わたしのカレは仮面ライダー
「しかし旦那ァ、こんなところにホントに『そいつ』はいるんで?」
「黙って歩け、うすのろォ」
へいへい、と土蜘蛛はクラッシャーに似た口をつぐんでガッシガッシと断崖を登っていく。
エニシはといえば、土蜘蛛の背中に打たれた杭に足を乗せて、ぼんやりと眼下に広がる森のじゅうたんと、その向こうに見える銀色の山々を何気なく眺めている。
夏はすぐそこまで迫ってきているが、苛烈さを増しつつある太陽光は頂の氷を溶かすにはいたっていない。
「ま、山に登るならこのあたりの低いのがちょうどいいな。涼しいし、雪は残ってねえし。もういっそここに住むか、ああ?」
「そんなこと言ってェ、すぐに厠がないだの飯屋がないだの文句言うのあっしにはわかってるんですからね。旦那は天邪鬼なんだから」
「ふん……」
○
事の発端は昨日の夜である。
都の貴族たちが夜な夜な廃屋に集まっては、肝試しやバクチに興じていることは周知の事実であったが、そこに『一騎当千』のエニシがたまにやってくることを知っているのはごく一部のものだけである。
というのもエニシはだいたい給金をもらってやってきてもすぐに負けてしまうので、あっという間に足が遠のくのである。
この男、威勢がよく元気にたくさん賭けるのだが、賭ける金が常に多いので勝っても負けてもあたりに不幸をばら撒きまくっている。
そんなエニシが貴族の集いに参加できるのも、彼が下町の噂話にも通じている客員陰陽師だからであり、朝廷のなかでも身分や家柄を気にしないタチのものたちには比較的愛されている。
ところが負け続けで名を売ったあのエニシが、昨日は勝ちに勝った。
この頃のバクチといえば双六だが、昨夜のすごろくはエニシが下町の仲間から伝承してきた特殊なシロモノであり、どんな多人数でもできる。
現代と違って1ゲームが短いと時間が潰れず退屈を持て余すので、ゲームは比較的長いものが多かったが、この特殊双六は一回遊ぶのに三時間かかった。
昨夜は四ゲームほど遊び、そのすべてにエニシは勝った。三回負ければ血の気が引き、三回勝てば顔が火照ってくるのがバクチであり、エニシがどれほど有頂天になったかは語るに及ばない。
最終的に酔っ払って盤をひっくり返し、脇差を抜いて勝ち金を請求した。
もちろん貴族なのだから木っ端バクチの払いぐらいドンと来いである。
家の蔵をあけてみれば金銀財宝に絵巻宝箱の連中である。
せいぜい払ったところで、三日ほど豪遊した程度のカネである。
だが、金持ちほど金払いがよろしくない。
そもそも彼らは目的が違う。
金持ちは『遊びたい』のであって『勝負がしたい』のではない。
なので負けてもなにかと理由をつけて金の支払いから逃げる。
彼らにとってバクチは「ばかばかしいもの」でしかないのである。
そういうある意味で冷淡さがあるから、彼らのご先祖さまは貴族になれたのかもしれない。
エニシに壁際まで追い詰められた男は、斜めになったえぼしを片手で押さえながら、こういった。
「いやいやおぬし、ばけもの退治のみならず、賭け事はかりごとまで達者とは流石なり。まこと天晴れ、天下泰平もおぬしの業よのう。その腕に金で敬意を表してもよい。よいが、それではつまらぬだろう? 実は私はつい今朝方、少々面白い情報を手に入れた。聞きたいか? では触りだけ教えてやろう。
T山に出るという雪女の話だ――聞きたいか?
