第三話 既出ですが、世の中知らない方がいい事ばかりです
天国が転校してきて一週間が経ち、ひとつ分かったことがある。
天国がプリントに名前もかかず白紙で提出し、ノートをとらず、黒板への回答を拒みつづける、その理由だ。
偉そうに前ふりしてみたものの答えは簡単。天国は字が書けないのだ。
おそらく、その行使しつづける尋常ならざる恐るべきPowerの代償として、字を書いてはいけないみたいな【制約】があるのだ。決して文字を書かないという【ルール】を守ることで、その【規定】を監視している、どこかから絶大なるPowerを得ているのだ。うん、まちがいないね。
「なあ、天国が字を書けないのって、勤勉とかいう能力に対する【対価】とか【おきて】とか、そういうのだよね?」
ある日の帰り道、何だか知らないけど隣を歩いている天国へ、僕は尋ねた。
「いいや」
即答である。【】を駆使した僕の想像は無駄だったらしい。読者の皆様、大変失礼した。
しかし、それじゃあ、天国が字を書かない理由とはなんなのだろう。そもそも産まれてこのかた、字の勉強をしてないから読み書きが完全に出来ません、というわけではなさそうなのだ。先生から教科書を読め、と指示されれば素直にスラスラと朗読できていたのだから。あくまで『書く』という行為のみ、実行にうつさないのだ。
「ほんじゃあ、字が書けない病気とか?」
「いいや」
またもや即答である。
「じゃあなんで、字を書かないの?」
「なんだ、貴様はしつこいな。字を書かなくて何が悪いのか。具体的に言ってみろ」
会話を始めてから一度も首を曲げていなかった天国さんが、初めてこちらへ顔を向けた。眉間にはグランドキャニオンのごとく深い皺をよせ、
「字を書かないと、はらわたが口から飛び出るのか?」
その目は地獄の釜のごとく見開き、
「字を書かないと、地球が四つに割れるのか?」
野獣のごとく歯をむき出しながら、
「別にそういうわけではなかろう。書かないからなんだと言うのだ。馬鹿にしやがって」
とどめとばかりに、千年先まで祟られそうな、背骨がガタガタと揺れるような舌うちをした。
「いえ、馬鹿にはしてませんし、なんでもありませんし、なにも聞いてませんっ」
僕は光の速さで会話を打ち切った。
ふーびっくりした。今完全にキレてたよな。初日に僕が唾をぶっかけた時よりキレてたよな。それにしてもなんなんだ? なにがどうなると、あんなに怒るんだ? ちょっと沸点低すぎだろ。別にシャンクスの帽子を酢漬けにして食ったり、カイトの死体を燻製にして食ったりしたわけじゃないんだし……。たかだか、字を書く/書かないの話だろ?
と、隣に人の気配が無くなったな、と思った時には天国の姿は消えていた。この辺に住んでんのかな。
―――――――――――――
「なあ、金鍔と天国ってつきあってんの?」
翌日の昼休み、クラスメートであり、小学生の時から同じクラスで腐れ縁の直島透が唐突にそんなことを言った。
「はあ?」
脊髄反射的に出たその二音が僕の正しい気持ちであり、よくよく直島のセリフの意味を吟味したあとで、もういちど開いた口から出た言葉も、
「――はあ?」
であった。
直島は机をバンバン叩くと、鼻息を荒くして言った。
「はあ? じゃねえよ。クラスの代表として、マジメに聞いてんだから答えろよ。他の奴と全然喋らねえ天国が、お前とだけは仲よさそうに口きいてるじゃんか? それに一緒に屋上行ったり、帰ったりしてさ、つきあってんだろ?」
静かな教室の中に、直島の声が響いた。気付けばクラス中が僕に向かって含みのある視線を向けている。
「いやいや、いやいやいや、その程度の事でつきあってると判断しないでおくれよ。ちょっと仲よさげだったら、つきあってるって、そんな小学生じゃあるまいし。――ほら! 天国が普段喋らないから、こういう勘違いされんだぞ」
僕はクラスメートの視線から逃げるように、目を伏せながら言った。
「む、私はクラスの連中にはからきし興味が無いので 口をきいていなかったのだが、それをやめろ、ということか? 私に何かして欲しいというのなら、もっと具体的に命令してほしい」
…Oh…
教室内の静寂レベルが、可聴範囲外でさらに下がった気がした。
具体的に命令してほしい、って、なにそのキャラ。突然何を演じ出したのこの人は。いや、人じゃないんだった。人ではない何かなんだった。そんな事はどうでもいいんだ。
「ほら、どうしてほしいんだ、黙っていては分からないぞ、金鍔収。私へ具体的に命令さえすれば、私が例えそれがどれだけ嫌だったとしても、実行してみせようじゃないか」
天国は手をひらひらと振った。
ちょっとやめて! 傷を広げないで! だから、何なのよそのキャラ! わけがわからないよ!
