
 勝てば、壱千万。
 それでどこまで逃げ切れるかなんてわかりはしない。いつかやってくる破滅が少しの間、延びるだけ。
 わかっていても、すがるしかなかった。
 ――いづるが志馬をやっつけてくれるかもしれないのに?
 首筋で、心の中の自分が面白そうに囁く。
 ――あんたはそれを、信じないんだ? 逃げることを、選ぶんだ?
 猫町は首を振って、その声を振り払い、一歩、踏み出した。段上で、仮面の少女が、つつと顔を新しい挑戦者の方へと向けた。


121, 120

  




 猫町は、あまりギャンブルをしない。それはあの世でもそうだったし、現世で人間に紛れている時でもそうだ。元々、勝負事で熱くなるのは好きじゃなかった。それは昔から、気安く手を出しては火傷をして半べそになるくせに、目を離すと懲りずにまたすぐ手を出すあやかしの友達をずっと見てきたからかもしれない。友達に使うにはちょっと意地悪だが、彼女のことを反面教師として眺めていた節もある。
 その自分が、いづると勝負をする。
 いま、最も閻魔に近いと言われている男と。
 ふう、と猫町は息をついた。背後からの野次も、いまだけは気にしないようにする。
 テストだと思おう。
 これは、何かの試験。そう、期末テストか何か。これを潜り抜ければ夏休みが待っている。ただ、普通のテストとは違って、問題はひとつだけ。
 一発勝負。
 解ければ百点、外せば零点。
 そう思おう。
 猫町は彼女特有の猫眼の瞳孔をすっと縦に伸ばした。
 テストなら、答えがある。
 つまり、この勝負は本当は運否天賦じゃないのだ。
 まァ、よくよく考えてみればそうだ。目隠しして、手の描かれた石をくじ引きよろしく引いて、九十七連勝もできるはずがない。
 落ち着こう。ひとつずつ、考えていこう。
 まず、あの目隠し。一方の目だけが開いている。
 そもそも、こちら側は三つの枠のどれに立つかによって手を決めている。その後で、いづるは石を引いているのだから、もし石を任意に引けるのならば、負けるはずがない。見てから手を出しているのだから。
 が、それはないだろう、と猫町は思った。九十七連勝。その間、誰もそのことに突っ込まなかったとは思えない。いくらあやかしが人間に比べて柔和でおバカなやつらが揃っているにしても、何かしらであの眼(――ガラス玉みたい)が、見えていないことを確かめているはずだ。猫町は何かの映画で見たことがある。目玉の前にライターやマッチの火をかざして、反応の有無で視力の有無をもはかるのだ。何かで見た。そして、あの世では火をつけるのはそれほど苦労しない。一炎玉を潰せば簡単に鬼火がつくからだ。もうすでに、誰かが試しているはずだ。
 いづるが見えていない、ということを前提に考えてみる。
 そうすると残りの問題は、石を選んでいるのかどうか、だ。
 選んでいる、とは思う。だが、簡単に決め付けるのはまずい。ひょっとしたら選んでいると見せかけて、こちらの読みを狂わせ、自滅を誘っているのかもしれない。ジャンケンでそんなことができるのかどうかはわからないが、いま、猫町の眼上にいるのは七日間しかないロスタイムを百日以上に引き伸ばしたばけものだ。常識なんて通用するのかあやしい。
 選んでいるなら、どうやっているのか。
 逆の立場に立って考えてみよう。猫町はよく、テストで詰まると先生の顔を思い浮かべる。そのひとの性格というものと、テストの問題用紙というものは、繋がっていると猫町は信じている。○×問題なんかはお手の物、ここは間違っていないと思われる箇所にしるしをつけて、その二択の流れから残りを推測するなんてことはよくやる。そしてマジメに勉強した方が速いじゃんともよく言われる。
 が、いま、その無駄な経験をようやく活かす時が来た。
 考える。
 たとえば、こういうのはどうだろう。
 あの壷の中には、三又の枠が組まれているのだ。それは、きっとおそらく初戦で行なわれたであろう、壷の中をみんなに見せて回った時には、気づかれなかったはずだ。その時はまだ石がたくさんあって、枠が隠れていたからだ。
 こういうのもある。
 実はいづるの袖の下には義手に似たギミックが仕掛けてあって、手のひねりで自由に好きな石を、ブレザーの裏地に仕込んだ石のストックから持ってこれるのだ。そのギミックの詳細な仕組みは女子高生である猫町にはちょっとわからないが、鉄の塊が空を行く時代である、それほど難しいことでもないだろう。
 このあたりのイカサマは、勝負後、負けた後に暴き立てよう、と猫町は思った。イカサマの決済はおおよそ掛け金の三倍から五倍が相場というが、今回は最初からいづるがオールインしているのでどの道、イカサマを暴いた時点で勝ちになる。
 が、何も最初から勝負を放棄することもない。
 猫町は悩んだ。いま彼女が立っている枠は真ん中、チョキ。
 そして、そのまま、チョキの札の前で顔を上げ、仮面の少女に頷いて見せた。少女が足を伸ばして下駄でいづるの脇を小突いた。
 いづるが、壷に手を差した。じゃらり。そして、
「じゃん」
 握り拳を取り出して、
「けん」
 その手が開く前に、猫町は横に飛んだ。
