06.競神
どくろ亭の開けっ放しのガラス戸から身体を滑り込ませると、食べ物と酒のにおいと人いきれのむっとした空気が押し寄せてきた。奇形と呼ばれかねない姿態の妖怪たちは木の杯をぶっつけあってげらげら笑い、死に装束の女たちがくすくすと誰かを小馬鹿にしながら何かを囁き合っている。何人かがいづるの方をちらっと見たがすぐにテーブルの上で交わされる会話と罵倒の中に戻っていった。
ガシャドクロの店主はいつものようにカウンターの向こうで酒を注いだりフライパンをゆすったりしている。いづるは店主の視界の端ギリギリの席に座った。子猫は胸元に抱いたままである。
「いらっしゃい」と店主がこっちを見ずに言う。
「なににする」
「アツカンと枝豆」
店主は徳利をガスコンロで念入りに炙って、いづるの前におちょこと一緒に置いてくれた。カウンターのすぐそばにはおしぼり用の保温器があって、いづるは勝手にそこからツメシボ(注:冷たいおしぼり)を取って、とても素手では触れたものじゃない徳利の中身をおちょこに注いだ。湯気をまとった熱気と一緒に米のにおいが香り立つ。
「日本酒はアトから来るぜ」やはり店主はこちらを見ない。
「知ってるよ。でももう死んでるから吐いたりしないだろう。おい電介、おまえは飲むなよ。おいったら、やめろって、熱いぞ、こら」
猫は水が苦手だというが、電介にとっては酒は別口らしい。あこぎな猫である。果敢に繰り出される猫パンチがおちょこを転覆させる前に、いづるは新たに出てきた枝豆から片手で器用に中身を取り出して、猫の口の中に突っ込んだ。一発でおとなしくなった。
「飛縁魔もずいぶん縮んだもんだな」
「なに言ってるんだおやじさん。姉さんがこんなかわいげがあるわけがないだろう。眼科にいけよ」
「ああ、そうだろうな」店長はさして気を悪くした風でもなく、硬い骨の指を駆使して餃子の皮を包みながら、
「やつはどうした。おまえと一緒にいたはずだろう」
「さァね。知ったことじゃないな――」
いづるは親指で仮面を軽くあげて、おちょこから熱い酒を喉に流し込んだ。感慨深げなため息を漏らす。枝豆に夢中の電介の頭を撫でながら、
「いまはこいつが僕の相棒さ。彼女よりもよっぽど頼りになりそうだろう。え?」
「おまえ、酔ってるな」
「だったらなんだっていうんだ――」いづるは注ぎ足した酒も飲み干して、
「僕が酔っていたらなんだっていうんだ。なにか文句があるのか。あんたは黙って酒を出してりゃいいんだ」言いながら二杯空ける。また注ぐ。
「いったい何があったんだ? 土御門の馬鹿は呪い屋どもに追いかけ回されてるし、おまえさんと飛縁魔は誰も行方を知らないしよ。心配したんだぜ」
「みっちゃんか。彼には悪いことをしたな。追われてるってことは、牛頭天王とツーカーってわけじゃなかったらしいな。悪いことをした。本当にそう思うよ。おかわり」
「なに?」
「徳利がもう空だって言ってるんだよ。とっとと持ってくるんだ」
「ちっ、この悪童(わるがき)がァ――」
店主がワイルドなやり方で日本酒をアツくしている間もいづるはしゃべり続ける。仮面の額あたりに押しつけた手が持つおちょこがゆらゆら揺れる。
「飛縁魔? ふん、だからなんだっていうんだ。僕の知ったことじゃない……僕の知ったことじゃ……」
とん、と木のカウンターに新たな徳利が置かれる。山盛りの枝豆に顔を突っ込んでいた電介が、ちらっと徳利を見た。いづるはその視線をさえぎって、両腕のなかでおちょこに酒を満たす。頭が前後に揺れている。
「なァ坊主、俺はおまえと一度しか面識はなかったが」と店主。
「それでもおまえさんが飛縁魔を慕っていたのはこのカウンターからでもわかったぞ。なにか事情があって離れているらしいが、ちゃんと取り戻せよ、惚れた女は」
「惚れた? うん、そうかもな。でも違うな。惚れてる女を姉さんなんて呼ぶものか」
「気を惹きたかったんじゃないか? 俺の若い頃にも覚えはあるぜ。女からしたらドン引きなことをついついやっちまうんだよな。ああ、そうとも、それが思春期ってもんだ」
あらわになっているいづるの顔、その下半分が店主の言葉によって醜悪にゆがんだ。
「違う。もっと気色悪いことだ」
「どう気色悪いんだ」
いづるはしばらく、黙って酒を飲んでいた。が、徳利が四本目に入った頃、唐突に語り始めた。
「僕は家族がほしいんだよ。血の繋がっていない家族がだ。血が繋がっていたら、駄目なんだ。絶対に駄目だ。血縁関係があれば拒否することができない。僕の母のように」
徳利の山を割るようにして、いづるはテーブルに突っ伏した。
「許可がほしいんだ……家族でいてもいいっていう許可が。その許可を誰かに与えてほしかった。そうしてもらえたらきっと、僕は自分を好きになれるし認めてやれる。どんなことでも頑張れるしきっと馬鹿みたいな綺麗な勇気が湧いてくる。なんだってやれるんだ、僕の、僕の帰りを待っていてくれる家族を、血ではないもので繋ぎ止めることができたら……」
「坊主……」
「会って間もない他人に、僕は無意識とはいえそういうことを要求したんだ。僕は気持ち悪いやつだ。わかってるんだ。自分でも吐き気がしてくる。でも、よかったよ」
身を起こして、言う。
「こんなことを知られる前に、飛縁魔は僕の前から消えてくれたからな。恥をかかずに済んだってものさ。ははは、なァそうだろ? あんただってそう思うだろ。僕はツイてる。幸運だ。よかったよかった、本当に」
くすくす笑いながら、いづるはおちょこを空中で旋回させたり急上昇させたりする。カオスに陥った名づけ親を電介が透明なまなざしで追いかける。店主は前かけで手を拭いて、ようやくいづるを見た。正確には、いづるの向こう側を。
「だとよ、お嬢さん方。あとは勝手にしてくれや。俺には関係ない。俺は、酒と飯を出すだけさ。坊主、うしろを見てみな」
言われたとおりにした。
