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明けない、微睡。

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 次の一日を、僕は彼女の部屋で過ごした。夜明けを待ってようやく眠りについた僕らは、約三時間の睡眠で目を醒ます。同じ、夢を見たらしい。それは目醒めとともに溶けて口に出すことはなかったけれど、同時に目を醒ました僕らが、同時に相手の眼を見たことで、なんとなく、わかった。
 昨夜のことは、あまり思い出したくなかった。惨めで醜い僕は、見ない振りで僕を保つ。ずっと、そうしてきた。これからも、そうするのだろう。それはとても惨めで、醜いことなのだと思う。
「お腹が空いたでしょう。何か食べたいものはあるかしら」
 あなたは僕を責めることも詮索することもなく、日常を騙る。
「あなたが食べたいものが好いです」
 僕もまた、日常を装う。うっすらとした笑みが、少しだけ痛い。そっと手を伸ばし、頬に触れた。窓の外に遠く、喧騒が息づいている。ベルベットの手触りは今朝も健在で、時計の針は止まらない。
「何か、作ってくるわね」
 僕の手を取り、手の甲に軽く口付けると、彼女は台所へと歩いて行った。揺れるナイトドレスの裾を見ながら、僕はまたベッドに横たわった。なんだか現実感がない。窓の外には確かに日常があるはずなのだけれど、白い二級遮光のカーテンがそれを拒んでいた。雨はもう、止んだろうか。

 彼女に呼ばれて食卓につくと、彼女は僕にオレンジジュースを注いで寄越してくれた。
「ありがとうございます」
 食卓には、サラダとスクランブルエッグ、それからソーセージが二本、一つのプレートに乗せられていた。白磁で出来たそのプレートは、周りを金で縁取られ、シンプルながらも上品な印象を投げかけていた。
「目玉焼きの方が、佳かったかしら」
「いえ、こっちの方が好きです」
「良かった。ベーコンを、切らせていたものだから」
 いつもの、うっすらとした笑み。愛おしい表情。透明な貌。僕の醜さを知って尚、あなたはそうして微笑って下さるのですか。汚れた僕が許されるとして、それでも僕にはこの透明さを享受する権利はないように思う。
「音楽、お好きなんですか」
 目を逸らしながら、僕は聞いた。
「ええ。普段は、クラシックしか聞かないのだけれど。
 あなたのギターは好きよ。とても好き」
 僕は、もっと目を伏せて仕舞った。スクランブルエッグを口に運ぶ。
「……美味しい」
 思わず、呟いた。
「良かった。でも、スクランブルエッグなんて誰にでも出来るわ」
「でも、美味しいです」
「ありがとう」
 ふふふ、と、彼女は上品に笑った。

 僕らはその一日を、何もせずに過ごした。二人並んでベッドに横たわり、微睡みと覚醒を繰り返し、繰り返す。目が合う度に、僕らは口付けを交わした。彼女が眠っている時に目が醒めると、僕はそっと彼女の痣に触れた。そうしてまた、気怠い眠りに堕ちる。それは限りなく怠惰で、甘美な時間だった。
 僕が何度目かの眠りから醒めると、隣にいるはずのあなたがいなかった。緩慢に体を起こす。トイレの方から、水の流れる音がした。
「どうしたの、怪訝な貌で」
 リビングに入るなり小首を傾げたあなたに首を振る。そんなに、妙な顔をしていたろうか。
「少し、寝過ぎて仕舞ったわ」
 伸びをしながら、あなたが言った。
「……少し、散歩に出ませんか」
 僕はそう、訊いてみた。あなたは時計を見上げて、頷く。
「着替えるから、待っていて」
 ウォークイン・クローゼットを開け、所々クラッシュの入ったドレスを取り出す。真っ黒い生地に、alice auaaの白いタグがそっと佇んでいた。
 彼女はそれを大事そうに抱き抱え、洗面室へと、消えて行った。