ざわざわ……。「金鍔君にしか興味がない、って宣言したわよ」「想像してたより、あいつらの関係は進んでいたんだな」「命令して欲しいって、何のプレイなのよ」「ああ、俺も天国さんの足をペロペロさせてくれって命令したい」ざわざわ……。
「wait! みんな落ち着け! いいか、もしも、もしもだ、僕が本当に天国とつきあっているのなら、もうここまできたら観念して認めるだろう。ああそうさ、つきあっているのさ、とね。But! 実際はそうではないんだ。本当につきあってはいないんだ。ここまできて嘘をつくことに何の意味がある? ないだろう? だってグダグダだものね、何を今さら往生ぎわの悪い、みたいな、そういう感じだものね。だからこそ、僕は否定しよう! 本当なんだ! 信じてくれ! 僕は、天国とは、つきあっていないんだ!」
勢いで喋ったため、自分でも何を言ったのかいまいち分からなかったので、もう一度強調したいポイントを繰り返した。
「僕は、天国とは、つきあってません!」
クラスの何処かで「金鍔君しか興味がありません、見えてません、って天国さん言ってるのに、その言い方は酷いんじゃない?」という声があがったけれど聞こえなかったことにした。僕に興味があるのは、僕の中に地獄があるからなんだ。とは言えないところが辛い。もし言ってしまって、クラス全員が、ホントかよちょっと見せてみろよ、などと詰め寄る事態になり地獄に手を突っ込んで全員地獄送りになったら、恐怖の集団神隠しである。残された少年一名(僕)は現在警察で取り調べを――なんて、まっぴらごめんだ。
「そうかい」
僕の机に手をつきっぱなしだった直島が、何かを悟ったようにゆらりと姿勢を正した。その顔は花束の中にプロポーズの手紙が入っていたのを見つけたかのごとく、晴れやかだった。かなり長い事直島と友人をやっているが、こんな顔を見たのは初めてだった。
ははーん。
天国さんは何事もなかったかのように、重箱の最後の段を食い始めた。
―――――――――――――
そうして意識してみれば分かりやすいもので、直島は授業中も落ち付きなく、ひっきりなしに、教室最後列に座っている天国の方をチラチラとのぞき見ていた。小学生か! とつっこみたい気持ちをぐっとこらえて、僕は直島へがんばれよ、と心の中でエールを送った。そのひと人じゃないけどね、とヒントも与えた。心の中で。
その日の放課後、委員会活動にシコシコ励んでいた僕は、昇降口の掲示板にこんな落書きがあるのを発見した。
『三年の田口博也は、同クラスの井上美樹の携帯電話を五度口にふくんだ』
携帯電話を口にふくむって、全部入れたってことなのかな。それとも入れられるところまで入れたってことなのかな。などと考えながら、僕はそのウソかマコトかもわからない、奇怪で悪質な落書きを、掲示板と同色のカラースプレーで塗りつぶした。
しかし、落書きはそこだけにとどまらず、校内中の掲示板という掲示板全てに、似たような暴露文言が勝手に書かれていた。
『三年の内藤弘子は美術部顧問の林富也と恋愛関係にある』
『二年の樋口和也は備品のトイレットペーパーを計四〇個持ち帰っている』
『一年の林正明は女子トイレで便所飯をしている』
これはポスター管理委員として、見過ごすことのできない事態である。
☆インタラプト付録 ミ☆ 用語辞典 ミ☆
【ポスター管理委員】(――かんりいいん)
学校内に掲示される全ての掲示物を一手に管理し、不当に張られた掲示物などがないか見回り、学校内の掲示板を効果的に運用する団体のこと。常に縄張りを見まわるライオンの如く校内を巡回している姿は、ルーザーアンバッカー(帰宅できない帰宅部員)として生徒たちに恐れられている。
