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第一章【逃走から闘争】

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1.


「――ハァ! ハァ、ハァ!」
 荒い呼吸音とアスファルトを蹴り上げる音がビルの間で反響する。その主は誰でもない、俺だ。慢性的な運動不足から来る心肺機能の低下は、今のご時世珍しい事じゃあない。さらに言えば、それが原因で困る事も無い。そう思っていたし、現に世の中はそれで通っていた。
 だが、この状況は何だ。俺は今もこうして別の事を考えなければ、直ぐにでも地面に倒れこみそうなくらいに呼吸を乱しながら走り続けている。何故か。それは考えるまでもなく、俺を追いかけてくる者が居るからだ。只の酔狂で、こんな苦しい事なんてやるものか。
 曲がり角を転びそうになりながら右へ左へと進み、今では何処に居るのかもわからない。職場からは随分と離れたに違いない。もうそろそろ、立ち止まってもいいんじゃないのだろうか。
 自分の喉から出ているのか、それともビルに反響した音なのか。呼吸音が頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり合う中で、隙間から、甘い言葉が姿をちらつかせる。けど、立ち止まれない。俺は“アレ”の怖さを知っていたし、今日も、今さっき再認識した。この程度を足で移動したくらいじゃ、とてもじゃないが安心出来ない。
 震える心臓と恐怖心、その二つで葛藤しながらも何度目かの角を曲がった所で、ついに恐れていた事態が起きた。
「ガ、っはぁ、はぁ、行き、止まりかよ……!」
 同時に、安堵する。やっと、この苦しい状況から脱することが出来る、と。どちらかと言えば、こちらの気持ちの方が大きかったらしく、俺は肩をこれでもかと上下させながら、そのまま尻餅をつく形で倒れる。
 ……どうやら、逃げ切れたようだ。そもそも“アレ”が逃げる人間に執着するのか、どれ程の速さで移動出来るのか、そういった情報は全く知らない。安心出来ないと言うのも、単に俺の恐怖心から結論付けた事だ。
 緩々と整っていく呼吸と、逃げ切れたという事実に、俺は溜め息を漏らす。そのまま、混乱したままの頭を落ち着かせるように、思い出し始める。
 まさか、一度ならず二度までも“アレ”と遭遇する羽目になろうとは思ってもみなかった。
 一度目は子供の頃だ。早くから母親を亡くしていた俺にとって、唯一の肉親である父親を、“アレ”は容赦なく殺した。何故助かったのかは覚えていない。気付いたら、医療ポッドの中に居た。
 それから十数年と経ち、ニュースでしか“アレ”を見なくなった。……そして二度目は、今日だ。
 人類が緩やかに滅亡への道を進んでいる中、それでも安全地帯と言うものは存在する。この生まれ育ったニホン地区も、数少ない安全地帯の一つだ。だと言うのに、いつも通りの職場には、生きている人間は一人も残されていなかった。
 ……偶々インテリアA.I.が故障していて、偶々俺が自分で起きることが出来ずに遅刻した。職場の人達と俺の違いは、それだけだ。それだけの違いで、俺は死んでいたかもしれない状況を脱することが出来、こうして“アレ”と目が合ってしまった所為で逃げる羽目になった。
 現代において一キロメートルの距離を駆け足で走れるのなら良しとされているのだから、十分以上ほぼ全力で走り続けた俺がここで尻を付いていたとしても、褒められることはあれど責められる謂れは無い。
 しかし、急に目の前へ影が落ちた瞬間、俺は自分で自分を責めることとなる。――やはり、安心など出来なかったんだ。
 俺は追い付いて来たのだろう“アレ”を刺激しないようにゆっくりと立ち上がると、そのまま振り返る。
 大昔から、悪魔やそれに準ずるものは夜中に現れると相場が決まっているが、なんてことはない。微笑を携えた宙に浮く女は、まだ真上にすら到達していない太陽を背にしていた。
