そして席を立ちそこね
布団の中にいる。
それがわかっているからといって、ばっと起きられたらこの世に二度寝も不貞寝もあるもんか。
飛縁魔の火澄は、重いまぶたをそおっと開けた。
天井がぐるぐると回っている。
ぼうっとそれを眺めていると回転が速くなっていき、やがて頭痛がして止まった。
「くうううう……」
火澄は頭を抱えて身もだえした。刺すような頭痛がした。原因は、布団のそばに転がっている一升瓶、そしてひとつの布団に仲良くおさまっている雪女郎のミクニと猫娘の猫町。女子会をしようと言い出したのが昨日のどっちだったのか、火澄はもう覚えていない。ひょっとすると自分だったのかもしれない。その可能性はかなり高い。布団脇に転がっているのは火澄秘蔵の酒ばかりだ。どうやら昨日、一度屋敷に帰って蔵から引っ張り出してきたらしい。そんなに呑みたかったのかと思うが、頭痛から逆算するとそういうことになるようだ。
猫町とミクニはあられもない姿で眠っている。そのそばで、子猫が柱でがりがり爪を研いでいた。
火澄は布団から手を伸ばして、雷獣の電介の首根っこを掴んだ。
「にゃ……?」
電介は目をつぶらな瞳で自由を侵害されたことを抗議したが、そんなものが酔っ払いに通じるわけがない。火澄は電介を胸元に引き寄せて、身体を丸めるように抱いた。
あたたかい。
ぱちぱちと毛先から爆ぜる静電気が、あやかしの身にはたまらなく気持ちいい。
ずっとこうしていたい、と思った。頭痛が消えていくと今度は眠気に襲われる。背骨をじかに触られたような快感。このまま時が止まってしまえばいいと思う。けれどもやはりそれは幻に過ぎず、火澄の意識はゆっくりと覚めていってしまった。それでも電介を抱き締め続けていると、
ばりっ
閉じた瞼を貫くような火花が腕の中で散った。
「あ痛っ! なにすんだよ電介?」
電介はするりと火澄の腕から抜け出して、くしくしと顔をこすると、尻尾を振りたてて開いていた窓から出て行ってしまった。素っ気無いにもほどがある。
「なんだよ……電介のやつ」
手すりつきの窓から身を乗り出して、火澄は電介の黄色い尻尾を夕陽の中に探したが、もうどこにも見当たらなかった。諦めて部屋の中に身を戻すと、布団の上でミクニが、
「うう……ん」
つやっぽい声を上げて寝返りを打った。さらさらとした銀髪が流れて猫町の寝顔にかかった。二人とも少し息が荒いのは酒がまだ魂(からだ)の中をめぐっているからだろうか。
「仕方ねえなあ、ったく」
火澄は荒っぽく言って、二人が蹴飛ばしたタオルケットをかけ直してやった。その時に、ミクニの顔を、じっと見た。
彼女を恨んではいない。
逆の立場だったら、自分も同じように振舞っていたかもしれない。そんな相手を責める気にはなれなかった。
それにもう、終わったことだ。なにもかも。
火澄は、ぺたんと布団の上に座り込んで、立てつけの悪い窓から吹き込む風を顔に受けた。
門倉いづるは、消えた。
もうどれぐらい前になるのか、わからない。それが普通だ。
時間なんて、あやかしにはなんの意味もないものなのだから。
そのまましばらく、ガラにもなくぼうっとしていると、窓の外からちりんちりんと自転車のベルの音がした。寝巻きにしていた装束の胸元を押さえて、火澄は窓から顔を出した。
道端に、学生服を着た少年が自転車を停めて、こっちを見上げていた。
「ヤン」
「なにしてんだ火澄。早く降りてこいよ」
一つ目のヤンはおいでおいでと手をこまねいた。
火澄はその生意気な態度にむっとして、べえっと舌を出した。
「やだよばーか。なんであたしがおまえの言いなりにならなきゃいけないんだ?」
「はあ? 何言ってんだおまえ」
ヤンは不思議そうな顔をして首を傾げた。
「俺たち、つがいになったんだろ?」
ああ、
そうだった。
アパートを出ると、ヤンはまだ不思議そうな顔をしていた。
「どうした? なんか顔が白いぜ」
火澄はあいまいに笑って、手でおちょこを持つふりをした。
「呑みすぎちゃった」
「またかよ。どうせ猫町とミクニが上にいんだろ」
「あたり」
「まったく、あんまり無茶すんなよな」
