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救いなき、部屋。

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 目が覚めると、そこは知らない天井だった。隣には知らない女がいて、その寝顔はどうしようもなく美しく、醜かった。体を起こす。壁にはアンティークな時計が掛かっていて、今が昼過ぎであることを告げていた。
 段々と意識が明瞭りとしてくるにつれ、昨夜の情景が思い出されてくる。

 酷く一方的な口付けを交わした昨夜の雨は、その後も休むことなく降り続けた。
「家へ、いらっしゃいな。私は佳いけれど、あなたが濡れて仕舞うわ」
 彼女に言われるまま、僕は彼女の住むマンションの一室へと附いて行った。エレベーターに乗ってすぐ、彼女は僕に撓垂れかかってくる。いや、撓垂れているように思えたそれは、ただ凭れかかっただけだったかも知れない。彼女は、酷い高熱を出していた。心なしか、息も荒い。
「熱、酷いじゃないですか。病院へは行かれたんですか」
「いやよ、病院なんか。それに、大したこと、ないもの」
「こんな酷い熱で、何を仰有っているんですか」
 彼女は不服そうな顔で僕を見ると、調度開いたエレベーターのドアからさっさと出て行って仕舞った。
 彼女の部屋は、六階の端にあった。
「取り敢えず、着替えた方が佳いです」
 僕の言葉に、彼女は小さく頷くと、バスルームに続くであろう引き戸を開けて、ふらつく足取りで中へ入って行った。
 一人残された僕は、何となく座ることも出来ずに彼女の部屋を見渡した。無機質な、瀟洒なワンルーム。セミダブルのベッド、三口のカウンターキッチン。かなり広い所を見ると、それなりに家賃は高そうだ。
 壁は打ちっぱなしの混凝土で、掛けられたアンティークの時計が現実感を麻痺させている。漠然と、ここにいたら戻れなくなる、そんなことを考えていた。


がたんっ


 どのくらい待ったろうか。突然の物音に、僕は急いで先程彼女が消えた洗面所へと向かった。
 散乱した黒い服と、真っ白い肢体。心配するより先に、幻想的な光景に圧倒された。長い髪はざんばらに広がり、細い肩に張り付いている。胸は小さく、肋が浮いていた。透き通るような左腕には、鮮やかに赤い傷痕が無数に刻まれ、その痛々しさはむしろ、彼女の美しさを助長するかのようだ。劇しい情欲を掻き立てられながら、僕は彼女の肩へと手を伸ばした。熱い。その熱で、僕は我に返った。酷い熱だ。汗とも雨垂れとも付かない液体でぐっしょりと濡れている。
 戸棚を漁ってタオルを見付つけ出すと、手早く彼女の体を拭いてベッドへと運んだ。流石に服を漁る訳にもいかないので、裸のままの彼女に布団をかける。上気した右の頬が、白い肌に映えて綺麗だった。何も言わず、色の変化のない左の頬に手を触れる。そのまま立ち去ろうとする僕の手を、彼女は弱々しく、握り留めた。彼女の表情に変化はない。どうやら無意識の行動らしい。

 彼女が求めるのが僕であろうと、他の誰かであろうと、その瞬間の僕には些末なことだった。熱に浮かされた彼女の、その傷だらけの左手から彼女の温もりを享受出来るという事実だけが、その時の僕の全てだったのだ。


11, 10

  

 キッチンのカウンターの上に鍵が置かれていたので、それを拝借して近所のドラッグストアへ向かった。風邪薬や栄養ドリンク、ゼリーなどを買い込んで彼女の部屋に戻ると、彼女はベッドに腰掛けて項垂れていた。
「もう、起きて大丈夫なんですか」
 はっ、と言うように彼女が顔を上げる。僕が戻らないとでも、思っていたのだろうか。
「頭が痛い」
 誤魔化すように顔を背けながら、彼女は答えた。僕が出ている間に、彼女は丈の長い、真っ白のナイトドレスを着ていた。幽玄という言葉は彼女のためにあるのだろう。
「お薬、買ってきたんです。お医者に罹るのが嫌なら、せめて飲んで下さい。コップはどこにありますか」
 不服そうな彼女に風邪薬を手渡し、キッチンへと向かう。彼女が何も答えないので、勝手に食器棚を開けてコップを出した。下半分が金属で、上部は赤い硝子の高価そうなグラスは、ひやりとして肌に心地好い。蛇口から水を注ぎ、風邪薬の容器と格闘している彼女の元へと運んだ。
「ビニールが開かないの」
 恨めしげな貌で風邪薬の内袋を睨める彼女が、なんだかひどく可愛らしい。この部屋では、彼女はいろいろな表情を見せる。それが、嬉しかった。

