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05.ささやく遠雷

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 どこにも繋がらないテレビが消えずに砂嵐を映しているように、雨の音がいつまでもやまない。




 暗闇の中、声が聞こえる。
「おや、こいつこんなところでなにしてるんだ? 行き倒れか?」
 別の声が答える。
「バカ、死人の腹が減るかよ? どうせやる気がなくなって消えるまでのんびりするつもりなんだろ。そんななら『死人窟』にいきゃあいいのにな。あそこなら遊び相手もいるだろうに」
「案内人が放任主義だったんだろ。かわいそうにこんなところに置き去りにされて……」
「あんまりこの世に未練を残したまま過ごしてほしくないねえ。鬼になられちゃめんどうくせえや」
「じゃ、おまえ声かけてやれば?」
「やだよ、なんかこいつ、不気味だもんな」
 心配されなくてももうすぐ綺麗に消えてやるさ。いづるは胸の中でつぶやいた。




 また声が聞こえる。
「……から言ったんですよ、もっときつく言っておかないとあの手合いはすぐにもめ事を起こすと。私は常々御大に申し上げてたんですよ。なのにね、誰も私の話を聞かな」
「で、土御門は?」
「は? いや、そりゃあ逃げ回ってますよ。決まってるじゃないですか、妖怪連中の博打に手を貸したんですからね、まあ陰陽連からは追放でしょうし、今後一切の陰陽術の行使は認められないでしょうね。まあ当然でしょう。私は常々、」
「誰が土御門を追ってるんです?」
「あいつは反抗的で気に食わないと、え、なんですって? もう一度お願いします」
「だから、誰がつちみか」
「ああ! そういうこと、わかりましたよ、葉吹さんと天墨さんと御堂さんと、あとだれだっけ、あの、七、七」
「七爪」
「そうそうあの人。その四人組で追いかけてますよ。じきに捕まるはずです、そしたらね、そのときはね、私、がつんと言ってやりますよ。掟を破ったらいけませんって」
「ふむ、あの四人なら土御門のせがれも逃げ切れはしないでしょう。安心しました」
「ええ、本当にそうですよ。それにラッキーでもありますよね氷滝(ひだき)さん」
「なにがです? 心林さんはいつも主語が抜けているのが赤点ですね」
「はい。はい?」
「で、なにがラッキーなんです?」
「あ、はい、ええ、そう、競神(せりがみ)ですよ。土御門がいなければ、ちょっと有利になるじゃないですか。さすがに追っ手に狙われながら現れはしないでしょうから」
「ふむ。確かに。ふむ。心林さん」
「なんです?」
「他人の不幸ってやつは、本当に、一石二鳥で素晴らしいことですなあ」
「まったくまったく」
 あっはっはっは、と笑って男たちは会話を締めくくった。
 ゴミだめに埋もれた門倉いづるが目を開けたときには、声の主たちは立ち去ってしまったあとだった。
「……競、神?」
 それでも身を起こす気にはなれず、いづるはまた目をつむる。




 みたび声がする。
「……ったら本当なんだよ。おれは見たし、この手で捕まえもしたんだ、あの森で。本当だってば」
「おまえさあ、そういう嘘ぜんぶバレてるのまだわかんないわけ? 痛々しいぞ」
「確かに廃ビルに雪女郎の三姉妹が住み着いたってのは嘘ついたし一緒に麻雀打ったってのもガチで嘘。でも今回のはホント。おれのこの一つ目玉に誓ってもいいぜ!」
 一方の声がしなくなった。もう一方が沈黙をおそれるようにまくし立てる。
「いいか、ありゃあ猫だ。絵巻に描いてあるイタチみてえな姿はみな嘘さ。おれがさわるとビリビリってしてな、毛に電流が混じってるんだ。くそ、びっくりして離さなかったらなあ、おれはノーベルなんちゃら賞かファーブルがんばったで賞あたりをゲットしてたろうに……聞いてる? ねえ聞いてる? おれの話の真偽はともかくちゃんと構ってくれな……」
 どこか間抜けな声は遠ざかっていった。ゴミ袋の上に置かれたいづるの手のひらがぴくりと動く。
 が、それっきり。






 肩をゆさゆさ揺さぶられて、いづるはとうとう目を開けた。しかし仮面をかぶっているので、相手からはわからなかったろう。
 何度か烈しく目をしばたいて、いづるは雨を落としている赤い雲を背負った相手が誰だかわかった。
「ネコミミ……ああ、きみか。やあ。どうしたの。傘差さないの?」
「そんなこと言ってる場合じゃないって、起きなよ!」と猫娘はいづるの袖をぐいぐい引っ張った。
「なぜ」
「牛頭天王の秘密警察があんたを探してるよ。飛縁魔と一緒にいたんでしょ? まずいよ!」
「ああ……」
 いづるの素っ気ない態度を見て、猫娘はガリガリと茶髪をかきむしる。
「あーもうこの人は、ぬけてんのかな、状況がわかんないの? あんただって踊り喰いなんてされたくないでしょ? 逃げなきゃ……っていってもあたしにはなにもできないけど……」
 袖を掴んでくる手をいづるは乱暴に振り払って言う。
「応援しかできないなら放っておいてくれ。どうせ怖くて匿ってくれさえしないんだろ」
 猫娘の、金色の瞳孔が収縮し、そうなってしまうと一切の感情が読み取れなくなる。
「……あたし怒ってもいい? それとも謝るべき?」
「どっちでもいいんじゃないか。あんたに任せるよ」
 猫娘はぱちぱちと瞬きした。
「変なやつだね、あんた」と言って笑って、
「あたしほんとになにもできない。それは確かにあんたのおっしゃるとーり。でも、応援するのはあたしの勝手だよね? これ、餞別」
 猫娘は紺色のスクールバッグに手を突っ込んでごそごそ漁る。そのたびにキーホルダーとストラップの一個師団ががちゃがちゃ揺れる。そしてペン立てサイズの箱を取り出して、雨に塗れた路面に置く。
「いいにおいがするよ」
 そう言って猫娘は去っていった。去り際にぶるっと身を振るわせ、身体を抱く。猫は水が苦手らしいから、ひょっとすると無理をしてくれていたのだろう。
 いづるは小箱を引き寄せて、ふたを開けてみた。
 いいにおいのする粉がぎっしりと詰まっている。白と青と黄の粒がミクロな砂漠をなしている。
 いづるは箱を裏面にひっくり返した。
 家庭用洗剤。いづるの家にもあるやつだ。
 そういえば、いづるが子供の頃に遊びにいったイトコの家の猫が洗剤のにおいが好きで、よく箱をひっくり返してはおばさんを激怒させていた。猫は何度箒で追いかけ回されてもあきらめずに箱をひっくり返していいにおいをあたりにぶちまけ続けたものだ。
 猫にとってはすてきな贈り物かお守りなのかもしれない。
 が、門倉いづるは猫ではない。
「あるんだよなあ、せっかく気をつかったっていうのに、結局なんの意味もないってこと……」
 いづるはひとりごち、洗剤の詰まった箱を投げ捨てようと掴んだ。が、思い直して手を放した。もはやそんな偽悪的行動をする気にもなれない。
 ぱす、とビニール袋の枕に後頭部を押しつけ、もう何も見まいとする。
 だが、自分の脳裏を駆け巡る記憶だけは、消えてくれない。
 生きていた頃の記憶がいづるの中でよみがえる。