「へへ……」
火澄は、まともにヤンの一つ目が見られない。
最近、ヤンは妙に優しい。別人になってしまったようで、わかってはいても、たまにちょっとだけ火澄にはヤンが怖く思える時がある。
そんな風に思われているとは少しも思っていないヤンは自転車のスタンドを立てて、塀に立てかけた。
「あれ、乗っていかねえの?」
「ああ。べつに急ぎじゃねえし、のんびり歩いていこうぜ」
「――うん」
スタスタと歩いていくヤンの背中を火澄は小走りに追いかけた。歩幅はやっぱり、ヤンの方が広い。
二人で、小道を歩いた。
猫町のアパートの周りはほとんど誰もうろついていなかったが、目抜き通りの方からは、太鼓や笛の音とあやかしたちのざわめきが聞こえて来る。
今日は、一年に一度のお祭りの日なのだ。その祭りは月見祭といって、今日だけは、あの世の夕陽が沈んで月が登る。露店では丸い月にちなんで肉まんや餡まん、みたらし団子に焼き桃なんかを売ってくれて火澄にとっては天国のようなお祭りだ。今日だけで一年の食費の三分の一は注ぎ込む。
ぽつぽつと現れ始めた露店の中を物欲しそうに見る火澄。
「…………」
ヤンがみたらし団子を二本買って、一本を火澄の顔の前に差し出した。ぽかんとしている火澄に一つ目をしかめて、
「二本はやらんぞ」
「べ、べつにそういうことじゃないっての。食いしん坊扱いするな」
言いつつ、受け取る。
べっとりと蜜のかかった団子が誘うように光っている。火澄はぱくっと団子を食べた。
おいしい。
ヤンがじっとこっちを見ている。それを感じながらも、火澄は目を合わせることがどうしてもできず、なにか言うこともできず、団子に夢中になっているフリをした。
頬が熱い。
火澄は自分の足元の長く伸びた影について歩きながら、どうしてこんなことになっているかを思い出そうとした。確か猫町か誰かが言い出したのだ。二人揃って恋人いませんって顔して往来を下がるだけであたしの恋愛運まで下がンのよ、とかなんとか。火澄とヤンが独り身なせいで周囲の運気が落ちるなら今頃あの世は地獄の釜の底になっているべきだったが、そんな道理は酔っ払いに通じるわけもなく、火澄とヤンは延々と猫町の愚痴を聞きに回った。
ニンゲンのなにがし君にフラれたのだそうだ。
酒で火照った顔のはしに涙が浮かんでいたことからして、猫町は本気だったらしい。だからヤンも火澄も逆切れなどせずに黙って聞いていた。一升瓶が一本転がり、二本倒れ、三本並んだ頃に猫町が言い出した。
「ヤン、あんた、好きな子いないの。あのねー好きな子のねーひとりもいないようじゃねー……男子高校生に生きてる意味なんかないのぉっ! しねっ!」
ひどい言い草だなあ、と火澄は付き合い酒を煽りながら隣に座ったヤンを窺った。ヤンはちょっと一つ目をしかめていたが、おおむね平然としていて、ぐい呑みをこつんと置くとさらりと言った。
「好きなやつならいるよ」
「誰よそれ」
「火澄」
ふうん、と一度流してから、火澄は目玉が飛び出るほど驚いた。
「え、あたし? う――嘘でしょ?」
ほんと、とヤンが言って、酒を少し飲んだ。
火澄は二の句が継げない。救いを求めるように猫町を見たのが間違いだった。猫町はにやにや笑いながら、「ふーんそーうそうなんだーうふふふふ」とかなんとか言ってにやにやしっ放しで状況を悪くはできてもまとめることは絶対にできそうになかった。
「だって、ヤン、そんなこと言ったこと一度も」
「今言った」
火澄とヤンの視線が絡み合った。
「本気」
火澄は見もせずに卓の上に左手を伸ばして、何度かしくじった後に自分のぐい飲みを掴んで、とりあえず酒を飲んだ。
そこから先はあまりよく覚えていない。
結婚の約束ぐらいは、交わしてしまったらしい。後から人に聞いてそんなことになっていると知った。お化けだって結婚することはするが、それが自分の身に降りかかってくる事柄だなどと考えたこともなかった。遠い将来(さき)のことだと思っていた。
ヤンとつがいになった。
嫌だったら、今、こうして隣をのんびり歩かせてはおかない。