 アッと誰かが叫んだ。
 ――これはイカサマじゃない、と猫町は真ん中のチョキから右のパァへ飛びながら思った。運否天賦を語るなら、まだいづるが手を開けていない時の手の入れ替えは、なんの問題もありはしない。
 これでいろいろ判明する、と猫町は空中で考え続ける。迫って来る地面を見ながら――これでいづるがグーを出せば、あの片目が実は本当に見えているのかどうかもわかるし、作為的に手を選んでいるのかどうかも暫定的には判明する。だが、それも結局は栓のないこと。
 いまここでいづるがグーの石を出せば、猫町の勝ち。
 いづるは消える。
 ふいに。
 猫町の脳裏に、強烈な後悔が襲った。
 チョキに戻りたい、と思ったが、遅かった。すでに猫町の両足はパァの砂利を噛み締め、そしていづるの投げ放った石が、階段上から転がり落ちてきた。
 静寂。
 猫町は、かがんでそれを拾って、見た。
 うしろへ放る。
 誰かが叫ぶ、
「チョキ!」
 ――猫町は、負けた。
 が、そのことはあまり気にならなかった。
 気になったのは、あの、跳んだ時の恐怖にも近い感情。
 後悔した。
 なぜ?
 やはり、自分はいづるの肩を持っているのだろうか。
 志馬に組する気持ちなど、もちろんない。ただ、だからといっていづるに肩入れする気持ちも、またないはずだった。
 同じなのだ。
 どっちを選んでも、きっと、苦しいことには変わりが無い――
 猫町は、いづるの頭からぴょこんと生えている、かわいらしくすらある角を見上げた。
 ――あれが、伸びきらないと誰に言える?
 死人がここにい続けるには、大量の魂貨が必要だし、鬼になったらさらに倍加する。
 無理なのだ。
 あやかしと死人が、共に生きていくのは。五十年、百年、それぐらいならなんとか誤魔化せるかもしれない。でも、二百年後は? 五百年後、一千年後は?
 求める魂は、その流れる時の間も、増え続けるのだ。
 無理なのだ。
 だから、猫町は、目先の希望を選ぶ。
 いづるを倒して、はした魂(だま)を手に入れる。
「異議あり!」
 猫町の声が、あの世横丁に響き渡った。
 仮面の少女が、うろんげに首を傾ける。
「異議?」
「その壷」
 猫町はびしっと指をいづるの脇に置いてある壷に突きつけた。
「あらためさせてもらうよ」
「へえ――」
 少女が、立てた膝の上で頬杖を突いた。
「どうぞ?」
 猫町はちょっと二の句が次げない。
「………………。いいの?」
「じゃあ、駄目って言ったら引っ込むの?」
 その言い方にむかっと来た。なんだこいつ――と猫町は八つ当たり気味な敵意を少女に向ける。
 猫町は石段を登って、いづると夕陽を挟んで向かい合った。
 初めて見るその素顔は、なんだか、さびしげに見えた。薄い唇が弱く結ばれていて、そこだけ見ると、女の子のように可愛い。
「……」
 声をかけずに、壷を探った。いづるは前を向いたまま、猫町に気づいていないかのように、ぼおっとしている。
 壷の中には、猫町が想像していたような枠はなかった。がらがらかき混ぜて探ってみたが、大きさも形もばらばらな石があるばかりだ。この石の形、そのすべてを覚えきるのは不可能だろう。いくら記憶力がよくてもあの世の夕陽を浴び続けている限り、忘れていくことは避けられない。
 次は、手だ。猫町は断りなしにいづるの右手を掴んだ。触れた時、はっとした。氷のように冷たかった。驚いたことが顔に出ていないことを祈りつつ、袖をひん剥いた。
 なんの仕掛けも無い。
 男の子にしては華奢すぎる白い腕があるだけだった。
「……満足?」
 仮面の少女は特に他意があったわけでもないのだろうが、その言い方がなんだかいやらしく感じて、猫町は顔がぼっと赤くなるのを感じた。恨みがましく仮面を睨むが、少女はなんとも言わない。
 猫町は、迷った。
 そのまま、下りていくこともできた。が、そうしなかった。
 掴んだままだったいづるの手に魂貨を一枚、押しつけた。
 十炎玉だった。
「もう一回」と猫町は言った。
「もう一回、やる」
 その時、いづるがようやく口を開いた。
「五万」
「え?」
「次やるなら、五万」
 その口調は冗談を言っているようには聞こえない。
 冗談なんて高尚なものを口に出来るような男でもない。特に、こういう勝負の場では。
 五万。
 ――猫町にとっての、五万である。
 博打が強いわけでもなく、現世へいって人間をとり殺して魂をこっそり奪って来る度胸があるわけでもない。
 一度失ったら、もう戻っては来ない魂(かね)である。
 オールインには、まだならない。
 が、この五万を失えば、猫町の夏休みは永遠に終わらなくなる。
 猫町は唇がわなわなと震えるのを感じながら、抑えられなかった。
 逃げることは、簡単だった。
 でも、逃げた後、どうすればいいんだろう。
 あの倉庫で、みんなと震えて過ごして二学期まで過ごし、その先になにがあるというのだろう。
 どの道、春まで保たないのだ。
 そう、どっちを選んでも、同じ――
 猫町にとっては。
 このまま帰ることが、負けて死ぬことだった。
「やる」
 いづるの黒い瞳が、少しだけ動いた。




