◆ オールド・トウキョウ
かつて、東京という名の大都市が存在したらしい。
つまり、今俺が暮らしている巨大な廃墟の、10年程前までの姿だ。
見渡す限りどこまでも続くコンクリートの瓦礫の山、その陰に隠れるようにして生きている人間たち。夢とか、理想とか、明日への希望とか、そういうものとは一切無縁に、ただ生きるためだけに生きている人間たち。きっとネズミやゴキブリだってもっと誇り高く生きている。
しかしそれも仕方がないのかもしれない。
人類は支配されている。
ただヤツラの嗜虐心を満足させるための道具として。玩具として。
「おい兄弟、今日の獲物はどれにするよ」
道の真ん中の方から、いや、瓦礫が比較的にしても少ないだけの細長いスペースを道と呼ぶべきかどうかは分からないが、とにかく道の方からそんな声が聞こえてきた。
人間の声ではありえない。
なぜなら人間という生き物は、もっと暗く、ぼそぼそと、すぐ隣にいても聞き取るのが難しいような小声でしゃべるはずだから。
「どいつもこいつも景気の悪い面してやがるなあ」
それはイカのような体をした2人組みの異星人だった。青白い皮膚、黄色い目、やけに横に長い口、三角形に尖った頭、10本よりは少し多い触手と、それに合わせて無数の袖がついた、テカテカと光る悪趣味な服。身長はどちらも2メートル以上あって人間より高いが、胴回りは逆にひとまわり細い。
たぶんラーボック星人だ。
少し離れた平らな地面に、いつのまにか白い円盤が着陸している。
「若い女にしよう。胸がでかくて、いい声で泣いてくれそうなやつ」
「いや、俺は男がいい。女はすぐ壊れちまうからつまらん」
「男だってすぐ壊れちまうだろ? 地球人なんて皆そんなもんさ」
「違いない」
異性人どもは「コココッ」と気味の悪い笑い声を上げながら歩いてくる。
このあたりに2~30人ほど隠れ住んでいる人間たちはゆっくりと遠くへ移動を始めた。
声を出してはいけない。早くこの場から逃げなければいけない。しかし急に動いてヤツラに目をつけられるわけにもいかない。
きっと誰もが、自分以外の誰かがヤツラの標的になってくれることを祈りながら、ゆっくりとヤツラから離れていく。
瓦礫が積み重なって洞穴のようになった暗闇の中で、俺はそれをぼんやりと眺めていた。
不思議と逃げる気にはならない。見つかったら、そのときはそのときだ。ただ玩具にされて殺されるだけ。何の目的もなくただ生きているだけの空疎な毎日が終わってくれるなら、それはそれで構わない気もする。
「……ひっく、ひっく」
何か聞こえてはいけない音が聞こえた。つまり、人の声だ。
ヤツラから3,4メートルほど離れた道端で小さな女の子が泣いていた。
俺がそれを見つけるのとほぼ同時に、ヤツラも女の子の存在に気づく。
「おい」
2人のイカのうち、やや背が低くて青っぽい体をした方が目配せをした。
「ああ」
色素が薄く、背が高い方はうなずき、女の子に近寄っていく。
「どうしたんだい、お嬢ちゃん? パパやママとはぐれたのかい?」
異星人は女の子に向かって触手の1本を伸ばした。先端は臭そうな粘液でヌメヌメと光っている。
「……パパも、ママも、いない」
「へえ? いつ帰ってくるんだい?」
「…………ぐすっ、ひっく」
「うん、なるほどー。死んじゃったんだ? でもどうして君のパパとママは死んじゃったんだい? ねえ、どうして? ねえ?」
薄汚い触手が女の子の頭をなでまわした。イカ野郎はニヤニヤと薄笑いを浮かべている。
