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直交しただけ(お題短篇企画に投稿させて頂いたもの)

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あの時、教授の頭を鷲掴みにして残り少ない資源を毟り取れば良かった、ああ、それより使い道の無さそうな股間をヒールで蹴り潰してくれば良かった。煙草を噛みながら舌打ちをする。
 ふぅっと吐き出す煙は明るくなりかけた空に消えて、目の前に広がる海と朝日とわずかな漁火に目を細めた。九月も半ばで少し寒くなって、特に明け方は一気に気温が落ちるのでストールを巻いた腕を抱く。
 海沿いの漁師町に唯一あるコンビニ、そこで私はここ数日明け方煙草を吸うという習慣を形成した。住んでいる家はここから自転車で二十分以上かかる町で、この漁師町は母の実家のある場所なだけで私に何も関係無い場所だ。明け方に騒いでいる奴が居なくて、ある程度家から離れていて、喫煙スペースが入り口から少し離れていて、という条件を充たしたのがここだったから使っているだけだ。幸いにも眺める景色も綺麗で、数十分ここに居ても店員は何も言って来ないので数日愛用させて頂いている。一応何か買ってはいるし。
 ここ数日の私は朝三時に起きて家を抜け出して、自転車をこいでコンビニに来て数十分かけて煙草五本程を消費して、また自転車をこいで家に帰って、二度寝をして、家で家事手伝いみたいな事をして、夜に父親が持っている酒を鱈腹飲んでそのまま寝るという屑のようなニートをしている。実際学生という身分はあるが、身分をくれている場所から実家に逃げ帰ってきた。
 だって未来が潰えてしまったから、確実に行く末が今の屑みたいな生活と同等だったから。
 再度煙を吐き出すと、あ、と思い出した。逃亡という名の帰省をする直前にクレカ引き落としの預金足りなくて止まってコンビニ支払の請求書が来ていたんだった。私が預金を馬鹿みたいに下ろして使いまくったせいだけど。
 半分まで吸い終えた煙草を灰皿に押し付けると、鞄に入ったままだったその紙を取り出してレジに向かった。いらっしゃいませの声も店員の姿も無いレジに立って、すみませーんと声をかける。品出しか何かをしていた店員がやって来て、対応してくれた。このお兄さんとはここ数日毎朝のように会っている。
「これ、支払で」
「はいお待ちください、はい、三万五千六百八円ですね」
 財布から四万円を出して小銭を探している時、判子を押していたお兄さんの手が止まって、あれ、あれと言い出した。何か問題があったのかと怪訝な顔をしていると、お兄さんは私の顔をじっと見た。
「原真理奈ってあの原か?田井家中学やないけ?えーっと俺、田中司なんやけど覚えとらんけ?」
「田井家中学だけど、田中?ごめん覚えていない」
「中二中三クラス一緒やったやんか!ほら、野球部で、黒くってえーっと松田とかと一緒に居った奴」
 話しかけてくる男に見覚えが無かったから、ナンパか何かかと怪しんだが、色々情報をくれるので段々思い出してきた。田中司、ああ、一緒だったような気がする。野球部で真っ黒で中心グループのサブって感じで、身長高くて運動神経良くてモテていた気がするな。思い出した思い出した、野球部のピッチャーだった人で松田とよくつるんでいた、いけ好かない奴だ。何か家庭に問題あるんじゃなかったっけ。
 中学の思い出が走馬灯のように蘇ってきて、目の前の人と一致する名前の人を思い出したので、ああ、と笑顔を見せた。別に仲良くもなかったし、三年間で喋った言葉なんか一言二言な気がしないでもないが、話しかけてきてくれた手前無碍に出来ない。
「懐かしーな、お前成人式来とったっけ?すげー何かえれぇ変わってんやけど」
「成人式は式は行ったけど同窓会は行ってないよ。てか田中君も変わったね、色白くなってるしわかんなかった、ごめんねー」
「あーもー中学から十年以上経つんやなー。お前まだ結婚してへんのやな。あ、わり、金。はい、どーぞ」
 不躾な質問をしながら田中君は請求書を千切って領収書となる部分とお釣りを渡してくれた。つい先ほど思い出したばかりだが、私の記憶にある田中君は、真っ黒に日焼けした坊主頭で俗に言うイケてるグループに所属していた野球部の長身のエースだかその次のレベルだかのピッチャーだったはずだ。
 けれど目の前に居る男は私よりは黒いが色白で、髪も茶色でひょろっとした長身の眼鏡をかけたインドア派っぽい男だ。