 状況を、整理する。
 慌てて、わかったような気になって、誤魔化しちゃだめだ、と猫町は思う。それは逃げだ。勇気を出して、考えよう。
 何が起こったのか、を。
 いづるは、猫町が跳ぶ前に確かに石を掴んでいた。それを見たから、猫町は跳んだのだ。つまり、いづるは、最初からグーを掴んでいたことになる。目が見えていれば、無論、猫町のチョキに勝てない手を出すわけがないし、見えていないのなら自分で手を選ぶ意味もない。
 本当に、運否天賦で引いているのか?
 猫町は、鳥居に吊るされた出目表の群れを眺めた。風を受けてはためく紙片は、いづるが挙げてきた勝ちの数。
 もし、そうなら。
 本当に、そうなら。
 強運なんていう言葉では言いあらわせられない。
 ――ばけもの。
 猫町は、ギャンブルをあまりしない。苦手といってもいい。だから、河童や火澄が言うような、博打の申し子のようなものがこの世に本当にいるのか、わからない。
 けれど今は、信じかけている。
 それを覆すことは誰にも出来ず。
 前に立つものは、ただ敗れるしかない。
 そんなものが、本当にいるのかもしれないと。
 猫町の目が、出目表の上を力なく滑った。
 そして、気づいた。
 吊るされた和紙の群れ、二段目の左端の方である。
 全体を俯瞰している時は気づかなかったが、よくよく見てみると、ひとつの手が延々と横並びになっている箇所があった。
 グーである。
 猫町はまだ半分心ここにあらずのまま、そのグーの数を数えた。
 十七。
 十七連続、グーである。
 確率の授業は眠っていたからよく覚えていない。が、それでも、無造作に手を出し続けて、それが十七連続も続くことが偶然にしたってあるだろうか。
 ないと思う。
 思うが、ならば、どうやって?
 壷の中にも袖の下にも、なんの仕掛けもなく、そしてさっきは猫町が跳ばなければいづるは勝っていなかった。
 いや。
 大切なことは、どうやって、ではないのかもしれない。
 本当に大切なことは、何をしているのか、なのかも。
 仕掛けがあろうがなかろうが、そんなことは猫町には関係ない。
 いづるは、出す石を選んでいる。それは、十七連グーがほとんど証明している。
 ならば、それに沿って考えていくだけ。
 考えろ。
 石を選んで出しているのなら、こっちの手を読んでいるということだ。
 どうやって。
 そこだけは、仕掛けを見破らなければ裏をかけない。
 猫町は唇を噛んで、置物のようないづるの顔を睨む。
 どうやって。
 頭に血が上っていたのだろう。ずるっと猫町の足が滑った。体重をかけて前のめりになっていたために、足元の砂利石のバランスが崩れたのだ。
「わっ」
 転ばずに済んだが、うしろの方で誰かがくすくす笑うのが聞こえた。猫町の顔が赤くなる。
 その時、ふいに、背骨を撫でられるようなひらめきが猫町に走った。
「あ」
 視線は、足元の砂利道に落ちている。少し重心を傾けただけで、ごろごろと石ころが動くのでこのあたりでは誰も走ったりはしない。
 少し、重心を傾けただけで。
 さっきのことを思い出し、確信を得てから、猫町は視線を上げた。いづるの顔を見る。
 さっきから、何かに集中しているかのように、微動だにしない。
「…………」
 猫町は、仮面の少女に頷きながら、そっと足元でローファーの踵を浮かせた。白い靴下に包まれた足首が覗くが、誰もそんなところに注視するものはいなかった。
 猫町が立っているのは、真ん中。
 チョキ。
 いづるが、壷に手を入れる。
 その瞬間、猫町は片足を上げた。つま先だけでぶらんぶらんとローファーが揺れている。
 大切なのは、タイミング。
 考えるいとまさえ、与えなければ、勝機はある。
 猫町は、そのローファーを左隣の「グー」の砂利道へと放った。力加減が難しかったが、ローファーは絶妙の軌道を描いて、
 とすっ
 と、砂利道に着地した。
 ちょうど猫町が、忍び足で一歩踏み込んだような、そんな音。
「…………」
 いづるの手が、さっきよりも数瞬、壷から遅く出てきた。
 石を放る。
 猫町は、それを目で追う。真ん中の「チョキ」から。
 もし、いづるが猫町の考えているように「音」で相手の立ち位置を探っているとすれば、いづるが見ている景色の中では猫町は「グー」にいるはずだ。最後の最後に心変わりをしたように。
 そうして、いづるが「パァ」を出したなら。
 猫町の勝ちだ。
 石を放る前に手を変えたのだから、反則ではないはずだ。
 靴下を履いただけの足を、もう片方のローファーを履いた足の上に乗せながら、猫町は待った。
 からん、ころん、と、いづるの投げた石はじれったく石段を転がった末に、猫町の足元に敷かれた砂利にさくっと刺さった。
 グーだった。