 眩しい、目を瞑る。そこで、まずいと思った時にはもう遅かった。次に目を開いた瞬間、俺の右掌が女の胸に吸い込まれるように沈んでいく寸前だった。
 柔らかい。薄い生地とは言え、服一枚を隔ててこれだ。ずっと、この感触を味わっていたくなる。さらに、その先を――。
「――っぶねえ!」
 寸での所で、俺は無理やり掴まれた右腕を振り解くと、そのまま後ろへ下がった。反抗されると思っていなかったのか、女は驚いたように俺を見つめている。その時、俺は初めて目の前に居る女を観察した。
 ストレートの黒い髪を肩で切り揃えており、ニホン人のような黄色肌だ。しかし、俺達のような野暮ったい部分など欠片も無く、端正なパーツを揃えた顔と体。古い言葉で表すのならば、大和撫子とはこの女のようなものを差すのではないのかと、一人で納得させられてしまう。
「……そ、そうじゃない、違う、違う」
 ここまで考えておいて、俺は強引に口から否定を言葉をひり出す。否定出来る要素など何処にもありはしないというのに。しかし、“これ”こそが食物連鎖のピラミッド、その頂点が入れ替わった最大の要因と言ってもいいのだ。それと言うのも、この俺達人類に極限特化させた、所謂“魅了”、この所為で純粋な攻撃力となる男の大半は無力化され、殺された。
 さらに、それだけではなく。
 目を逸らし、なるべく目の前から思考を絡めないようにしていた時、急に頭の両側が万力機械で挟まれたような痛みを訴える。反射的に目の前を見れば、先程頭の中で褒め称えたばかりの容姿を持つ女の顔が目前に迫っていた。驚くべきことに、女は左手のみで、俺の頭を押さえつけているのだ。
 先程と同じように振り解こうとするも、頭にかかる力は弱まるどころか、さらに強まる始末。
 ……“魅了”を何とかしたとして。それで、武器も無しに対処できるのかと言えば、それは無理だろう。単純にコイツ等は個体として、かなりの力を持っているんだ。学生の時に習ったが、“高出力レーザーすら防ぐ窓ガラスを片手で砕く”というフレーズは未だに良く覚えている。
 さっきは運が良かったに過ぎない。不意を突く形で振り解いただけであり、いざ、こうして捕まってしまえば、もう為す術が無いのだ。……平たく言ってしまえば、そもそもコイツと目が合った時点で、俺は死んでいると同義に違いない。
 俺の諦めを察したのか、女は先程までよりもさらに笑みを深くしながら、ゆっくりと嬲るように、自身の唇を俺の唇へ押し付ける。
「――っ、くっ」
「ふふっ」
 何処からか、甘い匂いが漂ってくる。それがこの女が出しているものだと分かっても、分かっていても、段々と思考が緩まり、解け、唇に纏わりつく快感を受け入れようとしている事に気付く。
 だが、気付くだけで終わる。抵抗は無駄だと言わんばかりに、女は啄むような口づけを止め、強引さを伴う荒い口づけを始めた。
「ぁっ、ふ、あぅ、ぐ」
「ふふっ、んっ、むぅ」
 拒んでいたのも、既に恰好だけ。俺は為されるがままに侵入してきた舌を受け入れると、その這いずり回る快感を受け入れ始める。
 それを何秒、何分、時間が分からなくなるくらい続けた後、俺は自分の股間が痛みを訴えている事に気付く。それを俺が目で確認する前に、撫でるような感触と同時に下半身の一部が解放されてしまった。
 未だに女の左手が頭の両側を抑えているせいで、下方を確認出来ない事に今更気づく。だが、股間で疼くように広がり始めた快感が、そんなどうでもいい思考すら覆い隠してゆく。
「ガァッ!?」
 電流が流された筋肉のように、俺の全身が自然と収縮を試みる。しかし、頭を抑えられている為か、そこを支点にしてもがくだけに終わる。その時の首の痛みで、ふと、思考に緩みが出来る。快感に押し流されそうになりながらも、俺は、確かに認識した。女は既に地面へ降り立っているというのに、何故か、またも俺の目の前に影が落ちて来た事に。
≪――オオオォォォォオッ!≫
 咆哮……いや、人の怒声か?