「お前毎日毎日来とったけど……。早起きやな、あれお前家ここらじゃないがじゃないがけ?小学校こっちちゃうやろ?」
「うん、まぁね、ここ海見えるし」
「ふーん。あ、俺六時上がりなんやけどちょろっと話さんけ?」
「ごめん、もう帰らないと。また明日も来るからさ」
「マジかー、明日は俺入ってないがやちゃ。そんならよさる遊ばねぇ?お前ん家迎え行くわ」
 何でこの人はこんなに乗り気なんだろう、と思いながらも実家の場所を教える。実家の近くの公園に夜六時に待ち合わせを決めてコンビニを出た。欠伸を堪えて自転車に跨る。朝の冷たい風を浴びながら久しぶりに家族以外の人と話したことで心臓が脈打っていた。
 家に帰って極力音を立てずに玄関の扉を閉めて、足音を消して二階の自分の部屋に入る。着ていた服を脱いで消臭剤をかけるとパジャマに着替えて口臭ケアのタブレットを噛んでベッドに寝転がる。小鳥の囀りが開けっ放しの窓から聞こえて、うるせぇと呟いて目を閉じた。
 
 母親の真理奈もう起きっしゃいという声で起きたフリをしてパジャマを着替えて顔を洗う。ショートパンツとTシャツを着て、髪の毛を濡らしてパーマを再生させながら遅い朝食を食べる。父親はもう仕事に行って居ない。と、いうことに母親はしているけれど今朝も革靴が無かったから帰って来ていないのだろう。母親が米を研ぎながら弟の愚痴を喋るのをニュースを見ながら聞き流す。私は聖徳太子でないから、どちらかしか聞けないのだ。
 自然酵母を使っているとか聞いたパンをトーストして齧り、殆ど牛乳なミルクティーを啜る。年の離れた弟は私と同じように大学院に進みながら、今更俺にこの分野は向いていないと言い出したらしい。笑ってしまう、知らねぇよ後期中二病患者の事なんてよ、と脳内で悪態を吐く。ただ、私は弟の事をそこまでバカに出来ない。私だって今逃亡者の身だ。向いていないという自分の中での不安よりもっと上の、他人からの評価によって傷心となって逃げてきたのだ。
「あ、今日夜ご飯要らない。遊び行ってくる」
「え!?誰とけ?」
 母親の驚いた声に不快な思いをしながら、清田君って人と呟く。母親が驚いた気持ちも分からないではない、私は地元に帰ってきてから友達の誰とも連絡を取っておらず、ずっと一人でこの家で怠惰な生活をしていたのだから。当然母親は清田君に言及してきた。田中君とは関係性が無かったから、偽装するために高校の時の男友達清田君の名前を出した。 
「高校一緒だった人、ほら、昔友達って言ってなかったっけ?今朝メールがあってさ、普通に飲んで来るから帰りの時間わかんない」
「清田君?あー何か居ったわね、あれ、どこお勤めなんやっけ?」
「えっとねー地銀だったはず」
 清田君とはここ二年程連絡を取っていないけれど、今ある知識をフル回転させて答える。母親は何時に帰るかわからないなんてお父さんには言えないわね、と笑って、納得をした。母娘間に秘密を持つのが好きな人だ、これで父親にバレることは無いだろうと安心する。どうせあの人は今夜も帰ってこないのだろう。
 朝食を食べ終えて自分の食器を洗うと母親と一緒に物干しルームで洗濯物を干して、すぐに軽く昼食を食べ、母親がパートに行くのを見送った。誰も居なくなった家の中で干すのと交換に取り込んだ洗濯物を畳み、掃除機をかけてウェットタイプのフロア用掃除シートを使ってフローリング掃除をした。それから畳の部屋を乾拭きして、縁側に出て一服する。灰は全て携帯灰皿の中に、鳥の囀りや近くの小学校の放送や子供の声を聞きながらぼんやりと過ごした。
 その後、軽くシャワーを浴びて化粧と着替えをするとパートから帰ってきた母親を迎えて、家を出た。田中君と変な関係になっても困るので下着は上下揃えずに、露出も控え目にTシャツとマキシ丈のスカートにした。変に気を使うのも相手に申し訳ないし自意識過剰な気もするのだが先制攻撃は大事だ。巡り巡って二十六の女が何言ってんだって話だが。
 待ち合わせの公園でスマホをいじっていると、田中君が乗った車が来てパッシングをされた。顔を上げて助手席に乗り込んだ。車内はジャスミンの臭い匂いがした。
「お迎えありがとー、どこ行く?」
「んーならとりあえずドライブでもすっけ?腹減っとる?」
「微妙かも。ドライブしたい!どっか良い場所知ってる?」
「なら海沿い走ろーけ、適当に降りてもええし、近場に居酒屋あっから。あ、原って酒飲めるがけ?」
「ふふ、けっこー強いよ。田中君はどうすんの車」
「代行頼むしー、やべぇ俺もけっこー強いねんで、原どんな酒好きなんけ?」