 昨夜の雨がなかったことのように、星は綺羅々々と光っていた。
「綺麗ね」
 あなたが、目を細めて言った。僕は何も応えず、ただ頷いた。日の暮れた街を、ゆっくりと歩く。あなたの歩調に合わせて、ゆっくりと。長い、クラッシュデザインの袖をひらひらとさせながら、あなたは嬉しそうな貌をしていた。ともすれば夜に溶けそうな僕らは、夜の端っこに隠れるようにして歩いた。やがて僕らの視界の先には、公園が見えてくる。
「昨夜は、すみませんでした」
 明瞭りと言ったつもりが、小さく震えた声にしかならなかった。彼女は、一瞬眉をひそめると、すぐにいつものうっすらとした笑みを浮かべて、首を振った。
「佳いのよ。私が、悪いのだから」
「いえ、僕がいけないんです。だから」
「私ね、怖いのよ」
 僕の言葉を遮って、彼女はそう言った。一瞬俯き、何かを思いつめたような貌になると、あなたは更に言葉を続ける。
「私が、小学生くらいの頃かしら。覚えているのはその頃から。父がね、私を毎夜のように抱くの。暴力を振るわれることも、多かった。それは結局、高校二年の冬に父が死ぬまで続いたわ。
 だから、今でもどうしても、怖くて。普段は男の人というだけで駄目なのだけれど、どうしてかしらね。君は、一緒にいても怖くない。昨日は少し、思い出して仕舞っただけなの。だから、ごめんなさい」
 彼女の告白を聞いて僕は、何も、言うことが出来なかった。いつもと変わらぬ笑みを、あなたは僕に向けてくれる。それがたまらなく、辛かった。沈黙の中、僕らは公園の中を歩く。
「顔を殴られたこともあったけれど、この痣はね、父に付けられたものではないの。生れつき。気持ち悪いでしょう。皆、そう言うの。つまり……つまり、そういうことなのよ。
 私が醜いから、醜く産まれて仕舞ったから、罰を受けているのね、屹度」
「そんなこと、ないです」
 あなたの、自嘲とも懺悔とも取れる言葉を、僕は否定した。
「あなたは、とても綺麗です。その痣も、精神も、とても、とても」
 長い沈黙の後、あなたは小さく頷いた。そっと僕の手に、彼女の冷たい体温が被さる。ありがとう、と、聞こえた気がした。頬が光って見えたのは、公園の瓦斯灯が明るかったから。遠くに誰かが立っていた。凝っとこちらを見ている気がしたけれど、今は何も気にならなかった。僕は、彼女を守らなければならない。その想いだけが確かだった。

 公園から帰って、彼女の部屋でミントティーを一杯飲んだ後、僕は彼女の家を後にした。ギターが、いつになく重い。なんだかそれは、まるで現実の重さのようで、僕の気を滅入らせた。切ったままだった携帯電話の電源を入れると、ディスプレーの右上の時計が『21:28』と、今の時刻を僕に告げていた。明日は、何曜日だったろうか。大学に行く気がしなかった。けれど、土曜にはライヴもあるのだし、行かない訳にはいかないだろう。先輩に文句を言われては敵わない。
 そう思った矢先に、手に持った携帯電話が震え出した。それはしばしの間止まらずディスプレイにはメールを受信したことを告げるアニメーションが連続する。電源の入っていない間に溜まったメールが、今一息に来たものらしい。三通あった差出人の名前は、どれも同じ名前だった。僕は溜め息を吐きながら携帯電話を折り畳むと、乱暴に鞄に放り込んで家路に着いた。
 案の定、家の前には先輩の姿があった。今日はBPNの、腕の部分が編み上げになっているブラウスに、同じくBPNのコルセットスカートを合わせている。パニエはなく、膝上までのソックスが可愛らしい。彼女は僕に気付くことなく、蹲って下を向いていた。
「中に、入って居たら佳いのに」
 僕が声を掛けても、先輩は動かない。近寄ってみると、微かに寝息が聞こえた。
「人の家の玄関で……」
 彼女の、酷く軽い体を抱き上げてドアを開けると、靴を脱いで中に入った。そのまま、僕のベッドへと彼女を運ぶと、ずっしりとしたロッキンホース・バレリーナを脱がせて玄関に置いた。そういえば、あの人のワンピースを着たままだったと、今更になって気付く。何と無く、そのままでいることにした。それは天鵝絨の着心地が好かったのもあったし、現実への細やかな抵抗のつもりだったのかも知れない。薬罐に水を注いで、火に掛ける。お湯が沸くのを待ってインスタントの珈琲を淹れると、砂糖もミルクも入れずにそれを啜った。安っぽい味が口の中に広がる。それはそのまま、この部屋の安っぽさだった。