 結局、彼女の家を出たのは日が暮れてからだった。公園を抜けて、僕の住むアパートに帰る。雨は未だ降り続いて、僕の足取りを鈍らせた。
 昨夜、どうやら鍵を開け放しで家を出て仕舞ったらしい。緩慢な動作でドアを開けると、玄関に綺麗に揃えた靴があるのに気付いた。赤と黒の、チェック模様のラバーソール。持ち主には、心当たりがあった。よく聞くと、ダイニングの方から鼻歌も聞こえる。
「人の家で何してるのさ」
 そこにいたのは思った通り、僕らのバンドのヴォーカルだった。ダイニングの椅子に座って鼻歌を歌う彼女は、PEACE NOWのカットソーに、ALGONQUINSの安全ピンの付いた赤いチェックのジレと、同じシリーズのミニスカートを合わせていた。スカートの中にはパニエが入っているらしく、裾からは黒いフリル状の、固いレースが覗いていた。
「次のライヴが決まったから電話したのに、君、出ないのだもの。だから直接伝えに来たら鍵が開いてるから、中で待たせてもらったのよ。それとも君、女の子を外で待たせる方がお好みだったかしら」
 そういえば、携帯電話を置いて出たのだったか。机の上に置き去りにされた彼は、寂しそうにちかちかとLEDを光らせていた。
「見てないわよ、中」
「君には前科があるからね」
 彼女は肩を竦めると、また鼻歌を歌い出した。携帯電話を開くと、着信が三件、迷惑メールが二件、入っていた。着信はいずれも目の前にいるヴォーカルからだ。
「それで、何時なの。ライヴは」
「来週の土曜」
「来週。またちょっと、急過ぎないか」
「佳いのよ、これで。だって来週の土曜日よ。とても光栄だわ」
「何の事さ」
「矢っ張り知らないのね。イベントがあるのよ。去年一緒に行ったでしょう、"S&M's"。お呼ばれが掛かったの。ね、光栄でしょう」
 S&M'sとは、三ヶ月に一回催されるイベントで、アマチュアからインディーズの音楽アーティストを中心として開催される。アンダーグラウンドでは有名で、自分から出たいと申し出ることは出来ず、主催者側からのオファーで出演が決まるのだが、今回は僕らのバンドに白羽の矢が立ったらしい。
「でも、何故こんなにぎりぎりになってオファーが来るんだい」
「一組、欠番が出たらしいの。本当は次回の候補に入っていたのを、急遽繰り上げたのだって」
 それからは、二人で当日のセットリストなどを話して終わった。泊まる、などと言い出すことは目に見えていたから、終電がなくなる前に追い出すようにして家へ帰した。駅まで送る、と言う僕に惨めだわ、と返して、彼女は去った。雨はもう止んでいるらしい。今しがた出て行ったヴォーカルの傘が忘れ去られていた。明日は、大学へ行かなくては。ぽつねんと置き去りの傘を見ながら、一つ、ため息を吐いた。

13, 12

  

 大学は、至極つまらない場所だった。友人はあまり多くはなかったし、講義のレヴェルは低かった。同じ相手と同じような話をする。授業を受けて、家に帰って、その繰り返しの単調な学生生活。あの人と会うようになってからは、その色はさらに濃くなった。
 それでも僕が惰性でも大学へ通うのは、音楽が好きだったからだ。僕の所属するバンドは同じ大学のメンバーで構成されていた。週に一度、ライヴが近付いてからは週に三度のメンバーとの練習が生命線だった。
『三限終了後、第一音楽室で待つ』
 いつものように一人で昼食を摂っていると、バンドのヴォーカルからメールが届いた。大学の敷地の外れにある旧校舎の三階、第一音楽室と呼ばれる教室が、僕らの練習場所になっている。返信はしなかった。どちらにせよ、彼女は待っている。そういう人だ。
 ヴォーカルは、僕より二つ上の学年で、僕より三歳年上だった。可愛らしい容姿と厭味のないコケティッシュな性格で、彼女を慕う者は多い。しかし、彼女もまた、いつも独りだった。高校時代に遭った虐めが、大学での薄っぺらなアイドルのような扱いが、彼女を歪めた。彼女はその魅力故に追い詰められたのだと、僕は思う。
「随分、どうでも佳い話をするのですね」
 その話を聞いた時、僕は心からそう思った。実際に目の前にいる彼女は酷く独善的で我が儘だったし、当時の僕に取ってその容姿は、むしろ武器のようにすら思えた。
 吐き捨てるように言った僕の前で、彼女は笑った。一箇所だけ染めた金色の髪を揺らしながら、とても愉快そうに笑ったのだ。つられて、僕も笑ったと思う。それは、どうにも卑屈な響きだったけれど。