 車内は結構快適だった。密室に二人閉じ込められて気まずい時間が続くかと思ったけれど、田中君がよく話題を振ってくれて、私もそれに答えたり振り替えして楽しかった。田中君も喫煙者らしく煙草を吸ったので、私も煙草を吸った。
「ふーん、原まだ学生なんや、やと思ってん」
「何で?」
「喋り方とか態度とか、社会人経験無さそうやったから」
「マジかーそーゆーのわかっちゃうのかー」
 それは常々思っていたことだから、再度確認して複雑な気持ちになる。この年で社会人経験の無い女、しかも博士なんて研究職以外でどうやって生きていくのだろう。
 一時間程ドライブをした後に海沿いの居酒屋に入った。小汚い感じだったけれど、私の好きなタイプの店だった。
「本気で居酒屋ーって感じやけどええけ?」
「そーゆーのちょー好きだよ、私美味しいお酒と美味しいお摘みあれば楽しいから」
 にっこり笑うと田中君も笑った。
 店に入ると田中君は店員に絡まれて、周りのおじさん達がちらちら見てきた。店員のお兄さんが、そうけー、原さん家の娘さんけーと言って周りのおじさんが納得したように、嘲笑うように視線を戻して行った。はいーと笑顔を作っておしぼりを受け取るとメニューに視線を落とした。
 あーうざい、父親の噂とか私の噂とか色々出回っているんだろう、排他的なそれしか話題の無い物好き共が。
 生ビールで乾杯して、好き勝手に注文しながら田中君と話しを進めた。言っていた通りに彼はお酒に強いらしく、二人で飲みあった。田中君が煙草を吸い始めて、私も煙草を吸いながら焼酎ロックを進めた。
 田中君の喋る話題はほとんど地元の人達の動向で、面白いのだけれど彼の世界も狭いのだなと思った。私だって高校まではそうだったのだから仕方ないけれど。逆を言えば私の世界も大学だけで狭い。懐かしいイントネーションが私を包む。
 段々と二人共テンションが上がってきた。
「マジで真理奈やべぇ良いんやけど、えれぇ飲めるし食えるし吸えるしお前女かよ!」
「はぁ、女やよー司こそ女をこんな店に連れて来て……ちょーモテへんやろ」
「残念やったなー。落としとー女はこの店連れて来んー」
「あははは、落としたい女マジ可哀想、こんな良い店知らんのやー。てか今彼女居んの?」
「居らん、居らん、あれよ、二ヶ月前か?真田と別れた、覚えとらん?真田同小やねぇ?」
「うぇ、マジか、真田ちゃん?可愛い子やなかったっけ、勿体無ー」
 炙りスルメを齧りながら喋ると、田中君はバカみたいに笑った。スルメと酒と煙草をローテーションのように口に付けて、田中君と話す。ふわっとした頭を多弁で抑えた。熱いと腕捲くりをした私は女らしさを失って、田中君も同じように腕捲くりをした。
「そいでさ、何で司は私覚えとったん?私頭良うないから中学の記憶マジ無いんやよねー」
「頭悪いとか嘘付きなやー。あれや、お前体育バレーの時体育館の照明壊したことあったやろ。俺が体育のうぜー奴にオヤジの傷跡見つけられて騒がれた時に」
「あー……あれ、そういやお父さんって……」
「俺が高校時死んだんやちゃ、やけん俺高校中退、中卒よ」
 煙草に口を付けて煙を田中君に向けて吐き出すと、田中君は煙の中で笑った。
 そう、私が田中君と関わったような唯一の記憶がそれだ。田中君の家は有体に言えば父親がろくでも無い人だった。田中君を含め家族は皆父親の暴力を受けていて、それは周知の事実でありながら皆見て見ぬフリをしていたのだ。田舎の小さなコミュニティでは、あまりに酷い時には介入するという暗黙の了解があって、それ以外は皆見て見ぬフリをした。それなのに、新しく私達の担当となった体育教師は体育の授業中にその傷跡を見つけて騒いだのだ。
 男女に別れてネットで仕切られていた体育館で、その教師の田中何だその傷は、どうした、先生に言ってみろ等の大声が響いて、皆静止していた。その行為は私達の中でタブーだったのだ。私は子供ながらにその教師の言動にイラついて持っていたバレーボールをステージ近くの照明に向けて投げつけた。パリーンと大きな音が響いて、皆が一斉にこちらを向いたのを覚えている。
「うーん、私あーゆーダラな脳筋大っ嫌いなんやよねー。んな事ずっと前からわかっとったんに何を今更取って付けたように自分が見つけたって騒ぎ立てとうの」
「んでもそれ止める方法が照明破壊って何やねん、マジあいつ一瞬固まったけんな」
「大きな音出さんとって思ってん。あーあの後もじゃーかしかった、ま、私優等生やったから謝り続けたら何とかなったんやけどね」
 笑いながらお酒を飲み干すと、時間も時間だったので出ようかと店員を呼んだ。割り勘で会計をして、店の駐車場で代行の到着を待つ。店にかかっていたクーラーよりは生温い夜風が肌を撫でる。