聞かせてやろう。それがおぬしへの金の代わりだ」
アルコールがいい感じに血液に溶けて脳みそもいい感じにトロトロだったエニシは鼻の下を伸ばしてその話を耳に入れた。
あれだけ勝って、屋敷の敷居をまたいだときには、懐の中身ははぺったんこであった。
○
がしっがしっと崖を登っていくしもべの背中で、エニシは苦々しい思いを噛み締めていた。
エニシにだってわかっている。
あのぼんくら貴族の言ったように、雪女がこの山にいる可能性は低い。きっとただのホラ話だ。
しかし、エニシはその話を負けの払いとして受け取ったのだ。
それは男と男の取り交わしであり、それがいまとなっては鮮度100%どころか店先に並ぶ模造品でしかないことに気づいたとしても、この真昼間からくだんの貴族の屋敷に乗り込んでいって一家まとめて血祭りにあげてやるのは間違いなく絶対に楽しいが、それは絶対に男のやることじゃない。
エニシは屑だが、屑は屑でもいろんな屑がいるもので、エニシはそのなかでも自分のカラーに合った屑でありたかった。
赤にも濃淡があるように、どうせなら、血のような真紅でいたかった。
だからわざわざコトの真偽を確かめるために土蜘蛛まで借り出して確かめにやってきたのである。
たぶん土蜘蛛は背中で黄昏ているフリをしている主をバカだと思っている。
うすのろはおめーの血のめぐりだろぐらいは考えているだろう。
ひょっとすると背中に主がいることも忘れて崖のぼりを満喫しているかもしれない。
エニシは胸焼けがして頭突きを土蜘蛛の背中にお見舞いした。
鈍い音がして、痛い目にあったのはエニシの頭蓋骨の方だった。
土蜘蛛の甲殻は柔らかくもなんともなく、火で焼いた鉄のようだった。
「……なにしてるんで、旦那?」
「筋トレ」
絶対に馬鹿だと思われたと、思う。
○
都からウン十キロの道程を土蜘蛛に乗ってクリアし、手でつかむ切れ目などまるでない断崖を土蜘蛛に乗ってクリアし、鬱蒼としげった低木の茂みを土蜘蛛に乗ってクリアし、ゆるやかな頂上への道を土蜘蛛に乗ってクリアしたエニシは、とうとう頂上に辿り着いた。
山のてっぺんといっても剣の先のように尖っているわけではない。
ゆるやかな傾斜になった、傘のような頂上だった。
草はほとんど生えておらず、白い霧が立ち込めている。
エニシはうぅん――と猫みたいな顔で伸びをした。
「つ――――っかれたァ」
土蜘蛛の足が一本、エニシの背後に恨めしげに伸びてきたが、エニシは気づかずにあたりをキョロキョロと見回す。
「で、どこよ。噂の雪女さんは」
「いやしませんよ。騙されたんですよ。そのほら吹きのぼんぼんはあっしが喰ってやりますから、ね、旦那、あっしメス探してきてもいい?」
「おまえらってメスいんの?」
「そりゃあね。へへへ、こんだけ自然が残ってれば選り取りみどり子ちゃんですよ。ね、行ってきていいでしょ?」
「ダメだ」
「なんで!? どうして!?」
「おまえが幸せになると業腹だから」
土蜘蛛はよほどエニシの白髪頭をバラバラにして喰ってしまおうかと思った。
そうすれば滋養満点のおまけつきで悠々とナンパにいけるというものだ。
そうだ、そうしよう。
そして99%までその気になってから、やめた。土蜘蛛はエニシが好きだ。
ふいに、二人の周りの空気が冷えた。
お、と期待を膨らませあたりを見回すと、案の定、傘でいうなら中心部分ともいえる傾斜の始発点に、白い着物を着た青い髪の女が立って、透明なまなざしで、二人を見ていた。
その目は青く、静かで、凍った湖のようだった。肌は死人のように白く、その顔は、異国の本に魅入られた町娘のようだった。
血を吸ったように赤い唇が囁いた。
「何しに来た? 人間と妖……奇妙な取り合わせだな?」
「こんにちは」とエニシは言った。
まじめ腐ってそれきり何も言わない。
雪女は嫌そうな顔で、「……こんにちは」と返した。
エニシは笑顔になった。
「僕はエニシ。陰陽師だ。村人からこの辺りで冷害がひどかったとかで苦情が来たので、きみにあまり手ひどく人間をいじめないようにお願いしに来た」
雪女は小首を傾げた。
「……は? わたしはそんなことはしてな……」
「しかしそんなことはもうどうでもいい!」
狩衣の胸元を狂おしげに掴み、エニシは悪夢にうなされた子どものような顔をした。