18, 17

  


 結局、その晩先輩は目を醒まさず、僕は食事を摂らず、簡単にシャワーを浴びた後、布団を出して眠った。目が醒めたのは七時頃で、壁のカレンダーで今日が日曜日であることを確認してからもう一度眠った。昨日から、眠ってばかりいる気がする。
 かちゃかちゃと陶器のぶつかる音で、目が醒めた。ダイニングを覗くと、先輩がインスタントの珈琲を淹れている。なんだか酷く、不機嫌そうな顔をしている。
「起きてたの」
「服を着せたまま寝かせるなんて、どういう神経をしているのかしら。
 皺になって仕舞ったじゃない」
「ごめん。でも、脱がす訳にもいかないから」
「一昨日あれだけやった男の言葉とは思えないわね」
 彼女は尚もぶつぶつと文句を言いながら、それでもしっかりと二つのマグカップにお湯を注いでくれた。勝手に戸棚を開けてガムシロップの袋を出すと、僕のマグカップに一つ、二つ、三つと次々に入れると、碌に混ぜもせずにずいとそれを僕の方へ突き出した。
「ガムシロまみれの刑」
「ありがとう」
 僕は苦笑混じりに受け取って、匙で掻き混ぜてからそれを飲んだ。甘い。
「それで、昨日は何故僕の家に」
「メールも電話も出ないのだもの。仕方ないじゃない」
「そうじゃない。用件を聞いてるんだ」
 そう言うと、彼女はじっとりとした視線を僕に向け、すぐに可愛らしい笑顔になって答えた。
「今日の三時から、スタヂオを予約してあるの。もう少ししたら起こすつもりだったから、調度好かった」
「他の二人は」
「みんな来るわ。あなたも来るでしょう」
「うん、わかった」
「もう、一週間もないのだから」
「わかってるよ」
 先輩が、口を噤む。少し、苛々とした色が自分の声に混じっている。
「……ああ、そう。
 アイロンを貸してくれないかしら。皺を伸ばしたいから」
 僕はベッドルームにある押し入れからアイロンと台を取り出してダイニングへ運び、コンセントの近くに置いた。プラグを差し込む。
「弱にしてね。焦がすと不可ないから」
 僕は頷いて、温度のつまみを『Low』に合わせる。そして、服を着替える為にまたベッドルームに戻った。
 僕の家の構造は、1DKになっている。玄関を開けると、正面にユニットバスへ通じるドアがある。トイレだけは別で、その隣のドアの中だ。短い廊下の先にはダイニングがあり、そのさらに奥の引戸の先にベッドルームがある。クローゼットを開ける。今日は、monomaniaのロングTに、細身のジーンズを合わせることにした。昨日の自分と比べると、まるで別人だ。そういえば、あの人の部屋に服を置いてきて仕舞った。取りに行かなくては。
 ダイニングに戻ると、先輩は下着姿でアイロンを掛けていた。
「また、痩せたね。食べてないでしょう」
「食べてるわよ、ちゃんと。その後吐いて仕舞うけれど。癖みたいな物ね。余り以前と変わらないわ」
「そう」
 白い肌。鎖骨も肋骨も、はっきりと形が分かる。小柄な肢体に似つかわしくない、豊満な胸。あの人も人形のようだが、先輩もまた人形のように愛らしい。ただそこには球体関節人形と愛玩人形の様な差はあるが。
「こんなものかな」
 アイロンを掛け終えたらしい先輩は、電源を切って立ち上がった。そのまま僕に抱き着いてキスをした。
「何」
「何とは何よ」
 指の長い手で、彼女は僕の股間をまさぐる。吐息が甘い。
「練習、行くのでしょう。遅刻しますよ」
「つまらないの」
 彼女は少しもつまらなくない様な顔で僕から離れると、ブラウスを取り上げて釦を掛け始めた。スカートのジッパーを引き上げる。僕もまた、ギターを背負い、鞄を抱き抱えた。