火澄はようやくヤンの顔を見る気になって、ちらと隣を盗み見た。ヤンは並んだ出店を見るともなしに眺めている。少し風が出ていて、ぼさっとした髪が稲穂のようにそよいでいた。
子供の頃から、ずっと知っているあやかし仲間で、お互いのことで知らないことなんか、きっとほとんどないだろう。ずっと今まで一緒に過ごしてきたのだし、それが今後一生になっても、それほど何かが変わるということもないのかもしれない。
でも、好きかと言われれば――
――長く一緒にいれば、いつか情が湧くよ。きっと湧く。そいつがどんなクズでもさ。
久々に思い出した、あの『彼』の言うことが正しければ、今のこの気持ちがどうであれ、辿り着くのは「ヤンが好き」という結果なのだろうか。本当に、結婚して、一緒に暮らして、彼のために味噌汁を作って彼のために靴下の穴を繕っていればいつか情が湧いてどんな相手でも好きになってしまうのだろうか。そういうものなのだろうか。
時間は、そんなに強いのだろうか。
ふいに、手を掴まれて、火澄は物思いから弾けるように我に返った。びっくりして隣をいくヤンを見上げると、そっぽを向いている。が、その右手はしっかりと火澄の左手をそっと掴んでいた。ちょっと引っ張れば抜けてしまいそうな、おっかなびっくりの掴み方。
かわいいな、と思った。
ぎゅっと掴み返した。一瞬、ヤンの手が強張って、それから少し力強く握り返してきた。
にわかに込み合ってきた通りを、ヤンに手を引かれてついていく。賑わいの中へ埋もれていけばいくほど、祭りの喧騒が身を包むように大きくなってきた。あかるい笑い声に雑踏の足音、尾を引く笛の音に鼓動のような太鼓の音。
祭囃子の中へと火澄は入っていく。
どんどんちゃかちゃか
どんちゃかちゃ――
神輿だ、とヤンが言った。火澄は顔を上げた。
目抜き通りを馬頭衆に担がれた神輿が進んで来る。黄金でできた、宮殿のような神輿だ。周囲を座敷童子たちが笛や太鼓を鳴らしながらくるくると踊っている。青い着物を着ているのはアリスで、赤い着物を着ているのは手の目だ。手の目はおそらく助っ人だろう。慣れない笛の音を外してはアリスに睨まれてあたふたしている。その度にアリスが手の目の前に躍り出て正しい指の動きを吹きながら演奏してやっているが、それだけでひとつの芸のようにほほえましい。
笛を吹くのは、神輿の中にいる閻魔大王の露払いのためだ、と伝えられているのはあの世横丁に住んでいるあやかしなら誰でも知っていること。鬼を祓う音色は、いつの世も笛か鈴かに決まっていた。
ヤンが神輿を見上げながら、
「おまえ、本当はあそこにいなきゃいけないんだろ?」
「うん――」火澄は繋いだ手の境目を見下ろしている。
「でも、身代わりに人形と虚丸を入れてあるからいいんだ。あの神輿に入れない閻魔とかが使ったやり方らしいんだけど、あたしもそうしてるんだ」
「なんで。担がれて運ばれていい気分だろ」
「だってあんなところにいてもつまんないじゃん。なんも食べらんないし」
「結局それかい」
ヤンが声をあげて笑った。
べつに、ムッとしたわけではなかったのに、
「――うるさい」
思ったよりも冷たい声が出た。
ヤンがびっくりしている。火澄は慌てて空いてる手を振った。
「あ、ご、ごめん」
「ん、いや、いいよ」
「うん――」
何をやっているんだろう。
いつもできていることが、できない。
こんなはずじゃなかったのに。
「座るか?」
「え――」
ヤンは答えも聞かずに、肩を押して火澄を椅子に座らせた。自分はその対面に座る。よくよく見れば雀卓である。二つ三つ向こうの卓で河童のおやじがあやかし仲間と牌をつまんでいるのが見えた。
「河童だ」
ヤンもちらっと見て、
「ああ、ほんとだ」
「おっさん、勝ってんのかな」
喧騒が大きくて、向こうの様子までは聞こえてこない。
「負けてると見たね」とヤン。
「そうか? なんか帰りたそうにしてるし、勝ってるからもう抜けたいんじゃないのかな」
「深手になる前に抜けようとしてるのかもしれないぜ。博打っていうのはいつも抜けたやつの勝ちなのさ」
「どうして?」
「最後にはみんな、負けちまうから」