 店の壁に寄りかかっていると、田中君が屈んだ状態で私を見上げて来た。
「なぁ、何で戻って来たん?夏休み、にしては朝のお前キモかったわ」
「キモいって失礼な。……そうやね、教授に見捨てられたから?」
 疑問形で首を傾げると田中君は何やそれと鼻で笑った。私は頭をがくんと後ろの壁にぶつけて満天の空を見ながら話し続けた。田舎は空が透き通っている。
「んーと、私研究室で教授のお気に入りやったんやけどー、今年入ってきた学部の三年生が来年飛び級が決まるほどの天才で、あ、でも飛び級はせんで大卒助手になる、みたいな。あー要するに私教授の下で助手なるか准教授なるか有名所でそうなるかのポストやったのに、そのお株をガキに奪い取られて暗に九州の知らねー大学紹介するよって言われとる高齢ニート予備軍の博士課程二年ってわけ」
「んー全然わからん」
 私の話を聞いた田中君は笑いながら言い切る。酒が入っている分もあって私も笑いながら頭を戻して田中君に視線を合わせると、要するに将来が台無しになったってこと、と言った。
 マジけ……、と田中君が呟いたところで代行の車が来て、結局話は切られる形となった。代行の車に家の近くまで送ってもらう。車内では二人共あまり喋らなくて、私が先に降りる時にまたコンビニでね、と手を振り合った。
 静かに家に入ると父親が帰って来ていない事を確認してシャワーを浴びた。軽く全身を洗ってパジャマに着替えて自室の布団に入る。髪の毛は面倒臭いのとドライヤーの音が五月蝿いからタオルドライ自然乾燥だ。目を閉じると内側がチカチカする。あの満天の空と同じだ。

 その後も習慣のように雨の日以外は毎朝あのコンビニに通って、煙草を吸って、コンビニ業務を抜け出す田中君と朝日に照らされながら喋った。あの日以来飲みに行くことはなかったけれど、一度田中君が早くあがる時があって二人で朝から発泡酒を飲みつつ途中まで一緒に帰った。
 今日の話題は田中君の妹の子供の話だ。つまり姪っ子。田中君の妹は高校卒業と同時に結婚して、多分出来婚で、その三年後に別れて今実家で生活しているらしい。その上の息子が今年小学校に入学したが、勉強があまり得意でないらしい。
「小一で勉強なんかしなくて良くない?」
「いやいやいや、それは真理奈やから言える話やろ、あいつにとっちゃ死活問題やからな。小一で勉強わからんってその後どうすんねんって話やろー」
「小一かー、んー全体的にわかんないの?」
「らしい、美羽も教えとっけど仕事あるし、その下の妹居るしまぁ手回らんってのが現状なんよ」
「ん、私教えようか?」
 どうしてそんな事を言い出したのかわからないが、私は田中君の姪の家庭教師を名乗り出た。いいのか、うん、という短い返事で契約が終了して、私のここでの役職が決まった。無職から名前だけの家庭教師に。

 田中君の家は宅地に建てられた小さな一軒家だった。週に三回火・木・土、平日は夕方七時から一時間半で土曜は昼三時から三時間、出勤手段は自転車で雨の日は延期するか居れば田中君が送迎を車でする事、報酬は一回につき煙草一箱という無償に近い形で私は家庭教師を引き受けた。元々金を取る気は無かったので煙草代が浮くのは幸運だ。母親には図書館で自習することにしたと言い訳をして、二日に一度のペースで田中家に通った。
 田中君の母親は線の細い人で何となく薄暗い空気を纏う人だった。田中君から連絡は行っていたのだろうが、原さん、お綺麗になられて等と笑顔で私を迎えてくれて少し怖かった。この人はどんな人でも受け入れてしまうのではないだろうか。息子と同じ年の女がほぼ毎日のように家に来る事に疑念は持たないのだろうか。
 それは田中君の妹も同じだった。美羽という名前も見た目も可愛らしい彼女は昼はファミレスでバイト、夜はキャバクラでバイトという接客業を掛け持ちしていて、営業スマイルなのかわからない綺麗な笑顔で息子を紹介してくれた。勉強の場所は親子三人の寝室で、そこでローテーブルを置いてやる段取りのようだ。
「原さんよろしくお願いしまーす、息子のカイトです。海でカイトって読むんでー。ホントアホやからガチでビシバシやっちゃって下さいー」 
「こちらこそよろしくお願いします。私中高生の家庭教師の経験はあるんですが、小学生って初めてなんで、至らない点もあるかもしれませんが、希望とか何でも言って下さい。カイト君初めまして、原真理奈です。よろしくね」
「うん」
「うんじゃなくて!あとー、申し訳無いんやけど、多分ないとは思うけど家に大人居ない時あるかもしれんの、やけど気にせんで上がって下さいね。ソアラも居るけど、この子は大人しいから気にせんでね」