 どたどたどた、と校医の山本が廊下を走り去っていった。
 さっき聞こえてきた女子たちのひそひそ話によると、生徒の誰かが駅前で事故に遭ったらしい。校医が出ていって消毒薬とガーゼでなんとかなる事態ではないと門倉いづるは思った。そんなもので物事が灰に戻ろうとする力を押しとどめられるはずもない。
 見物にいったのか、かかわり合いを避けるためにとっとと家に帰ったのか、校舎の中には人気がない。あらゆる騒ぎが隣の世界にスイッチしてしまったように、白い床を歩いていくいづるの足音だけが木霊する。


 放送室のノブは抵抗することなく回った。
 門倉いづるは身体を斜めにして中に入る。
 放送室を照らし出す裸電球一個の下に麻雀卓が置いてあり、二年生を表す紫色のタイをつけた女子生徒が、パイプ椅子にはすに座っている。赤いべっこう縁のメガネの向こう側の瞳が、興味深げな光をたたえていた。
「きみが入部希望の一年生か」
「そうです」
「名前は」
「門倉いづる」
「ほおー。……あ、私か? 私は白垣サチ。我が博打倶楽部の長を勤めている。よろしく……。じゃ、門倉くん、そこにかけたまえ」
 いづるはパイプ椅子のひとつに座った。
「麻雀は打てる?」と白垣サチは緑色のラシャに手の甲を滑らせた。
「いえ、ルールを知らないので……」
「そうか。打てたら即入部OKだったんだがな」
「そんなものですか」
「メンツが足りないんだ。これは致命的なのだよ、きみ。遊び相手がいなくっちゃな、どうしようもない。桃鉄一人でやったってつまんないだろ? どんなに特急カードを持っていてもね、それはゲームという幻想が機能して初めて価値を持つのだよ。お金と一緒さ。野蛮人に諭吉を何枚くれてやったってどうせケツを拭く紙にされるのがオチさ。おっと失敬、口が悪いのは遺伝でね。ほんとほんと」
 早口にまくし立てられたが、聞き苦しくはなかった。むしろ小気味いい軽快なヒップホップを聞いているような心地がしたくらいだ。
 手持ち無沙汰気味なのか、白垣サチは卓の上に散った麻雀牌をざらっと混ぜた。なるほど防音対策をしてある放送室ならいくら牌がじゃらじゃら鳴ろうと教師連がガサ入れしてくる心配はいらない。
「で――入部動機は?」
「親しい人に死ね、と言われたので」といづるは答えた。
 白垣サチは整った眉をこころもち持ち上げる。
「死……? おもしろいこと言うね。うちは自殺クラブだと思われてるのかな? だったら帰りたまえ、たぶん違う」
「地獄へいく方法、でググったらギャンブルがトップにきたもので。ちょうどいいし、博打ってどんなものかと思って」
「ほおー。つまりきみは死にたいわけかね? 博打狂いになってヒドイ目に遭いたいと?」
 いづるは人形のように小首を綺麗に傾げる。
「そうかもしれません」
 白垣サチは顔の前で手を振り、
「そんなことしても意味ないぞ。それより私ともっと楽しいことをして遊ぼう。そう……オセロとか、すごろくとか、」
「賭け麻雀とか?」
 白垣サチはふっと笑みを消した。
「遊びで麻雀にレートは乗せない」
 沈黙。
 腕時計の秒針がカチカチ鳴り続ける。交わされた視線の熱量だけが上がっていく。
 サチは卓の上で指を絡ませて、その結びを興味深そうに見つめながら、
「きみ、金を稼ぎたいと思うかね?」と聞いた。
 いづるは肩をすくめ、
「べつに。あまり金の使い道はない方なんで」
「では、それがはした金でなく、誰かが夢や希望を失う額ならどうかね」
「どういう意」
「傷つけ、傷つけあいたいと思うかね。自分は血を求めていると思ったことは?」
「あの……」
「拳が固まったままほどけないと錯覚したことは? 道ゆく人を頭の中で殴り倒しながら歩く? 嫌いな奴ほど夢の中で無敵にはなっていないか?」
「…………」
「いま私が君の入部許可を賭けて勝負を申し込んだ場合、いったいいくらまでなら賭けられる?」
 その問いかけに答えるのは簡単だった。
 いづるは、麻雀卓の上に、薄っぺらい財布をポンと転がす。レンズ越しに白垣サチの目がきらめく。
「きみ、私を惚れさせる気かね?」
「や、べつに」
「そうか。ふむ。よかろう、勝負で決めよう。それが一番手っとり早い、きみと私のケースならな」
 白垣サチは放送設備にヒジを乗せて、足を組み替えた。いづるは白いふとももに目もくれず、その唇は一文字に引き結んばれている。
 それがふと、ゆるんだ。





「勝負は簡単だ。きみはこれから校内に戻っていって、女子生徒から生徒手帳を借りてきたまえ。ただし暴力行為は禁止だ。私はちゃーんと見てるからな?」
 白垣サチはそこでまじめな顔を崩して、
「なあに、ただの借り物競走さ。ただし駆け回るのはきみだけだが」
「……そんなことでいいんですか? もっとハンデをつけてくれたっていいのに」
「死にたいくせに自信過剰かね? 本当におもしろいやつだな。ま、いいのさ。この勝負、意外と奥が深いぞ。せいぜい楽しむがいい。勝っても負けてもな。それに喜べ、もし勝てたらご褒美もある」
「いらないです」
「そう言うなよ。きみも男子だろ? 私がなぜ女子の手帳に限定したのか察してみたまえ。ちなみに私は金持ちだ」
「や、だからそんな、」
「男色かね? もし違うのならば私にきちっと証明してみたまえ、自分が健全な高校一年の男子であると! 滔々とな!」
 有無を言わさぬ、とはまさにあの様子のことを指すのだろう。
 促されるまま、いづるは滔々と赤裸々に自分が男子生徒であることを証明した。白垣サチは至高の音楽にひたるようにリズムをつけていづるの告白に耳を傾け、どんどん頬が赤くなっていった。
 そしてすべて聞き終えると、げらげら笑っていづるにパンチをお見舞いしてきた。
「なかなかの変態だな、きみは!」
 見かけは可愛らしい女の子パンチだったが、結構重かった。
 放送室を出て扉を閉める前にちらっと視線をあげると、白垣サチは袖でよだれを拭っているところだった。





 簡単な勝負だと最初は思った。
 校舎に人気がないとはいえ、部室長屋にいけば女子なんてごろごろしている。
 問題は口実だ。生徒手帳なんて学割ぐらいにしか使われないにせよ、人にほいほい貸すのははばかれるだろう。
 こういうのはどうだろう。
 新聞部が来月の記事に生徒手帳に載ってる顔写真と写真部が撮った顔写真を比較掲載する。協力してくれた方には生徒手帳の顔写真を新しい方とすげ替えてやる。抽選するから手帳を貸してほしい。
 あまりよくない。
 だが、まあ、一人くらいは引っかかるバカがいるだろう。写真の写りが悪いやつは探せば絶対にいるわけだし。いづるはタカをくくって、目あたり次第の女子に話しかけた。
「あの」
「っ!」
 ところが、女子たちはいづるの声を聞いた途端に親の敵を見るような目で逃げていった。伸ばしたいづるの手がゆらゆらと廊下の真ん中で揺れる。
 入学してまだ二ヶ月。
 大したことはしてないし、クラスでも影が薄い方だ。妙な噂が立つわけもない。なのに茶髪も黒髪もストレートもパーマもチビもノッポもデブもガリもビッチも淑女も、最終下刻時刻になるまでいづるを避け続けた。