「そうかなあ。ずっと勝ち続けるやつだって、どこかにはいるかもしれないぜ」
「いないね」ヤンは珍しく譲らなかった。
「いないから、いいのさ」
そして、勝っているにしろ負けているにしろ、河童はやはり席を立ちそこねたらしく、渋々椅子に腰を落ち着け直した。牌を混ぜる時にちらっと見えた横顔に苦笑が走っていたが、見物人が増えてきて、河童の姿は見えなくなった。
「あれ?」
「どうした」
火澄はあたりをキョロキョロ見回して、
「なんか今日、死人が多いな」
いつもは時々白髪頭をした死人がぽつぽつと歩いている程度なのに、今日に限ってブレザーを着た学生風の死人が多かった。それも団体で固まっている。中にはバスガイドらしい旗を持ったのっぺらぼうまで混じっている始末だった。まるで京都か何かを修学旅行で見に来た学生のようだ。
それをそのままヤンに言うと、ヤンは頷いた。
「その通りらしい。修学旅行帰りのバスが崖から三台続けて落ちて、全員死んだそうだ。ひでえ事故だったらしいが、全員即死だったのが不幸中の幸いだな。――あいつら、本当に修学旅行の延長ぐらいに思ってンのかなあ」
白い仮面をつけたブレザー姿の高校生たちは、けらけら笑いながら、おもしろい格好をした妖怪を見つけては話しかけたり肩を組んだりしている。自分が死んだということをわかっているのかいないのか。
「でもさ」
火澄がぽつりと言った。
「ああいうのって、いいよな」
「いいって、なにが?」
火澄は、道の向こう側を笑い声をあげながら通り過ぎていく高校生たちを眺めながら、
「ああいう風にさ、死んでもめそめそしたりしないで笑い飛ばして逝けたら、死ぬのもそんなに悪くない――って思うんだ」
「誰に聞いたそんなセリフ」
「誰だっけ――ヤン、知ってる?」
「知らない」とヤンは言った。
嘘だ、と火澄は思った。
突然、ヤンが身を乗り出してきて、火澄の胸倉を掴んだ。いきなりすぎて声も出せなかった。
鼻が触れ合うほど近くに、ヤンの顔がある。
「キスしよう」
「えっ?」
「俺たち、付き合ってるんだろ? だったら、何もおかしくないだろう」
「それは――そう、だけど」
ヤンの手は着物が崩れるほど、強く握られている。
火澄はまっすぐに見つめて来る一つ目から今度は目が逸らせなかった。身がすくんだ。怖いと一言言えばやめてくれたのかもしれなかったが、どうしてもその一言が出てこなかった。
神輿が通り過ぎていく。
灯火が眩しく見えるくらいに、陽は落ちかけていた。もうほとんど夜だった。神輿を追いかけていくあやかしとニンゲンたち。ヤンとの距離が狭まる。もう唇が触れる。
ああ――しちゃうんだ。
その時、視界の端に影がよぎった。
火澄の頭の中に詰まっていたなにもかもが、ぱんとはじけた。
ヤンの肩を押さえて、立ち上がった。
いま、いたのは――
影が、ひょいっと似たような制服の群れの中に混じってしまう。
火澄は走り出した。
「火澄!」
ヤンが叫んだ。火澄は草履で土煙を巻き上げながら急停止して、泣きそうな顔で振り返った。
叫んだ。
「ごめんっ!!」
火澄はまた脱兎のごとく駆け出して、百鬼夜行の中へと突っ込んでいった。
伸ばした手が力を無くす。ヤンはどすんと椅子に腰を落とした。
とん、とその前に湯のみが置かれた。見上げるとエプロンを着けたどくろ亭のおやじが神妙な顔をしていた。
「追わなくていいのか」
「ここで追ったら、男じゃねえよ」
どくろのおやじはそれ以上なにも言わず、ポンとヤンの肩を叩いて去っていった。ヤンは苦笑いしながら湯のみの中のさざなみを眺めている。ふと下を見ると懐かしい顔があった。
電介が珍しく、伏せてヤンを見上げている。
「よお。また負けちまったよ、電介」
電介は「なーお」と一声鳴くと、ぴょんとヤンの膝の上に飛び乗って、そこに丸くなって眠り始めた。ヤンの苦笑いが、微笑に変わった。
火澄は走った。
通りを逆方向に上がって来る制服姿の死人たちを割って先へ先へと進もうとするが、無限回廊に迷い込んだようになかなか前へと入っていけない。そうしているうちに、あの見覚えのある後ろ姿が去っていってしまうのじゃないかと思うと喚き出したくなった。