「きみみたいに綺麗な人に出会えたのだから……もう僕は人間になんて構っていられない! さあいこう、美しいきみ! 蛮族栄える北方へいき、終わらない冬を溶けない港で楽しみ、たっぷりと愛を交わそうじゃないか! 八十分コースで! カネならちゃんと僕がもつから!」
土蜘蛛は後に日記に「あっしの主は屑じゃなかった。とんでもない屑だった」と記している。
よくもまァこんなペラペラと嘘八百を並べ立てられるものである。
なにが僕であろう。生まれはドブ川、育ちは路地裏、最後に犯した罪は二時間前に行き倒れの死骸に小便を引っかけた男が「僕」などと言うものではない。
そのキザったらしく繕った立ち居振る舞いだけで、もはや罪悪であった。
雪女はしみひとつない歯を見せて、睨んだ。
「わたしをからかっているのか?」
「とんでもない! 僕はただ学者として、生物学的見地から、人間と妖怪の交配についてだね、学問的な立場から」
「さっきは陰陽師だと名乗っていたではないか!」
「あ、やべっ……い、いや違う、陰陽師にだっていろいろあるんだよ! 星見たりとか、占いしたりとか、いろいろ科学的なこともやってるらし……てるんだよ! ほんとだよ! 信じてくれ! 僕ときみの仲だろォ!?」
「死ねっ!」
どっからどう見てもエニシが悪かったが、さすがに生身の主に冷凍波を浴びせかけられるのを見過ごすわけにはいかない、と土蜘蛛が身体を張ってエニシを庇った。
だがひとつだけ誤算があった。雪女の冷気は受け止めきれるものではなかった。
土蜘蛛は氷づけになってしまった。氷の分が増して、よりいっそう巨体になっている。
冷たくなったその太い足からエニシは顔を出して、
「このアマッ、下手に出りゃいい気になりやがって! 俺の歩くエレベーターさんが凍っちまったじゃねえか!」
「やはりそれがおまえの本性か! 安い芝居しおって、絶対に許さん!」
雪女が腕をまっすぐに伸ばし、手を広げた。ちりちりと周囲の大気が凍りつく音。
「彫像にしてから粉々に砕いてくれるッ!」
「やってみろボケ!!」
エニシは巻物を顔の横に逆手に構えた。
「変身ッ!」
○
赤い戦士は次々に飛んでくる冷凍波を軽々と避けた。
かつては見世物小屋で命綱なしの曲芸をさせられていた浮浪児あがりのエニシである。
このぐらいのアクロバティックは朝飯さえちゃんと食っていれば変身していなくてもできる。
雪女は張り手のように次々と魔性の波導を送ってくるが、その顔にはうっすらと焦りがよぎっていた。
「動くな、バカ!」
「ぜってーーーーーーーーーーーーーに動くっ!!!!!」
百鬼は受身を取りながら連続して襲い来る波をかわし、反撃に転じた。
五間はあったかと思われる距離をひと飛びで殺し、雪女の懐に潜り込んだ。
雪女の青い目が大きく見開かれた。
一騎当千のエニシは女にだって容赦しない。
渾身の拳がその帯に守られた腹を打――――たなかった。
「なんっ――――だ?」
雪まじりの竜巻が雪女を中心にして荒れ狂った。
百鬼は当然吹っ飛ばされ、岩に背中から打ちつけられた。
岩は砕け散り、百鬼は地面を捨てられた人形のように転がっていった。
ようやく拳を地面にぶち当ててブレーキをかけ、顔をあげると、遠くで雪女の髪が風に煽られて逆巻いていた。
「わたしに触れることは何人たりとも許さん」雪女は笑った。
「神でもな」
「へっ、そりゃ大層な自信で」
百鬼は立ち上がりざまにパンパンと自分の身体から汚れとほこりを払い落とした。
「それがおまえのとっておきってわけか。暴風壁……どうやら殴ろうとしても蹴ろうとしても吹っ飛ばされちまうだけらしいな」
「ふふふ……命乞いしても無駄だぞ。おまえはイチゴシロップをかけて喰うともう決めた」
「ハッ……命乞いってなんだよ?」
いつの間にか百鬼の手には、深緑色の巻物が握られていた。
「風には風だぜ」
そして、巻物をベルトにスロットインした。
サイクロンタイプ トライダガーレイブン
暴 風 型――――八 咫 烏
「くっ……!?」
一瞬、雪女を守る風圧を超える風が頂上を吹きぬけていった。
自然の霧よりもさらに白い霧が晴れると、そこにいたのは、黒い戦士。