入り口脇の四人がけテーブルに、懐かしい顔を見つけた。いづるは乾いた笑いを漏らした。
「紙島、おまえなんて格好してるんだ?」
二人の少女のうち、一人が答える。
「わたし、実は呪い屋なの」腕を組んだ紙島詩織は、昔の貴族の服を着ていた。「黙っててごめんね? でも、門倉くんはどうせ言っても信じなかっただろうし。死後の世界もオカルトもないんだってぎゃあぎゃあうるさかったもんね、ずっと」
答える代わりに、いづるはまた杯を干す。
「で、アリスとは友達ってわけか」
「そゆこと」と、もう一人の少女、アリスが言う。「ついさっきからね」
肩越しにいづるを振り返っているその顔からは表情が読めない。笑っていないことだけは確かだ。
「どこから聞いてた?」と聞くいづるの声は、少し震えている。
詩織はたゆたう酒さえ凍らせそうな声で答えた。
「最初から」
――――もうどうにでもなるがいい。
いづるは振り向いて、二人と向き合った。その際に徳利を一本肘でひっかけ、床に落とした。割れた陶器の音が、店内をしいんと静まり返らせた。
詩織の瞳が嫌悪に染まる。
「前々から思ってたことが正しくて、残念だよ、門倉くん」
「へえ、何をどう思ってたんだ」
「あんたが最低だってこと」
「奇遇だな、僕もそう思う。なんだ、意外と気が合うじゃないか。結婚しよう」
「そうやって虚勢を張るところがみっともないってわからない?」
ぐうの音も出ない。いづるは空になったおちょこを手の中でもてあそんだ。
「死んで少しは反省したり後悔したりするかと思ったら、結局手を出したのはギャンブルなんて、本当に救いようがないね。アリスから聞いたけど、飛縁魔を手伝おうとしたところまでだったら見直してもよかったのに。ねえ門倉くん、のっぺら坊たちが君のことなんて言ってるか知ってる?」
「聞かなくてもわかる」
「いづるん」とアリスが頬杖をつきながら、話し手の役を詩織から引き継いだ。よくよく見れば彼女の青空色の着物はところどころ破れていたり、焦げていたりする。彼女は牛頭天皇からいづると飛縁魔を逃がしてくれたのだ。そのお礼さえもいづるはまだ言っていない。
「飛縁魔ね、この人が助けてくれたんだよ。猿どもにさらわれたんだってね。で、あたしのところまで連れてきてくれたの。そのときにも、牛頭天皇の追っ手を追っ払ってくれたし」
たまたま助けたあなたが彼女の知り合いでよかった、と詩織が付け足す。いづるは、ストゥールからぶらさがった足を振り子にして、聞いているのかいないのかはっきりしない。無論聞いていないわけもないが。
話が途切れ、渋々いづるは話を繋いだ。
「で、飛縁魔は?」
アリスと詩織が意味ありげに目配せし合い、アリスが壁に立てかけてあった太刀をいづるに差し出した。
「それ、彼女のか。確か虚丸とか言ったっけ。違った?」
アリスが何も言わないので、いづるはそれを受け取り、何気なく刃を鞘から抜く。太刀を傾けるたびに、青を通り越して紫色に近い刃紋が違った色に変わる。
「飛縁魔はね、力を使いすぎちゃったんだよね。賭けで牛頭天皇に相当持ってかれたみたいでさ。で、身体を維持できなくなって……いま、その刀の中で眠ってる」とアリス。
「彼女を復活させるには、莫大な魂貨がいるの。門倉くん、きみは最低だけど、それでもいくらか彼女のために稼ぐことぐらいならできるんじゃない? それが贖罪だとわたしは思うけど。彼女をきみの卑劣な妄想に使ったことへのね」と詩織。
二人の視線がいづるに集中する。周囲の客が興味深げに動向を見守っている。店主が店の奥に引っ込み、電介はおっかないお姉さん二人に恐れおののいて枝豆の小山に疎開したまま出てこない。
いづるは笑い混じりに言った。
「誰がするか、そんなこと。僕の稼いだカネは僕のものだ。どうしようが僕の勝手で、僕は飛縁魔にそこまでしてやる義理もない」
「そう言うと思ったよ」詩織が言う。
「きみはそういうやつだもの」
言い残して、詩織はどくろ亭から出て行った。テーブルには飲み干された紅茶のカップが置いてある。律儀に赤い小さな硬貨が三枚添えられている。アリスがそれを拾って、自分の分と合わせてカウンター向こうに投げ放った。店主の毒づく声が跳ね返ってくる。
「きみには感謝してる、アリス」
戸口を潜ろうとしたアリスの背中に、いづるは言う。
「きみがいなければ僕もあいつも逃げられなかった。ありがとう」
「ふうん。しおらしいじゃん? あたしには媚売っとけば、家族になってもらえるかもって?」
「…………」
「悪いけど、あたしはひとつのところにじっとしてるのはごめんなの」
「べつにそんなつもりで言ったんじゃなかったよ。まァいいさ。これできみと会うことも二度とないだろうし、せいせいする」
「そうかもね。ま、がんばって。応援してるからさ。あ、飛縁魔を元に戻したかったら大量の魂貨に太刀を近づければいいから。家建つぐらい要るかもしんないけど」
「おい、だから――――」
「なんでもいいけどさ、もう笑っちゃうくらいバレバレだからね?」
薄明るい外へと開いた四角い枠の縁に手をかけて、アリスは笑う。
「あんたがどーしよーもない、天邪鬼だってこと――」
「だってさ」
いづるは枝豆の森から首を出した相棒の顎を撫でた。
「おまえはどう思う?」
子猫は自信ありげに背筋を伸ばして、なーおと鳴いた。
(つづく)
すっと立ち上がったさまは、とても酔っ払いには見えない。もとより、酒には酔わないタチで、酔ったのではなく酔いたかっただけなのだ。それともそう思っているのは自分だけだろうか。
酔客たちの間をすり抜けて、いづるはどくろ亭の表に出る。足元には新しい相棒の雷獣も付き従っている。電介は地上二十センチから見る横丁の見果てぬ広大さに圧倒されたように、忙しく首を左右に振っている。
さて。
これからどこへいこうか――――
と、いづるが一歩踏み出したとき、
「あのう」と背後から呼び止めてくる声。