 
 ライヴの練習は滞りなく終わった。指の動きは縺れる事も暴れる事もなく、譜面を丹念に追う。調子が良い、という訳ではないように感じた。言うなればそれは、まるで機械の様で、音が息をしていないような、そんな感覚。僕は初めて、音楽が詰まらないと感じた。そんな自分が、酷く苛立たしい。食事に誘われたが、断って仕舞った。いつもなら落ち着くスタヂオの看板が、今日はなんだか酷く恐ろしい。気分が悪い。また、この吐き気だ。また。
 今日使ったスタヂオは、僕の最寄の駅から電車で15分くらいの所にあった。結局家に帰ることなく、真っ直ぐあの人の部屋に向かったから、着いたのは17:30くらいだったろうか。黄昏が街に充満している。この時間に外を歩くと、いつも無性に苦しくなる。そのまま溶けて仕舞いたいような、いっそ死んで仕舞いたいような、そんな気持ちになるのだ。
 だからだろうか。僕が、彼女の部屋の前の廊下から、下を見下ろしたのは。そのまま足を上げ、柵を攀じ登ったのは。このまま落ちたら、楽になれるだろうか。彼女は泣くだろうか。先輩は笑うだろうか。ギターが重くて、時間が掛かる。縱令ば今ここから飛び降りて、もう二度とギターを弾けなくなるとしても、置いて逝く気にはなれない。
 そうして完全に身を乗り出した瞬間、下にいる太った女と目が合った気がして、莫迦々々しくなってやめた。ため息を、一つ。今の風は、空は、世界は、少し気持ち好かったと、頭の片隅で思った。

 部屋のチャイムを鳴らすと、彼女はすぐにドアを開けてくれた。
「こんばんは」
 彼女が言う。今日は、白いナイトドレスをその身に纏っていた。
「こんばんは」
 僕が応える。そのやり取りが、何より愛おしい。
「どうしたの、今日は」
「この間、服を忘れて帰って仕舞ったので、引き取りに」
「そう。よかったら、お茶は如何。
 調度お湯を沸かした所なの」
「ありがとうございます」
 僕が靴を脱ぎ出すのを見て、あなたは部屋の奥へ消えた。磁器の触れ合う音が聞こえる。

 ミントティーを飲みながら、僕らは沈黙を共有した。話す事は見付からなかったし、そもそも言葉は要らなかった。アンティークの時計が、規則正しいリズムを刻む。
「君は、何故生きているの」
 突然、彼女が口を開いた。
「……え」
「君が生きているのは、どうして」
 僕は、言葉に詰まって仕舞う。答えが見付からない。死にたい理由なら、幾らでもあるような気がした。それはとても簡単なことで、生きることは最早、苦しむ事と同義だ。なら、何故。どうして僕は、生きているのだろう。
「……ごめんなさい。気にしないで。
 ただ純粋に、気になっただけなの」
「あなた、は」
 僕の向かいには、いつものうっすらとした笑み。今日はいつも優しいもの達が、みんな恐ろしく映る。
「あなたは、どうして生きているんですか」
 ミントティーを一口、彼女は口に含んだ。咽喉が僅かに脈を打ち、その液体を奥へと押し込む。それらの動作は酷く緩慢に見え、同時に一刹那にも満たないようにも見えた。
 カップを置いた彼女は、また元の表情に戻ると、明瞭りと言った。
「何もないわ
 私には生きている理由も、価値も、何もないの」
 まるで、それが当然であるかのように。そう言った。