肘のそばから銀色の刃が生えた両腕、かぎづめをあしらった爪の長い足、つややかな腹筋、濡れたようにクラッシャーが陽光を跳ね返して輝き、その複眼は腐ったように黄色い。
もっとも伝説のヤタガラスのように三本足ではなかったが、言うならば三本目の足は、その全身から立ち昇る湯気のような闘気――――。
雪女の首筋を、玉の汗が伝った。こんなに寒く、こんなに高いというのに。
百鬼は羽ばたく鳥のように両手を広げた。雪女は慌てて暴風壁の出力をあげる。
「無駄だッ! そんな黒くなっても、わたしの風の壁を突き破ることはできぬ!」
「そう言われると……」
百鬼の背中、双方の肩甲骨のあたりが、壁際に板を差し込んだだけの階段のように、開いた。
耳を澄ませば、そこからは、幽かな風の唸りが聞き取れただろう。
エニシは身体を前のめりに、突撃方向に傾けて、
「……突き破りたくなるんだよ!」
背中の噴射口から岩をも切り裂く突風が噴いた。
周囲の塵や砂をフッ飛ばして百鬼は空中は猛烈な勢いで滑走していく。
雪女に考える時間などなかった。ただ手をかざして、より強力な壁を作るしかできなかった。
「うおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぁぁぁああああああ!!!!!」
百鬼の刃が空気の壁を裂いた。
だが、抵抗に震えるその刃は、雪女からまだ一メートル以上離れたところで止まっていた。
エニシは受身の心構えをした。
背中の噴射口から風の噴出が止まった。
百鬼は百の鬼の軍勢に吹き飛ばされたかのごとく、後方へと弾き飛ばされた。
受身もくそもなかった。百鬼はアタマから落ち、何度もバウンドしても止まらず、風とその唸りに翻弄されながら百鬼が止まったのは、崖ぎりぎりの大岩にめり込んでからだった。
人型のへこみに挟まりながら、百鬼は呻いた。首が力なくうなだれる。
その前に、ふわりと雪女が舞い降りた。耳にかかった髪をかきあげる。その顔にはまだ恐怖が残っていた。
「ば、バカが。調子に乗るからそうなるのだ。ちょっとびっくりしたがやはり人間などわたしの敵ではないのだ」
百鬼は死んだように動かなかった。どこかで誰かが笑っていた。
エニシが笑っているのだった。
「ハハハハ……やるなあアンタ。気に入った。絶対にいまのでケリがつくと思ってたのによ。自信なくすぜ、ホント」
「ふ、ふん? そうだろうな? その態度に免じて、もう一度確かめておいてやる、命乞いするなら――」
百鬼はガバッとクラッシャーを開け放った。
その口腔のなかを雪女は見た。暗い暗い底なし沼のような、百鬼の口を。
オオオオオオオオオオオオオォォォォォォォォ…………
妖怪ですら悪寒を覚えるおそろしい雄叫びが山々にこだました。
雪女は後ずさった。
百鬼は岩から這い出し、両手をだらんと下げたまま、半分になった刃のついた両腕を持ち上げた。
「さあ、壁を作れよ。とびきりの風だ。そいつを超えるためならなんだってするぜ、俺ァ。あんたに届くためなら自分の影だって置き去りにしてやる」
「な、なにを」
雪女が言いかけたとき、断崖から銀の塊が飛び出してきた。太陽に重なったそれは、逆光で姿を隠したまま、百鬼の前に落ちてきた。
鉄でできたネズミに、雪女には見えた。
ただそのネズミは、滑車を前足と後ろ足で挟み込んでいた。
いや、その滑車はほとんどその身体と同化し、埋め込まれているのだった。
最初からそういう風に産まれついたかのように、自然で優雅なフォルムをしていた。
「機械仕掛けの、鉄鼠(てっそ)……」
その背に、黒い百鬼が乗り込んだ。頬に傷のような亀裂が入っていた。雪女はとっさに、充分すぎるほどの距離を取るために飛びのいた。
「それでいいのか?」
答えは待たなかった。百鬼はのちにスタンドと呼ばれるものを蹴り上げ、その手に握ったのちにアクセルと呼ばれるものを回し、鉄のしもべを発進させた。
空気を切り裂いて百鬼は猛進していく。
雪女が顔を庇うように手をかざした。
いままで一番烈しい暴風が襲い掛かってきた。
向かい風だ。べつにいい。エニシは思う。
向かい風には慣れている。
アクセルを限界一杯まで回し、バイクの背に伏せるようにして身をかがめ、風に突っ込んでいく。速度が落ちる。タイヤが空転し始める。
もっとだ、もっと。
もっと!