 結局、手ぶらでいづるは放送室に戻った。最終下刻時刻を告げるチャイムが鳴ったからだ。
 放送室に戻ると、白垣サチが麻雀牌でピラミッドを作っていた。いづるに気がつくとじゃらっと崩してしまう。
「どうだったかね」
「だめでした」
 いづるはパイプ椅子に座って、柔らかそうな苔色のラシャに目を落としながら、
「口も利いてもらえませんでしたよ。僕はそんなにキチガイじみたツラをしていますか」
「なかなか大事(おおごと)だね、きみ。え? たまたま自分とソリが合わなかった婦女子としか出会わなかっただけかもしれないじゃないか。気を落とすなよ、童貞も守り続ければいつか何かに変わるよ。たぶん」
 いづるは一学年上の女子からのセクハラを完璧に無視した。
「簡単な勝負だとタカをくくっていたんですがね」
「まあ、誰でもあのきみの告白を聞いてぞっとしない婦女子はおるまい」
「でも、僕は普段からあんなこと言ってるわけじゃありませんよ」
「そりゃそうだろう。でも彼女たちは聞いていた。それもついさっき……な」
 白垣サチは、とんとんと指先で放送設備を叩いた。
 いづるは思わず腰を浮かしかけ、
「な、流したんですか、アレを?」
「おう、ばっちりとな!」サチはげらげら笑って両手を広げ、
「おめでとう、これで晴れてきみはどこに出しても恥ずかしくない立派な女子高生の敵だ。精進したまえ!」
「なにを精進しろってんですか。ちょっともうなんか……やってらんないな。じゃあ、こういうことですか、最初から僕に勝ち目なんかなかったと」
「そんなことはないよ? 私は暴力行為は禁じたが窃盗までは禁止していない。たとえば私がきみなら、保健室にいったろうね。迷わず」
「へえ、誰かが落とした手帳がベッドと床の隙間にないか探すためですか」
「違うよ。さっき校医の山本が出ていったろ?」
「ええ」
「なにか事故があったらしいが、普段保健室には保健室登校の女子生徒が一人いてな。鞄を山本に預けて、山本がいないときはベッドで寝ているんだ。そして山本が仕事を終えるまで保健室に残って課題学習している。なにを学習しているのかは判然としないが私はピンクなことを期待している」
「疲れてるんですか? とっとと本題に入ってください」
「うむ。山本はいつもその女子生徒の鞄をストーブの上に置いておくんだ。山本がいない、女子生徒も寝ている、ならば手帳もギれるというわけだ」
 いづるはそんなこと知らなかった。隣の席に誰が座っているかも知らないのにそんなトリビア蓄えているわけもない。
「そんなの……たまたまそういう情報をあなたが知ってただけじゃないですか」
「そうだな。まず情報ありきなのはきみの言うとおりだ。だが、それを必要なときにさっと連想できるかどうか、また女子生徒がたまたま起きていたり、手帳を持っていないという不運をはじくツキ、そして肝心要の土壇場でビクついてヘマをしないクソ度胸。きみがたまたまと言ったこの勝ち方にはこれだけのものが必要なのだよ」
「…………」
「悔しいかね」
「腑に落ちないですね」
「そうか。なら次は自分が腑に落ちる勝ち方をするがいい。べつに博打に限ったことじゃない。気に食わないことは、力ずくでどうにかするしかないのだ。生きている以上はな」
 白垣サチはそこで言葉を切って、それから継ぎ足しのように言葉を添えて、演説を終わらせた。
「ここに来たということは、きみもまた呪われた魂の持ち主なのだろう。ロクなやつはいないからな、ここには。だが、」
 あきらめの混じった爽やかな笑顔で、
「呪われているやつ同士の方が、勝負というのはおもしろいものなのだ」
 と言い切った。



 ○



「入部できなくて、本当に残念です。先輩と話すうちにますますギャンブルがやりたくなりました」
 白垣サチは頬杖をついて、エアコンのように目を細くしたり広げたりしている。
「それは、死ぬためにかね、苦しむためかね」
「理由なんかどうだっていいんですよ。いろいろなことがあって、それが混ざって、機会と場が一致して、そしてようやく僕はギャンブルをしてみたいと思った。たまたまね。それだけですよ。深い理由なんかありはしないんだ」
「――そうだね」
 白垣サチのメガネ越しにいづるを見るまなざしは、孫か息子を見るように穏やかだった。
「やってみたい、大切なのはその気持ちなんだろうな。それを否定するべきじゃないんだ。理屈も道理も後から作ってしまえばいい。原初の感情に言葉なんて無意味だ」
「その口振りからすると、おこぼれで僕は入部できそうな感じですか」
 白垣サチはデコピンで牌をいづるの額めがけて飛ばした。
「痛っ」
「甘ったれるんじゃない。我が倶楽部のルールは絶対だ。さっきも言っただろう、ゲームとはつまり幻想だと。破るのは簡単だ、だが思っていたよりももっとあっけなく、ルールを失ったゲームは破壊される。あとにはなにも残らない」
 いづるとサチは三秒間見つめ合ったあと、同時に肩をすくめた。
 いづるは席を立って、ブレザーのポケットに手をつっこむ。
 じゃ、僕はこれで、と言おうとしたとき、指先になにかが当たった。
 いづるはポケットにものを入れない。
 引っ張りだしてみるとそれは自分のよりも汚れた青い生徒手帳。
 開けると、証明写真の白垣サチは、皮肉っぽい笑みを浮かべていた。
 いづるは写真と同じ顔をしている本物のサチを見る。
「さっき滑り込ませたってわけですか。あんた、最初から僕を入部させるつもりだったんだな」
「さてな」とサチはすっとぼけた。
「さんざん偉そうなこと言っていたくせに、結局これですか」
「嫌ならやめれば?」
「…………」
「どの道、きみはこういうことにのめり込むと思うよ。何年も鉄火場で過ごしているとね、そいつがハリボテかどうかぐらいはわかってくるものさ」
 白垣サチは片手をさしのべる。女の子にしては大きな手だった。
「ようこそ、私の倶楽部へ。門倉いづるくん」
 いづるは背を向けて、放送室を出ようとした。
 そんな意固地ないづるを、白垣サチはますます気に入ったように笑顔を深める。忘れ物を指摘するような口調で、いづるの背中に向かって言った。
「なあ門倉くん、人生とはね、ただの悪ふざけにすぎないのだよ。たまには思い切り羽目を外してみたまえ。意地を張るのが言い訳になってしまうよりも、その方がずっといいと思うがな」
 その言葉が胸に響いたわけではなかったが。
 ドアノブを握ったところで、いづるの決心が揺らぎ始め、そして、がらがらっと崩れた。
 振り向くと、放送室の弱々しい蛍光灯のあかりの下で、緑色の卓とその上に散った麻雀牌が、水面のようにきらきらしていた。深淵で雄大などこかに誘っているかのように、イタズラが好きでたまらない子供の目のように。
 勝負が、いづるを誘惑していた。


 ○


 人生はただの悪ふざけにすぎない。
 そう、そう思っていた。あの人が最初に発した言葉であっても、それは自身の中に形にならないまま漂泊していたものそのものだった。
 そう思っている、いまでも。死んでもそれは変わらない。死んだぐらいでこの心の中の何かが変わることはない。変わってくれるわけもない。