振り返ると、死に装束を着て、おしろいを塗りたくっている顔に紅で幾何学模様を彩った少女が立っていた。夕陽を浴びて頬に乗った粉の粗さが目立っている。目はくりくりとしていて可愛らしいのに、暴力的なまでに濃い化粧が彼女の可憐さを冒涜していた。
「何」
少女が手に見慣れた太刀を持っていることにいづるは気づく。
「これ、置き忘れておられたので……」
差し出されたそれを受け取ると、ずしり、と非難がましい重みを感じる。
詩織とアリスによれば、飛縁魔は、いまこの刀の中にいるらしい。本当かどうかは知らないが、もし、手も足も出ないそんなところで、彼女が自分を恨んでいたらどうしよう。
それはとても恐ろしいことのような気がする。
少女がじっと自分を見つめているのに気づいて、
「いや、忘れたわけじゃないよ」
太刀を軽く持ち上げてみせ、
「誰かが指摘してくれたら、持っていこうと思ったんだ。そうでなければ、捨て置こうと思って」
どこまで本気だったのか、自分でもよくわからない。
ただ店主に勘定を払って、席を立ったとき、視界にははっきりと飛縁魔の太刀が入っていた。そこですっと手に取ることもできた。なのに、自分はそれをしなかった。なぜなのかはわからない。
わからないということにしたい。
だが、いづるにはわかっている。
自分は、『忘れた』という名目でそれから完全に距離を置きたかったのだ。飛縁魔には、いろいろ語りすぎたし、近づきすぎた。彼女との記憶はほんの一瞬にしか思えなくても、そのほとんどが、いづる自身でさえ直視できない醜悪さとセットになっている。
願わくばまっさらに消え去るまで、そんな汚点のようなものの象徴を見たくはなかった。
こうして自分の中の歪んだ思考の束をまとめてみても、なんだか倒錯している。しかしおそらく確実なのは、そんな機微は死装束の少女にはまったく考慮されず、彼女からすればいづるは傷つき変わり果てた姉と慕う少女の成れの果てを居酒屋に置き去りにしたクズに見えるだろうということだ。事実クズでもある。
罵られてしかるべき邪悪さだ。
だが、そうはならなかった。
「じゃあ、私が声をかけてよかったんですよね?」
少女は小首を傾げて問いかけてくる。いづるはまたも反応に困った。そんなことを言われる想定はしていなかった。
「ええと、うん、まァ、そうかな。ありがとう」
自分の『ありがとう』がちゃんとした発音で言えているか自信が湧かない。本心から言っているつもりなのに、嘘臭さを感じてしまう。
それを振り切るようにいづるは言う。
「あのさ」
「はい?」
「僕が嘘を言ってるとは、思わないわけ……?」
すると少女はこう言った。
「嘘をつくなら、あなたはもっとうまくやると思ったのです」
いづるが急に黙り込み、その場から動かなくなったので、死装束の少女はいづるのブレザーの袖を引いて通りのど真ん中から脇へと移動した。
「あの、どうかしました?」
「なんでもない」いづるは自然に嘘をついた。
「さっきの話さ、聞いてた?」
少女は目を伏せる。長いまつげが瞳を隠す。
「すいません……聞くつもりは、なかったんですけど」
「あれだけ大声で喋ってたら当然だよ。でも、あの内容を知ってて、よく話しかけようと思ったね。僕みたいなやつは、気持ちが悪いだろうに」
少女はそれには答えずに、顔を伏せたまま、
「――――冷たい人ですよね」と、怖い声で言った。
「僕?」いづるは思わず聞き返す。そう、と言われたらどうしようかと思ったが、
「いえ、あの、なんか……喋ってた人」
「あ、紙島か。うん、あいつはいつもああなんだよ。僕はもう慣れた」
「でも、言い方ってあると思うし……わたしはべつに、思わないですよ、変だなんて。待っていてくれる人が欲しいって思うことの何が悪いんです? その気持ちがわからないあの人の方が……気持ち悪い」
いまにも舌打ちして低い声で呪詛を呟きかねない顔をした少女にいづるはちょっとひるむ。少女はハッと目を見開き、
「な、なんかわたしいま怖かったですかね? あ、あはははは!」
「まァ、いいんじゃないの」
いづるははっきりとした回答を控えたが、少なくともさっきの表情は門倉いづるを一発でフェミニストにするくらいの威力はあった。
「言いたいこと言わないとストレスたまるし」
「そう、ですよね。あは、は」
会話が途切れる。足元で痺れを切らした電介が早く早くとせかしてくる。
いづるは、立ち去りたくない。
「あの」と言葉を継いだのは少女の方。
「その刀の人を助けるかどうかは別にして、魂を稼がなくちゃいけないんですよね」
「まァ、そうだね」
「だったら、いいギャンブルがありますよ」
ピンときた。
「わかったぞ。それを僕と君とでやろうっていうんだろう。そんなことだろうと思ってた」
だが、少女はふるふると首を振る。
「違います、わたしはやりません。でも、あなたはきっと知ってると思いますよ。ギャンブルの王様ですから」
「どうしてそれを僕に教えてくれるんだ。ははァ、やっぱり君も僕の敵か。最後にはとって喰おうとしているんだな?」
いづるは自分をかばうように後ずさった。
「みんな敵だ。僕には敵しかいないのだ」
それは、朝起きて、眠りに落ちるまで、片時も脳裏から離れずに木霊し続けてきた言葉。
みんな、敵。
そんないづるを、そう言うしかなくなるところにいるのっぺら坊を、少女は悲しげに見る。
「あなたは可哀想な人、だと思います」
でも、と真紅の唇が呟いて、
「それでも、不幸じゃないと思います。だから、思ったのです」
「何を」
「あなたの勝負を見てみたい、って」
「たったいま、女の子に言い負かされて泣きそうなところなんだけど」
「そんなの関係ないですよ」
少女はけんけんぱをするようにいづるの周りを回って、その背中をぽんと押す。
「ねえ、わたしにギャンブル、教えてください」
○
「あ、いいところに」
ちょうど通りかかった朧車に少女がさっと手を挙げた。ききぃ、と悲しげな音を立てて、水底から引き上げてきたような錆びきった車体が停まる。