 くらっときた。
 どうして。
 どうして。
 どうし、て――
 息が、詰まる。
 猫町は、すがるようにいづるを見上げた。
 その唇を、求めるように見つめる。
 今にもその口が言ってくれるのではないかと思ったのだ。
 忘れてあげるよ、と。
 いづるは右手をかざした。
 掌に、傷口のような切れ目が入っている。
 《鬼の口》だ。
 その口がぱくっと開いて、白い牙と生々しい舌が覗いた。
「あ」
 猫町は、誰かに引っ張られるようにつんのめった。左手が中空に釣り上げられ、そしてそこから、
「あ――」
 魂貨が堰を切ったようにあふれ出し、石段を遡って《鬼の口》に吸い込まれていった。
 けぷっ
 げっぷを漏らした鬼の口に、不快そうにいづるは眉をひそめて、手を握った。
「確かに」
 五万炎、貰い受けたという意味だろう。
 猫町はその場にへたりこんで、自分の失った左腕の跡地と、いづるとを交互に見比べた。
 嘘だよ、と誰かが言ってくれるのをこの期に及んで待っていた。
 何もかも嘘、こんなひどいこと誰もしやしない、どうしてこんなジャンケンごときで腕を取ったり取られたりしなくちゃならない? そんなバカなことはないよ、そんなのは、ただの嘘――
 誰も何も、言わない。
 猫町の目にぶわあっと涙が盛り上がった。
「な、なんで――」
 いづるの冷たい目が、猫町を見下ろしている。
「なんで、って?」
「ひどい、ひどいよ」
「ひどい」
 いづるはそれを知らない言葉のように言う。
「なにが」
「あた、あたし、こまる。そのお金がないと、こまるの」
「僕だって負けてたら困った」
「そう、だけど――」
「僕が負けて、許してくれと言ったら、君は許してくれた?」
 猫町の息が詰まった。
「……な」
 どんどん自分が嫌いになる。
「仲間になってあげる」
 涙で滲んで、いづるがどんな顔をしているのか、わからない。
「仲間になってあげるから、さっきのお金、返して。返してよ。あれがないと、あたし、あたしは……」
「……」
「お願い……」
「……」
 いづるには、わからないんだと猫町は思った。
 弱い自分たちの気持ちなんて。
 頑張ろうと思って、思った矢先から、掌から水が零れるように気持ちがどこかへ逃げてしまう。
 その気持ちが、強いいづるには、きっとわからない。
「……勝つって」
 猫町の声から、涙の気配が消えていた。
「勝つって言ってくれなかったじゃん」
 猫町は、倉庫の外から呼びかけられた時のことを言っている。
 あの時、いづるは、猫町に「話を聞いてくれ」や「ここを開けてくれ」とは言ったが、「志馬に僕は勝つ」とは一言も言わなかった。勝負のことは一切、口にしなかった。
「助けてくれるって、言ってよ!!」
 猫町は涙を飛ばして叫んだ。
「守ってみせるって言ってよ!! そしたら、そしたら考えてもいいよ、絶対、絶対そうするって言うなら――」
「――――」
「それなら――」
「――できないよ」
 いづるの声は、弱々しかった。
「あいつは、強い。絶対に勝つ、と言いたいけど、それはたぶん嘘だから」
「僕は」といづるは続けた。
「誰かに負けてあげる優しい嘘は昔から向いてないってわかってた。だから、ハッキリ言う。僕に味方して、勝って生き残れば君の望んだ未来をあげる。その代わり、負けたり死んだりしたら何もかもがご破算だ。責任なんて持ってあげられない。君は消える。もう何もできなくなる。君は死ぬ」
「なんでそんなこと、言うの」
「――もう僕は謝ることもできない。何も言えない。もう何をやっても嘘になってしまう気がする。だから、僕は、僕に残されたたったひとつの嘘にならない道をいく。そうするしかないから」
 いづるが何を言っているのか、猫町は半分もわかってはいなかった。泣きじゃくる以外にすることなどなかった。
「だから、こうするしかないんだ」
 いづるは言った。
 猫町は、ゆらりと立ち上がった。
 野次馬たちが息を呑んで、その背中を見つめている。
「石」
 え、と誰かが言った。猫町は振り返って喚いた。
「石! いづるが投げてきたやつ、あるでしょ!? 三つよこして!!」
 俺持ってるよ、と誰かが三つの石を差し出してきた。猫町はそれを残った右腕で掴むとスカートのポケットの中に突っ込んだ。
 触れてみて、いづるがどうやって石を選んでいたのかがいまさらわかった。
 石にはそれぞれグー、チョキ、パーの溝が彫ってあった。
 いづるは、それを指の腹で撫でて、手を選んでいたのだ。
 だが、いまだに、どうやってこちらの手を読んでいたのかが、わからない。
 わからないが、それでもよかった。
 これなら、ばれっこないから。
 猫町は、右手にひとつ握りこんで、その拳をいづるめがけて突き上げた。
 頬を流れる涙の理由がわからない。
「勝ってよ」
「――――」
「勝ったら――信じてあげる。嫌々じゃなく、あんたのために、応援だけじゃなくって、味方になる。いづるが志馬にきっと勝つって、あたし――心から信じられる。それが、あたしの報酬。だから、お願い――」