 門倉いづるは身を起こす。
 バランスを失ったポリ袋が雪崩となっていづるの背中にぼこすかぶつかってくる。そんなものはぜんぜん気にならない。いま自分は選択しようとしている。それだけが重要だ。
 寝てるか、動くか。
 寝ていると一度決めた。そうすべきだ。いまさら飛縁魔を追いかけるつもりもないはずだ。べつに彼女とは出会っただけ、そうまさしく出会っただけの関係だった。いづるが死んだとき、彼女はたまたまそこにいた。それだけ。だからそれは簡単に捨てられる。
 捨てられる、はずだ。
 いづるは自分の手の平を見る。十六年間とちょっとの間、毎日見てきた手。
 それが戦慄いている。
 獲物を狙う蛇のように、五本の指が身悶えしてぎりぎりとそれぞれてんでバラバラな動きを見せている。
 いづるはそんなことをしているつもりはない、だが、動かしているのは間違いなく門倉いづるだ。
 苦しい。
 何も考えたくなかった。もう何も感じたくなかった。そしておそらく、感じることはできないし、間違ってもいるのだ。
 門倉いづるは、もう死んでいるのだから。
 消えるべきだ。
 人生が悪ふざけだというのなら、いまのこの時間は『人生』などではない。ただのロスタイム。試合終了のホイッスルが鳴ってから、その笛の音が鳴り止むまでの刹那でしかないのだ。何をしても無駄だし、何か意義あることをすべきでもない。
 わかっている。すべてわかっている。なぜならそういったことは全部、いづるが考えて、いづるが思いついて、いづるが信じたことだから。
 だが、いづるはよろめきながらも立ち上がる。彼がいた場所に怒涛のごとくゴミ袋が殺到し、その玉座を埋めた。もうそこに座り心地のいい窪みはない。
 いづるは呼ばれもしないのに、ふらふらと歩き始めた。
 ゆくあてもろくになく。
 沈みかけた夕陽が責め立てるように、いづるの全身を赤く炙っている。
 動き続ける五本の指の影が、土の上でひらひらと揺らめいた。


(つづく)
27, 26

  



 いつも妖怪があの世から消え去るその瞬間まで世話してくれるとは限らないので、そういうとき、死者たちは同類でより固まる。まるで一緒にいればどんな苦痛や恐怖さえもはねのけることができると思っているかのようである。しかし消滅はどんな魂にも訪れる。
 燃え尽きない太陽などない。
 死人窟と呼ばれるその界隈は名前ほど薄暗くはなく、通りに連なる腐りかけた木の看板に記された店名はほとんど遊技場のものだ。ダーツ、ビリヤード、ゲームセンター、そして麻雀。
 いづるはその中の雀荘のひとつに入った。脇の階段をのぼって、真鍮の取っ手を握って、生きていたときのように入店する。
 中には老若男女ののっぺら坊がたむろしていた。
 妖怪は一人もいない。曇りガラスの向こうに何か緑色の小さな影があったが、いづるが目を向けると消えてしまった。
「いらっしゃい」と背広を着たのっぺら坊が言った。彼は卓に座っていて、ツモ山に手を伸ばしかけたところだった。
「若いね、きみ。打てるのかい」
 いづるはカカシのようにその場に突っ立っていった。背広が肩越しに店の奥を振り返って、
「学生のお客さんだ。おいシンジ、おまえら東天紅なんかやってないで相手してやれ」
「あなたが店長なんですか?」
 いづるが聞くと、背広は肩をすくめて、
「昨日死んで、いつの間にかここで仕切っていた。いや、一昨日だったかな、死んだのは……もうよく覚えていない」


 ○


 シンジと呼ばれた緑色のブレザーを着た高校生は、大柄な男子とポニーテールの女子を連れてきた。彼らも同じ制服だ。大柄な方がヤスヒコ、女子がミサキと言うらしい。みんないづると同じ白い仮面をかぶっている。
 いづるは卓上の牌を指先でひねりながら、彼らの自己紹介をさらっと聞き流した。
「うん、わかったよ、よろしく、ヤスアキくん」
 ヤスヒコだよ、とヤスヒコが言った。まだ怒ってはいないだろうが、どうなるかわからない。
 いづるは片手拝みに謝った。
「申し訳ない、ヤスフミくん」
 もう訂正はされなかった。少々剣呑な雰囲気でゲームが始まった。



「ロン、八千」
「トビだ」
 いづるはがらっと手牌を崩した。サイドテーブルの点棒箱を指でさぐって、
「マイナ56」と自己申告する。
 ミサキがボールペンをくるくる回して、さらさらっと精算表にいまの結果を書き込む。もう四連続でいづるはハコテンを食って吹っ飛んでいる。いまとなってはヤスヒコでさえもいづるに同情的だ。
「まァしょうがないよ。リーチ合戦だもんな。なァ、あんた何待ちだったんだい?」
「恥ずかしくって言えないよ……僕、まだ初めて一年だもの」
 いづるは自分の手牌と、アガリ牌が三枚転がっている自分の河をぐちゃっとかき混ぜた。
 すると、牌を混ぜるいづるの手の甲から、分裂する細胞のように、赤みがかった硬貨が何枚か分離して、浮いたヤスヒコとシンジの手元まで飛んでいき、ちゃりんと落ちた。。
 あの世ではバックレが効かない。
 いづるはため息をつく。
「やってられないな。もう24時間分のモラトリアムは負けたんじゃないか」
「ミサキ」ヤスヒコが首を傾げた。「あいつ何言ってんの? モラトリアムって?」
「あたしたちは自分の魂を賭けてるでしょ。ゼロになったらどうなる?」
「消えるね」
「だから、あたしたちは消えるまでの時間を賭けてる。彼はそれをモラトリアムを賭ける、と表現したわけ。アンダスタン?」
「ほへー」
 ヤスヒコは100点をとってきた息子を見るようにいづるを見て、
「わかりにくいな、あんた。もっと気楽に生きたら?」
「もう死んでるよ」いづるは首を振る。
「やってられない。きみたち巧すぎる。これじゃ勝負にならないよ」
「じゃ、どうするんだ」とシンジが困ったように頭をかいた。
 いづるは仮面越しにすうっと目を細めて、
「割れ東にしよう。レートは倍だ」
「え、それは、ちょっと」と三人はしり込みする。いづるは退かない。頑として言い張る。
「僕は四連ラスなんだよ? このままじゃ四回トップとったってトントンだ。それも君たち相手じゃ無理そうだし」
 いづるはまたもや深々とため息をついた。がっくりと肩を落とした新入りに、三人の死人は顔を見合わせて、不承不承うなずいた。

 トントン

 いづるの中指が、ドアをノックでもするように、卓の縁を小気味よく叩いた。何か喜ばしいことでもあったかのように。
 自分の牌山を作り終え三人がヤマを積むのを眺めていると、いづるは、自分の背後に赤いブレザーののっぺら坊が立っていることに気づいた。
「ツイてないね」と赤ブレザーが言う。砂金のような金髪だ。
 いづるは答える。溶けた鋼のような声で。
「これからさ」