「悪いっ、通して、通してくれっ! わっ――」
誰かの爪先に蹴躓いてあやうく転びかける。後ろを振り返る暇も惜しくてつんのめったまま走った。あたりはどんどん暗くなって、ただでさえ無貌の群れの中にいるのだから、もう誰が誰なのかわかりもしない。それでもきっと自分にだけは、彼のことがわかると信じている。
濁流に逆らうように、走った。走り続けた。
視界が涙でぐにゃりと滲んだ。どんどん沈んでいくあの夕陽が完全に没したら、その時が最後のような気がした。そんなのは嫌だった。ずっと押さえ込んでいた気持ちが逆上したように胸の中でほとばしっていた。
忘れられるわけがなかった。
忘れていいわけがなかった。
忘れてくれとお願いしたって駄目だ。
だって、できない。
肩に触れれば、抱いてくれていた時のぬくもりがいつでも蘇ってきてしまって、胸が張り裂けそうになる。
なのに、勝手にいなくなって、『助けました』なんて言い張られたって、そんなの困る。
忘れたくても忘れられない方の気持ちなんて、きっと考えたこともないのだあの馬鹿は。
自分勝手にもほどがある。
ばったり出会って、いきなり消えて。
言いたいことだけ言うばっかりで少しもこっちの言い分なんて聞こうとしない。
そんなのは否定されるのが怖くて、最初から自分が悪者だと思い込んで、他人のせいにして逃げてるだけの弱虫以外のなんだと言うのか。
ほんとうに、ほんとうにこっちのことを考えてくれているというのなら、まずは塞いだ耳の一方だけでも開けてくれればよかったのだ。
聞いて欲しいことも、言いたいことも、たくさんあったのに。
たくさん、たくさん、あったのに。
なのに、まるで、終業のチャイムでも鳴ったかのように、あっさり、いなくなられて。
それで、それで、傷つかないと思っていたのだとしたら――大馬鹿だ。
馬鹿すぎて、涙が出る。
どうして、一から十まで自分で決めてしまうのか。
なんで、愚痴でも弱音でもなんでもいいから、面と向かって打ち明けてくれなかったのか。
あたしが、
それであたしが嫌いになるとでも思ったか。
そんなの、言ってくれなきゃあたしにだってわかんないのに、ひとりで勝手に諦められたら、どうしていいかもわからない。
完全に置いてけぼりで、蚊帳の外で、自分がどうしようもない役立たずになってしまったような気になってしまう。
悲しいし、寂しいし、申し訳ないし、辛いし、むかつくし、最低な気分だ。
許さない。
絶対に、許さない。
このまま、またいなくなったりしたら、
今度はもう、どう頑張っても許せそうにないから。
だから、
だから、
だから――
「いづる――――――っ!!」
無貌の死人たちを押しのけて、火澄は土を蹴って跳んだ。勢いが余ってしまって顔からつんのめった。それでも伸ばした手が誰かの袖を掴んだ。
そのまま、顔が上げられない。
もし顔を上げて、違っていたらどうしようかと思う。全然知らない死人が白い面をこちらへ向けていたらおそらく自分は正気を失う。泣いて喚いて暴れるぐらいのことはやるし、その場で何千年だってへたりこんで一歩だって動けなくなるに決まっている。この期に及んでちらりと見えた死人がちゃんといづるだったか自信がない。最後の最後に臆病風に吹かれた自分が見た『ゆめまぼろし』だったのではないと胸を張って自分自身に言ってあげることがどうしてもできない。鼻水が垂れそうになった。
それでも顔を、上げた。
「どうしたの、姉さん」
死人が、仮面を外して、笑った。
「姉さん、ヘンな顔してる」
いづるは、当たり前みたいにそこにいた。
さっき別れたばっかりなのに、慌てて追いかけられてくすぐったがっているような、そんな顔で。
「いづ……いづる……?」
「うん、僕だよ」
火澄は一瞬、固まってから、烈火のごとく逆上していづるの胸に拳を叩きつけて叫んだ。
「どこ行ってたんだよおまえ!! 今まで、ずっと……!!」
いづるは少しだけ寂しそうに、
「地獄の入り口まで行ってきたんだけどね、門前払いを喰っちゃった。僕は地獄にも入れてもらえないらしい。――ああ、参ったな」