「勝って」



 いづるは顔から包帯を解いた。掌に乗った包帯が、風を受けて飛び去っていく。それまで閉じられていた赤い目が、ぱちりと開いて、猫町を捉えた。
「わかった」
 壷に手を入れて、迷わずにひとつ抜き出す。
 それを祈るように、額にかざしてから、放った。
 かつん、こつん、
 かつん、こつん、
 かつん、こつん――
 一段一段落ちてくる石が、ゆっくり見えた。
 猫町は、心から、負けることを祈った。
 いまさらになって思う。
 自分は、信じたかったのだ。
 最初から。
 から――ん、
 猫町の足元に、いづるの石が転がり落ちた。
 そこに描かれているのは、
 グー。

(ああ――)






(勝っちゃった――)






 猫町が握ったのは、パァ。
 自分が立っている世界が、崩れ落ちていくような気がした。
 誰かが言っていた。
 勝とう勝とうとすれば負け、負けてもいいと思えば勝つ。ギャンブルの女神さまは、そんな気まぐれで天邪鬼な女の子なのだと。
 でも、なにも、こんな土壇場で悪戯をしなくてもいいじゃないか。
 猫町はその場に崩れ落ちた。そして、掌に握ったパァを落とした。
 それがころりと、いづるの石のそばに転がる。
 チョキだった。





123, 122

  




