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2011/05/27

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 教室の黒板に玉中君(仮名)とチョークで絵を描いていた。どちらの方が上手く「はらぺこあおむし」の表紙を再現できるか競い合っていたのだと思う。玉中君が先に描き終わり、僕の絵が完成するまで挙動不審な動きをしてこちらの反応をうかがっていたようだが無視した。完成した絵を比べると両者の間には明らかに違いがあるものの、どちらも「はらぺこあおむし」の表紙そっくりだと言われると、そう人を納得させてしまう魔力が込められているように感じた。実際二人とも準備していたはずの自らの勝利を主張する言葉を失ってしまい、四つのうろたえた目が絵から絵へと往復するばかりだった。
 背後から男子と女子の入り混じった笑い声が聞こえなかったら、このシャトルランは終わらなかっただろうと思う。教室の中は顔のない笑いで充満し、それが僕に向けられた物でないにせよ、とにかく居心地が悪いものには違いなかった。もしかしたらドアが開かないんじゃないかという危惧があったが、手をかけるとすんなり横に滑ったので、迷うことなくこの空間からの脱出を選択した。

 笑い声のユニゾンがぱたりと絶えた頃には、無意識に家の近くまで逃げ帰って来ていたのに気付いた。しばらく歩いて家の前まで辿り着いたが、このまま家に入るのも何となく惨めな感じがして、ツタの絡まった正門と塀に掛けられた「犬に手を近付けないで!」という注意書きの前を他人のふりをして通り過ぎた。
 すると家の横に以前には無かった、緑色のフェンスで囲まれた小さな保育園のような土地を発見した。現実にこんな事が起こったなら僕はまず「家の横にこんなものなんてなかったぞ、さてはこれは夢か?」と疑っただろうが、夢の中の僕は「家のすぐ横にこんな場所があったなんて、全然気付かなかった! すげえ!」と無垢な子供のように心を躍らしていた。
 入口のすぐ傍、揺れる木陰の中でしばらく観察していると、建物の中から犬が十匹、猫が三匹飛び出してきた。はしゃぎ回る動物たちに心惹かれ、自ずと敷地内に入り込んだ僕は職員らしき男性に触れてもいいかと尋ね、了承をもらうと早速一匹の黒い犬の頭にぺたりと手のひらが置かれた。湿っていたのが僕の手か犬の毛か分からなくなるまで、上下する頭蓋の輪郭を確かめていたのを真っ白な猫が凝視していた。僕はその視線に気付くと、その猫を抱いてやろうと近付いたがそっぽを向いて避けられてしまった。犬を撫でただけでもう十分満足していたし、その臭いが付着した手では猫が嫌がるのも当然だろうと思い、素直に湧き上がってきたそろそろ家へ帰ろうという気持ちに従うことにした。
 家の前に戻り、車庫から庭に踏み入ろうとしたところで、目の前の自分の家であるはずのものにちらつく微細な違和感を嗅ぎとった。その正体を掴もうと動ける範囲内のあらゆる角度からその建物を念入りに調べたところ、違いこそほんの僅かであれどこれは自分の家ではなく他人の家だという事実を見極め、それは隣に急に見知らぬ施設が出現した理由に噛み合うものだった。
 僕は本物の自宅に帰り、母にこの家によく似た建物についての話をすると、興奮気味にその場所について知りたがり、偽の自宅まで一緒に歩いて行って教えなければならなかった。到着すると同時に母はまるで大発見とばかりにはしゃぎ出し、庭を歩く蟻にすら夢中になって、この場所のありとあらゆるものすべてに目を奪われているようだった。僕は呆れて一人歩いて、再び帰宅することにした。

 気付くのが遅すぎたと言うべきか、僕は今まで家に帰る道などこれっぽっちも意識したことがなく、だから今まさに道に迷っているのだということを否応なしに思い知らされた。足跡が白いほど雪が積もり、月が明るいほどに空は黒かったが、不思議と寒さは感じなかった。警備服を着た老人とすれ違い、少し歩いたところで看板をじっと見ている男の子がいた。男の子が僕のやって来た方向へと歩み始めたのを見計らい看板を確認すると、CDショップでセール中とのことだった。
 それを見て僕も急にCDが欲しくなり、店の場所が看板から読み取ることができないのでさっきの男の子の後を付いていこうと踵を返すと、前方から飛来する騒がしさに足が立ち止まった。男の子が先ほどの頑固そうな老人に捕まり質問攻めに遭っている様子を想像し、その不幸を憐れんだ。しかし厄介事はこちらも御免なので、できるだけ人に見つからないように目立たない小道を歩いてこの場を回避することにした。

 眼前に巨大な遺跡が広がり、足元の雪が石灰の床に変わっても僕は店を求め彷徨い続けていた。見事に切り揃えられた大きなブロックを懸命によじ登っていくと、中腹の辺りに横たわっている、小さな湖と言えるほどのため池に到達した。池のそばにいかにもなレバーが顔を出していたのでそれを倒してみると、水面に波紋が巻き起こり、その中心から遺跡の雰囲気にそぐわないトタン造りの建物が全貌を露わにした。それは紛れもなく、僕の探していたCDショップだった。
 念願の店の中に入り、勢いそのままに僕はCDを一枚買った。しばらくは事が上手く運んだ喜びを噛みしめていたが、ふと手にしたサイモン&ガーファンクルのCDをじっと見ていると、なぜか無性に不安になってきた。その不安がはっきりとした既視感となって迫ってきた頃には、先刻の幸せな気分などすっかり霧散してしまい、ただ確認もせずに既に所有しているCDを買ってしまったことへの後悔だけが僕を支配していた。無駄遣いをしたという事実が体の上に伸しかかり、鈍る感覚の中で僕の意識は混濁し外部へと弾き出された。

 現実に戻り、日記を綴りながら夢の中の自分の浅はかさを笑っていたが、そういう自分も小さい頃ドラゴンボールの第六巻を知らず知らずのうちに三冊も買っていたことを思い出し反省する。
 
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