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River Of Pain

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 小説生産工場から垂れ流される、濾過されていない排水が川を虹色に染めている。原稿の切れ端が浮いているけれど文字までは読めない。小説を扱って虹色の排水が生まれる理由はよく理解出来ないが、とにかくその川の水は魚が溺れ死ぬほどに汚染されている。時折気の触れた人が飛び込んで泳いでいる。すぐに息をしない、泳がない存在として流されていく。
 川を汚染しているのは、町を狂わせているのは、僕の勤めている工場で、そこに勤める僕自身もそこに小説を投稿していたりして、誰もが正気を無くしているからむしろ正気の人間こそが気が狂っているように思えてくる。雨上がりにはそこら中が虹だらけになって、サイケデリックな音楽が聞こえてくる。それは幻聴だよ、俺も聞いたことあるけど、と同僚が言う。
「眺めてたって何も変わらないよ」シャワーを浴びて出てきた、僕でない人の妻が言う。僕が休みの日に、昼過ぎまで仕事をした彼女が僕の部屋を訊ねてくるようになって一ヶ月経つ。僕らは馴れ合って、宥め合って、時折一方的に僕が殴られる。いつ壊れてもいいように目一杯幸せでいようとして、僕らは肌と言葉を重ね合わせすぎてもうすり切れそうになっている。証拠を残さない為に、互いの携帯電話を交換してメールの消去を確認する。「とっくにばれちゃってるのにね」とはにかむ彼女の頬をつまむと、きつく力を入れた覚えもないのに彼女の目に涙が浮かんでしまった。だからもう一度抱き締めた。
 彼女が帰った後、少し風邪気味っぽい僕は鈍く痛む頭を抱えながら眠った。今のままの姿の僕と彼女が、どこか立派な家で息子や孫に囲まれながら幸せそうに暮らしている夢を見た。彼女は笑っていて、僕の手は血だらけで、それでも楽しくて仕方がなくて、でもそれは悪夢だった。
 風邪をこじらせた僕は三日間仕事を休んだ。僕の代わりはつい最近入った新人が穴埋めしてくれていて、様子を伺う為に電話した同僚に「無理せずゆっくり静養していいよ」と言われた。まるでもういらなくなったもののように。
 窓から見える虹色の川が、急にすぐ目の前を流れているように見えてきた。一歩踏み出せば飛び込めるような、飛び込めば川の底で一生楽しく暮らしていけるような気がした。どうして今まで飛び込まなかったのだろうか、と思えてきた。それを踏みとどまらせているのは、もうすぐ彼女が僕の部屋を訪ねて来る時間だからだった。彼女は新入りの印象を「何だか真面目過ぎて冷たそうな人」と言っていた。彼女が僕に最初に抱いていた印象と似ていた。
 もうすぐ彼女が来てくれるので僕は川に飛び込めないでいる。もう僕には彼女しかいないかもしれないから、気長に彼女を待つことが出来る。彼女と会うようになってから一文字も書かなくなった小説が机の中で眠っている。川にかかる橋を彼女が渡ってくるのを三時間待っていると、雨の気配もないのにサイケデリックな音楽が聞こえてきた。

(了)

題名はイギリスのハードロックバンド、THUNDERの「River Of Pain」http://www.youtube.com/watch?v=i1BmLVVlTE4 そのまんま。サイケではない。
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