 帰り道は、朧車に送ってもらうことになった。いづると仮面の少女――キャス子が再三の脅しをかけたため、朧車は渋々安全運転を誓わされることになり、不服そうに何度もエンジンをふかした。本懐はいつだってスピードの向こう側にあるのである。
 いま、猫町の隣には、いづるが座っている。
 どこから種明かししようか、といづるが言った。
「何が聞きたい?」
 その言い方が、なんだかもう何年も付き合ってきた知り合いのようで、猫町は背筋のあたりがむずむずした。返してもらった左腕の先の爪同士をなんとなく擦り合わせながら、
「……。結局、どこからなにまで、仕組んであったの」
「全部」
「全部じゃわかんないよ」
「うん。――そもそも百連勝っていうのが、嘘。あそこにいたのは、みんなサクラ」
「え? じ、じゃあ」
「あの場所は、最初からきみのために用意したんだ」
「ど――どうして?」
「こうなると思ったから」
 猫町はいづるのわき腹を殴った。いづる悶絶。
「でも、どうしてあたしがあそこを通ると思ったの? あたしは、たまたま道を曲がり損ねて――」
「うん」いづるは患部をさすりながら、
「曲がり損ねてもらったんだ。きみが黄泉ノ湯から倉庫に帰る道にね、ぬりかべに立っていてもらった。垢なめがきみのところにいる以上、リーダー格で責任感のあるきみが、彼を黄泉ノ湯まで連れてくることはわかってたし」
「気づかなかった――ねえ、じゃあ、最初の勝負は? いづるさ、あたしがチョキからパァに飛ぶ前に石を握ってたよね?」
「あれは二つ石を握ってたんだよ」
「え」
「いや、実際」いづるは左の頬を叩いた。
「包帯を巻いていたのは偽眼の方だったわけだから、きみが素直に勝負してくれれば勝つことは難しくなかった。ただ、僕が選んだ後に手を変えられるのはどうしようもない。だから、保険を打って二つ握ってたんだ。三つは握れなかったけど、二つ手を持ってれば最悪でもあいこにはなるからね」
「じゃあ、あたしは最初に一番、いい手を打ったってこと」
「そういうことになるかなあ」
 本心から言っている気が全然しなかったので、猫町は再びわき腹にブローを叩き込んだ。いづる、ふたたび悶絶。
「で? 次は?」
「……。二戦目、きみは僕が音を聞き分けていたと思って、ローファーで足音を偽装したわけだけど、僕は最初から目を開けていたからこれは効かない。きみは、百戦の間に目のことは誰かが確かめたはずだと推測したみたいだけど、そもそも九十七連勝もしてないし、あそこにいたのはみんなサクラだし――雰囲気に呑まれたきみの負けってわけ」
「もし、あたしが目を閉じろって言ったらどうしてたの?」
「その時は最終手段」
「最終手段?」
「キャス子と示し合わせててね。僕が目を塞ぐような流れになったら、彼女がきみの出す手を通してくれることになってた。勝負開始の際の合図で、肩を叩くか、わき腹を小突くか、声をかけるか。そのどれかできみがグーチョキパーどこに立ってるのかを密告するんだ」
「……ははあ、じゃ、どっちでもよかったってわけ」
「そういうこと」
「三戦目は?」
 結局、それが一番聞きたいことなのだった。
「あたしは、確かにパァを握った。それは指で溝をなぞったから、間違いない。なのに手を開けた時、石はパァからチョキに変わってた――」
「ポケットを見てみたらわかるよ」
 猫町は言われた通りに、スカートから残りの石を取り出した。考えてみればすぐにそうすべきだったのだが、魔法じみた展開のショックでそういう事柄の一切が吹っ飛んでしまっていた。
 ポケットに残っていた石を掌の上で転がした。
 すべて、チョキだった。
「な、なにこれ? どうなってんの? これじゃ、全部チョキじゃん。え?」
「指で溝をなぞってみるといいよ。――暗いから、よく見えないかな?」
 言われた通りにすると、猫町はスゥっと息を呑んだ。目を見開いて、いづると手元の石ころを交互に見比べる。
「なにこれ、絵は二つともチョキなのに、溝はチョキとグー? どういうこと?」
「きみ、よく見ないで受け取ったろう。あの時、きみに石を渡したやつは僕の用意したサクラだよ。――最後の勝負だからね、できればこの世で自分が何を出すのかは自分だけが知っていたいと普通は思う。そうして、ポケットの中にとりあえず突っ込んでから、溝に気づく。そうして溝を触って選んだ手は絶対に僕には見破られるはずがない――ところが、そうじゃなかったわけだ」
「――仕組みは、わかった。でも」
 猫町が驚いているのは、そのことではなかった。
「いづる、こんなのどうして用意してたの? ――あたしが、こうするって、最初からわかってたっていうの?」
 いづるは子供みたいに笑って、
「さあね」
 朧車が、黄泉ノ湯の前で停車した。いづるは疲れた疲れたと繰り返し、とっとと出て行ってしまった。なんとなくぼうっとそのまま座っていた猫町に、助手席に座っていたキャス子が言った。
「いまのさ、あれ、嘘」
「へ? あれって、何が?」
 キャス子はしばらく黙っていたが、言った。
「あいつ、本当は百勝したんだよ」
「――どういうこと?」
「サクラはひとりしかいなかった。あんたにずっといろいろ説明して、あのイカサマ石を渡したやつだけ。あとはみんな、本物の野次馬」
「じゃあ、じゃあどうして、いづるはあんな嘘言ったの?」
「さあ」
 キャス子がドアを開けて外に立った。
「冗談のつもり、だったんじゃない?」
 猫町もすぐに外に出た。
 二人が見上げると、黄泉ノ湯の二階、客間の障子がからりと開いて、いづるが顔を出した。室内では光明とヤンがうろついているのが見える。いづるは風を受けながら、室内へ首を向けていた。
 キャス子と猫町は、そんないづるを見ていた。
「目で見るか、あたしが通すか、そんなことでずっとあんたが来るまで暇つぶしに妖怪を相手にしてるだけなんて、あいつにとっては、サクラを使ったのと同じくらい、しょうもないことだったってことなのかもね」
「勝負とも、思いたくなかったって、ことかな」
「かもね。あいつは、妙なところでヘンなこだわりあるから。頑固なんだね」
 ふと、キャス子が仮面をはぐって猫町を見た。その剣呑な目つきに猫町は少し怯む。
「な、何?」
 キャス子はにっと笑って、仮面を被り直した。
「茶髪」
「は?」
「あいつ、茶髪、キライなんだって」
 ぽかん、と魂を抜かれたように呆けた猫町の顔を見て、キャス子はけらけらと笑った。猫町はからくりを見抜いて、ぶすっとした。それを見てまたキャス子が楽しげに言う。
「あんたたちって、からかうと面白いよね」
「なにそれ。誰と比べてるの?」
「みんな」
 ――酔っ払ってんのかこいつ、と猫町はちょっと思った。けれど、出会ったばかりで、彼女の陽気さにどこか嘘くささがずっと滲んでいることには、気づけなかった。
 黄泉ノ湯ののれんを潜ろうとするキャス子の背中に、猫町は言った。
「あの」
「何?」
「あたし、とりあえず、なにすればいいのかな」
「ああ――それはね、簡単」
 キャス子はちょっと宙を見上げてから、言った。
「ちょっと孕んで頂戴な」