 彼女は自分の腰元にくっ付いている女の子の髪を撫でた。真っ直ぐな目が私を見つめる。
 てかやばい、凄い名前だなって吹きそうになるのを抑える。最近の子供はこのくらい当たり前なのかもしれない。ローテーブルの上に学校の教科書と筆箱を置いて正座させられている小さな男の子を見て、大人しいものだなと思う。少し茶色っぽい毛は長めで耳にかかっていて、カラフルな柄のTシャツにカーキ色の短パンを履いている。お母さんにそっくりな目はくっきりした二重で、吸い込まれそうだ。
 私は、だったらソアラちゃんも一緒に勉強しようか、と兄とは違った切れ長な目を持つ女の子に笑いかける。髪質は同じで肩にかかるくらいのさらさらな髪が頭が上下に揺れるのに合わせて揺れた。ピンク色のワンピースはカイト君と対照的に無地でポロシャツをそのまま伸ばしたようなシンプルな作りだった。
「え、ごめんなさい。そんなつもりの言葉や無かったんやけど!え、二人も頼んで大丈夫やろか?……カイト、ソアラ、はい、よろしくお願いしますって」
 母親に頭を持たれて下げられる様子を笑顔で見ていた。
 その後今日は私ら居るからカイトだけよろしくお願いします、と二人は出て行った。最初に学力を確認しなければと、私はローテーブルに向かった。
「正座辛くない?崩して良いよー。まず授業で教科書のどこまでやったか教えてくれるかなー」
「ん……」
 カイト君がぱらぱらと教科書を捲る。一向に捲る動作は終わらず、もう一度最初から捲りだした。ああ、難航しそうと笑顔で脳内計画を練りながら、連絡帳みたいな物はあるかな、と私は話しかけた。
 その日は何とか現状を把握して、途中まで送っていくと言った美羽さんと一緒に自転車を押して歩いた。今日はキャバクラがお休みらしい。
 サンダルの隙間を風が吹き抜けて足元と剥き出しにしている首元が少し寒い。真面目に見えるように髪をアップにしてきたのが防寒の面で良くなかった。自転車を押して、隣で私より露出の高い格好をしている美羽さんを見る。デニショーから覗く足は真っ白で寒そうだ。敬語無しと言い合って、笑い合った後に他愛無い使っている化粧品なんかの話をして、中学の話になった。
「原さんのこと、私前から知っとったんやちゃ」
「え?何で?」
「偶々職員室で数学オリンピック出っしゃいって言われて、それ断ってるとこ見とってん」
「あー、国内のやつね。あれは……目立つの嫌じゃん。別に出てもメダルとか取れる気しなかったし」
「必死の数学の先生に笑顔で軽く嫌ですーって言っとって、どんなお高く留まった人やねんって思ってん」
「うわ、印象最悪だ」
 二人で笑うと、急に美羽さんが足取りを止めた。私も合わせて足を止める。この時間ではもう暗くなった外灯も少ない細い道に二人で佇む。特に車も来ること無いからいいのだが。
「あの、原さん兄とは付き合わん方がええで?」
「ん、えーっと私ら付き合って無いよ?」
「うん、そうは聞いたんやけど、もし何か、そういう雰囲気なったら止められね」
 私が首を傾げると、美羽さんは悲しそうに笑った。歩くのを止めたせいか足元はさっきより寒く感じてしまう。
「兄ちゃん良い人なんやけど、オヤジの血継いどるつーか、あたしやって継いどるけど……彼女殴ったりすんねんな。二ヶ月以上続いたら特に。やけん兄ちゃん二ヶ月以上彼女続けんようにしとるつーか……ね、オススメ物件や無いねん」
 背筋がぞくりとして泣きたくなった。目の前の子はもっと泣きそうな悲しい笑顔をしている。私はそっか、と呟いた。
 優しすぎるのだ、この人達は。もっと自分の利益のために他人を削り取って良いのに、と自分がつい数週間前まで居た場所を考える。自分の兄の幸せを願いつつも赤の他人の私の心配なんかして、きっと結婚とかしたいはずなのに自分の衝動のために別れたりして、中学の記憶しか出てこない私なんかを家族で受け入れて。
 只単に暇潰しに、それよりもっと酷く何も肩書きをこの場所で持たないことが嫌で、学校から逃げているだけという現状を直視するのが嫌で来ている私を気の良い人だと思っている。いや、もしかしたらそれを分かった上で逃げ道を提供してくれているのかもしれない。三蔵法師に頭を垂れる孫悟空もこんな気持ちなのだろうかと、奥歯を噛み締めた。
「ま、そんな気まわさないで、私悪いけど司とどうこうなる気無いから!」
「あ、なら良い、聞かんかったことにしてなー。大体原さんと兄ちゃんなんか似合わな過ぎやしな」
「分かるー?私ガタイ良い人好きなんだよねー」