「乗りましょう。代金は持ちますので」
「…………」
「どうかしました? さ、乗ってくださいな。ここから歩くと結構かかるんですよ」
ぽんぽん押されて、いづるは狭い車内に押し込まれた。少女は手動でドアを閉めて、誰もいない運転席に身を乗り出す。
「常夜橋スタジアムまで」
誰も握っていないハンドルが回り、エンジンがやる気を出し、おんぼろタクシーが出発した。いづるは足元の電介を抱き上げて、
「僕はまだ引き受けるなんて言ってないんだけど」
「えっ?」
少女が電流を浴びたように飛び上がった。
「そうなんですか? わたしはてっきり引き受けてくれたものと……」
「だって、まだきみのことを信じる気になれないし」
「そんな……」
そんなことを言われるとは露ほども思っていなかったのだろう、少女は意気消沈し、身体まで一回り縮んだように思えた。
「どうしたら信頼してもらえるのでしょうか……。なにぶん世間知らずなものでして、思ったことは口に出していただきたいのです」
「まず、信頼してもらう、というのは間違ってるかな」
「間違い……?」
「信じて欲しければ、信頼させるんだ。そうせざるを得ない状況に相手を追い込んで、そうして信頼というものはやっと手に入る。そうでなければ、お互いに信じないのが普通で、そこに裏切りとか情の厚薄は絡まない。詰め将棋みたいなものだよ。僕は、将棋は嫌いだけども」
「――」
少女は魂を抜かれたように、ぽかんと口を開けている。
「わたしは、違った風に教わって育ちましたし、違うのだと思っていました」
「それは自分が幸せだと言っているに等しいね。うらやましいなァ、愛されて育ててもらえてさァ。でも自慢なら運ちゃんにでも言ってくれよ。ん、いないな。まァどうでもいいや。なんにせよ他人の自慢なんて僕は聞きたくな」
そこで、いづるは言葉を切った。途端に訪れた静寂が、自分のまくし立てた言葉の勢いを物語る。
背筋を冷たい汗が伝った。
「――怒ってないよ」と苦し紛れに弁解してみたが、少女は首を振る。
「声、硬かったです……」
怯えてしまったのだろう、少女は身を縮ませて上目遣いにいづるを窺っている。ばつが悪いが、無視するわけにもいかない。だが、どうしても謝りたくなかった。こういうとき、自分が馬鹿だと痛感する。
そしてその馬鹿はこんな言葉を口走った。
「悪いとは思ってるけど、謝る気分じゃないから、謝らない」
とんでもない言い分である。おまえは何様だ、と罵倒されてもおかしくない。だから友達もろくすっぽできないのである。それでもいづるは謝れない。謝ったら最後、二度とまっすぐ立てない気がする。
少女はまた一瞬ぽかん、とした後、くすりと笑った。
「面白い人ですね。いづるさんって」
その微笑みは完璧すぎて、何か裏がありそうでさえある、ようにいづるには思える。
「あ、そういえば」
少女はぽんと手を合わせる。
「まだ名乗ってませんでしたね。わたし、いろいろ呼び名はあるんですが、基本的に妖怪っていい加減で、みんな呼びたいように呼ぶし、戸籍とかもないんで、いづるさんも何か呼びたい名前があったらそっちで決めてくださっても構いません」
名前。
呼びたい名前、と言われて、いづるの脳裏にはっきりと一つの名前が浮かび上がった。
「かすみ」
「かすみ?」
少女は何度か口の中でその名を転がし、
「いい名前ですね、どんな字を?」と罪悪感さえ覚えてしまうような笑顔になった。
いづるは仮面をそむけ、脅されているような弱々しい声で言う。
「燃える火に、澄んだ水の澄で、火澄」
「いま考えたんですか?」
「母さんの名前」
そのとき流れた空気を、なんと形容すればいいのだろう。
意識の外に出ていた周囲の音が一気に蘇ってきた。がたごとと車体が揺れる音、エンジンが不機嫌そうに唸り、お互いの呼吸音は、まるで耳元で囁かれているように大きく聞こえる。
時間が止まったような、気まずい雰囲気。
いづるは無論、そうなることを踏まえて喋ったのだ。
べつに適当ぶっこくこともできた。かっこいいからとか、ゲームのキャラの名前とか、なんでも理由はあったはずだ。
だが、いづるはこの空気を選んだ。
わかっているのに、うまくいかないのに、試してしまう。
なにを?
――許してもらえるのか、どうかを。
車窓から、ゆっくり横丁の景色が流れ去っていく。いづるは手動で窓を引き下げて、新鮮な空気を車内に入れた。少女の方は見ない。仮面の表面をすべった冷たい風が、いづるの髪を慰めるようにもてあそぶ。
「――お母さんとは」
少女――火澄の声は、平坦で、まるでさっきのやり取りがなかったかのようだった。
「仲がよろしいんですか?」
「いや、まったく。最近はろくすっぽ口も利いてもらえない。まァ苦労をかけたから。それも当然なんだろうね」
それから、生ぬるい沈黙が続いて、もう車を降りるまで喋ることもなかろう、といづるが思い始めてから、火澄がぼそりと言った。
「――お兄ちゃん」
見えない誰かに後ろから突き飛ばされたように、いづるはつんのめった。あまりのことに声が半笑い気味になる。
「ち、ちょっと待ってくれよ。いきなり何を言い出すんだ? 壊れたのか?」
見ず知らずの死人をお兄ちゃん呼ばわりして恥ずかしくないわけがなかったのだろう、火澄は目元をぽっと赤く染めて、
「い、言って欲しいのかと思って。そういうの……あの、じゅ、需要があるなら供給すべきっていうか……いなやはない、っていうか……」
火澄はもじもじしている。いづるの反応をもらえないといつまで経っても落ち着かないのだろう。
兄と呼ばれて嬉しいのかどうか、いづる自身にもよくわからなかった。無論、悪い気はしない。けれどそれが自分の求めているものなのかどうか。自分は妹萌えなのか、それとも倒錯的家族愛欠乏者なのか、そして満たされている心の隙間はその二つのどちらなのか?