 はい?



「いやぁ――――!!」
 猫町が両脇を光明とヤンに固められて、ずるずると奥の間に引っ張りこまれようとしている。ニーソを履いた足で畳をけりけりするが光明は容赦なく引きずっていく。ヤンは心底いやそうな顔をしていた。
 光明はこういうのが好きらしい。始終にやにやしている。
「観念しろ猫町。痛いのはたぶん最初だけだ」
「たぶんって何? たぶんって何!?」
「うるせえなあ死にゃしねーよ死にゃあ。案ずる寄り産むが安しだよ」
「男がそれ言うな、むかつくからぁ!! うわぁ――!! 放せぇ――!! チカン変態ゴミクズ最っ低アホ馬鹿まぬけぇ――っ!!」
 どったんばったんと暴れる猫町に男衆はドン引きである。浜に打ち上げられたサメだってもう少し空気を読む。
 いづるとキャス子は何をするでもなく、座敷の上で手足を伸ばして他人事のように悶着を眺めていた。
「なにもべつに本当にヤられちゃうわけじゃないのにねー」
 キャス子はけらけら笑って言うが、ヤるとかヤらないとかいう単語を聞くだけでいづるは恥ずかしいので、黙っていた。
「でもさー、本当にみっちゃんの言う通り、猫町を依代にすれば電ちゃんが進化したりするのかなあ?」
 いづるはちらっと顔を上げて、
「ヤンを式札に入れて休ませていたように、なにかにとり憑いているとあやかしは安定するらしいよ。みっちゃんの理論にいると、陰(女)と猫の気を持ってる猫町に電介を憑依させると、ちょうどおなかに子供がいるみたいに妖気が流れて成長するんだって」
「それで決戦になったら、電介の魂だけを取り出すってわけ?」
「そう」
「トンデモ理論にもほどがあるなー」
 いづるに言われても困る。
「ぬっがぁ――――!!」
 二人がのんきに話している間にも、猫町たちの捕り物騒ぎは続いている。
 いづるが目を向けると、柱に爪を立ててへばりついていた猫町が、光明とヤンに両足を引っ張られて背が数センチ伸びているところだった。完全に二人の目からはパンツが見えているはずだが、顔を赤らめるどころか死んだタヌキか何かを見た時のようなツラになっている。いったいどんなパンツを履いていたらそんな顔をされるのか逆に知りたい。
「いづる――た、たすけて! きっと、きっと何か他に方法があるよ! こんなひどいことしなくても済むやり方があるはずだよ!」
「そうかなあ」いづるは首をひねり、
「うーん、じゃやめようか」
「ほんと!?」
「でも、猫町、そんなに電介のこと嫌いだったの? なんか残念だよ」
「あっ、それは違うよ、あのね」
 猫町が両手身振りを交えて弁解しようとした。
 柱を掴んでいた手で、である。
「にゃああああぁぁぁぁぁ――――!!!!!」
 奥の間に猫町が吸い込まれていって、襖がバシン、と閉じた。しばらくごきぶりを踏んづけた時のような大騒ぎが向こうから響いてきたが、やがて静かになった。
 いづるは目頭を押さえる。
「誠に遺憾」
「この悪党」とそばで見ていたキャス子が笑った。
 光明の話によれば、電介が階位九にまで猫町の中で『胎育』されるまで半日はかかるということだった。
「それまでどうしようか」といづるが言った。
 キャス子はちょっと考えて、
「麻雀でもやる?」
 と牌を摘むような手まねをした。ちょうど、黄泉ノ湯は猫町陥落の報を耳にして観念して投降してきた低位のあやかしたちで溢れており、面子には困らない。
 いそいそといづるが物置から折りたたみ式の卓と牌を引っ張り出して甲斐甲斐しくセッティングしていると、猫町たちが消えていった襖が音を立てて開いた。
 猫町が立っている。
「あれ?」
 いづるは首をねじって背後を見た。
「早いね、どうしたの」
「――――」猫町は答えない。
「猫町?」
 ぼふっ、
 立ち上がりかけたいづるに、猫町がいきなり抱きついた。
「な」
 牌山から牌を摘もうとしていたキャス子の指が凍りつく。
「ね、猫町……?」
 いづるは電撃を喰らったように身を固めて微動だにできない。
「いづる」
「な、何……?」
 猫町の声からはなんの感情も読み取れない。いづるの首に、自分の鼻をすり寄せて、
「ぼくがまもってあげる。なにがあっても、ぼくはいづるのミカタだからね」
「猫町……な、なにを?」
 猫町がぶんぶん首を振って、長い髪がはためいた。
「ねこまちじゃ、ない」
「え? ちょっと待って……ひょっとして、電介なの?」
 答える代わりに、ぎゅっと猫町=電介はいづるにしがみついてきた。そうしていないといづるがどこかへ行ってしまうかのように。
「いづる……ぼく、ぼくは」
「……うん」
「ぼくは、いづるがすき」
「……」
「まもってあげるから。ぼくが、いづるをまもるから」
 電介は肩を震わせて、
「だから、いなくならないで……」
 いづるは、目を閉じた。開きっぱなしの左目を天井の木目に据えながら、ぎくしゃくした手つきで電介の頭を撫でた。
 ありがとう、とも、ごめん、とも、言わなかった。ただ、黙ってふわふわした猫ッ毛を撫でた。
 好きだと言われれば言われるほど、自分がどうしようもなくひどい人間に、なぜだか思えた。


