終章――紙島詩織
あれから、二十年が経った。
紙島詩織が大学で教鞭を取ってから、もう十年になる。大学では彼女は学生に憲法を教えていた。それほど有名な大学というわけでもなく、法律事務所で数年働いただけの詩織でも雇ってくれた。最初はどうなることかと思ったが、取りやすい科目としてのんびり講義を続けるだけで生きていくには充分な月給はもらえた。といっても、金などいくらあっても使い道などないのだが。
結婚は、しなかった。
子供もいない。
そういった意味では、寂しい人生だったな、と詩織は思う。悔いは、無いとは言えない。やり直したいと願わずにはいられない箇所が、自分の人生を斑色に染めている。
それでも、あの世とこの世を行き来するのをやめたことだけは、正しかったのだろう。
あのまま冥府でくすぶり続けていても、なんの意味もなかっただろうし、今のような平和な暮らしにはとても辿り着けなかったはずだ。
詩織は、陰陽師をやめた。
今ではもう、少し人よりお化けが見えるだけのおばさんだ。
時々、薄闇の中を駆け抜けた青春を思い出しはしたけれど。
詩織が十九の時だろうか、首なしライダーがあの世横丁へ現れた、という噂が流れたのは。
詩織は噂の出所であるどくろ亭へ駆けつけた。息を切らせて暖簾を潜った詩織をカウンターで待っていたのは、確かに首のないライダースーツの男だった。男はちょっとだけ身体を振り向けて、詩織と向き合っていたが、やがて興味なさそうにカウンターに向き直った。
詩織にはすぐわかった。
彼は、首藤ではなかった。体格も雰囲気も違った、《つちから》のあやかしの一人に過ぎなかった。
その時、思っていたよりも、自分が動じなかったのを覚えている。
ああ、そうだろうな、と思っただけだった。
そして悟った。
自分の恋が、もうとっくの昔に終わってしまっていたということを。
土御門光明と最後に会ったのは、三十二の時。
その頃、光明は相変わらず陰陽師としてあの世とこの世をふらふらし続けてはいたが、それでも二児のパパになって、膝に乗せた愛娘にひげを抜かれるくらいには大人になっていた。二人の娘は光明によく似ていた。
光明の火傷は、その時もまだ薄い桃色の引きつりとして残っていた。が、それをフォローできるくらいに、その目は優しい色をしていたし、笑い声はほがらかで聞いているだけで周りが明るくなった。
子供たちを寝かしつけ、光明の奥さんにお酌をしてもらいながら、二人は夜更けまで酒を飲んだ。詩織が半分眠りかけていた頃、ぽつりと光明が言った。
「妖怪ってのはさ、紙島。俺は、記憶の名残なんだと思う」
「記憶――」
光明はぐい飲みの中の酒を、美しいものを見るときの目つきで眺めていた。
「かつて誰かが見た夢。たとえば、戦争で片目を失ったガキとか、あるいは派手に事故ったのに誰も乗っていなかった怪しい車、怒ると静電気を喰らったみてえに毛を逆立てる猫、雪山で遭難して死ぬ間際に見た嫁さんの影」
詩織は空になった湯呑を指先で弾いた。
「……そういう、記憶の残滓、見間違い、幻影みたいなものがこの世からあの世に流れ込んで、あやかしになってるっていうの? それじゃあ、あの世は、この世の記憶が漂流して出来た影だ、ってこと?」
「べつに正しい解釈なんてねえんだろう。確かめようもないしな。俺は科学者でもなければ探求者でもない。ただのオッサンだ。だからオッサンは、ただ適当に理屈立てもしねえで考えるだけ考えて、喋るだけ。――紙島、人は忘れることができる。間違うことができる。完全な記憶なんて本当はないんだ。だから、この世からあの世へ誰かが見た夢が移ろった時、ひずみが生まれて、まったく同じものにはならない。言うなら、化かされるわけだ」
「……」
「それは、人が忘れることができる、忘れざるをえないってことの証明だ。でもそれは悪いことじゃない。仕方のないことなんだ。――いいんだよ、それで。でなけりゃ、前に進めない。いつまでも、いなくなったやつに縛られ続ける。俺は誰かの苦しみとして残るくらいなら忘れてもらって構わない」
光明とは、それきり会っていない。年賀状も一昨年、急に途絶え、酒を交わした彼の自宅もいつの間にか取り壊されていた。
けれど不思議と、彼らに不幸が遭ったのだとは、思えなかった。
あの十字路に、詩織は一年に一度だけやってくる。
どうして茶色い土から生まれてこれるのか不思議なほどに淡い桜色の花を咲かせた、ソメイヨシノが今年の春も花びらの絨毯をアスファルトに敷いていた。
白衣のポケットに手を突っ込んで、詩織はしばらく、目を閉じる。
立っているのは、あの横断歩道。
そこに毎年命日に手向けられていた献花はもう、十年も前から絶えている。
そこに佇みながら黙って耳を澄ませていると、懐かしい声が聞こえて来るような気がした。
目を開ければ、何もかも昔に戻っていて。
自分は高校生で、制服を着ていて、使い古したスクールバッグを提げていて。
そして横断歩道の向こうには、あの二人が笑いながら自分を待っている。
そんな風景を想像して、けれど詩織は目を開けることなく踵を返して歩き出す。
結局は、それもまたただの夢にしか過ぎない。
自分が見るには、あまりにも綺麗な夢。
終わってしまった、夢だから。
それをそっと胸の奥へ仕舞い込んで紙島詩織は、誰とも触れ合うことのない雑踏の中へと帰っていった。