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EX.地獄の門、喰奴ふたたび

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 はっきり言えばもう闘えないと思ったのだ。
 それがいつからだったのかはわからない。裏切られたことがそんなに辛かったのか、それとも裏切ったことが死ぬより苦しかったのか。
 うんざりだった。
 寝ても覚めても争いの火種が盛りのついた蛍のように自分の周囲を取り巻きかき立てるのだ。その冒涜的な羽音を耳にするのが誰よりも苦しかったのはいったいどこの誰だと思っているのか。
 苦しかったし、辛かった。それを糧にしなければ前を向くことすらできなかったからそうしてきただけだ。誰も助けてくれないから決して倒れることは許されず、心の底から吐き出されてきた弱音さえも相手の油断を誘う煙に貶めた。そうして勝ってきたのだ。勝って、勝って、勝って、得たものと言えばただ「勝った」というだけ。
 望んだ覚えは確かにある。
 勝負だけが自分の生き甲斐だと、嘘偽りなく敵と争い二度と歯向かえなくなるまで徹底的に叩き潰すことだけが己に与えられた天賦の、そして唯一最後の才覚なのだと思ったことなら、認めよう、確かにある。それをちっぽけなプライドの杖にして支えにしたこともあれば善良な人間に打ちつけてみせたこともある。
 けれどその時の自分はまだ気づかなかった。勝ちに酔えるうちはいい、馬鹿でも愚物でも勝てばいいのだと思っていられるならそれはそれで幸せな生き方だ。
 問題は、何も感じなくなった時のことなのだ。
 賭博――勝負は麻薬だ。
 一度味わえば抜け出そうと思ってもかえって泥沼にはまるだけ、それどころかどんどん深間に落ちていってより強い刺激を求めるようになる。そして究極の一瞬を越えた時、何も感じなくなる。
 それが勝負の本質だ。
 門倉いづるが見極めた、嘘偽りのない己の生涯その意味の到達地点。
 それをわかっていながら、白痴のように酔ったフリをして自分も他人も欺き続けるのが門倉いづるにはもう耐えられなかった。
 だから消えたのだ、あの勝負が終わってすぐに。
 わけもわからず組み合った泥試合のような志馬との勝負はどちらが勝ってもおかしくなかった。あれは識者から見れば総スカンもいいところのどつき合いに他ならなかった。おためごかしの必勝法などあるわけもなく、唯一キズに見えたところを根拠もなく穢れた己の全存在という屑にも満たない小銭を賭けて張っただけだ。あれで負けていたら光明にもキャス子にも蟻塚にもあやかしたちにもどんな言い訳も繕えなかったろう。あれこそ博打の本質を突いている勝負だといづるは思う。無意味で、下等で、そして何よりくだらない。賭けているものが何もなければあれほどつまらない見世物はないだろう。もはやいづるには最初からそういう風に見えていたが。勝因をわけたかどうかはともかく、志馬は勝負に固執し、いづるは勝負を捨てていた。それは決定的な差だったと思う。いづるにとって、もう勝負は何の価値もなかった。何の勝ちでもなかった。
 皮肉だ。
 自分が消えていくのを感じながらやった勝負で勝つなんて。
 もはやいづるの中に勝負へ対する熱はない。完全に壊れてしまっていた。空洞だった、空っぽだった。二度と闘いたくなんてない、何も考えたくない。
 あの子のために消えたのか、それとも自分のために消えたのか。それに結論を下すことすら今のいづるにはできなかった。もう嫌だった。逃げ出したかった。自分に意識があることに耐えられないなど生まれてこの方腐るほど味わった苦い感情だが今ほどそれを望んだことはかつてない。
 いづるの前に、門がある。
 いづるはそれを見上げていた。
 風が吹いている。黒い風だ。じっとりとしめっていて、誰かの汗を孕んだように生臭く、肌にまとわりついてきた。その微風に頬を撫でられるだけで嫌悪感が背筋を泡立たせた。
 門には、何かに考え続ける男の像と銘が刻まれていた。ラテン語など読めなくてもわかる、そこにはこう書かれているのだ。――この扉を潜りし者、汝、一切の希望を捨てよ。
 そうとも。
 この先こそ自分に似つかわしい場所だ。他にない。ましてや戦闘意欲を殺がれた自分になど。
 最初から夢など見なければよかったのだ。
 あの子と幸福を共有できるかもしれないなどと一瞬だって思ったことが罪でなければこの世に罪人なんていはしない。
 扉に手をかける。
 一度開けば二度と振り返れないだろうと思う。
 さあ、開こう。
 先に逝ったやつらが待っている。
 いづるは両手で門の手のひらのくぼみに手を沿え、満身の力をこめて押した。
 門は開かなかった。
 一瞬笑いかけたかと思うと今度は涙が出そうになる。いい加減にして欲しかった。もう疲れたのだ。うんざりなのだ。いったいどれほど人を苦しめれば気が済むのだ。この歩き疲れた、ただもうそれしか思えない魂には地獄で仲間とキズを舐めあうことすら許されないのか。みんなが待っている。ぼくはいかなければならない。そう思った。
 門が、いづるが押すたびに少しだけ開きかけては、押し戻されていることに気づいたのは、いづるの眼がまだ死んでいなかったからかもしれない。いづるの眼の裏に宿る意識の冷気の濃度が増した。門を押す、少し進む、押し戻される。門を押す、少し進む、押し戻される。
 誰かいる。
 いづるは黒い、あまりにも黒い門を見上げた。
 この向こうに誰かがいて、門が開かないように押さえている。
 いづるは呆然とした。そして手を、今度は強く押すのではなく、そっと添えた。
 届かなくても伝わってくるものがあった。向こうに誰がいるのか、透視する意味もないほどにわかった。何人いるのかはわからない、けれどきっと一番近くにいるのは、あの最悪(さいこう)の好敵手に違いない。そしてそのすぐそばには、こんな自分に夢を見た、愚かな女の子がいるはずだ。
 馬鹿じゃないのか。
 いったいどうしてそこまでするのか。そうまでしてどうしようというのか。いづるにはわからなかった。ただわかるのは、きっとこの向こう側にある、あの世にさえ伝わっていない本当の『死』に満ちた世界ではきっと指を一本動かすのも苦労するはずで、まばたきするのだって嫌気が差すはずなのだ。そうして何もできなくなったとき、本当の死が、忘却を超える無が魂を今度こそ完全に消滅させてしまうのだ。
 なのに。
 門は決して、開かない。
 喚いても叫んでもどんなに頼みこんでも、彼らはいづるを仲間に迎え入れるつもりはないのだろう。冷たい石越しに彼らの思いがどうしようもなくいづるに流れ込んでくる。嫌だと言ってるのに。もういいって心の底からこっちは思っているのに。