 ○


 どれだけ時間が経ったか知れない。が、せいぜい半日程度だったろう。
 いづるは束になった精算表をぺらぺらっとめくって、一番上の紙の合計欄に四人の成績を記し、それを牌が死屍累累たる卓に放った。
「ミサキさんがマイナ245。ヤスヒコくんがマイナ349。シンジくんが、お、キリがいいね。マイナス400。残りが僕の浮きだな」
「むごい……」
「何が」
 ミサキは白い偽者の顔をあげた。
「あんた、カモのフリをしてたんだ。そしてレートを上げさせて、あたしたちを一網打尽にした……」
「気のせいだよ」
 ヤスヒコが言う。
「俺たちはただ楽しく遊んでいられればよかっただけなのに。ちょっと真剣になるために、ほんの少しのカネと時間を賭けていられればよかっただけなのに」
「だからどうした? さァ、負けを払うんだ」
 否やはなかった。
 自動的に三人の手から金と銀の硬貨が分離し、いづるの前に積み重なった。いづるはそれを乱暴に掴み、数えもせずにそれをポケットに突っ込む。何気なく振り返ると、背後で赤ブレザーがいづるをじっと見ていた。
「なんだい」
「ずいぶん勝ったな、まだやるのか」
「当たり前だ」
 吐き捨てて、勢いよく卓を振り返る。ところが、そこにはもはや誰もいなかった。
 三人が座っていた席に、小銭の山が残っているだけ。
 いづるは椅子を蹴倒すように立ち上がり、三つの席に残った消し炭のようなカネをさらうと、颯爽と雀荘を後にした。扉を肩で押しあけるときに、中から誰かの声が追いかけてきた。
「よく覚えとけ、てめえは同類をカモにしたんだ。命潰えたばかりのてめえの同類をだ! おまえなんぞとっとと死んじまえ、この畜生野郎!」
 何度言ったらわかってくれるのか。
 いづるはひらひらと手を振って雀荘を後にした。
「だから、もう死んでるっての」



 ○



 外に出ると、木材の隙間から凝縮された夕日がいづるの白い仮面を赤く染めた。
 まぶしい。
 それきり、意識が判然としなくなった。
 気がついたとき、いづるは道路脇の側溝のそばに横たえられていて、あの赤いブレザーの高校生が、腕を組んで塀にもたれかかっていた。
「よぉ、気がついたかよ大将」
 いづるはむくりと上半身を起こした。
「僕はどうしたんだ」
「いきなり倒れたんだよ。立ちくらみか? もう身体もないっていうのに。きっと精神的なものだな。自分の麻雀で三人がモラトリアムを終えちまったことが堪えたか?」
 まくし立てるような赤ブレザーに、いづるは首を振って、立ち上がった。
「自分でもよくわからない」
 むき出しの地面の上を、車二台分の通りを、のっぺら坊たちが力なく歩いていく。その景色を自分の仮面に映しながら、いづるは、
「何も感じないんだ。もう何も」
「感じないってこたァないだろうがよ。少なくともさっきまで打ってた麻雀は楽しそうだったぜ」
「勝ったからそう見えるだけだ。実際のところ、僕はこのポケットの中がパンパンになっていることをどうとも思っていない。べつに勝ちたいとも思っちゃいなかったんだ。惰性みたいな気分であそこにいって打ったんだ。なのに、気づいたらカモにしていた」
 赤ブレザーはとがった顎をぐりぐりとなで、ふうんと相づちを打つ。
「消えようと思っていたんだ。おとなしく、なにもせずに。なのに、動いてしまった。自分でもよくわからない、なにかが僕を突き動かしている」
「本音、ってやつじゃないの。たまにいるんだよな、あんたみたいなやつ。ここはこんなにもギャンブルに向いてる世界だものな。適性のあるやつにとっちゃ、現実世界よりも生き生きできるところさ」
「違うんだ」
「違わない。あんただって人修羅になろうとしてるんだろ? 無理だと聞いてはいても」
「人修羅?」
 いづるはその単語を知らない。
「知らないのか?」
「ああ」
「そうか。知ってるもんだと思ってた。知らないなら教えてやる」
 赤ブレザーは塀から身体を離した。
「俺たちのっぺら坊が消えるのは、七日間で自分の魂を完全に換金されるからだ。だが、それを伸ばすすべはある」
「僕はないって聞いてる。土御門光明ってやつが言ってた」
「現実的にありえないって意味なら、ないと言ってもいいだろうな。特に土御門はギャンブルが嫌いだから」
「……と、いうと」
「消える瞬間に、べつの魂から博打で奪い取ったカネを飲み込むんだ。そうすれば、飲み込んだカネの分だけのっぺら坊のままでいられる。暴走して、死人と妖怪を襲うだけの鬼になる心配もない。そのままだ。そのまま。終わらない夢」
「……知らなかった」
「知ってて、あんな風に勝ちまくったんだと思ったよ」
「ひょっとして、あんたは……」
 そう、とブレザーは自分の校章がついた胸を親指で叩いた。
「もうどれくらいになるかな……思い出せないくらい、ここにいる。だから相場も知ってる。一日いくらで『自分の存在』という幻をここに定着させておけるのか」
「試しに聞くよ、いくらなんだい?」
 赤ブレザーは快活に笑った。
「さっきのあんたの勝ち分じゃ、三十分にもならないぜ」
 あの勝ちが、三十分にもならない。その言葉はゆっくりと、だがじわじわと胸に染み入ってきた。
 今度はいづるが塀にもたれた。
「そうか」
「あんまり残念そうには見えないな。ふふん、どんな額だろうと稼いでみせるってか? 頼もしいねえ大将?」
「違う。僕は消えるつもりなんだ。ただ、いつの間にか、打ってしまうだけで」
「なんだそりゃ?」
 赤ブレザーの声音が険しくなった。
「おいこら、スカすのも大概にしろよ。俺は薄っぺらい嘘つきが大嫌いだ。吐くならちったァ粋な嘘を吐きやがれ」
「べつにスカしちゃいない。僕は死んでる。だから消えるのがふつうなんだ。ただ、すぐに消えてくれないから、それまでの時間が耐えきれなくて、いらつくんだ。じれったいんだ」
「だったらおまえの同類とやり合えよ」
「僕に同類はいない」
「いるさ。河川敷に、さっきおまえさんが雀荘でやってみせたみたいな勝ち方をして、ここら一帯を追い出されたやつがいる。首んところで髪をひとつまとめにした背の高いやつだ。いつもブラウンのブレザーを着てる。すぐにわかるよ。あいつなら、青天井でも受けるだろう」
「どうしてそんなことを僕に教える?」
「決まってるだろ」
 赤ブレザーは仮面をはずした。人好きのする笑顔がそこにはあった。
「おまえらのどっちか、勝った方を潰せば――つまりこの俺が総取りというわけだ。なあ?」


 ○


 道ゆきすがらに、いづるは河川敷の男について尋ねてあるいた。死人というのはたいてい新顔ばかりなので、要領を得ないことが多かったが、中には赤ブレザーのようにいくらかのモラトリアムを引き延ばせているのか、事情に詳しげなものもいた。
 いつまで経っても電車の通らないガード下で、キャスケット帽をかぶったのっぺら坊は言う。
「ああ、サンズのことだろ。あいつもだいぶここには長いよな」
「有名な人なの?」
「うん、三途の川のほとりで釣り堀やってるよ。だからサンズ。結構評判らしいな。釣れないのに」
「釣れない?」
「ああ。あそこで釣れる、ていうか釣れることになってるのは、魚じゃないから」
 キャスケット帽は懐からセブンスターを取り出して一本くわえた。親指で仮面を上向け、白い顎と桃色の唇がちらりと見えている。
 彼女がそのまま押し黙っているので、いづるがジッポで点火してやると美味そうに白煙をふかして再び喋り始めた。
「あそこではね、雷獣が釣れるんだって。知ってる?」
「あんまり」
「むかし、安倍晴明って偉い人がいたらしいんだけど、あ、この人あの土御門のご先祖様ね。で、その人が一千年前に雷獣をみんな追放しちゃったんだって。理由はよくわかんない。サンズなら知ってるかもね。とにかく、あの釣り堀では、その伝説をダシに、雷獣を釣れるかどうかで懸賞金みたいのを懸けてるって話……あれ?」
 キャスケット帽が唇の先で揺れる紫煙から目をあげると、すでに紺色ブレザーののっぺら坊はいなくなっていた。仕方ないので、キャスケットはしばらくそのまま、煙草の煙で輪を作っては空に向かって飛ばしていた。