用例「私の彼氏、元――で、イケメンでお金持ちで高学歴で性格がいいの」
【田口博也】(たぐち ひろや)
三年生。ポスター管理委員の委員長であり、軽音部の部長。ポスター管理委員でありながら、その類まれなる容姿により同学年から後輩にまで広くモテモテである。その気になれば四股、五股が可能な身でありながら、幼馴染の井上美樹ひと筋であり、そのスタイルがまた広くモテている要因であったりする。搭載! 無間地獄! の三話に登場するが、その後の話に登場するかは微妙なところである。
用例「――先輩、本当に美樹先輩の携帯口にふくんだんですか?」
「ははは、金唾君はナニをお菓子な琴を異っているんだい」
僕の問いに、田口先輩は平静を装って答えたが、誤字誤字であることを僕は見抜いた。
「まさかあ、田口先輩がそんなキモい事するわけないじゃんかあ」
「そんな落書きを簡単に鵜呑みにするなんて、金唾馬鹿なんじゃないの?」
「携帯を口に入れるなんて、常識的に考えてやらないだろ」
案の定、教室にいた田口先輩の取り巻きから総攻撃を受けてしまった。
そもそも僕は「田口先輩、本当に美樹先輩の携帯口にふくんだんですか?」なんてセリフを言う気はさらさらなかったのだ。なのにどういうわけか口に出てしまったのだ。無意識というのは、ここまでコントロール不能なものだったか。
『真実は、真実であると、大人しく認めるのだ!』
突然黒板の上に備え付けられていたスピーカーが鳴った。
『なにものも、真実からは逃れられんのだ!』
「なになに?」「誰だこの声」「うるせえな」などとほとんどの生徒がスピーカーを見上げている中、教室の隅で壁に寄り掛かっていた、見るからに根暗そうな、顔の半分以上が髪の毛で隠れていてほとんど口しか見えていない、名前の分からないポスター管理委員の男子生徒(たしか一年生)が突然黒板に駆け寄った。
カカカカカカ、と素早く黒板にチョークが走る。
『田口先輩は美樹先輩の上履きを口にふくんだ。僕の知る限り三度』
書き終えると、その存在感の薄いポスター管理委員A君は「は、僕は一体何を」と一か月に一回は漫画で見かけるセリフを吐いて、キョドりだした。
さらにもう一人、こちらもやっぱり存在感の薄い一年生が黒板へ駆け寄る。
『田口先輩は美樹先輩のクラリネットのリードを口に入れた。僕は四度それを見た』
この一年生B君の書いた後の行動も、さっきの彼と同じ感じだったので省略。黒板の前で二人の日陰者が同じようにまごまごキョドキョドしている。
それを見た田口先輩も、顔を青くしてキョドり出した。
「な、何を一手要るんだねこれは。有江んだろ」
そのキョドりっぷりは、田口先輩の周りから取り巻きが五歩ほど遠のくほどのものだった。
なんでもかんでも口にふくみすぎだろ。不潔とか不衛生とかえんがちょとか、そういうレベルを超えているよね。僕は若干、ほんの気持ちだけ、数ミリだけ、ドン引きしていた。そもそも、そういう明らかにやばい行為を、他人に簡単に見られすぎだろ。
などとこの状況を安易に受け入れそうになったが、これはどういう事態か、と僕はわれに返った。我に返ってから、この状況を説明するのに一番簡単な答えが浮かんだ。
再びスピーカーが鳴った。
『これが真実の痛み! 真実の力なのだ!』
そして僕の携帯が鳴った。天国からである。
『罪の――罪の匂いがする』
うん、そんな気がしてた。