 記憶を反芻していると、いつの間にか講義は終わっていた。手元を見れば、ノートもきちんと取っている。僕はうんざりしながら荷物を纏めると、ざわめき始めた教室を後にした。
 第一音楽室へ入ると、彼女はこちらに背を向け、窓の外を眺めていた。今日はM∀Dのショキングピンクのカットソーに、PUTUMAYOの黒い、セパレートでレッグガードの付いたミニスカートを履いていた。首の所から腰の辺りまで一直線に入ったスリットから、ブラシェールのホックが覗いている。
「先輩」
 声を掛けても、彼女は振り返る素振りも見せず、代わりにただ、ひらひらと手を振った。僕は頓着せずに練習の準備を始める。ギターをケースから出し、常に持ち歩いているチューナーにシールドを繋ぎ、電源を入れる。チューニングをしていると、いつの間にか先輩が近くに来て、凝っと僕の指先を見詰めていた。お互い、何も言わなかった。チューニングが終わると、チューナーの電源を切って教室に常備されているアンプに繋ぎ直した。電源を入れながら、僕は尋ねる。
「他のみんなは、今日はこないの」
「そうみたいね。メールに返事がないから、わからないけれど」
「そうか。二人でも、練習するのでしょう」
「もちろん。『無知』を弾いて。歌うから」
 彼女は、既にマイクの前にいた。この間話し合ったセットリストには、確か入っていなかったと思う。僕は気にせず弦を弾きだした。彼女の囁くような歌声が、耳に入ってくる。



僕は何も知らない
君は何も知らない
彼は何も知らない
誰も何も知らない

吐き気を堪えてうずくまる
白目を剥いて飛びたがる
ただこの時が君を僕を
白痴に堕とす

僕は何も知らない
君は何も知らない
彼は何も知らない
誰も何も知らない

知らない知らない知らない
白目を剥いて首を振る
ただその時が僕を僕を
狂わせるんだ

(((彼は君を抱いて)))
君は僕にくちづける
(((僕は君を抱いて)))
僕は何も知らない
(((君は)))
何も知らない

僕は何も知らない
君は何も知らない
彼は何も知らない
誰も何も知らない

「知ってるくせに」



「知ってるくせに」
 歌え終えて、小さくもう一度歌のフレーズを呟くと、先輩は重そうなラバーソールを鳴らしてアンプに歩み寄り、そのシールドを思い切り引き抜いた。


ッィィイインンッ


 耳障りな断末魔が、空間に満ちる。文句を言おうとした僕の唇を、何か暖かいものが塞いだ。ぬるり、と、僕の口腔を艶しい感触が支配した。ざっくりと開いたカットソーの胸元を、更に引き下げながら引き抜いて、耳元に囁く。
「最初から、君しか呼んでいないのよ」

 誰も来ない旧校舎の、三階にある薄暗い音楽室で、僕らは醜いセックスをした。スペルマと愛液の匂いで鈍る頭の片隅で、ああ、またか、と、ぼんやりと思った。僕の下で喘ぐ彼女の上気した頬の左側に、一瞬、痣が浮いて見えた。同時に、僕はオルガスムスに達っし、欲望を吐き散らす。何度も。何度も。

 何度も、達した。
 それがどうしようもなく、
 吐き気を、誘った。


 

「もう、行くね」
「冷たいの、ね。相変わらず」
「また、次の練習で」
 身支度をして、時折びくびくと体を痙攣させる先輩を置いて第一音楽室を出る頃には、もう外は暗くなっていた。そこから地元の駅に着くまでの記憶は、なんだか断片的でしかない。大学の門を出て、気付けば駅で電車を待っていて、また気付いたら電車の中で、そうして気が付けば、地元の駅の改札だった。綺麗に拭き取ったはずの粘液の匂いが、厭に鼻につく。薄れていたつもりの吐き気が、いよいよ酷くなった。
 何と無くそのまま帰る気にはなれず、ふらふらと日の落ちた街を徘徊した。見慣れた街が、なんだかよそよそしい。ギターを重く感じるのは、いつ振りだろうか。ずっしりとした重さは、罰にも、癒しにも感じられた。
 自宅の貧相なアパートの前を通り過ぎ、そのまま市民公園まで歩く。街頭の点いた市民公園を歩くと、少しだけ心が安らいだ。見上げた月のクレーターに、うっすらとした笑顔が、目に浮かぶ。満月には少し足りない、歪な月。ふらふらとした足取りは、自然にあの人のマンションへと向かった。僕は、つくづく哀しい生き物なのだろう。