 三雲晶の死因は簡潔に言うと、恋愛だった。
 といっても、べつに恋患いで本当にくたばったわけじゃない。
 幼なじみの女の子を巡って、べつの男子と争い、どうも戦況が自分に芳しくないことがわかってきたとき、三雲はその恋敵を殺してしまおうと考えた。
 罪悪感はなかった。
 夜、自宅のベッドに寝そべって蛍光灯を見上げながら、自分の心の中をいくら探ってみても、出てくるのは純粋な恋慕の情だけ。クラスの人気者を抹殺して発生する悲しみの数よりも、淡泊で機械的だとばかり思っていた自分に初めて芽生えた、人を大切にしたい、幸せにしたいという気持ちの方が重要に思えた。
 ――おれを止めるということは、おれの恋を否定するということだ。そんなことは誰にもさせない。神にもさせない。呪われてでもおれは勝つ。
 階下から届く家族の談笑する声を遠く聞きながら、三雲晶はそう思った。
 釣りにいこう、と恋敵であり友達でもあった彼を誘った。
「裏山の小川のヌシは、雨の日にしか出てこないらしい。いっちょおれたちで釣り上げてやろうぜ」
 友達は一も二もなく同意してきた。次の日曜日は雨になる予報が出ていたので都合もよかった。
 三雲晶にはたったひとつの誤算があった。
 アリバイ作り? いや。証拠隠滅? 違う。
 ヌシを釣るフリをして、友達を濁流轟く川へ突き落とす算段だったというのに。
 なんのためらいもなく実行できるように布団の中でイメージトレーニングも欠かさなかったというのに。
 いざ本当に、どうやらヌシが自分の釣り竿と釣り糸の先にかかっているらしい、ということがわかると、三雲晶はマジになってしまった。そんなことで彼の恋は吹き飛んだりはもちろんしなかったが、それをちょっと後回しにしてもいいくらいには、土砂降りの雨の中、竿から伝わってくる大物の手応えは三雲晶を狂わせた。
 晶は唾をはねとばしながら叫んだ。
「篠崎、ヌシだ、手伝っ」
 どん、と背中を押されて、両足が宙に浮いた。
 川に飲み込まれる寸前、晶は肩越しに背後を見た。
 泣きそうな顔をした篠崎が、両手を突き出して、その指が雨まじりの大気を掴んでいた。
 その手はきっと、すぐに別のものを掴むことになるのだろう。
 三雲はカフェオレ色の濁流にもみくちゃにされ、溺死するまでに、思った。
 なんだ、あいつもおれぐらいには本気だったのか。
 もっと早くに気づいときゃよかった。
 そしたら、おれは死なずに済んだし、油断もせずに、川に落ちるのはあいつだったはずだ。おれは勝っていたはずだ。おれが負けるわけがない。おまえが本気なのはわかったが、おれだって本気だったんだ。
 それだけは確かなんだ。本当に。
 意識が完全に塗りつぶされる寸前、三雲晶は、大木みたいに太く大きい魚を見た気がしたが、それがあの川のヌシだったのか、いまもって判然としない。



 ○



 三雲晶は死んでから、三途の川の川辺で紙芝居屋と凧上げ屋をやり、時々は妖怪相手の博打をやって暮らしている。もう二ヶ月になる。
 この身体の維持には莫大な魂がかかる。手で水をすくって、25Mプールを満タンにするくらい大変だ。常に自転車操業で、明日も知れぬ身の上で、いつ消滅するか、あるいは自我を失って食欲まみれの化け物になるか知れない。が、いまのところ三雲晶は自分を保っている。
 妖怪たちの間では、三雲は「サンズ」と呼ばれている。三途の川にいるからサンズなのか、三雲の三の字が横町を一周して変形したのかはわからないが、三雲もそのあだ名を気に入っている。
 本来は、魂の量によれども一週間程度しかないこのアフタータイムで、あだ名をつけてもらえる者は稀だ。
 つまりそれは、ひとつの称号とも言えるのだ。
 三雲晶もまた、誰かからの略奪で生き延びる術に長けている一人。一週間か十日置きに死人窟にいって、荒らして、何人かはその場で消去している。それだけでは足らず、妖怪連中にも混ざって打つこともある。
 いまのところは負けなしだ。
 それに加えて、この副業。あの赤ブレザーよりも腕の劣るサンズがバランスを崩さずに博打を続けていられるのには、実はこの副業で一定の収入があるからでもある。
 ゴミ捨て場からかっぱらってきた焼きそば売りの屋台の中で、商売道具の紙芝居をトントンと揃えて、さて今日の売り上げはと銭箱を覗いたとき、屋台の前に誰かが立っていることに気がついた。
「なんだい」
「きみがサンズ?」と客は言った。
「そうだが、今日の演目はもう終わったよ。といってもいつも同じのしかやらないんだがね」
「雷獣がどうのってやつだろう。少しだけ聞きかじったよ。これだろ?」
 客は屋台前に置いてある、雷と黒雲を背景にペンキで描かれたイタチを指した。
「べつに紙芝居形式じゃなくてもいいよ。僕は、ここで釣れる雷獣ってのがどんなもんなのか知りたいだけなんだ」
「どうして」
 サンズには、なんとなく、答えがわかっていた。
「なぜって、僕と君がこれから勝負するからさ。オールインでね」
 のっぺら坊の言うオールインは、そんじょそこらのオールインとは違う。一度賭ければ撤回は効かない。
 負ければ即消滅。冷たい貨幣に両替される。徐々に記憶を失わず、一気に消滅するとき、その魂は忘却の苦痛に悶えるという。
 サンズは聞いた。
「おまえ、名前は?」
「門倉いづる」

