うなり声は冷蔵庫のものだけではなかった。女が和室で布団も引かずに眠っていた。もう肌寒い季節なのに半袖のワンピースなど着て、少女みたいな花柄で。剥き出しの左腕には注射の痕が痛々しくて。ドラッグ常用者の末期のように、左腕に射すところがなくなったので右腕にまで針を射し始めていて。
変わり果てた姿でも顔は以前のままだった。しかし目を覚まして私を見つめる瞳には、知らない女が宿っているようだった。
「誰?」
「覚えていないのか」自分が詐欺師みたいだ。
私の声を聞いて少し正気を取り戻したのか、ああ、あなたなの、ここはうちなの、と女は呟いた。まだ何か言いたそうにした女の声を遮るように、玄関のドアを開く音がした。女の行方を探していたヤクザまがいの男が土足のまま上がってきた。これまで靴を脱がないなんてことはなかった。ハッタリで、脅しで、これからあなたを連れていきますよ、もう二度とここには戻れませんよ、という合図みたいに思えた。
「探したぞ」嘘をつけ。ほとんどこの部屋でだべっねいただけじゃないか。
「どうなるか、わかってるよな」
女が頷く。
「どうせ長くないし、どうでもいいの」
もっと足掻けよ。もっと生きようとしろよ。もっと私と過ごそうとしろよ。どこに行ってて何をしてたのか言えよ。他人かよ。
「まだしばらく分の家賃は口座にあるから、ここに居ていいよ」
私一人でか。どうしてお前はもう自分はいなくなる感じで話すんだよ。
「レッチリ、わかるよな」
男が私に向けて急にレッド・ホット・チリ・ペッパーズの話題を振る。
「『アザーサイド』ってんだよ。利き手にまで注射射つようになること。違う方、あっち側、あの世って意味もある」
『アザーサイド』はレッド・ホット・チリ・ペッパーズのボーカル、作詞を担当しているアンソニー・キーディス自身のドラッグ中毒の経験を元に作られた曲で……違う、そんなことを言いたいんじゃない。
「連れて行かないでくれよ」
「おせえよ」
ヤクザまがいの男は、部屋で私と音楽や小説の話をしていた時とは違う無表情な顔になり、力の抜けてだらりと下げた女の腕を引っ張り、部屋を出て行った。男が落として行ったイヤホンと、女が持っていたレッチリのアルバム「カリフォルニケイション」を引っ張り出して、『アザーサイド』だけをリピート再生していた。その間は隣家の子供の歌声も、冷蔵庫のうなり声も、どこかで殺されるだろう女の断末魔も、私の耳には入ってこなかった。
(了)