鉄鼠が最後の抵抗をした。その瞬間、ふわっとすべての抵抗が消えた気がした。
バクチの勝負所は逃しても、喧嘩のタイミングは外さない。
それが、一騎当千のエニシだ。
エニシは飛んだ。
背中の噴射口が再度開いた。
バイクの勢いを残したままのジェット噴射。
背骨が折れそうな衝撃を気合と逆切れでぶっ潰して百鬼は雪女に迫る。
ちらっと見えた雪女の顔は、恐怖に歪んでいた。
それがエニシを危険なまでに昂ぶらせる。
エニシは、左側の噴射口から風を止めた。
当然、右の噴射だけになった身体はぐるぐるとコマのように回転する。
それでよかった。その回転がさらにスピードを増させた。
すでに暴風壁の最終ハッチは目前だった。中心ギリギリ、最後で最強の風の壁。
エニシは左側の噴射を再開した。ネズミ花火みたいになった。
拳を突き出す。分厚いなにかが、そのとき確かに壊れたのをエニシは感じた。
目の前におびえた雪女が立っている。
その間に立ちはだかるものは、もはやなかった。
閃いた刃が、
風さえも切り裂く。
○
しゃがみ込んでかたかたと震える雪女を黄色い複眼が見下ろしていた。
百鬼だった。
あちこちにヒビが入り、そこから血が流れ出していた。
あれだけムチャをやれば当然のダメージだった。気を抜けば吐いてしまいそうだった。だが、それはエニシのプライドが許さない。
エニシは、雪女のアタマの上で、固めた拳を広げた。
はらはらと、数本の髪の毛が舞い落ちた。
「ごめんな」
エニシは背中を向けた。
「冗談が過ぎたよ。いつもそうなんだ。熱くなると見境がつかなくなる。でも気ィ悪くすんなよ? 血の気が多かったのはおまえもなんだからな。でも、一緒に下界にいこうって言ったのは、マジだし嘘じゃねえぞ。ま、もう来る気なんてさらさらないだろうけどな」
じゃな、と百鬼は片手を振って去っていく。
雪女はアタマを抱えていた手を離し、その背を見た。とても大きく見えた。その背中の向こうが見通せないほどに。
大きな背中をした彼が、行く先にはなにがあるのだろう。
ふいに、それまでの恨みや憎しみが霧のように晴れて、そんな疑問が胸に浮かんだ。
それは最初、弱々しい火だった。が、すぐに烈しく燃え上がった。
気がついたとき、雪女は立ち上がって叫んでいた。
「下界は!」
百鬼が立ち止まる。なにも言わない。構わずに、雪女は思いをぶつけた。
「――――楽しいか?」
百鬼はちらっと少しだけ振り返って、またすぐに前を向いた。そして言った。
「俺といればな」
それが、決め手だった。
雪女は、この口の悪くてお調子者で、そして不器用な男に、ついていくことにした。
○
山を降りてからエニシは、土蜘蛛のことを思い出したが、もう一度頂上まで攻める元気はなかったので、ほったらかして帰った。
あれから三日経ったが、土蜘蛛はまだ帰ってこない。
本格的な夏がやってきたらあの氷も溶けるんじゃないか、とエニシは思っている。