「あら、いらっしゃい」
 チャイムを鳴らすと、彼女はすぐに出てくれた。一瞬の驚いた顔の後、またいつものうっすらとした笑みに変わる。今日は黒いナイトドレスに身を包んでいる。
「風邪は、もう良いんですか」
「ええ。おかげさまで。
 おあがりなさいな。今、紅茶を煎れるわ」
 言いながら、彼女は部屋の方へと歩いて行った。振り返る瞬間、一瞬眉をひそめたように見えた。
「お湯を沸かすから、その間にシャワーを浴びたら如何。着替えは貸してあげる」
「でも」
「佳いから。ミントティーで佳いかしら」
 曖昧に答えた僕は、靴を脱いでそのまま洗面所へと向かうことにした。申し訳ない気持ちもあったが、それよりも汚れた体を流したかった。部屋の方から、かちゃかちゃと食器のぶつかる音が聞こえている。服を脱いでふと見遣ると、洗面台の鏡が外されていることに気付いた。枠の端の方に少しだけ鋭い破片が残されている所を見ると、どうやら割られたものらしい。なんだか淋しげに映るその破片は少しだけ、僕に、似ていた。

 淡い薔薇の芳りを纏って浴室を出ると、僕の服はどこかへ消え、代わりに黒いベルベット織の、高価そうな洋服が綺麗に畳まれていた。広げてタグを見ると、MIHO MATSUDAとある。ゆったりとした、それでいてラインの綺麗なローブのようなワンピース。着てみると、サイズも調度よかった。MIHO MATSUDAはブラウスの印象が強かったから、少し驚いた。
 その格好で部屋に行くと、彼女は口角を緩やかに上げて目を細めてくれた。
「矢っ張りね。似合うと思ったわ。サイズも調度よさそうだし。私には、少し大きいのよ」
「ありがとうございます」
 借りたワンピースは、着心地が好かった。彼女の声もまた、耳に心地好い。
「座って。お口に合うか、わからないけれど」
 そう言って彼女がポットから煎れてくれたミントティーを、彼女の向かいに座った僕は一口、口に含む。瞬間、爽やかな芳りが口腔いっぱいに広がった。思わず、笑んだ。この部屋に来てから段々と薄れていた吐き気が、すっきりと消えていった。向かいには、うっすらとした微笑が僕を見ている。相変わらず彼女の痣は、その美しさを破壊せんと鎮座し続けていたが、その破滅的な青紫色は同時に彼女に頽廃的な美を付与していた。
 言葉は、なかった。時計が夜を進める音に、時折紅茶を啜る音が交じる。それらは揃って、混凝土製の壁の中へ消えていく。何時間経ったろう。いや、ほんの数分かも知れない。彼女の凛とした声が、静謐を震わせた。
「今日は、バンドの練習かしら」
「大学へ行きました。練習も、したけれど」
「あら、あなた、学生さんだったのね。随分冷たい目をしているから、何と無く意外だわ」
「人より少し、厭世的なだけです、屹度」
「後ろ向きね。好きよ、そういう感性は」
 ふふふ、と、彼女は愉快そうに笑った。冷たい目、と言われたのは、初めてではなかった。けれど、不快さはない。
「今は、一人暮らしかしら」
「はい」
「そう。なら、門限の心配はなさそうね。
 なんなら、お布団を敷きましょうか」
 からかうように、彼女は言う。僕は、何も答えなかった。この期に及んで、何を期待しているのだろうか。僕は、立ち上がって卓から離れると、窓に近寄って外を覗いた。いつの間にか、雨が降っている。
「君、傘は」
「持っていません」
 そう答えると、唇に指を宛て、彼女は思案気に俯いた。そしてまた、おもむろに顔を上げる。うっすらとした笑みを浮かべたまま、彼女は言った。
「今夜は、泊まっていきなさいな。
 朝には屹度、雨も止むから」
「でも」
「もちろん、無理にとは言わないわ。ただ、ごめんなさいね。雨傘がないのよ、この部屋には」
 僕は、どうしたいのだろう。狂おしい程の感情に、眩暈がする。けれど、この感情をあらわにすれば、彼女は僕を嫌うだろう。疾うに失くしたはずの感情が、恐ろしい勢いで僕を揺さ振っていた。
 僕の首が、一つ、頷いた。屹度、この天鵝絨が不可ないのだ。ベルベットの光沢が、肌触りが、芳香が、僕を駆り立てるのだ。彼女が笑っている。その笑みに向かって、僕は深く頷き、笑みを返したのだった。