きっとヤツは分かっていて聞いているのだ。理由なんて決まっている。殺された。何星人にかは分からないが、どこかの暇をもてあましたエイリアンの気まぐれで死んだ。女の子が話さなくても、話せなくても、ごく簡単に分かるはずだ。
だってそれはあまりにありふれた、地球上のあちこちで毎日大量に起こっている話だから。
「そうだ、いい事を思いついた。お嬢ちゃんもパパやママと同じところに送ってあげるよ」
「ああ、そりゃあいい。優しいよなあ、俺たちって」
もう1人の背の高い方も女の子の隣まで移動し、気色の悪い笑顔を浮かべる。
「もちろん、十分楽しませてもらった後でね」
「当然だろ。両親に合わせてあげるんだから、代わりに遊ばせてもらうくらい当然だからな」
「コココッ……」
「ココッ……コココココッ……」
「ひぐっ、ひっく……うわぁーーーん」
「こらこら、泣いちゃダメだろ?」
「そうそう、しばらく我慢しないともったいないよ? すぐに涙が枯れるまで泣かせてあげるからさ」
異性人どもは有り余った触手のうちの何本かをさらに女の子に向けて伸ばし始めた。
「やめろ! 愛実から手を放せ!」
「お兄ちゃん!?」
叫び声をあげて、小さな男の子がヤツラの前に立ちはだかった。
まだ幼い、小学校の高学年くらいの男の子だ。
いや、小学校というシステムは今でもまだ存続しているのだろうか?
詳しくは知らない。俺にとってはどうでも良い話だ。
とにかく、僕より5,6歳くらい年下に見える少年はヤツラの前に立ちはだかった。
あらん限りの勇気を振り絞ってヤツラの前に立ちはだかった。
顔は紅潮し、瞳は決意に満ちて、だけどピンと伸ばした指先はわずかに恐怖で震えている。
無意味だ。
まったくもって無意味だ。
むしろマイナスの効果しか生まないだろう。
ヤツラは殺す。
きっと殺す。
女の子の方だけを殺すだろう。
それもできる限り残忍で、むごたらしく、男の子がこの先何年も悪夢にさいなまれずにはいられないような方法で。
そう、俺が俺の妹を守ろうとしたときのように。
「ぎゃははっははっはははー!」
「きふひゃひゃひゃひゃひー!」
ヤツラが耳に障る不快な笑い声を上げた。
「笑うな! 愛実から離れろ!」
「どうするよ、兄弟? お兄ちゃんはお怒りだぜ?」
「おーこわい、こわい。こわすぎてぶるぶるふるえちまうよー」
触手が小刻みに振動しながら女の子の頭をなでまわす。
「……やめろ」
その言葉は僕の口から生れ落ちた。小さすぎて自分の耳にも届かない。
「やめろ」
次の言葉は少しだけ大きく、それでもヤツラまでは届かない。
「やめろーーーーーーっ!」
ヤツラが驚いたように俺の方を見た。男の子も女の子も驚いている。
しかし、一番驚いたのは俺自身だ。
2匹のエイリアンがニタニヤと薄ら笑いを浮かべながらこちらに向かって歩いてくる。
楽しいか? 新しい玩具を見つけたのがそんなに楽しいか? 貴様らはいつもそうだ。俺の妹を散々いたぶって弄って辱めて殺した昆虫型宇宙人もたしかそんな顔をしていた。
全てがどうでもいい気分だった。
俺は暗い穴倉を抜け出して太陽の下に出る。
まぶしさで一瞬だけ視界がくらんだ。
いや、ずっと前から俺の目は意味のあるものなど何も映していなかったかもしれない。
俺にとってたった一つだけ意味のあったものはもういない。
自暴自棄。自己嫌悪、暗中模索、五里霧中。
ヤツラの触手がうねりながら俺のほうに伸びてくる。
ああ、これから俺の体は串刺しに貫かれ、やっとこの意味のない人生が終わるのだ。
……。
………………。
……………………おや?