いづるは葛藤の末に、ぼそっと答えた。
「せめて、兄さんにしてくれ」
そういう問題じゃねえだろうが、と頭の片隅で別の自分がつっこんだが無視する。
二人を乗せて、あの世横丁のデコボコ道を朧車はのんびりと走っていく。
いつの間にか、ギャンブル指南を拒んだことがうやむやになったことに、いづるは気づいていない。
(つづく)
いったいなぜそんな運転をする必要があるのか、おんぼろのくせに横滑りして停車した朧車からいづると火澄はふらふらと降りた。まさか目的地が見えてから急加速するとは思わなかった。それがやりたいがために営業しているのではないかとさえ疑う。
火澄がよろけながらシート下の貯金箱に小銭を放り込むと幽霊タクシーはのんびりと靄(もや)のような土煙を残して走り去る。
仮面に手を当てて、いづるは遠ざかっていく朧車を見送る。まだ身体が横に流れている気がする。杖代わりにした飛縁魔の太刀がぐらぐら揺れる。電介だけが平気な顔であくびをし、いづるの制服に爪を立ててひょいひょいっと登った。
首を振って吐き気を吹き飛ばし、いづるは輪切りにされた塔のような建物を見上げた。壁にひっかき傷のようなフォントで、常夜橋スタジアム、と刻まれている。そのすぐ下には、些細な光も吸い尽くす洞窟のような暗い入り口。何かに導かれるように妖怪たちがスタジアムの中へと入っていく。入り口脇に細長い木の板が立てかけてあったが、それは別に入り口というわけでもないらしい。みな不可思議そうに板を見ているのでいつもあるものではないようだった。高い壁の塗装でも塗り直すのだろうか。
ぼんやりとその場に突っ立っていたら、「邪魔になりますから」と火澄に背中をぽんぽん押されて、いづるもその歯のない闇をくわえこんだスタジアムに飲み込まれた。蜂の巣をつついたような喧噪が大きくなる。
「一階は券売所と軽食屋が出てます。意外と安くなんでも売ってますよ。文房具屋まであるんですから」
「券売……」
ゆるやかにカーブした通路に宝くじ売場そっくりの券売所が点在していた。それぞれ「1―4」とか「2―3」とか看板が出ており、そこにわらわらと妖怪たちが群がっている。
火澄を見ると頭のてっぺんに「?」を浮かべていた。
「どうかしたんですか? あ、予想紙買ってきましょうか?」
「うん、じゃあ、頼むよ」
はい、と嬉しそうに火澄はぱたぱたと通路を走り去っていき、婉曲した先に消えていった。
いづるは一人、行き交う妖怪たちのど真ん中に取り残される。
見上げると柱と天井が交わる角に鳥が巣を作っていた。しかし鳥の姿はない。人の邪魔にならないように、壁にもたれかかって、券を買う妖怪たちを肩にへばりついた電介と一緒に眺めた。
あの世の競馬。
予想してはいた。こんなスタジアムでやる博打と言えばレースか決闘かどちらかしかない。妖怪たちの予想が途切れ途切れに聞こえてくる。
なにを言っているのかわからない。
麻雀もやった、サイコロも振った、カードもめくったし札も繰った。だが競馬だけはやったことがない。やりたいとも思ったことはない。倶楽部のメンバーの一人だった溝口にはエセ賭け屋呼ばわりまでされた。
それは別に間違いではない。
競馬は客対客の勝負ではなく完全な胴対客のギャンブルだ。たとえば、いづると溝口が麻雀をした場合、動く金はお互いの財布の中身だけ。なにを担保にしようともタカが知れている。
だが、「公衆ギャンブル」は違う。胴が潰れることは万に一つもない。大勢が賭けて外してくれるほど配当は増える。参加する人数が多ければ多いほど、動くカネもまた膨大になる。
麻雀がたった四人の勝負であるのに対し、競馬はスタジアム一杯の人間が参加するのだ。
レート至上主義の溝口が麻雀を博打扱いしないのも、頷ける話でもあるのだ。巷に蔓延る麻雀のレートはレースやパチスロに比べれば世界が違うといっても過言ではない。月給取りが低レート麻雀を打っても、世間一般が心配するような破綻には至らない。なぜか。
カネが動かないから。
ルールも技術もへったくれもない。
勝ち切りたければカネを動かすしかない。
――門倉ァ、おまえが一晩でいくらトップを取ったって、俺の一時間の稼ぎにもならんのだぜ。
溝口の薄ら笑いがいづるの仮面の裏によみがえる。思い返せば喧嘩を売られた記憶しかない。溝口はいつも頬ににきびを作っては潰していて、見るたびに醜くなっていった。
ひょっとするとそれは、勝つごとに、だったかもしれない。
溝口のあばた顔が、耳に噛みつけそうなほど間近からいづるに囁く。
――汗だくになって一時間かけて打って、勝って取られて、馬鹿みてえだと思わねえ?
馬鹿みたいだと思う。
だが、どうしても好きになれなかったのだ、公衆モノは。なんだかそれに触れただけで「負ける」気がした。いったい自分は何と戦っていたのかと思う。
しかし、いま、魂を稼ぐには、ちんたら半荘なんて打っていられないのも事実だ。
競馬にかかる時間は平均して二分半。
たったの二分半。
火澄のおしろいと紅まみれの笑顔を思う。
――ふん。
押し切ってやる。
確かに自分はレースに関して素人だ。オモテとかウラとか押さえとかよくわかんない。
でも、自分なりの賭け方みたいなものはたぶんある。
だったらそれでやるまでだ。常識もセオリーもくそ喰らえだ。
十二頭の馬畜生のどいつが未来の種馬になって、どいつが馬肉になるのか、それを当てるだけでいいんだろう。
どの道、正攻法なんてやり方で助かる星の下に生まれちゃいない。死んでもいない。
ふう、とため息。
期待に満ちたあの目を思う。
あんな目で見られたのは生まれてこの方一度もなくて、
「お待たせしましたー」
火澄が畳んだ新聞を赤ん坊のように抱えて戻ってきた。
「予想紙どこも売り切れで、親切な方に譲ってもらえなかったらもうどうしようかとかくなる上はかっぱらうしかないかと……兄さん?」
押し切るしかない。
いつもそうしてきた。
だから、今度もそうする。
○
いづるは新聞を受け取りしげしげと眺め始める。火澄がおずおずと言った。
「兄さん、それ逆」
がさがさと新聞をこねくり回して、やっといづるは正しい見方にたどり着いた。これだから新聞は嫌いである。朝の電車の中でサラリーマンが手にしているのは新聞からスマートフォンに変わってしまったが、いづるが子供の頃はまだ満員電車の中で巧みに畳んだ新聞を無限軌道で読み進める企業戦士がいたものだ。
「サラリーマンには向いてないですね」
「うるさい」
新聞には馬名が書いてあると思ったが違った。
十二の縦枠で区切られているところまでは同じである。だが、本来は「セカンドインパクト」とか「ブラックサンデー」とか中学生の脳内異名のごとき馬名が連ねられているべきところに人名が掲載されている。その名前も珍妙なものが多かった。