「分かる分かる!マッチョええよねー!」
 重苦しい空気を消すために二人で笑い合うと、じゃあここで、と美羽さんは家に戻って行った。私は手を振って自転車に乗るとペダルをこいだ。てっきりカイト君やソアラちゃんの事について色々言われたり聞かれるのかと思ったのに、彼女が言いたかった内容は私への忠告だった。
 わからない気持ちで心臓が握りつぶされそうで、信号で止まった時に煙草を取り出すと火を付けた。そのまま青信号で進むと煙が顔に直撃した。両立出来ない物は口から外して、手に持ちながら家まで自転車をこいだ。
 
 それからは体当たりというか、手探りというか、一生懸命カイト君と向き合って、たまにソアラちゃんのお絵かきや英語を見たりしながら、漢字や計算なんかを教えた。懐かしいと思う気持ちと同時に、何故躓くのかという疑問も生まれた。それはとても壮大で、私には理解出来ない事情だったのだけど。
「マジ凄いよ、カイト君天才なんだけど!計算がどうしてわからないのって問い詰めて行ったらコップ一杯のお水にコップ一杯のお水を足したらコップから溢れて二杯にはならないよって!凄くね?忘れてた感覚なんだけど!」
「真理奈がようけ興奮しとる意味わかんらんけどカイト面白いわ……」
 家庭教師を始めてからも田中君と早朝に煙草を吸う習慣は変わらず、私は授業の進み具合や諸々を話すようになった。ぶっちゃけ、今まで話すことがそんなに無かったのだ。彼と私の共通の話題は中学の話か共通の知り合いの現況かテレビや音楽の話くらいしか無いのだ。それもテレビは田中君が仕事の関係であまり見ていないし、音楽は私があまり詳しくなかった。何とか音楽を聴きまくって話は合わせていたが。だから私が苦労せずに話題提供出来る二人の共通項が生まれて、楽になった。
 ふわりと煙を吐き出して、そういえばこの煙だって一とか整数で数える事は不可能なのだと思う。私が普通に分別していた物をまだ知りえない子供が一緒くたに考えて、それでいて不完全な知識で理解しろなんて無理強いをしている話なんだ。そんな事自分が小学生の時になんて思いつきもしなかったのだろうけれど、あの子供は触りに気付いている。
「凄いなぁ、凄いよ、色々発見できて面白い」
「なら良かった、あ、今日これから雨振るみたいやから夜送迎するわ」
「んーありがとう。また十五分前に公園に居るね」
 隣に立っている田中君に視線を合わせると、眼鏡越しで目が合って細められた。その視線にすぐ目を反らして、煙を一気に吸い込むと短くなった煙草を灰皿に押し付けた。そのまま、じゃあよろしくと言ってコンビニを去った。
 いつものように静かに家に入ると、静かに部屋に辿り着いた。消臭剤をかけていると大きな足音がした。昨日父親が帰ってきたから細心の注意を払ったのにどうやら朝のトイレか何かのようだ。急いでパジャマに着替えると部屋の扉をノックされた。畜生気付いたか、と寝るフリを止めて扉を開ける。寝巻き姿の父親は私の部屋に入って扉を閉めた。入ってきた瞬間に煙草の香りがして、喫煙者相手のために消臭なんてしなきゃ良かったと後悔した。二人でベッドに腰掛ける。
「おはようございます」
「おはよう、お前何夜中抜け出しとるんや。あと聞いたぞ、お前田中んとこの倅と付き合っとるんか?何考えとるんや」
「夜中抜け出したのは眠れなかったからで、田中君とは付き合ってはいません」
 威圧感に負けそうになりながらも父親を見つめる。きっと今母親は気付かず寝ているか聞き耳を立てているのだろう。
「別にお前が何しようと結果さえ残せば文句は言わんが、お父さんやお母さんの事も考えなさい。もうお前もいい年なんやからな」
「…………はい」
 睨みながら言うと、父親は何やと睨み返して来た。
 普通の父娘がどんなものかは知らないが、父とは私が博士課程に進んでから遅すぎる反抗期と彼の老化による過干渉が重なって冷戦状態だ。
 父は私が博士課程に進んだ事が気に入らないのだ。元々、院に進んだ事自体気に入っていなかったのにその上の過程に進んだ。酷く反対されたが押し切り、その辺りから父親の浮気やら良くない噂やらを聞くようになったのとで一度大きな喧嘩をした。それ以来一緒にお酒は飲まなくなったし、会話も少なくなった。
 私の自分が家庭破壊させそうになっているくせに何言ってんだという気持ちと、父親の女のくせに院に進んでどうするんだ、その上経費は俺が出しているという気持ちが衝突して、きっと同属嫌悪も重なって、冷戦は終結していない。
「いいえ。来月には向こうに帰ります、そんな状態でこっちの人と付き合うわけがありません」