遅い。
いくらなんでも遅すぎる。
何をしている。早く俺を殺してくれ。生きている限り続くこの虚無と罪悪から救ってくれ。
触手の動きはナメクジのようにゆっくりだ。
いや、触手だけではない。いったいどうなっているのか、世界の全てがスローモーションで動いていた。
俺はつい無意識に体を横にし、エイリアンの攻撃を回避する。
触手はそのまま直進して俺の背後にあったコンクリートの壁に当たり、突き刺さり、粉砕した。地球人にはありえない怪力と肉体の強度。当たらなければ何の意味もない。
無数の破片が飛び散り、やけにゆっくりと落ちていく。
世界が遅いのではなく、俺の動体視力が速すぎるのだということを、そろそろ俺は理解していた。
青白い触手が俺の体のすぐ横で無防備に伸びきっている。
俺は頭の上で両手を組み、振り下ろした。
それは俺の目から見ても十分に早い動きで、たぶん、遠巻きに眺めている普通の人間たちには認識できない速度だっただろう。
イカ臭い青い血が当たりに飛び散った。
真ん中で千切れた触手が地面に転がってビクビクと跳ね回る。
「なにすんじゃテメエ!」
コンクリートよりも、それどころか鋼鉄よりも強いはずの触手が、23本、まっすぐに俺に伸びてくる。
俺はそれを一つ一つ正面から殴りつけた。
俺の拳は丸太に釘を打ち込むかのようにのめりこみ、そのまま腕を振りぬくと、触手は裂けて吹き飛ぶ。
23本すべてを破壊するのに1秒はかからなかったと思う。
「うぎいいいぃぃぃ」
「痛ってええぇぇぇぇ」
触手を失ったエイリアンどもが痛みに地面を転げまわった。
俺はそれを蹴りつけ、殴り、殴り、殴る。
青い血が何度も飛び散った。
「ひぃ……! ひぃぃぃ……」
「助け……誰か助けてくれぇぇぇぇ」
ヤツラがこっけいな悲鳴を上げた。
いい気味だ。
死ねばいい。
人間を人類を俺たちを俺の妹を玩具としか思っていないこいつらはみんなみんな死ねばいい。
「死ね死ね死ね死ね死ね死ねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしね!」
俺は何度も何度も何度も何度もヤツラの体を殴り続けた。
体ではなく既に死体かもしれない。
俺にとってはどうでも良い話だ。
守るべきものを全部失って、今さらこんな力を手にしてしまった俺には。
「死ね死ね死ネしネしネシネしネシねシネシネシね死ね!」
死ねばいい。
死ねばいい。
妹を守れなかった俺なんて死んでしまえばいい。
だけどその前に、その前にこの汚らわしい異星人どもは全員殺してしまわなければ!
「死ねよ! 死ねよっ! 死んじまえよっ! お前らみんな死んでしまえ! 死ね死ねしねしねしねしねっ!」
「ひっく、ひっく、ぐすっ……うわーん」
女の子の泣き声が俺の意識を現実の世界に引き戻した。
ヤツラの肉体は既にイカの塩辛と見分けがつかない物体に成り果てている。
「なんてことをしてくれたんだ!」
「儂らまで報復されたらどうしてくれる!」
「俺は……俺は関係ないからな!」
遠巻きにこちらを眺めていた浮浪者の群れが、そんな言葉を吐き捨てて全速力で去っていく。
男の子も女の子の手を掴んで立ち去ろうとしていた。
そうだ、それでいい。俺なんかに関わっちゃいけない。守ってやれ、大切なものを全力で。どれだけ卑屈で卑怯で臆病な手段を使ってもその女の子を守ってやれ。まだ手遅れではないのだから。
しかし、女の子は引かれた手を振りほどいて俺のそばまでやってきた。
「あのね……おじさん?」
女の子が俺の顔を覗き込む。
なんだって? おじさん?
俺はまだ17歳だ。
……いや、16歳だったか?
年齢なんてはっきり分からないけど、でも、おじさんなんて呼ばれる歳ではないはずだ。
しかし伸びきった髭や、薄汚れた肌や、目の下に深く刻まれたクマは、俺の年齢を本来よりもずっと上に見せているのかもしれない。
とにかく、女の子は俺に向かって言った。
「……ありがとう」