いづるは照れくさそうに掴まれていない方の手で頭をかいた。
「ちょっとだけ顔を見て、それで終わりにしようと思ってたのに」
「終わり……?」
いづるは笑って答えない。周囲を無貌の魂たちが通り過ぎていく。通りに取り残されているのは、いづると火澄の二人だけ。
火澄がいづるの額に手を伸ばした。そこには小刀ほどもある角が生えている。
「角……」
「僕は鬼だからね。血塗れの人非人。だから――」
いづるが一歩下がった。
身体をもたれかけさせるようにしていた火澄がたたらを踏んだ。
「いづる……? どこ、いくんだよ……終わりって、終わりってなんだよ。なあ」
「さよなら、姉さん」
火澄はぶんぶん首を振った。
「やだ……」
「姉さん」
「やだ、やだ、やだよ!! なんでだよ、なんで、どうして……!! ここにいるのに、戻ってこれたのに、それなのになんでお別れなんだよ!! 意味わかんねえよ!!」
「僕がいてもいたずらに不幸をばら撒くだけだ」
火澄の手がぬっと伸びて、いづるの胸倉を掴んだ。一瞬の早業だった。
草履を履いた足が爪先立ちになった。
火澄は、ぶつけるようなキスをいづるにした。
いづるの目が、悔やむように歪む。
唇を離して、
「あたしは、あたしはいづるが好き。門倉いづるが大好き。何千年、何万年経っても、ずっと好きだ」
「姉さん……」
「いづるは、違うのか? いづるはあたしのこと、もう、忘れたいのか?」
いづるの手が、袖を掴んでいた火澄の手を握った。
「一秒だって……」
火澄が見たこともないような真剣なまなざしで、
「一秒だって、きみを忘れたことなんかない」
「だったら……」
火澄の目からつうっと涙が一滴落ちた。
「だったら、一緒にいてよ。ずっと一緒に、あたしのそばに」
「できないよ……僕は」
いづるの目にも涙が浮かんだが、瞬きするとそれは夢のように消えてしまった。
「僕はきみを見捨てた」
手を放した。
また一歩、遠ざかる。
「見捨てたんだ」
火澄には最初、なんのことだかわからなかった。
そしてすぐに思い出した。
最初に出会った時。牛頭天王の屋敷から逃げ出した時。
その帰り道。
「ずっと……ずっと、そんなこと気にしてたのか?」
いづるは答えない。
俯いて、まるで責め立てられているように顔を歪めていた。
「僕は君を見捨てた。誰が何と言おうと、それは絶対許されちゃいけないことだと思う」
火澄は嫌々をする駄々っ子のように首を振る。
「だって」
「いいから」
「だって!」
「いいんだ!!」
「――いま、来てくれたじゃん」
「――え?」
「いま、いづるは来てくれただろ?」
火澄が手を伸ばして、いづるの頬を挟んだ。顔を覗きこみながら、笑った。
「おまえはちゃんと今、あたしのところに来てくれた。いつ、あたしを見捨てたりしたんだよ? そんなの知らないぞ」
「……姉、さん」
「その呼び方、ずっとしてよ」
いづるの身体が小刻みに震え始めた。喘息の発作でも起こしたように、胸を押さえて、喘いでいる。足から力が抜ける。
倒れかかったその身体を、火澄が抱きとめた。
「あたしが、許すよ」
あの時、抱き締めてくれた分を。
何倍にもして、今、返す。
「誰がおまえを許さなくても、あたしだけは、おまえのことを許すよ」
その言葉を、どれほどの間、待ち望み続けて来たかわからない。
いづるの両目に、涙が浮かんだ。今度は止まらなかった。
両頬から堰を切ったように涙が溢れ出した。視界が滲んで何も見えない。ただすぐそばにある温もりに、いづるはしがみついた。
「ゆるして……くれるの?」
何を得て、
何を失ったのか、
わからなくなるほど、たくさんの時が過ぎた。
その果てに、ようやく、
いづるは顔を歪ませ、本当に生まれて初めて、心の底から泣きじゃくった。
歩き疲れた魂を少女の両腕が抱き締める。
しゃくりあげる背中を、あやすように撫でながら。
これは、ただ、
そのたった一刹那を探し続けた、それだけの物語。
あの世横丁ぎゃんぶる稀譚
「あーあーあーもう、鼻かめ鼻」
「ぐすっ」ずずっ。
「まったくほんとに、ガキみたいなんだから――」
お し ま い