「そうやな、お前が遊びやってもあんなダラな男選ぶとは思えんしな。ただそい意味やなくとも付き合う相手は考えっしゃい。あの田中やぞ、わかっとるんやろうな?」
「わかっています。ただ私はそういうので人を差別しません」
 金でしか、メリットでしか、色欲でしか動かないこの人が私は大嫌いだ。そしてそんな男にそっくりな自分も私は大嫌いだ。
 朝の空気の中で二人で睨み合いをして、父親は頭をかきながら出て行った。足音が遠ざかって、小さく舌打ちをすると鞄の中から煙草を取り出して握りつぶした。ヘビースモーカーの父親と結局根元は同じでお互いに枝を伸ばして傷つけあっているだけなのだ。だったら物理的に頬でも張ってくれたらいいのに、そういう跡に残らないようにと無駄な男親の矜持を保っていると勘違いしているのも、私が気に食わない理由だ。きっと相手だってその年で親の脛を齧っているくせに無駄に反抗心を剥き出しにして、何を正義ぶっていると思っているのだろう。互いに互いが分かるから余計に腹が立つ。
 血は、争えない。
 
 田中君の言葉通り雨が降って、迎えに来てくれた車に乗り込んだ。カイト君に計算の続きを教えて、ソアラちゃんに絵を見せてもらった。この所は大分二人共慣れて来てくれて、カイト君は当初と違って結構我が強くて面白い。私もつい汚い言葉で応戦してしまったりして、二人でごめんなさいと謝り合ったりするのだ。世の中が全てこんな単純な言葉で解決すればいいのに。
 時間となり、田中君の車に乗って帰ろうとした。外はもう雨が上がっていたが、車で送ってもらったので自転車が無く、簡単に歩ける距離ではないのだ。 
「司、今日はコンビニ無いの?」
「おう、やから明日朝は会えんがいちゃー」
「……そっか」
 今日分の授業料である煙草のビニールを開けて一本車内で吸う。口内を喉を肺を煙が通っていく。
「な、真理奈、時間あっけ?」
「ん?何で?」
「飲み行くか、久しぶりに!」
「マジ?じゃあちょっと家に連絡入れる」
 田中君が音楽のボリュームを落としてくれている間に母親の携帯に連絡を入れた。オッケーでーすと言うと、ちらりとこちらを見て田中君は笑いながらボリュームを上げた。私も笑い返して二本目の煙草に火をつけた。
 一軒目は以前行った居酒屋に、二軒目は車を放置して少し海沿いに歩いて日本酒メインの居酒屋に、二人でよろけながらコンビニを目指して歩いた。
 記憶は一軒目の終わりくらいから曖昧になって、二軒目では教授や研究室の悪口を酷く口走っていた気がする。歩いている間は田中君も仕事や仲間の愚痴を喋っていた。二人で、あー結婚してぇとかあのクソガキ居なくならないかなとか、皆結婚しちまっとるーとか折角博士来たんによーとか、通じ合わない互いの愚痴で会話をしていた。酔っ払いに理解とか同調など不要なのだ。
 外は少し明るくなりかけていて、辿り着いたコンビニで発泡酒とチューハイを何本か購入して海を目指した。コンビニ脇に放置されていた盗難自転車に二人乗りをした。
 
「盗みの盗みって犯罪ー?」
「さー?知らんー犯罪やないけー、あれや、飲酒運転ー」
「二人乗りもやんー、犯罪でかいとやな」
「この長い長い下りー坂をーってやつやろー」
「あれ犯罪の歌やないがやないけー」
「いやそーゆーつもりちゃうしー、あ、やべ、零れた!」
 自転車の後ろに乗り、物凄いスピードで下りていく中、片手で田中君の腰を掴み、片手でチューハイを飲んでいたのだ。少し零してしまった。田中君も自転車は下りの勢いに任せていて、ほぼこがずに両手離しをして、左手に発泡酒の缶を持っている。自転車籠に入れられたコンビニの袋と私の鞄はがちゃんがちゃん音を立てている。
 勢いをつけて下りているから風が肌寒い。零したチューハイも、髪の毛も、言葉も全部後ろに飛んでいく。
 砂浜に着いて、道路から砂浜までの凄い角度を駆け下りて、ブレーキをかけない状態で自転車は砂に車輪を取られて急停止した。思いっきり田中君にぶつかって、そのまま落ちて尻餅をついた。チューハイを飲み干しておいて良かった。田中君は勢いで缶を落としてしまって、足元に中身が零れたそれが転がっている。
「痛ぇーーーー!!ちょー痛い!あははははは!!」
「俺も背中と手首やられとるわ、お前の全体重が俺の背中に……」
 田中君は自転車を停めて、私に手を伸ばした。起こされた私は砂塗れの身体を払って、コンビニ袋に手を伸ばす。二本目のチューハイを開けると、ぶしゅっという音がして溢れ出した。思いっきり籠の中でシェイクしたものな。溢れたチューハイが私の手と足元を濡らす。それを見て田中君は自分の身体から離して缶を開けた。結局二人共手は汚れてしまった。
