鼠爪(ねずみづめ)
僕の臍の横に出来た鼠爪に切子が顔を近づけ、彼女の唇に生えた鼠爪をこすりつけている。制服の下で僕のペニスはびんびんに張りつめてしまっているけれど、切子はそれを知ってか知らずか、剥き出しにした腹以外に触れようとはしてくれない。
「こんなんでほんとに取れるん」と切子は疑い深い目で僕を見上げる。
「信じてないならやめたら」
「迷信に縋ってでも取りたいねん」
切子の頭を鷲づかみにしたくて手を伸ばしたけれど、軽く触れるだけで力を入れることは出来なかった。「なんやの」と言いながらも切子は手を振り払おうとはしない。いつまでも鼠爪が取れてくれなければいい、と僕は密かに思う。
鼠爪は正確には爪ではない。僕らの住む町に昔からある風土病で、足の小指の爪よりも一回り小さい爪状のものが、本来生えるはずのないところから生える。主にホルモンバランスの暴走しやすい思春期の男女に発症しやすい。大昔、飢饉の折に大発生した鼠を食べて飢えを凌いだ祟りだとか、この町の先祖に鼠の血が入っているとかの説があるらしいが、そのうち自然に抜け落ちて大した害もないので、真剣に調べられたことはない。南米やインドの方に似たような風土病があることを僕はWikipediaで見つけたが、この町についての記述はなかった。
Wikipediaのことなんて知らない切子は熱心に僕の鼠爪に自身の鼠爪を押しつけている。
治療法、というほどでもないのだが、鼠爪同士を接触させると、力を加えなくてもすっと落ちる、というのがある。実際は、目に見えて目立つ程大きくなった鼠爪は、それ自体がもう病気の終わりを告げているようなもので、乳歯のように後は抜け落ちるだけなのだ。
とはいえ体の僅かな瑕瑾も気になる年頃に発症するものであるから、早く取りたがる者も多い。だからこそ、僕の臍の横に出来た鼠爪に、唇に出来た鼠爪をこすりつける、二つ年上の女子高生切子、という絵が完成したわけだ。
幼い頃二人でよく遊んでいた時には、二人には男女間の垣根なんてなく、しょっちゅう泣かされていた僕は切子のことが好きではなかったと思う。でも学校に入り、次第に距離が離れていった切子を遠目で見かけた時は、かつてあった憎しみがいつの間にか恋愛のような感情に変わっていることに気付いていた。それは錯覚で誤解で勘違いかもしれないけれど、痛いような熱いような胸を抱えて生きるのは嫌いじゃなかった。
でも切子は僕じゃない男の話をする。
半年前に転校していった彼氏と来週会うのだという。それまでにこの醜い鼠爪を落としたいのだという。
「無理に取ると跡が残るらしいねんけど」
「来週までにこれがなくなるんなら一生跡が残ってもええ」と切子は頑なに言うのだ。
結局その日に切子の鼠爪は取れず、僕の方の鼠爪がぽろりと落ちただけだった。「ふざけとるん?」と切子は怒るが僕にはどうしようもない。
その三日後、切子の唇は鼠爪なんて生えたことがございません、みたいな態で元に戻っていた。自然に落ちたのか、僕じゃない誰かの鼠爪にこすりつけたのかは聞けなかった。彼女の唇が僕のものだったことなんてなかった。
僕は毎朝鏡の前で唇に触れ、そこに鼠爪が生える兆候がないか探すようになった。
「噛み切ろうか?」
「何言うてんのあほ」
切子に聞かれる前に、僕はもっとふざけておくべきだったと思い、そんな会話を妄想した。切子は彼氏と会った後出奔して、その後行方知れずとなった。
(了)