放送室を陣取っていたのは、紫色のオーラを垂れ流した、警備員のおっさんだった。おっさんは両腕を肩幅程度まで広げ天に掲げながら、足を交差させ、顔は前かがみにして影を作り、やや右方向に全身をひねるという、複雑でありながら、非常に能力者っぽい妙にかっこいいポーズをしていた。
「来たか、真実を拒絶する愚かな者たちよ」
おっさんが喋るたびに、全身からみなぎっている紫色のオーラがゆらゆらと揺れる。
僕はこの罪なるものと対峙するのは、これが二度目である。あれから一週間経っているにも関わらず、僕は罪というのが具体的になんであるのか、天国から聞きそびれているため、罪というのが地上で悪さをしているのか原因をしらない。しかし、どう処理すればいいのかは分かっているので、僕はさっさとこの罪を地獄へ格納すべくおっさんへ近づいた。
おっさんは僕の動きを察知すると両腕を勢いよくグルグルと回した。
「語れ! 真実を!」
すごい回っている。
「んんっ」
放送室の入り口に立っていた天国が、今まで聞いたことのない、非常に軽いトーンのヘンテコリンな声をだした。
振り向くと、天国の頭の上にポップなフォントで文字が浮いている。
『weak point!』
ウィークポイントってなんだっけ……。えーっと、弱点? そうだ弱点だ。
なんだあれ。
などと考えている僕は、いつの間にか床にしゃがみ込んでいた。手が勝手に動き、床に落っこちていた水性マーカ―を拾い上げる。
「な、な、勝手に動くぞ」
慌てた僕はそう声を出したものの、なんだか妙に説明くさいそのセリフが恥ずかしくなって耳が熱くなった。
僕の手はさらに勝手に動く。ペンのキャップを外し、床へ文字を書きだした。キュッキュキュキュキュッキュキュッキュキュ。
書きあがったのは――
『天国励子は人間ではなく、罪を狩りに来た謎の存在である』
なにこのキャラクター説明みたいな文。
僕の体を動かしていた謎エネルギーが切れたらしく、僕はその場で立ち上がった。うーん、これをわざわざ謎の力で僕に書かせたのだとすると、これは他人の秘密をバラしてしまった罪、みたいな感じだろうか。そういえば、さっきの委員会室のときのも、そういう感じだったよな。しかし、そうするとさっきの天国の頭の上に出ていた『weak point!』はなんだったのだろうか。
その天国さんが、再び聞いたことのない妙な声を出した。
「んぎぎぎ」
さっき僕がそうしていたのと同じように、天国は床にしゃがみこみ、ペンで床になにやら文字を書いている。しかし、やたらそれに抵抗しているのか、キュ、キュ、……、キューキュ、と文章はなかなか書きあがらない。
天国が字を書いているところって、はじめて見たな。
文字を書いているあいだ中、ずっと出っ放しだった天国の頭の上の『weak point!』は、書き終えるを同時に消えた。
僕は一体天国が誰の秘密を書いたのかな、と床を覗き込んだ。
『〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓』
が、僕の知らない言語で書かれていて、読むことができなかった。なるほど、無意識下に訴えて文字を書かせる、という力が働いたのであれば、それは本人が最も親しんだ文字を使うわけで、それであれば天国は、親しみのある使い慣れた人間ではない生き物が使う言語、で書いたのだろう。
「クソが、舐めやがって……」
天国はおっさんを睨みつけながら立ち上がった。
「くく……。なるほど、それが弱点なのか」
おっさんは再びかっこいいポーズで腕をグルグルと回した。