 ○


 すぐそこの川原で妖怪の幼子たちが凧上げしてきゃっきゃと騒いでいる。その声を聞きながら、いづるとサンズは向かい合って、お互いぴくりとも動かなかった。
「おまえ、本気か」
「わからない」
「わからない? てめえふざけてるのか、おい」
「いや、自分が本気なのかどうか、まったくもってわからないんだ。冗談じゃないんだが、自分でも真剣になれなくてね。まあ、カモを餌食にすると思ってひとつ頼むよ」
 サンズの経験上、こういうことを言うやつは必ず腹に一物抱えている。
「おまえ詐欺師か、それとも馬鹿か? どっちにしたって、おれはそんな勝負には乗らない」
 いづるは首を振る。
「いや、あんたは乗るよ。だってあんたはここの店主なんだろう。だったら、客が遊びたいって言ったら受けろよ。それがあんたの仕事だ」
「つまり、おまえがやる勝負っていうのは、」
「雷獣ってやつを僕に釣られたら、あんたの負けということだ」
 サンズは自分の白い仮面をぬるりと大きな手のひらで拭った。
 どうやらこの人を喰った新入りは、どこかでサンズのことを聞いてやってきた、人修羅希望者……らしい。しかし、どうも肝心な話を聞き損ねているようだ。
 いまだかつて、この店で雷獣を釣り上げた者はいない。
 門倉いづるはこの店のことを誤解している。サンズは妖怪や死人たちに雷獣についての紙芝居を上演する。そして、そのおまけとして、釣れるはずのない雷獣を釣るという名目で釣りの場を提供しているにすぎない。つまりこれはハリボテ、ただのアトラクションなのだ。釣りをやって客たちが持ち帰るのは、長靴とかヤカンとかのガラクタ程度だ。そういうものは持ち帰ってもいいことにしている。門倉いづるが雷獣を釣り上げることはありえない。
 と、まァ、理屈で言えばこんなところだったろうが、サンズの心の奥底に反響しているのはいづるのたった一言だった。
 あんた店主だろ。
 そうだ、とサンズは思う。
 おれはここのボスだ。たったひとりでも、この店はおれの店だ。
 売られた喧嘩はどんな値だろうと買い叩く。
 サンズは頷いた。
「いいぜ、やろう。釣り道具を貸してやる」
「いいんだな、オールインで」
「こっちのセリフだ。後悔しても知らんぜ。まァ、一度この世界で口に出した勝負の決めは覆らないからな」
「とりっぱぐれがなくていいね」
「抜かせよ、新入り」
「ははは。で、竿はどこだい」
 両手を広げて突っ立ったいづるを見て、サンズはけらけらと笑った。
「竿なんて使わないよ」
「じゃ、どうやって釣るんだよ」
 あれさ、とサンズは凧上げで遊んでいる子供たちを指で示した。いづるの顔が夕焼け空に舞い上がった凧を追った。
「雷獣ってのは、雨雲の中にいるんだ。釣り竿なんかじゃとても届かねえのさ」
 紺色制服ののっぺら坊はサンズの方を見て、夕焼け空を気ままに飛んでいる凧に顔を向け、またサンズの方に首を傾けた。
「マジかよ」


 ○


「元々、雷獣というのは――」とサンズは、凧を広げて、その布地に描かれた模様を観察しているいづるに向かって言った。
「一千年前に安倍晴明って陰陽師に嫌われて、空に追放されたと言われてる。なんでも、陰陽道における五行、おれは専門じゃないから詳しくないんだが、火だの土だの金だの水だの……あとなんだっけ」
「木かな」といづるが、最高のできばえになった洗濯物のように凧を掲げて、言った。
「ああ、たぶんそれだ。その五行に、自分も加わりたいと雷獣が安倍晴明に頼んだそうだ。ところが、安倍晴明はせっかく学んだ五行の理が増えることを好まなかったし、そんなことできねーよってわけで、式神を使って雷獣を脅かして、二度と地面に降りてこないようにしちまったんだと」
「可哀想に」
「そうか? 物事には身分相応ってものがある。身の丈以上のものを求めたらば、不幸になるのは自然の流れさ。それこそ理(ことわり)ってやつだ。違うか?」
 いづるは凧を持った両手を下げた。
「人修羅になってまで生きながらえようとしてるあんたは、身分不相応じゃないのか?」
「おれは相応なのさ」
「よく言うよ」
 いづるは自分の凧を川原に広げて、皺ができないように伸ばした。凧は六角形で、一つの角の頂点に釣り針が仕掛けられており、白い布地には看板と同じ雨雲と雷を背景に茶色いイタチが描かれている。
 いづるはポケットから洗剤を取り出した。サンズがいぶかしげに首をひねる。
「そんなもんどうするんだ」
 いづるは黙って、凧に洗剤の粉を振りまく。振りまきながら言った。
「言い忘れてたんだが、三番勝負にしてくれないか」
「ちょ、言い忘れすぎだぞ、ふざけんな、誰がそんな……」
「ほとんど雷獣が釣れた試しがないってこと、僕が知らないとでも思ってるのか? それこそふざけろ。いいか、これは正当な権利ってやつだぜ。僕はオールインしたんだ。賭けたのはすべてだ。あんたは勝てば僕の魂といくらかのはした魂が手に入る。文句は言うな。わかったな」
「なんてわがままな……いいだろう、だが、二番勝負だ。三回は時間の無駄だし悠長だ。どうせ何度やっても同じなんだからな」
「かもね」
 糸を少しずつ糸巻きからほどいて、長さを十分にしてから、いづるは三途の川辺を全力疾走し始めた。風が凧をさらって、あっという間に上空まで送った。
 洗剤の粉を浴びたいいにおいのする凧は、赤く焼けた雲の中に吸い込まれていった。
 いづるは立ち止まって、くいくいと糸を引っ張ったり放したりする。
 時々、雲の中から、チラっと遠雷が瞬いた。


 ○


 引き下ろした凧には、なにもかかっていなかった。ただいいにおいがするばかりである。
 いづるは試しによく嗅いでみたり、どこかにひっかき傷がないかあらためてみたが、そんな希望のとっかかりになってくれそうなものは微塵もなかった。凧は舞い上がったときと同じ凧のままだった。
 サンズは屋台の中で、頬杖をつきながら明るい調子で言った。
「たまにヤカンとか長靴とかガラクタはひっかかるんだがな、それもなしか。センスないな」
「ガラクタって……雲の中に?」
「ああ、雲の中に」
「じゃ、きっと雷獣もいるさ」
「いねえよ」
 サンズはひらひらと手を振って、
「馬鹿な野郎だ、ありもしない幻に自分のすべてを賭けちまったんだから」
「うん。それが?」
「それが、もなにもない。おまえはギャンブラーの風上にもおけねえやつだってことさ」
 サンズはぐっと屋台から身を乗り出して、置いてけぼりにされたようにポツンと川原に立ついづるに言った。
「本物ならおまえみたくはしない」
「じゃあ、本物のギャンブラーならどうするっていうんだ?」
「よし、教えてやる。本物の博打打ちってのはな、ちゃァんと策を練って、できるだけ冒険をなくし、確率とツキを自分っていう天秤にかけて、精査し、そして熱く大きく勝負するのさ。おたくみたいなただ賭けるってだけでウキウキしちゃうやつなんぞハナからお呼びじゃねえんだ」
「そうか。そうかもしれないな」
 いづるは凧の布地をぎゅっと握りしめた。しわの寄ったイタチが醜悪な形相になる。
「参ったな。一発で決められると思ってたもんだから、もう策がないんだ。どうやら、僕の最後の対戦相手は君だったらしい」
「はっはは、光栄だね。だったらとっとと消えてくれるとありがたいな。おれは忙しいんだ。マガイモノのおまえとは違って、おれは本物なんでね」
「ああ。――君でよかったよ」
「何?」
「最期の相手がクズじゃつまらないな、とは思っていたんだ」
「おれからすればおまえはクズさ」
 それきり、サンズはいづるへの興味関心を失った。まだいづるが屋台の前に立っているのも気にせずに、ごそごそと屋台の中を漁って雑誌を取り出し、読み始める。屋台の前で硬貨が散らばる音がしたら、雑誌を閉じて、立ち上がって、箒とちりとりを持って表へ出ればいい。そこには門倉いづるの残骸が落ちているだろう。それを拾い集めてポケットに入れる。それだけのこと。ぼろい勝負。
 だが、雑誌を読み終わっても、勝利の音色は聞こえてこない。サンズは、門倉いづるが二回目の勝負を終えることで決着が訪れるのを恐れてその場に立ちすくんでいるのだと思った。
 雑誌から顔をあげて、サンズはため息をつく。
「見苦しいぞ。クズはクズでも気持ちのいいクズとして消えちまってくんねえかな。鬱陶しいんだよ、そこに立っていられると……」
 のっぺら坊が仮面の奥でどんな表情をしているのかはわからない。だが、そのとき、サンズがどんな顔をしているのか見える気がした。
 手放された凧が地面にふわりと舞い落ちる。いづるの指先がびきびきと、苦しげに悶えている。まるで、本人の顔が封じられている分、自分たちが主の心を代弁するのだというかのように。
「参ったな」
 拳を握る。
「まだもう少し、やれそうなこと、思いついちゃったよ」
 そう言うと、いづるは土手際のフランクフルトスタンドにいって、紙コップになみなみと注がれたオレンジジュースを持って帰ってきた。そして、サンズの目の前で、その中身を捨てた。
 サンズは何も言わなかった。ただ、少しだけ、体温があがった気がした。
 そんなもの、もうありはしないというのに。