20, 19

  

 背中をベッドに預けて足を投げ出した恰好のまま、アパートの自室のベッドルームの床に座っていた。あの人に言われた言葉が、頭の中をぐるぐると巡っている。僕は、何故生きているのだろう。
『君は、何故生きているの』
 その会話の後、僕は大した言葉も繋げられずに自分のアパートに帰ってきた。
『君が生きているのは、どうして』
 逃げ帰るようにして、僕は彼女のマンションを後にした。眩暈が酷くて、何度も転びそうになった。
『何もないわ』
 街が、僕の知らない貌をしていた。家に着くまでに、随分遠回りをしたように思う。
『私には生きている理由も、価値も、』
 聞きたくない。
『何もないの』
 聞きたくない。
『あんたなんて』
 蔑む目。
『生きている価値はないのよ』
 違う。
『あんたなんて』
 一番嫌いな目。
『産まなければよかったのに』
「うるさいっ」
 耳を押さえ、真っ暗な部屋の中、一人叫んだ。五月蝿い。五月蝿い。吐き気がする。嘲笑。

『ごめんね。愛してるわ、愛してる……』

「うるさい、うるさい……」
 呟くように、頭を抱えた。
 この闇の中に、僕はどうしようもなく独りだ。



 あれは、母が入院する前だから、もう十年以上昔の記憶だろう。彼女は、とても優しく、素敵な母親だった。度々友人から羨まれるくらいに美人で、料理とお菓子作りが好きで、どちらもとても美味しかった。裁縫だけは苦手だった。よく針を指に刺しては、不器用なくせに裁縫だけは得意な父に笑われていた。そんな時、父は自分に恨めしげな視線を向ける母の頭を優しく撫で、彼女の手から縫いかけの体操服や雑巾なんかを取り上げる。その瞳は優しい光に満ちていて、頭を撫でられた母も目を細める。そうして彼女は僕を膝の上に抱き上げ、父の手つきを眺めるのだ。僕の幼稚園の様子や、父の仕事の話、母が作った空想の物語を、僕らは話した。母は空想が好きで、また話すのも上手かったから、僕は当時彼女の物語を聞くのが何より好きだった。
 幸せな家庭だったと思う。父が、母が、好きだった。

 あれは確か、僕が小学二年生の頃だった。父と母が、キッチンで口論をしていた。理由は知らない。聞きたいとも思わなかった。二人の剣幕は凄まじく、僕は寝室に逃げ込んで、膝を抱える事しか出来なかった。
 やがて、二人の怒鳴り声は母の啜り泣く声に変わり、お互いに謝り合う声が重なった。僕が寝室から恐る恐る顔を出すと、父は静かに笑って「ごめんな」と僕に言い、母は優しく抱きしめてくれた。大丈夫だ、と、そう思った。明日からはまた、幸せな日々に戻る。大丈夫だ。