むむ、あの『weak point!』表示は、おっさんの攻撃が天国の弱点をついた、という事なのか? なんというゲーム的な……。というか敵と対峙して二度目で弱点つかれちゃったけど、この先大丈夫なのか。
「んなんっ」
またも天国の頭上に『weak point!』が現れた。
なんだろう、昨日の天国とのやりとりと併せて考えると、文字を書く、というのが天国の弱点なのか? 弱点だということを知られたくなかったから、あんなにキレてたのか? たぶん、そうなのだろう。
「んいいいいいいいい!」
天国は全身を強張らせて、必死に文字を書くまいと抵抗している。
と、いう状況をぼうっと見ていた事に気付いた僕は、さっさと罪を始末すべくおっさんに近づこうとして、
『天国励子は文字を書くのが弱点らしい』
などと大分しったかな感じの秘密を床に書いた。これ、正しいかどうか分からないよ? 僕が勝手にそう思って、ちょっと秘密にしておこうかな、って思っただけでさ。
天国は、両手を顔の前で交差させるという、こちらもまた、かっこいいポーズを取りながら必死にたえている。
どこがおっさんの隙なのか分からないので、とにかく前進しようと一歩おっさんへ向かって踏み出して、
『天国励子のスカートは物理法則に左右されないっぽい』
いやいや、だからさ、それは僕が勝手にそう思ってるだけで――
『天国励子の家は金鍔収の家の近くにあるのかもしれない』
つーか、なんで天国の秘密ばっかり書いてるんだ僕は。部活の先輩の秘密とか、クラスメートの秘密とか、家族の秘密とか、いろいろあんだろ。
こうして僕がさらに二つ秘密を書いているあいだも、天国は同じポーズのまま、頭の上に『weak point!』を出して唸り声をあげている。どうしよう、おっさんに全然近づけない。このまま僕が必死におっさんに近づこうとしても、おっさんがホイホイと逃げて、僕がまた秘密を書かされれば全然距離を詰めることが出来ない訳で、実は結構ピンチだ。
「さあ! 語れ真実を! ふは、ふはは!」
おっさんがマイクに向かって叫んだ。
あーあ、僕しらないよ。どうなってもしらないよ。主に田口先輩がどうなっても、僕にはどうすることもできないよ。美樹先輩の触ったドアノブをしゃぶってた、くらいの事やってそうだけど、このまま罪を地獄送りできなければ、みんなの記憶にしっかり残っちゃうよ。まあ、しゃぶったってのは僕の適当な妄想だけどさ。
「いいいいいいいいいいいいいあああああああああ!」
天国がひときわ大きな声で叫んだかと思うと、頭上の『weak point!』がパリンと割れた。アニメーションで。
「な、馬鹿な!」
おっさんは後ろへ飛びのくと、姿勢を低くしながら、手をグルグルと回した。
「もうそれは私に通用しない。絶対に食らわない、と心に決めたからな」
そういうと、天国は僕の足を掴んで逆さづりにした。あまりに唐突なことだったので、僕は、ああ、こういうのもあるのか。などと納得して天井と天国に向かって顔を縦に振ってから、
「え、え? なんですか天国さん、これは。僕逆さづりだよ」
と抗議しながら説明した。
「前進できないのだろう? だから私が手伝ってやるのだ」
言うなり天国は僕をぶんなげた。
僕は教室のほとんど端から端までを飛んだ。
教室の床と天井に引いた線をZ、僕が飛んでいった端から端に引いた線をY、そのZとYに直角に交わる、壁と壁に引いた線をXだとすると、
僕はおっさんに直撃した。
奇怪なことに、思ったより、というか全然痛くなかった。
僕はおっさんの両胸を掴んでいた。
