台風の季節は去ったが風の強い日が続く。今年何度もこの地域を襲った台風がまだずっと居座ってるみたいに。もちろんそんなことはなくて、台風は熱帯低気圧に変わるし、時間は流れるし、いなくなった女は戻らないし、女を探しに来ていたヤクザまがいの男がこの部屋に立ち寄ることもなくなった。停滞し続けているのは私と私の部屋だけで。動かない空気の中にいると眠気が収まらず、自由な時間に甘えて何度でも寝てしまうので、窓を開けるとまた強い風が吹いている。昨日も一昨日も。
だから奥田民生の「無限の風」を聴く。口笛を吹きながら。グラグラの頭で。だから奥田民生の「無限の風」を歌う。夜の間はボソボソと。日中は少し大きく口を開けて。ジョン・ボーナムが生き返ったみたいなイントロのドラムに毎回血を沸かせて。だから窓の外でも無限に風が吹く。廊下を奥田民生がアコースティックギターを抱えてだらだらと歩く。歌声が上機嫌なのは今年も広島カープが優勝したからに違いない。日本シリーズはなかったことになっているのに違いない。
いなくなった女のことを小説に書いた。大した思い出はなかった。どこかにデートへ出掛けたことも、女の愚痴に付き合ったこともなかった。あてもなくだらりと垂らした生をぶら下げて、年老いた小説家の女と長く暮らしていた私だったが、売れなくなった小説家は仕事と私を同時に捨てた。住む場所もなく、女にも男にも体を売って過ごしていた私を拾い上げてくれたこの部屋の主の女の、身の上を私は何も知らなかった。だから何も縛りがなく何でも書けた。物語の中で女は屈託なく笑い、恋に生きたりスポーツで汗を流したり私以外の男たちとセックスをしたりしていた。既に殺されてしまっているであろう女は私の書く物語の中では生きていた。無限の生を繰り返し生きていた。人は簡単に死んだりいなくなったりするが、物語の中に放り込んでしまえば、作品の中で、読んだ者の中で、いくらでも生き長らえる事が出来るのだ。一人一人の生の時間は限られているが、物語の中に焼き付けられたそれぞれの生き様は、それを読む者がいる限り、心動かす者がいる限り、いつまでも消えることはないのだ。
風は吹き続ける。物語も紡がれ続ける。歌声も止まない。イヤホン越しにまたはスピーカーから、あるいは人の思い出の中で、忌野清志郎もジョン・レノンもチェスター・ベニントンもhideも佐藤伸治も西城秀樹も誰も彼もの歌声は流れ続ける。
私は自分とも女とも離れた小説を書こうと思い立つ。「ビートルズがやって来るヤァ! ヤァ!ヤァ!」みたいなノリで、「カート・コバーンがやって来たハローハローハローハウロウ?」という題名を思い付く。「やめとけ」とヤクザまがいの男が言ってくる気がした。
(了)