「なんだこれ。あの世だと騎手が重視されるのか?」
あまり競馬に明るくないいづるでも、競馬が『ブラッドスポーツ』と呼ばれるほどに馬の血統に重きが置かれたギャンブルであることぐらいは聞いたことがある。だが、ここは現世ではなく何もかもがくたばった後の世界であって、そういう物事の順序が逆転していてもおかしくないのかも、とも思う。
「あれ、言ってませんでしたっけ?」
ちっとも悪びれている風でもなく、火澄が言う。
「これは競馬じゃないんですよ。似ていますけど」
「競馬じゃない?」
「はい。予想紙に書いてあるでしょう?」
見てみる。
競神通信、と右上の大枠に書いてあった。よく見なかったので普通に競馬と書かれているものだと思い込んでいた。
字の意味だけを捉えれば、
「神様の……競馬ァ?」
思わず胡散臭げな声が出てしまう。いづるは「神」とか「教え」とか「調和」とかの類の清らかなる単語を聞くといつも鳥肌が立ってしまうのだ。ひどいときにはジンマシンにまでなる。
「厳密に言うと『式神の競馬』ですね、競神(せりがみ)は」
火澄がひょこっといづるの横から新聞を覗き込んで言う。なんだおまえ、と電介が火澄をしたたかに睨む。火澄はその殺気に満ちた視線に気づかずのん気に、
「だからそこに載っているのは、式神の使い手である陰陽師たちの名前なんですよ。式神は造り手の実力がはっきり表れるので、結局、式神を走らせて誰が一番いい呪い師なのかを競うわけです」
「へえ……式神ってよくわからないんだけど、妖怪とは違うの?」
「違います」
ちょっと心外そうに火澄は唇を尖らせた。
「簡単に言うと、妖怪は天然モノで、式神は人造のモノって感じですね。現世にいって五行の精――火の精とか水の精とか――を森とか湖とか、そういうパワースポットから集めてきて陰陽師が造るのが式神です。なので自我とかないですし。まァ陰陽師に従っている妖怪を式神って言うこともあるので、そこは『日本語って難しい』で納得してください」
なるほどなるほど、といづるはふんふん頷いていたが、その実まるっきり頭に入ってこなかった。興味のない授業を聞いているときの気分である。
予想紙には、陰陽師の名前の上に称号のような二文字の名称が添えられていた。それぞれ右から、闘蛇(とうだ)、朱雀(すざく)、六号(りくごう)、勾陣(こうじん)、青龍(せいりゅう)、稀人(きじん)、天后(てんこう)、陽炎(かげろう)、玄武(げんぶ)、久遠(くおん)、白虎(びゃっこ)、天空(てんくう)、とある。これは何かと火澄に問うと、
「陰陽師が扱う式神には縛りがあって、テンプレートみたいなものがあらかじめ決まってるんです」
いまや火澄の身体が隙間なくいづるの背中にくっついて、いづるは身動きひとつできない。
「昔、安倍晴明っていう陰陽師がいたのは知っていますか?」
それは知っていた。確か土御門光明のご先祖さまで、雷獣を空の上へと追放した大昔の陰陽師。
「彼が使役したと言われる十二柱からなる伝説の式神――十二天将の名前と属性に適合した式神を造ることが競神の決まりなんです。たとえば朱雀だったら炎の式神、とか」
「それに何か意味が?」
「あります。式神はどれも五つの属性、木、火、土、金、水で分けられているんですが、それぞれが近くにいると相互作用が発生するのです。作用の種類は二つです。片方の属性がもう片方の属性を支援する『五行相生』と反対にもう片方の属性を打ち消す働きをする『五行相克』」
がんばるのだ、といづるは自分に言い聞かせる。麻雀だってバカラだってナポレオンだって覚えられたじゃないか。
火澄は水を求める魚のように、一生懸命、いづるの理解を得ようと話し続ける。
「ええと、そんなに複雑じゃないんですよ。『相生』の方は、木が燃えたら火になって、火が燃え尽きたら灰つまり土になり、その土の中から金属が掘り出され、その金属が冷えて水の雫ができ、その水が滴って木を育てる……ね?」
「つまり……循環してる?」
「はい。だから競神の最中も、火の式のそばに木の式がいたら、火の式は勢いを増すのです。『相克』の方は、循環はしていなくて、木は成長して根を張り土を砕き、土は貪欲に水を吸い取り、水はご存知の通り火を消して、火は金属を溶かして駄目にしてしまい、そして木は金属でできた剣や斧で切り倒されてしまう……『相克』の場合は火の式のそばに水の式がいた場合、ステータスが低下してしまうのです」
「じゃあ、火の式のそばに水の式と木の式が一緒にいたらどうなるんだ?」
「状況によります。水の式が火の式よりも強ければステータスは低下しますし、火の式の使い手が水の式を上回っていれば木の式からの勢いを得て加速します。そこが読みごたえのあるところ、なのです」
駆ける方にとっても、賭ける方にとっても。
いづるは多面刷りの新聞を仮面越しにじっと見つめる。なんとなく概要はわかった。普通の競馬と違ってオカルト的な要素があって面白いとも思う。
だが、やっぱり専門外だ。その印象はぬぐえない。なぜだろう。いったい何が他のギャンブルと違うというのか。この博打だけが、いづるにはどうしても馴染まない。
ふと気配が背後から消えているのに気づいて、新聞を顔の前からおろすと、火澄が上目遣いでいづるを見上げていた。
「あの……わかりづらかったですか、兄さん?」
咄嗟に、言葉が出てこなかった。
氷の隙間に満ちた酒のように輝く赤い瞳に、心を根こそぎ奪われていた。
奪われたまま、それでも自動的にセリフが喉から出てくる。
「いや、そんなことない」
「……? 兄さん?」
「次のレース、ちょっと賭けてみようか。試しにね。まだレース数はたっぷりあるみたいだし」
そして火澄の瞳から逃げるように振り返って、
「門倉いづるだな」
馬の頭をした巨漢に、肩を掴まれていた。
「一緒に来てもらおう」
(つづく)
馬頭鬼(めずき)に首根っこを掴まれて、いづるはずるずるとスタジアム内を引きずられていった。焼肉を焼いた後の金網みたいに汚れた床をいづるのマラソン上等のスニーカーがこすっていく。左手で無造作に掴んだ太刀が人物問わずにぶつかりまくってがちゃがちゃ音を立て、周囲からはいぶかしげな視線が向けられている。
火澄にはその場で待っているように言っておいた。彼女には関係のないことだし、その場で成敗されていないことから、どうやら話し合いの余地はありそうだと踏んだからだ。
火澄は胸に電介を抱いて、母親が赤ん坊にそうするように、そのふくよかな肉球のついた手をいづるに振ってみせた。電介はされるがまま、半分寝ていた。
「で、僕はどこに連れて行かれるんだ?」
いづるは精一杯の抵抗として身体をぐったりさせながら、
「きみと違って忙しいんだ。遊び相手なら他を当たってもらおう!」