 喧嘩の夜の次の日から、父は出張だった。父が家を出る時、僕の見ている前で二人はキスをした。毎朝のことだ。母と僕は、笑顔で手を振った。これも、いつもの通り。ドアが閉まる。ふと母を見上げ、ぞっとした。彼女の顔から、表情が消え去っていた。僕の視線に気付いたのか、母はこちらを向いた。笑顔を作る、母。
「小学校、行かないとね」
 子供ながらに、それが作り物の笑顔だと気付いていた。僕は、ただ頷くことしか出来なかった。
 父が帰るまでの三日間、母はずっと暗い貌をしていた。時折見せる繕ったような笑顔が、暗い表情よりもずっと苦しく映った。母にとって、父の存在がそれだけ大きかったのか、それとも彼女の心は既に少しずつ壊れていたのか。慰めることはしなかった。母が父許りを見て、自分の存在を無視しているように感じていた。事実、その三日間の内、僕らはほとんど口を利かずに過ごした。
 父が発って二日目、僕が小学校から帰ると彼女はキッチンで一人、琥珀色の液体を傾けていた。机に置いたウィスキーのボトルから、グラスに注いで一息に飲み、グラスに注ぎ、また一気に煽る。怪訝に思いながらも、ランドセルを置きに寝室へ行き、またキッチンに戻ると突然、母はグラスを乱暴に机に叩き付け、飛び散ったウィスキーが袖に付くのも構わずに突っ伏して泣き出した。
「お母さん、大丈夫」
 異様な雰囲気を感じ、僕は母に問うた。
「あなたに何が理解るのよっ」
 そんな僕に、机に突っ伏したままの母は叫んだ。
「あなたに、あなたなんかに……っ」
 顔を上げ、屹と僕を睨み付ける。僕は、目を見開いて固まって仕舞う。
「ごめんなさい……」
 消え入るように、僕は言った。それを聞いた母ははっとしたように目を開くと、小さく唇を噛み、すぐに笑みを作った。
「少し、飲み過ぎて仕舞ったわね。お夕飯を作らないと。何がいいかしら」
 僕は、何も答えられなかった。
 崩壊の、始まりだった。

 
 その日から、母は度々酒を飲むようになった。傾けるのは決まってウィスキーで、その琥珀色はいつだって綺麗で、それが僕には余計に疎ましかった。
 酔っていない時の母は相変わらず優しかったし、仮に酔っていても父の前ではむしろ普段より明るく、快活に笑った。抑々父がいる時は、酩酊する程飲むことはなかったように思う。おそらく彼女は、寂しさを紛らわす為に酒を飲んでいたのだから。
 最初の頃は、何か僕がしたことに対して怒鳴りつける程度だった。それらは普段、彼女が注意こそすれ、怒ることはないような些細な事柄許りだったけれど、少なくとも理由が明瞭りしていたため、僕は僕自身を責めたし、いい子になろうと努力をした。必死だった。母の怒った顔も、悲しむ顔も、見たくはなかったから。
 やがて、母は僕に手をあげるようになった。酒を飲む頻度も上がっていき、ついには毎日飲むようになった。そこに、理由はなくなった。彼女が暴力を振るうのは、僕が学校から帰ってから、父が家に帰るまでの時間に限られた。時には玄関のドアを開けた瞬間、罵声とグラスが飛んできたこともあった。しかし僕は、それらの事柄を父には決して漏らさなかった。それは僕が良い子になれば、屹度また母は以前のように戻るのだと信じていたからでもあり、何より暴力を振るった後の母が、必ず抱きしめてくれたからだった。耳許で愛していると、囁いてくれたからだった。それは小学生の僕にとって、彼女を信じる理由には充分過ぎる材料だった。