 私は溢れ出したチューハイを一気すると空き缶をコンビニの袋に入れて、海に向かって走り出した。途中で思いっきり足が縺れて転んで、立ち上がってそのまま海に入った。サンダルとソックスと七分丈のクロップドパンツは膝元くらいまでびしょびしょに濡れて、そのまま手を浸けて手を洗った。早朝の海の水は冷たく、一気に酒で上がった体温が冷めるようだった。
 田中君もGパンを膝まで捲り上げて、ビーサンのまま入ってきた。
「冷てーーー!一気に冷めるわー」
「わかる、マジ冷めた。私今日酷いわ」
 笑いながら言うと、田中君は俺もと笑って水をかけてきた。冷てぇと叫んで応戦とばかりに水をかける。バカップルみたいに水をかけあって、服や髪の毛まで水に濡れた。
 水をかけ合うという行為をしておきながら、段々と心は冷静になってくる。乾かしてから家に帰らなきゃとか、そこら中痛いとか、あの坂登って帰るのかとか、こんな時間まで飲んじゃってるよとか、勢いは失われていく。水は冷たく、光っていて、空は白く、光ってきた。
「やべぇ、俺マジびっしょびしょなんやけど、てか、真理奈下着透けとる」
「いや、司も何かもうえらいところ水で張り付いとっからね」
「はっははは、やべぇ、Gパンって張り付くんけ、ってあ!!携帯!!やべぇ水没しとる!!」
 田中君はポケットから携帯を取り出した。それだったら財布もキーも煙草もジッポも全部水没しているはずだ。私は大声で笑うと、その声に田中君はむっとした顔をして、砂浜に向けて歩き出した。その後を追うと、田中君が小走りになって、自転車の籠から私の鞄を取り出すと綺麗な投球フォームでこちらに投げてきた。物凄い勢いで投げられて、私の鞄は波打ち際に落ちて貝殻のように波にさらわれて行く。
「ちょ、何でや!」
 鞄を海から掬い上げると、半分ほど濡れていた。田中君はこちらに向かって歩きながら、道連れやと笑っていた。薄いピンク色の小さな鞄は影を落として薄汚いピンクになっていて、私は笑いながらそれを砂浜に投げ、また海に足を浸けた。水平線に視線を向けると、漁火がぽつぽつと見えて、太陽も昇ってきている。夜明けだ、日の出だ、遮る物の無い太陽の光を浴びる。
 田中君も同じように海に入ってきた。その手にはまだ開けていない発泡酒が握られていて、ぷしゅっという音と共にまた溢れ出した。
「飲むけ?」
「おう。あーあ、もう全部びしょびしょ」
「なぁ、帰られよ。そのいけ好かん大学に」
 発泡酒を飲む手を止めて田中君を見つめる。太陽の光に照らされた彼は室内で見るより血の気があって逞しい顔をしていた。え、と言葉を吐き出して、彼の目を見た。水しぶきを受けた眼鏡の奥の目は優しく笑っている。
「お前はこげんとこで水遊びしててええ人間ちゃうんやから」
「……なら水遊びしててええ人間って何」
「ほら、俺みたいなさ……」
 田中君は私の手から発泡酒を奪って飲んだ。大きく喉が動いて、発泡酒が彼の中に取り込まれていく。缶から口を離して息を吐くと、夢も希望も薄い奴と呟いた。
 奥歯を噛み締めた。そのまま田中君の持っている発泡酒を奪い返すと、私も軽く一気した。
「司こそ、夢諦める必要無いやん」
「え?俺学生の時の将来の夢野球選手やったんやけど、なれんの?」
「いや、そんな突拍子も無いことやなくて、結婚」
 田中君は目を見開いた。眼鏡と水が太陽の光反射してきて眩しい。
「良い子がおるよ、きっと。司がこの人としたいって思ったらしていいんやよ。相手の事なんか考えずに自分の幸せだけ考えてええねん、結婚なんか」
「いや、独身のお前に言われても」
「うっせー、私だって院出てねぇお前に言われたくねーつーの!」
「うっせーブス!」
 薄給、貧乳、思いつく限りの罵詈雑言を二人でぶつけ合って笑うと、私は田中君に発泡酒を渡した。残りはもう僅かだ、彼はそれを飲み干した。合図をしたわけではないけれど、二人で揃って砂浜に歩き出した。もう太陽は完全に水平線から出てしまっている。
 濡れたまま砂浜を歩いて、また自転車に空き缶と鞄を入れて砂浜から道路に戻る。急斜面を登るのはちょっときつかった。
「戻って気が向いたら連絡寄越さっしゃいよ」
「無理ーだって知らないもん、司の携帯番号」
 自転車を押す田中君に笑いかけると、俺もや、と彼は笑った。
 お互い連絡先知らなくても会えたのにね、と背中に太陽の光を受けながら長い上り坂を登った。
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