 それを認識する前に、俺は壮絶な破砕音、それに何かの動力らしき駆動音と共に吹き飛ばされていた。ビルの隙間、それも行き止まりだった所為もあり、自ずと壁に叩き付けられる形となった俺は肺に溜まっていた凝った空気を全て吐き出す。
 ぶれる視界の中で、段々と意識だけが定まってくる中、一先ずズボンをはき直す。下げられているだけで良かった――等と、こんな状況でも羞恥心は強いのだと再認識したところで、状況が視界に入りこんでくる。
「なんだ、ありゃあ」
 理解は、出来なかった。しかし説明は出来る。俺を捕まえていた女が、何やら攻性スーツっぽい物を着込んだ人間(?)により、遺跡のように脆くなっているコンクリートに全身を埋め込まれていた。
≪おい貴様、もしやまだ意識があるのか?≫
 まだ快感の残照があるのか、若干呆けながらその光景を見つめていた時の事、スーツの頭部がこちらを向いたかと思うと、急に話しかけられた。
 もちろん、意識があるのかと聞かれれば、あると応えるしかない。 
 だが、俺がそれを伝える前に状況が変わる。女を片足で押さえていたスーツ男――声から察するに壮年の男だ――が体勢を崩したのだ。
 危ない。そう叫ぼうとするには遅すぎた。既にスーツの男は地に足を付けておらず、代わりにコンクリートから這い出た女が立っていた。服はボロボロになっているが、見たところ目立った傷は見えない。
 なんて頑丈な体してやがるんだ。そりゃあ人類も頂点から叩き落されるわ。
≪ええい! 小僧、離れていろ!≫
 小僧、という部分に反応しかけるも、それを飲み込み、言われた通り離れる。
 しかし、離れるとは言ったものの、行き止まりであり、その出口をピラミッドの頂点と、それに抗えるのだろう謎の男が塞いでいるのだから、必然的に俺の背は壁にピタリとくっ付く形になる。
 そんな俺を確認出来たのか、は分からないが、未だに宙へ打ち上げられたままのスーツ男は、スーツの各所に設けられているのだろう、ブースターを何度か噴き出すと、瞬時に体勢を直し、直下――女へ向き直る。
 空気を吸い込むような音が周りに響いたかと思うと、男の右肘からオレンジ色の炎が噴き出す。それがブースターの噴出だと俺が気付いた時、男は推進力に任せるまま、右拳を真下へ、女の頭部に向けている所だった。
「ふふっ」
 だが、女は避ける素振りなど欠片も見せず、唯右掌を宙へとかざした。そのまま男の右拳は吸い込まれるように女の右掌に収まり、瞬間、行き場の無くなった力が下へ上へと奔流を撒き散らした。
 微動だにしない女の足元は何百年も前から敷かれたコンクリートであるからして、罅割れ、崩れるのは当然と言える。当然の現象だ。……そう、それ程の力を受けても皮一枚捲れない女こそが異常なのだ。
≪やはり特殊個体か――チィッ!≫
 スーツに設けられているのだろう外部スピーカーから男のくぐもった声が漏れ出る。言っている意味は分からないが、悪い方向性の言葉だということは何となく分かる。
 拮抗していたと思われた力比べが不意に止まった。音速航空機のような甲高い噴出音が止み、続いて軽い噴出音が数回鳴ったかと思うと、いつの間にか俺のすぐ前にスーツ男が着地していた。
≪ここで会ったのも何かの縁だ。大人しくしていろよ、小僧≫
 さすがに二回目ともなれば否定せずにはいられず、俺は反射的に口を開き。
「俺は小僧じゃ――わ、う、わああああああ!?」
 いきなり強引に担がれた俺は、すぐ傍にあった地面が一瞬で遠のき、ビルの屋上が見えた時点で口からは驚愕の叫びが漏れ出た。
 非常に高く跳び、さて、次はどうなるか。もちろん今の技術では重力を無視することなど出来ない。よって、落下する。恥ずかしながら、俺はこういった絶叫系の娯楽機械に有りそうな感覚は非常に苦手である。
 結論として、俺は意識を失った。


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