 しかし、終わりは着実に近づいていた。父も、少しずつ気付いていたのだろう。家族が三人でいる時、僕はいつも明るくいようと努めていた。それは母も同じだったが、父だけは緩慢な速度で冷めていっていたように写っていた。彼は、あまり笑わなくなり、帰りも遅くなった。当然のように、母の酒と暴力はエスカレートしていった。今までは見えない所にしかなかった痣が、目立つところへも浮かぶようになった。
 ある夜、父に呼ばれてキッチンへ向かうと、彼は僕の目の周りの痣をじっと見詰め、静かに言った。
「僕は、もうこの家にはいられない」
 母は、何も言わなかった。この時既に、二人の間では何かしらの話し合いがあったのかも知れない。僕には、首を振ることしか出来なかった。
「お父さんと一緒に来なさい。お前を、ここには置いてはおけないから」
 相変わらず、何も言わずに俯く、母。首を振る、僕。
「必要な物をまとめるから、少し待っておいで」
 父は食卓から立ち上がると、寝室の方へと歩いて行った。部屋には、何も言わない母と、僕だけが残された。俯く顔には長い髪がかかっていて、その表情は見えなかった。
「行くよ」
 いつの間にか玄関に移動していた父が、僕に言った。母は、何も言わない。
「……いや」
「我が儘を言うものじゃないよ。
 ほら、早くしなさい」
「嫌だ。僕は、お母さんといる」
 しばらく、父は僕を見詰め、
「明日、迎えに来るから。荷物をまとめておきなさい」
 そう言って、出て行った。
 母は自分の肩を抱いて、静かに震えていた。垂れ下がる髪の下から、微かに漏れる声。初め、母は泣いているのだと、そう思った。しかしその声は段々と大きくなり、ついには高笑いに変わった。顔を上げ、目を見開いて笑う彼女の貌は、僕が今までに見たことのないものだった。
 ふつ、と、糸の切れたように、笑い声が途絶え、母は表情を失くした。ゆっくりと、僕の方を向いて、彼女は薄く、薄く、微笑った。その貌は、思わず泣きそうになるほどに、美しかった。静かに、母が口を開く。
「お風呂に入って仕舞いなさい。
 パジャマを出しておいてあげるから」
 僕は、一つ頷いて、その言葉に従った。

 あの夜、何故僕は父ではなく、母を選んだのだろう。蔑むような目で僕を見た母を。「あんたなんて産まなければよかった」と罵った母を。あの父の出張から、既に一年以上が経っていた。人が誰かを憎むのに要する時間は、一体どれ程なのだろうか。少なくとも、僕は未だ母を憎むことが出来ずにいた。しかし、母を思えば、僕はむしろ父について行くべきだったのだ。
 次の夜も、母は酒を飲んだ。虚ろな目が、ただ、悲しかった。僕は、何も言わずに、キッチンの隅でうずくまって、揮発したアルコールの匂いを感じていた。台所にはウィスキーの瓶が散乱していて、蛍光灯の明かりを反射して綺羅々々と光っていた。
「お父さんと行かなくて、よかったの」
 ふと、母が僕に言った。
「お母さんと一緒がいい」
 僕は答えた。沈黙。グラスに入った氷が、からんと小気味好い音を立てた。母がこっちを向いて、うっすらと微笑った。
「お母さんと、死んじゃおうか」
 ゆっくりと、母は立ち上がる。相変わらず、母は美しかった。彼女の目だけは光を失っていた。僕の前にしゃがんだ母の腕が、ゆっくりと僕の首へと伸びてくる。僕は僅かに顔を上げ、それを受け入れた。温かい、母の手の平。
「ごめんね、ごめんなさい……愛してるわ……ごめんね……愛してるの……ね、ごめんなさい」
 相変わらず微笑みを浮かべたまま、母は涙を流してそう繰り返した。ゆっくりと、僕の首は締め上げられ、気道が塞がっていく。幸せだった。酸素が足りなくなって、緩慢な速度で僕は死に至る。苦しかった。けれど、母はもっと苦しいのだと思えば、どうということもなかった。
 突然、その恍惚は終わりを告げた。遠くなる意識の中で、父の怒声と母の叫びを聞いた。母は何度も僕の名を呼んでいた。僕は無様な格好で劇しく咳込み、父に後ろから羽交い締めにされている母と目が合うと、そのまま気を失った。
 
22, 21

  

 
 気がつくと、部屋の中は窓から差し込む陽光で明るくなっていた。どうやら、いつの間にか眠っていたらしい。ひどく、懐かしい夢を見ていた気がする。いや、懐かしいと呼ぶには、いささか破滅的に過ぎるかも知れない。しかしそれでも、僕に取って母との記憶は、首を絞められている其の瞬間さえも愛おしい、甘美なものだったのだ。