 ○


 いづるによって無惨に中身を捨てられた二つのコップは、それぞれ凧の先端と、手糸の先にくっつけられて、ゴミから活用品に蘇生した。
 いづるは紙コップが取れないかどうかしつこいぐらいに検証し、気に喰わなかったときはセロハンテープの量を増やした。セロハンテープもフランクフルト屋の犬男から借り受けたのだが、彼は目の前でジュースを捨てられて少々気分を害していた。それでもいづるの申し出を渋々了承してくれたのは、いづるにとって僥倖だった。
 サンズは子供に性について聞かれた大人みたいにボリボリ頭をかいて、
「門倉、おれはおまえがなにをしようとしているのかさっぱりわからん」
「そう? わかってるもんだと思ってたよ、あんたなら。なんてったって本物なんだろ?」
「べつにわからなくたっていいのさ。同じだからな。おまえは負ける。何も釣り上げられやしない」
「かもね」といづるはまた言った。凧糸を手頃な長さに調節し、走れるだけのスペースにアタリをつけた。
「でも、どうせ釣るなら、もしも釣れるなら、ヌシを釣ってみせるよ。一番でかくて立派なやつを」
 そのセリフは、サンズの心の底の底にあった火を揺らめかせた。だが、消えるまでにはいたらなかった。サンズは屋台から転げ落ちかねないほどぐっと身を乗り出した。
「やってみやがれ、できるもんなら。それだけが、ギャンブラーの証明なんだ」
「うちの部長も、そう言ってた」
 言い捨てると、橙色に染まった川原の上流へ、誰もいない砂利道へ、いづるは駆けだした。糸を繰って、より高くへ舞い上がるよう、風に凧をうまく乗せてやる。
 少しずつ、少しずつ、大気の段差の上へ上へ。
 そして、分厚い雲の中へと。
 凧が完全に雲に埋没したのを確かめてから、いづるは糸巻きから手糸をほどき、たわんだ部分まで完全にピンと張るまで、また糸を操って凧の高度をあげた。そして、いづると凧を結ぶ細い糸は完全に伸びきった。
 いづるの手の中には、紙コップが残るばかりだ。
 いづるは仮面を外す。途端に、ドス黒い気分に再び襲われる。おそらく、このまま放っておけば妖怪も死人も見境なく襲いかかるという鬼になるのだろう。そして、牛頭天王に捕まり、あの鬼女たちのように喰われてしまうのだろう。
 その前に、もしも、間に合うのなら。
 いづるは仮面を片手に、もう片方の手でコップを口元につけた。背中に、強烈なまでに、サンズの視線を感じる。
 息を吸う。
 そして、ドス黒い衝動の向こうにある、消したくても消せない気持ちを、彼なりに吐き出した。
 ちゃちで不出来な糸電話に乗せて。


 ○



 一分か、二分か、三分か。
 どれほどそうしていたろうか。
 コップを口から離すと、すぐに仮面を被った。ドス黒い気分はいまやかなりひどくなっており、わずかな間に全身汗だくになっている。シャツが肌にぴったり張りついてきて、とても嫌な感じだ。それでも、仮面を被っているうちに少しは楽になった。
 背後から、サンズが早く下ろせさっさとしろと急かしてくる。いづるは言われた通りにした。二人ののっぺら坊が、裁きを待つ囚人のように赤い雲を恭しく見上げる。
 するすると糸が引き下ろされていく。やがて凧の下部が見えてきた。
 どちらともなく、息を呑む。
 黒雲と稲妻を背景に、白い布地に、黄色い猫がしっかとしがみついていた。
「嘘だろ」
「そうだよ」
 いづるは凧を完全に引き下ろして、飛びかかってきた黄色い猫を両手で受け止めた。毛先からばちばちと電気を放っている猫は、いづるの手の中で、地面に落ちているガラスの破片やらこぼれたジュースやらを、物珍しそうに見回している。毛並みのいい背中をいづるの手がなでる。
「そう、ほんとに――ヌシを釣ってみせるってのは、紛れもなく、僕の嘘だったよ、サンズ」
 その雷獣は、まだほんの子猫だった。
 屋台から、ふらふらと出てきたサンズが、雷獣に手を伸ばす。
「殺すなよ」
 いづるの注意も聞こえていたのかどうか、サンズは、分娩室で初めて自分の子供に触れる父親のように、子猫ののどをそっと人差し指でなでた。
「なーお」
 子猫は気持ちよさそうに鳴く。サンズは震える声で問う。
「どうやって……こいつを……」
「言ってただろ、雷獣は陰陽師にいじめられて一千年も空にいたんだって。だから、きっと寂しいと思ったんだ。どこで聞いたか忘れたけど、雷獣は猫だって聞いてたもんでね。猫語をしゃべる自信はなかったけど、なに、昔これでも猫を飼ってたもんでね。鳴き真似は得意なんだ」
「は……はは……」
 サンズは後ずさった。その瞬間、右腕から付け根からカネに変わって、じゃらじゃらと砂利の上に散らばった。だが、そんなことはもうサンズにはどうでもいいことらしかった。
「幻だと……思ってた。あんな伝説……ずっと……」
 左足の膝から下が硬貨になり、立っていられなくなったサンズはその場に跪いた。もうどことはいわず、サンズの表面を滝のようなカネが流れ落ちていく。
「大したやつだぜ……門倉いづる。おまえ、幻を釣り上げやがった」
「そんなに幻まぼろし言うなよ、幻じゃなかったんだから」
 サンズは仮面を外した。いづるは初めてサンズの顔を見た。知らない顔だった。だが、いい目をしていた。
 その目の輝きをそのままに、サンズは前のめりに倒れ込んだ。
 後には漂白された金と銀のカネだけが残った。
 魂の残骸だけが。
 いづるは雷獣を地面に下ろす。子猫は金色の瞳でのっぺら坊を見上げる。
「さ、おまえは自由だ。どこにでもいけよ。久しぶりの地上なんだろ?」
 子猫は、右を見て、左を見た。そして、いづるのズボンの裾に顔をこすりつけてきた。いづるは首を折れそうなくらいに曲げる。
「後悔するなよ、僕は不幸の種子をばらまくぞ」
「なーお」
「……わかってるのかな、本当に?」
 子猫はいづるにまとわりつくのをやめ、三雲晶だったものによじ登っては、こぼれ落ちる硬貨によって、ずるずると滑り落ちてしまう。子猫はそれが楽しいらしく何度も繰り返す。何度も何度も。
 少なくとも、サンズは最期の最期に子猫の遊び道具になることができた。
 いづるには、それがほんの少しだけ、妬ましい。




(つづく)
29, 28

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