 まだやり残したことがあるだろう、なんて、
 勝手なことばかり言うなってんだよ――

 震えかける情けない唇を引き裂けるほどに噛み締める。そうしてようやくこの期に及んでいづるは思い知った。勝ち続けるということがどういうことなのかを。背負ってきた魂(おもい)の重さを。
 受け取ったにしろ、踏みにじったにしろ。
 いづるが巻き込んで潰してきた魂には相違ない。
 だから、それを背負い続けていかなければならない。
 おためごかしの必勝法などどこにもなく、
 残されているのは世にも無残な鬼の足跡。
 許されるとするなら、この重さに耐えられる鬼に負けていづるの魂ごと引き渡すことだけ。
 そして、この鬼のような少年に勝てるやつなどどこにもいないのだ。
 門前でへたり込みながら、いづるはくすくす笑った。笑うしかなかった。ひとしきり哄笑した後、膝を抱えて、門に額と角をくっつけ、眼を伏せた。待っていたかのようにまどろみが心の隙間に入り込んできた。それは逆らいようの無い誘惑だった。意識が飴玉のように引き伸ばされ、そして声が聞こえた。
 誰かが呼んでいる。
 その声に意識を引っ張りあげられながらも、どんな時でも骨の髄では決して屈服したりはしないこの少年の魂が虚空にひとり反響した。わかった、いいよ、受けて立つ。そうまでしてこの僕を彷徨わせたいというのなら、お望み通りどこまでも漂ってやる。もう勝負はしたくない。それでもいつか、この門倉いづるの幻影を撃ち滅ぼしてその魂を引き継ぐ『強さ』がこの道の向こう側からまっすぐこっちへやってくるまで、僕は僕が消してきた魂たちを背負っていかなければならないわけだ。それがとことん志馬の嫌がらせで、蟻塚の思いつきで、そしてキャス子の願いというわけだ。わかった、いいよ、受けて立つ。僕は逃げない。必ず勝つ。
 その代わりに、僕が苦しみ続けることの対価として、あの子の安らぎだけはもらってく。
 それでいいなら勝負は成立。神だか魔だか知らないが、誰が誰に喧嘩を売ったのか二度と歯向かう気が起こらなくなるまで思い知らせてやろう。
 いづるは眼を開けた。
 いつの間にか、あの懐かしい赤い町に帰ってきていた。橋の上で、横殴りの夕陽を浴びながら、すれ違う妖怪と死人との邂逅を幾度も幾度も繰り返しながら、思った。




 会いにいこう、一度だけ。一目だけ。

 二度と醒めない夢に落ちるその前に。






 終

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