 あの日、幼い僕が目を醒まし、最初に見たのは白い天井で、腕にはチューブで透明な液体の入ったパックが繋がれていた。頭が痛かった。吐き気も酷い。母は、何処にいるのだろう。眼だけで辺りを見渡した。見知らぬ女の人が、僕が横になるベッドの脇で舟を漕いでいる。この人は、誰なのだろう。そういえば、父の姿も見当たらない。
 しばらく見ていると、ドアが開いて父が入ってきた。
 僕が起きているのに気付いた彼は、笑みを浮かべながら僕の調子を尋ね、今いる場所が市立病院だと教えてくれた。それから、彼が何を言っていたのか、僕はよく覚えていない。ただ、これからは母と暮らせないということだけは、明瞭りと理解出来た。
 父が帰る頃には、いつの間にか先程の女性はいなくなっていた。なんだか、酷く眠い。眠りに就く直前、このまま目が醒めなければ佳いのに、そう思った。いや、むしろ僕はあの時、母の手できちんと死んでおく可きだったのだ。死んでおく可きだったのだ。

 退院の日、父が迎えに来た。どうでも佳いことを、彼は話した。これからのこと。新しい家。小学校を転校すること。そして彼は、大事なことを話さなかった。
 新しい家は、病院から車で十五分程の所にある、マンションの二階にあった。
 父の後ろに付いて部屋へ上がる。玄関に、女性物の靴が一足、綺麗に揃えてあった。
「お母さん……」
 また、母と暮らせるのか。それまでの憂鬱が、嘘のように晴れていった。急いで靴を脱いで、父の後に続いてキッチンに入る。そこで、僕は酷い思い違いに気付く。
「お帰りなさい」
 笑顔で僕らを迎えたのは母ではなく、僕が病院で目が醒めたあの日、ベッドの横で舟を漕いでいた女性だった。
 母が狂気を抱いた理由が、少し、理解った気がした。

 それから時が経って、僕が高校二年生の時、妹が産まれることを知った僕は、一人暮らしをさせて欲しいと父に言った。
 許しは簡単に出た。二人にしても、いつまで経っても心を開かない僕の事を、疎ましく思っていたのかも知れない。
 母のことは何度父に聞いても教えてくれなかったから、自分で調べた。彼女はあの事件の後、精神病棟に入院することになったらしい。それを僕が知ったのは、高校三年生の頃だった。彼女の入院した病院を見付けたのは、それから更に一年後。もう、去年のことになる。そこへは、僕のアパートから電車とバスを乗り継いで四時間程かけてようやく辿り着く。彼女の実家のある町だ。
 今に至るまで、まだ、会いに行けてはいない。



 携帯電話の着信音で、僕の思考は断たれた。日の光の差し込む部屋に、Syrup16g。吐く血の女から、着信。
「もしもし」
『君、私からの電話なのだから、もう少し嬉しそうな声を出せないものかしら』
 電話越しの声は、僅かにくぐもって聞こえる。何も言わない僕に、彼女は小さく溜め息を吐くと、言葉を続けた。
『昨日の練習の後、なんだか様子がおかしかったでしょう』
「そんなこと、」
『随分青白い貌をしていたように見えたけれど』
「大丈夫だよ。何も問題ない」
『ふぅん、そう。
 それなら佳いけれど』
 先輩はいま一つ、納得していないような声を出す。
「そういえば、バンドの練習はどうなっているの」
『ああ、そうだった。
 もうライヴまでいくらもないのだから、一度くらいやっておいた方が佳いんじゃないかって、相談する積もりだったのよ』
「そうだね。
 明日の放課後はどうかな」
『うん、そうね。
 二人にはメールしておく』
「ありがとう。
 じゃあ、明日の学校で」
『もう、切って仕舞うの』
「……また、明日」
 強引に電話を切って、携帯電話をベッドに放り投げた。なんだかもう、今は何も聞きたくないように思えた。そのくせ、僕はどうしようもなく渇きを感じるのだ。体が冷たい。僕は今放り投げた許りの携帯電話を、もう一度取り上げた。

 

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