奇怪なことに、思ったより、ちょっと胸があった。おそらく贅肉だ。
すかさず僕は、罪を地獄に入れる事を許可しようとして――
「天国! この罪の名前が分からないんだけど!」
他人の秘密をばらした罪? だと思うんだけど、正式名称が分からない。
でも、こないだのソースを醤油に変えた罪も天国いわく「おそらくそんなところだろう」だったのだから、適当でいいのか。と自己完結した瞬間に、
「名前などどうでもいい、罪が地獄へ入ることさえ許可すればいいんだ」
と、正解をいただいた。
『この罪が地獄へ入ることを許可する』僕は念じた。
「ふっ、これまでか」
おっさんは僕に胸を揉まれながら悲しそうな顔をした。気持ち悪かったので片手を放した。両手で触る必要はないな。
紫色のオーラはぐんぐん地獄の中へ吸い込まれていく。
「そうだ、いい事を思いついたぞ」
おっさんはククク、と笑った。
「な、なにをするつもりだ!」
我ながらテンプレチックなセリフを吐いた。また耳が熱くなる。
「お前に一つ、大いなる逃れられぬ真実を与えてやろう」
にやりと笑ったその口が、怪しくうごめく。
「逃れられぬ、真実?」
なんだ、世界創生の秘密とか、宇宙誕生の秘密とか、世界の終わりの日とか、人類を後ろから操作する謎の組織の存在とか、実はこの学校は秘密裏に特殊能力の開発をしているだとか、そういうやつか。
「いいか、耳をかっぽじって、よく聞け」
ごくり、と喉がなる。
一体なんなのだ。
この状況は、バックグラウンドで壮大かつ悲壮な、物語の分岐点で流れるメインテーマとかが流れそうな展開っぽい気がする。
「お前の親友の、直島透は――」
おっさんの口が、予想外の名前を吐き出した。
「な、直島が……?」
僕の敵対組織(そんなものがあるのかは知らないけど)のリーダーとか、実は僕は前世で直島の前世の大切な人を殺しちゃったとかいう因縁があって、前世の記憶を取り戻した直島は僕に復讐を誓っているとか、直島は何度もタイムリープを繰り返していて、実は僕は未来で世界を壊してしまうすごい事をしちゃうので、それを止めさせるために僕を殺そうとしているとか、そういう感じか!
「お前のクラスメートの直島透は――」
溜めるなあ、もう言うだろうと思ったのに。早く言わないと全部吸い終わっちゃうよ? やめてくれよ、そういうの。ガッカリするからさあ。
「――ガチホモだ」
―――――――――――――
全ては元通りになった。
田口先輩の美樹先輩へ対する奇行が暴露されたことを覚えているものはおらず、掲示板に書かれていた落書きも消えていた。
罪なる非現実が生み出した非日常は、ことごとく修正され消え去った。
ただ、僕があの罪によって知ってしまった真実だけは、消えなかった。
先に言っておくと、僕は他人の性癖に対してとやかく言うつもりはないのだ。たとえその人がロリコンだろうがショタコンだろうが足フェチだろうが腋フェチだろうがペロリストだろうが、それはあくまで個人の趣味であると思うからだ。
しかし、それが僕に関係するものなのだとしたら――
『そうかい』
あの時、直島がした、いままで僕が見た事の無かった表情。
あの時、僕は天国がつきあっていないと宣言したときの表情。
もしや、まさか、
いやいや、まさかですよ。
「なんだ、カビた高野豆腐のような顔をして」
いやいやいや、しかしですよ。
もしかしたら、が、あるかもしれないわけですよ。
あの後、やたら直島が後ろをちらちら見ていたのは、天国を見るためではなく、その隣に座っていた僕を見るためではなかったのか?