 ○



「おや」
 黄泉ノ湯の廊下、光明は浴衣に懐手でぶらぶらしていたのだが、障子窓から外を眺めるキャス子を見つけて足を止めた。
「何してんのアンナちゃん」
 キャス子はこっちに白いおもてをちょっと向けて、何もなかったかのように外に顔を戻した。光明はその隣に立って、初めて出会った人にそうするようにじろじろとキャス子を見た。
「門倉は」
「電ちゃんとイチャついてる」
 いつも被っているキャスケット帽を、キャス子は外して手の中でひしゃげさせて弄んだ。
「あららァ。フラれちゃったかァ」
「ばぁーか。電ちゃん相手に意地張ったりしないよ。それにフるとかフらないとか、ないでしょ」
「なんで」
「いつまでも続くものじゃないもん、こんなの」
 夕陽がなめるようにキャス子を包んでいる。
 光明はぼりぼりと頭をかいた。
「ま、そうだけどさ。でも俺ァてっきり、あんたが一番、それを認めたくないんだって、思ってたけどな」
「あたしがひよったら、あいつがシャキッとできないからね」
「強いなあ、アンナちゃんは」
「そうだよ」
 キャス子は声で笑って答えた。
「だから、強いまま、最後までいく」
 二人は並んで、どこかから聞こえて来る喧騒に耳を傾けた。
 光明は言うかどうか迷ったが、結局、言った。
「逃げろよ、アンナちゃん」
 キャス子は呆れたように笑った。
「逃げて、どうすんの。どっかあたしに行く場所がある?」
「なくても、あんたなら、どっかで細々とやっていけるよ。俺が保障する」
「あたし、最後までいくって言ったばっかなんだけどなあ?」
「それでも止めて欲しいのかと思ってさ」
 しばらく、長く壁に這った二人の影が、そのまま動かなかった。
「あいつがね」
 キャス子は言った。
「あいつが、心の底から笑うとこ、あたし――見てみたいんだ」
 それは難儀だろうな、と光明は思った。
 誰の知る限りでも、門倉いづるが、一瞬でも自分を忘れて微笑んだことなど一度もないのだ。心の底から笑うことも泣くこともない。いつもどこかでブレーキをかけている。
 だから、いづるがもし本当に微笑んでしまうような未来に辿り着くなら、どんな目に遭おうとも割が合う。
 キャス子は、そう言っている。
 微笑むことになぜそこまで苦しまなくてはいけないのか、光明にはどうしてもわからない。
 光明がいってしまってから、キャス子は、仮面を少しだけずらして、呟いた。
「なんで死んじゃったんだろ、あたし」


125, 124

顎男 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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