15, 14

  

 
 二人で少し、お酒を飲んだ。彼女に水を汲んだ時と同じ、赤いグラス。それと対になった、青いグラス。氷を入れた上から、お互いにカルヴァドスを注ぎあった。甘く、度数の強いお酒は、あのアンティーク時計のリズムと共謀して時間を無意味に変える。彼女がシャワーを浴びに行って、僕は独り残された。ざーっ、と、水の流れる音に交じって、ぱたぱたと雨粒がバルコニーを叩く音が聞こえた。
 僕は玄関へ向かうと、ギターケースを抱えて部屋に戻った。少し忍びない気もしながら、ベッドに腰掛けて弦を爪弾く。穏やかな曲だった。いや、穏やかなつもりだった。弦の震えにちらちらと昼間の光景がフラッシュバックする。先輩の喘ぐ声。愛液とスペルマの混ざった生臭さ。吐き気、吐き気、吐き気。ピックが強く、弦を弾く。段々とギターの音が重く、荒々しくなっていくのがわかった。脳の中枢をごりごりと削られるかのような、荒々しいなフレーズ。吐き気。それでも僕は、手を止められなかった。意志とは無関係に、僕の両手は僕自身を責め続けるのだ。ああ、吐き気が酷い。

 ふと、右手に何か、温かいものが触れた。顔を上げると、心配そうな面持ちの彼女がいた。
「ごめんなさい。
 でも、苦しそうな顔を、していたものだから」
 血の味がする。噛み締め過ぎて、食い破ったらしい。彼女が、微笑う。心配そうな貌のまま、うっすらと。頬を冷たいものが伝うのを皮切りに、僕はギターをベッドに投げ出し、彼女にしがみついた。そのまま、暴力的な口づけをする。彼女は、少しバランスを崩しながらも、頭を撫ぜてくれた。惨めだった。先輩を抱いた自分も、今涙を流した自分も、彼女に頭を撫でられている自分も。その惨めさを誤魔化すように、僕は乳房をまさぐり、痣を舐めた。彼女の肌は滑らかで、それが余計に僕の醜さを際立たせた。乱暴な僕に対して彼女は無抵抗で、ただ目を見開いて、屹と唇を結んで必死で堪えているように見えた。僕の手が、脚の方へ伸びる。刹那、
「ごめんなさい」
 消え入るような声が、聞こえた。薄く開いた唇から。相変わらず見開いた目からは、つぅと涙が流れている。
「ごめんなさい、パパ、ごめんなさい」
 小さな小さな彼女の呟きは、急速に僕を正気に戻していく。僕は彼女を解放した。彼女は、何も言ってはくれない。そっと痣を撫でると、一瞬びくりと身体を震わせた後、弱々しく微笑んで、ごめんね、と、そう言った。厭だった。もう、何もかも。自分が何より、厭だった。
「……殺して」
 その言葉が、自然に口をついて出た。しばしの沈黙の後、彼女がゆっくりと身を起こす。そのまま、腕を僕の首へと伸ばしてくる。ゆるゆると細く、美しい指が僕の首に巻き付く。少しずつ、力が込もっていく。今度は僕が、無抵抗だった。唐突に、強く、強く、力が入った。目玉の飛び出るような圧迫感とともに、暗闇が僕を包み込む。ともすれば、意識を失いそうになる感覚の向こうで、彼女はうっすらと笑みを浮かべていた。このまま、逝って仕舞えたら、それは幸せと呼べるのではないだろうか。
 高揚感の中で、僕は彼女を突き飛ばした。空気を取り戻した肺が、大袈裟なほどに劇しく、酸素を貪った。この期に及んで、僕はまだ生にしがみついていたいらしい。惨めだ。浅ましい。涙が止まらないのは、肺が苦しいからだろうか。劇しく嘔吐くのは吐き気の所為だろうか。息を荒げ、首を抑える僕の肩に、彼女の体温が被る。
「ね、いいのよ。私は、あなたが望むなら、いつだって殺してあげるし、あなたが望むならいつまでも守ってあげる。だから、だから、私の傍にいてね。愛してる、だから、傍にいて。ね」
 そう言うと、彼女は強く、僕を抱きしめた。出逢ったばかりのこの人が、どうしようもなく愛しかった。僕は彼女の耳元に口付けて、何も言わず、彼女を抱き返した。自分の浅ましさも、惨めさも、今この瞬間だけは、見ない振りをしよう。それが救いでもそうでなくても、今だけは。
 そうして僕らは、朝までそのままだった。何も言わず、僕らは朝まで、そのままだった。

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