馬頭鬼はちらっとそのテニスボールほどもある目玉をいづるに向け、また無言で前に向き直った。軽蔑したらしい。いづるはおとなしくすることにした。
「連れてまいりました」
「ああ」
どん、と馬頭鬼に乱暴に背中を押され、いづるはたたらを踏んだ。よほど振り返って文句のひとつも言ってやろうかと思ったが、馬頭鬼はすでに群集に紛れ込んだ後だった。案外、取って返して券売所にでもいったのかもしれない。
顔を上げた先に、牛頭天王がいた。
あの世の元締めは、壁にめり込むようにして設えられたバーのカウンターに巨体を納めて、グラスをつまんでいた。9Lの袈裟を着て、金属の環が先端につけられた杖はいまは脇に立てかけられている。
「よう」牛頭天王はちらっといづるを見て、「座れよ」
いづるは少しだけ逡巡してから、ストゥールに腰かけてバーテンに「ミルク」と言った。やはり骸骨のバーテンは軽く頷くと、張った水のように綺麗なグラスにミルクを注いでくれた。牛頭天王は何も言わなかった。
「で、何の用」といづる。
「別に何も、って言ったらどうする?」
「どうもしない。ミルク飲んで帰る」
牛頭天王はぐっふっふっふと地響きのように笑った。
「そんな時間がおまえにあるかな」
「何?」
「死人だろうが、おまえは……」
牛頭天王はショットグラスの中の酒を一気にあおった。茶色い液体が臼歯の隙間からこぼれる。
「まァ、そうだね。でも、あんたにいま消されなければ、もう少し長くいられるだろう」
「別に消しやしない」
いづるは首を振る。
「どうして? 僕はあんたの敵だぜ」
「敵なのか? あんな悪戯、俺は気にしてないよ。おまえを探させてたのは、これを返したくてな」
そういって、牛頭天王は袈裟の懐から桐の箱を取り出し、バーテンの真似をしてテーブルの上を滑らせた。いづるはそれを受け取って、ふたを開ける。花札が入っていた。念じるだけで絵柄が変わる土御門の花札だ。そういえば、畳に散らかしたまま出てきてしまったのだった。
「ありがとう」いづるはふたをしてそれをポケットに突っ込み、
「わざわざ返してくれるなんてね」
「とっておいても邪魔だからな。ああ、それはもう解呪されてるからただの花札だとさ」
「なんであんたにそんなことがわかる」
「うちのやつが言ってたんだよ」
「うちのやつ?」
「ああ。陰陽師なんだ。何かと俺の世話を焼いてくれる。牛の頭はしてないが」地響き。
「陰陽師なのにあんたの味方をしてるのか?」
「悪いか」
「べつに」
仮面のおとがいを持ち上げてミルクを飲む。牛頭天王がじっと瞳にそんないづるを映している。
「あんた、ひょっとして僕と友達になりたいのか?」
「――――」
牛頭天王はいづるから顔をそむけずに、ショットグラスを口に運んだ。
「どうしてそう思う?」
「あんたは僕に気を遣ってるみたいだからね」
「俺が? ――そうかもな。不思議だな。自分でもいま気づいたよ」
乾いた笑い。
遮るように、
「でも、悪いね」
空になったグラスが、曇りひとつないカウンターを強く叩く。
「僕は友達は作らない。あんたは僕の敵だ。だから、このミルク代は自分で払うのさ」
ごそごそと制服の下に着込んだパーカーを漁って、小銭をいづるはカウンターに置く。牛頭天王が、その小銭に話しかけるように言う。
「ずっとそうやって生きてきたのか?」
「うん」
「友達を一人も作らずに?」
「いや、一人だけいた。でもそいつは特別だ」
「どう特別なんだ」
「そいつといると安心できたから。そういうもんなんだろ、友達っていうのは」
「どうかな」
いつの間にか、喧騒がスタジアムの中から外へと転じていた。バーのそばには誰もいなくて、遠くから熱気と怒号の乱反射だけが寂しく届く。
「どうかな、ってなんだよ」
「おまえに友達なんかできるわけがないと思って、な」
「――――」
「おまえが安心できたっていうなら、それはきっと、そいつが」
沈黙。
「――なんだよ」口調が意図せずに荒くなる。「はっきり言えよ」
牛頭天王はショットグラスの中の、揺らめく反転した世界を見つめながら、
「それはきっと、あんたがそいつを、敵としてさえ見られないほど侮っていたからだよ」
ワァァァァァァァ――――
どこか遠くで、ひとつのレースが終わったらしかった。いづるはカウンターに片肘を乗せて、拳を握り締めたまま、動かない。
「侮っていた? 僕が首藤を? ふざけるなよ、そんなことない」
「具体的にどう、ないんだ? おまえこそはっきり言ってみろ。普段の威勢のよさはどうした」
「あいつは、僕よりも」
あるはずの言葉に、頭の中の手が届かない。掴もうとすればするほど、記憶の中に確かにあるはずの思いが零れ落ちていく。
「僕よりも――」
僕よりも、なんだというのか。
強い? まさかそんなこと言えるわけもないだろう。背中に張りついたもう一人の自分が囁く。だっておまえは自分が一番強いと思っているんだから。そうだろ? 誰のことも認めてやれずに腹の底じゃ誰も彼もを鼻で笑っているのさ。どいつもこいつも馬鹿だと蔑んで、ぐるりとてめえの周りを囲んだ孤独っていう薄くて柔らかい膜を冷めた目で眺めているのさ。
出られないくせにな。
「僕よりも、人間らしかった」
苦し紛れに出てきたセリフがそれか? 人間らしい? いったい何を取って人間らしくてそうじゃないかを区別してるんだ。友情愛情人望人徳どれも数値化できやしないってのによ。なんにせよおまえは人間らしさとかいうのをさも美徳みたいに言っているが、本当にそれが自分の持っているものより上等だと思っているのか? おまえはあの桜の木の下で、首藤相手にへらへら笑っているとき本当に一度も思ったことがないのか?
自分は、こいつじゃ死んでも届かない高みにいる――って。
「首藤はいいやつだった。僕のたったひとりの友達だった。僕には友達がいたんだ。正真正銘の友達だ。たとえあいつが、そうじゃないって言ったって、僕はあいつを友達だと思ってる――」
言葉が上滑りして、価値を失っていく。わかっていながら、いづるは喋ることをやめられなかった。首藤と交わした言葉を、思い出を、聞かれてもいないのに洗いざらいぶちまける。それは無実を訴える釈明に似ていた。
――僕は友達は作らない。
そんなことを言っていられたのも、本当の友達っていうものがいたからだ。保険が張ってあったからだ。だが、牛頭天王の問いかけはいづるの奥深いところにある欺瞞を粉々に吹き飛ばした。
もし、それが真実なら、自分は欠片ほども人間らしい生き方をせずに死んだことになる。友情だと思っていたものが一皮剥げば単なる優越感。
いまさらになって、怖くなった。
何をそんな動揺している――鼓膜の近くで誰かが言う。逆に聞こう。どうして動揺せずにいられる?