「なんだ、カビた高野豆腐のような顔をして」
「それ、同じセリフ二度目だよね」
僕は思考を打ち切った。
「歩きながらカビの胞子にやられて死んだのかと思ったが、違ったのか」
隣を歩く天国は、表情を変えず残念そうに言った。
「ちょっと考え事してただけで、なんで死ぬんだよ」
僕は今後、直島に対してどう振舞えばいいのだろうか。このままでいくと、近いうちに感極まった直島からどうにかされてしまうのではないか、という嫌な予感が頭から離れない。いやいや、友達なんだからそういう考えは酷いんじゃないの? と訴えている自分もいる。でもそれとこれとは別だろ、と言う僕もいる。
僕はうへぇ、と溜息をついた。
「なんだ、カビた高野豆腐のような顔をして」
「なにそれ、お気に入り?」
「三度繰り返しただけで、勝手に気に入ったなどと判断しないでほしい」
「ああ、あそう。まあなんでもいいよ。それよりさ」僕はあの罪が最後の瞬間に妙な真実を告げさえしなければ、いの一番に聞くつもりだった質問をした。「天国って、あの時床にどんな秘密を書いたの?」
「ん」
天国は一音発したきりで答えるつもりがなさそうだった。まあ、天国の性格からして、なんでそんな事を答えなければならないのだ。などと言って睨んできそうだったので、僕はすぐさま別の質問をした。
「あれってさ、人ではない生き物が使う文字とか、そういうのだよね? 深きものどもの言葉とか、魔界言語とか、月の文字みたいなさ。何語なのあれ」
「なんでそんな事を答えなければならないのだ」
結局睨まれた。
「え、いや、ちょっと気になったからさ、聞いただけなんですよ」
「あれはおいそれと人間が見ていい文字ではないのだ、とだけ言っておこう」
睨んだけど答えてくれた。ニヤリと不気味な笑みを浮かべながら。
うん? 不気味でもなんでも、天国が笑ったのって初めてではないか? そう思ったときには、天国の姿は消えていた。そういや昨日もこの辺でいなくなったな。
―――――――――――――
僕の家は住宅街のブロックの角に建っていて、まっすぐやってきた道をクイっと曲がるとすぐ左手にあるので、曲がる直前まで家の前に誰がいるのか分からず、曲がるとすぐ目の前に人がいる、といういう状況を生み出してしまうのだ。
そういうわけで、僕の家の前に謎の二人組が立っていて、曲がった瞬間目が合った。
「あー、えっと、なんの御用でしょう」
僕はとっさに言ったものの、その二人組みの格好は大分アグレッシブなものだった。
一人はこの庶民じみた住宅街には不釣合いな白いドレスを纏い、涼しげな笑みを浮かべた女の人。背中には身長より長い、袋に包まれた何かを背負っている。
もう一人はシャツにジーパンを履き、左目に眼帯をして、ヘッドフォンをしながら顔のまん前に百科事典を持ってきてもくもくと読んでいる、男か女か分からない人。
声をかけるんじゃなかった。
「いえ、ここが金鍔さんのお宅だったかしら、と思いまして」
白いドレスの人が言った。
「ええ、まあ、そうですよ、はい、金鍔です」
表札に書いてありますよね、とは言わなかった。そういうつっこみを入れるには、相手が未知数すぎるからだ。
「そうでしたか、それはよかった。では、それをご存知のあなたは?」
白いドレスの人は涼しげな笑みを浮かべたまま首を傾げた。
「えーっと、僕は……」
なんだかこのヤバイ人達に、自分の名前を言ってはならない様な気がしたので、僕はこのままはぐらかして、家の前を通り過ぎて、この人達がいなくなってから自宅に帰ろうかとか考えながら口ごもった。
「おーい、兄貴、あたしのDSはー?」
二階から妹が頭を出した。
わーい。
「そう、僕はこの家の長男の金鍔収です」
妹が頭上で誰その人とか言っているが、とりあえず無視だ。
「そうでしたか、ふむふむ、なるほど、ではごきげんよう」
二人組は颯爽と去って行った。去りぎわ眼帯の人が激しく鼻血を出していた。地面にボタボタと血が垂れている。大丈夫なのかあれ。というかこの人たち、なんだったんだ。
こうして僕は、いくつもの新たな問題を抱え込む事になったのだった。
一つ、今後、僕は直島と今まで通りの友人をやっていけるのか。
一つ、あの二人組みに名前教えちゃったけど大丈夫なのか。
一つ、妹にDSがもう無いのだという事を、どう伝えるべきか。