懐かしき磯のにおい
タカオが故郷に帰るのは三年ぶりだった。都内の大学へ進学するのを機に、故郷である鹿野崎から東京へと飛び出したのだ。
長いようで、短かった三年。タカオは強い望郷の念を、一秒たりとも忘れることはなかった。
タカオの故郷である鹿野崎は、南房総のちいさな漁村だ。住民のほぼ半分が漁業に従事する漁師の町である。
タカオの父親も、立派な船をつかい活きのいい魚を市場に届ける立派な漁師であった。いまはもう、舵を握ることも網を引き揚げることもしない。だけれど、いまでも漁連のなかでは尊敬される英雄的な人だった。
だからこそなのか、タカオの父はタカオが「海の男になる」といった時、猛反対したのだ。いまなら分かる。なぜ、父は漁師になることを反対したのか。その理由は長年の経験から海の厳しさを知っているから、ということだろう。
タカオの父はむかし、荒れ狂う海に落ち死にかけたことがある。幸い、仲間の漁船がとおりかかり必死になって助けてくれた。
その時、タカオの父は母なる海の厳しさと、友情の強さを学んだ。
この話を聞くたび、タカオは「ああ、俺も親父のような漁師になりたい」と強い希望をもった。
(それなのに……親父は、俺のことを認めてくれなかった)
海の厳しさはわかっている。
だからこそ、タカオはその海にいどみたいと願った。
しかし、現実は父に反対され院にはいり、卒業して広告代理店に就職というものだった。
タカオは余りすぎてこまっている有給をつかって、久しぶりに故郷に帰ってきたのだ。父に認めてもらうために。
懐かしき磯のにおい
電車はゆっくりと減速し、ちいさな駅にとまった。
心地よく揺れる電車の中でまどろんでいたタカオは、いそいでリュックサックをかつぎ、電車から降りた。乗る人は見当たらない。
待合室はこのまえ来たときより、ずっとくたびれたように見えた。わずか三年しかたっていないが、時間は予想以上にこの駅に侵食していた。
駅前にはタクシーが一台とまっていた。客待ち、というよりは暇つぶしといったほうが正しそうだ。
駅から海のほうを見る。ふと、潮風がタカオの髪と戯れた。
タカオは公衆電話をさがした。三年前にあった商店はつぶれたようで、電話を貸してもらえなくなってしまった。
しばらく駅のまわりを探したのち、タカオは木製のぼろいベンチにすわった。すこし軋む音がした。
ため息をひとつついて、タカオはライターと煙草をポケットからだした。
イライラした時には、やはり一服するのが一番だ。
携帯電話の充電を忘れてしまうなんて、馬鹿なことをしたもんだとタカオは自分を嘲笑した。
とりあえず、連絡はいいかとおもい、タカオは家まであるきだした。なんだか遠足をしている気分に、タカオはなっていた。
季節外れの風鈴がなっている。
鹿野崎はあまりフラットではない地形である。半島の中央――養老渓谷がある山地のふもとにあたるからだ。
そのため、ここにすむ老人はみな足腰が丈夫だった。タカオの祖父も祖母も、寝たきりになるまでちかくの友人宅に集まり、井戸端会議をしていた。
東京で毎日のように駆け込み乗車をしているタカオは、自分の脚力に自信をもっていたのだが、それはあっけなくくだかれた。
「こんなに、きつい坂ばっかりだったかな」
フルマラソンを走りきった選手のように息をとぎれとぎれするタカオの横を、小学生が自転車で通りすがる。坂を減速もせずに下っていったので、スピードは随分でていた。
――俺も子どものころは、あれくらいスピード出してたのか
タカオはそんな疑問とともに、小学生の記憶をほりおこした。
小学生の時、タカオには幼馴染といえるものがいた。いまでもすぐに名前がいえる。
地川アイ
名前の漢字は忘れてしまった。愛だったか、藍だったか。一文字だったということはおぼえていた。
アイは小学校を卒業するとともに、東京へひっこしてしまった。理由は忘れたというか、聞いていなかった。
タカオの思い出の容量を100MBとすれば、きっと15MBはアイとの思い出だろう。
一緒にいった小学校の縁日、かよった通学路、およいだ海、からかわれた放課後。
なぜだかわからないが、アイとの出来事はすべてが美しい思い出として記憶されていた。
タカオはまた前を向いて歩きだす。陽射しはちょうど今がいちばんつよい時間だ。
スピーカーから「われは海の子」がながれてきた。ちょうど正午だ。
そのとき、タカオの腹の虫がおおきく呻った。
「……なるほど」
タカオは市場のほうへ方向をかえた。家に行くまえに、まずは腹ごしらえだ。
鹿野崎の市場は、あまり大きくない。子どものころは、何度いっても飽きなかったのだが。
いまいま思えば、あの頃の市場はタカオにとってゲームの中のダンジョンに迷いこんだかと思うくらい複雑に感じられた。
しかし、こうやって坂の上から見下ろしてみると、テントがぽつぽつとたっているキャンプ場だといわれてもわからない。それほどちいさく見えた。
タカオは汗をぬぐいながら、市場へつながる道をあるいていく。
「栄枯衰退ってやつか……」
栄えていたのかは、タカオの知ったことではない。
市場のスピーカーは、一時まであと三十分だとタカオに告げた。正午から三時のみ、なぜか役場は三十分おきに時報をならすのだった。
「えーと、たしか端のほうに食堂があったはずだな」
タカオは「市場地図」なる看板をみて確認する。その地図には、たしかに「松川食堂」という食堂が地図のはしっこにあった。
ここでタカオは、よく一番やすい「釜揚げしらすごはん」を食べていた。その魂胆は、すこしでも昼食代を浮かせて漫画かなにか買う、という子供じみたものだった。
「おお、まだあった。あの爺さん、元気にしてるかな」
タカオは、高校を卒業するまで通った食堂の名前をさすった。