あの思い出があったから、死んでものほほんとしてられたんだぞ。
あの記憶が支えてくれていたから、消えてもいいって思ってたんだぞ。
それが――
結局――
「僕は正しい」
身体を膨らませるようにして、いづるはやっとのことで言い放った。
「間違っているのは、あんただ」
「指が震えてるぜ」
「震えてない」
「どうあっても、認めないんだな、自分の有様を。自分で言ったんだろ、敵しかいないって」
「違う――」
「滅茶苦茶だな、もう」
エンジンを空ぶかししたような深いため息をついて、牛頭天王は腰を上げた。杖を手に取り、しゃらんと遊環が鳴る。いづるは貼り付けられたテクスチャのように、ストゥールに座ったまま、
「どこにいくんだ」
「帰るんだよ」
「賭けに来たんじゃないのか」
「賭け? 俺はそんなことしない。受けるだけ。自分から仕掛けたりしない。待ち続けるだけだ、敵が向こうからやって来てくれるのを。――あんたと逆だな。あんたは、周りをみんな敵だって言ったが、違うよ」
「あんたが敵なんだ、全部の」
じゃあな、と牛頭天王は軽やかにいって、小地震を起こしながら去っていった。いづるは空になったグラスを握り締める。グラスにゆっくりヒビが入っていって、砕けて、血が流れ出しても、いづるは拳をほどかなかった。
少し、時間が経って。
その手に、ふにゅ、と何かが当たった。拡散していた意識のピントが合う。
火澄が立っていた。心配そうな顔をして。手に当たっている柔らかいものは、火澄の傀儡と化した電介の肉球だった。
いづるは何も言わなかった。火澄は隣に腰かけて、割れた食器を見るような顔で、いづるを見る。
何も言えない。
何か一言でも言えば、もう二度と立ち上がれない。
だから、その前にいづるは席を立って、背中を向ける。
何も言わずに。
○
通路を抜けると、夕焼けだった。ちょっと隣町で戦争でも起きていそうな、赤い空。
スタジアムは喧騒に包まれている。
段差になった観客席は異形たちで埋め尽くされ、その向こうに、土が剥き出しのトラックが広がっている。いまは、そこには誰もいない。次のレースまでは少しばかりの猶予がある。
火澄に手を引かれて、空いている席に座らされた。押しつけるように予想紙を手渡される。
「はい、がんばって」
「うん」
と生返事してみても、予想紙の見方だってわからないのに頑張るも糞もないのだった。陰陽師――競神では『式打』というらしい――の名前で気に入ったやつに張ってみようか――などと考えていると、視界の端に見知った後ろ姿を見つけた。
血のような赤いブレザーと、荒々しく波打った金髪。本名は知らないが、そんなことは大したことではない。いづるは新聞を四つに畳んで、席を離れようとしたが、火澄に制服の袖を掴まれる。
「あ、待って。一緒にいきます」
「いいよ、すぐ戻」まで言って、別にいいかと思い直し、妖怪たちの膝前を通って客席を分断する階段まで出た。赤ブレザーはいづるたちのいる段の最前列にいた。飛び出し防止の柵に重ねた両腕を乗せて、お気に入りのプラモデルでも鑑賞するようなラフなたたずまいで、下方の客席とその先のダートコースに仮面を向けている。一人きりかと思ったが、近づくにつれて、話し声が聞こえた。どうも柵の下の段にいる妖怪と喋っているらしい。
「――さか穿崎のアタマとはなァ。鷹城と墓畑の銀行(=結果の予想が堅いレースのこと。鉄板レース)だと思ったのによ。さすがだなァ、千里眼のあだ名は伊達じゃねえんだな」
「ふふん、俺と知り合いでよかったろ? なかなか出せんぜ、俺の的中率は」
「おうよ。で、分なんだが――」
「いいよ、いいよ、俺とタンちゃんの仲じゃないか。分け前なんて気にするな、俺は独り言をこぼしただけなんだから」
「――いやァ、ほんとにおまえって、いいやつ」
それで会話が終わって、赤ブレザーは首をもたげて夕焼けを見上げた。白い仮面に、はるか彼方で沈もうとしている夕陽の波長がコピーされ、光と影がゆらめき、燃える。
そして、自分の背後にいつの間にか二人の気配があることに気づいた。
「――よう、また会ったな」
「そうだね」といづる。
火澄がまた袖を引く。その顔には警戒心が強く表れている。
「誰……?」
「ちょっとね」
「おまえが残ってるってことは」
赤ブレザーは寝返りを打つように背中を柵に預けて、
「サンズは消えたか。まァそうだろうな。あいつは残れるほどタフじゃなかった」
「いや、たまたまさ。僕がツイてた」
「ツクとわかってて賭けてりゃそれはたまたまなんかじゃねえよ。――俺は、あんたが勝つって信じてたよ」
「――そりゃどうも。どっちが勝っても狩るって言ってたくせに」
「ああ。でも、あんたと勝負(や)る方が楽しそうだ、とは思ってた……」
赤ブレザーの仮面越しの視線が、いづるの持つ予想紙に据えられた。
「競神やるのか」
「そのつもり」
「教えてやろうか」
「え?」
「初めてなんだろ? 賭け方もろくすっぽわからないはずだ。俺も最初はそうだったからな。わかるよ。そう……基本のアロハくらいは誰かから教わらないとな?」
何かを待つような間があって、
「……イロハ?」と火澄がおずおずといった。
赤ブレザーはくすぐったそうに笑う。狙ったらしい。まんまと釣られた火澄がぎりりと歯軋りをする。
「僕を狩るつもり、なんじゃないのか」
赤ブレザーは肩をすくめて、
「そうだよ。だから教えるんだ。手取り足取り神券(かみ)の買い方から張り方流し方、何を見て何を思えばいいのか、仕込んでやるよ、土台だけはな。そうして、すっかり自信をつけて俺に挑んできたおまえを――喰うんだ」
赤ブレザーは答えを待っている。
悪い話ではない。さっきのやり取りからして、赤ブレザーは他の妖怪たちにも一目を置かれる馬券師、いやあの世風に言えば神券(かみ)師であることは容易く窺えること。コーチとしては相応だ。そしていづるには致命的に情報が足りていない。
そう、悪い話では決して、
「その必要はありません」
言ったのは火澄だった。
唖然としたいづるのうしろから、化粧を施した顔に嫌悪と侮蔑の色を混めて赤ブレザーをにらむ。
「兄さんには私が教えてあげるんです。ヤンキーなんてお呼びじゃないです」
「や、ヤンキー……?」赤ブレザーは左手で制服の胸元を押さえ、右手でメッシュ気味の金髪をかき回す。
「ひどいな。俺、生きてた頃は無遅刻無欠席で皆勤賞もらったこともあるんだぜ?」
「聞いていません。兄さん、いきましょう。ここは空気が悪いです」
「最上段だぞ!? ここより風通しのいい場所なんかねえよ! おい門倉、なんとか言えって」
いづるが黙っていると、
「あ、この野郎、女の子には逆らわない気だな! よしわかった、じゃあこうしようぜ、勝負をしよう。それで白黒つけるんだ」
まだこいつ喋るのか、とうんざり顔になって、火澄が振り返る。だから兄さんはまだ来たばかりで式神もなにもまだ見てないし準備と予習が必要で
門倉じゃない。
赤ブレザーが言う。
その仮面の向こうで、きっと少年は笑っている。
「――あんたと俺が勝負(や)るんだよ」
階段をどんどん登っていた火澄の草履が、ぴた、と止まった。