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第一章 箱と彼女

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 第一章 箱と彼女

 動転するとつい失敗してしまうことがあるのはわかる。たとえばスピード違反が見つかった時に止まればいいものをそのまま加速して逃げようとする、そんなことも想像するのは難しくない。しかしパトカーで追走を始めた警官も、まさかそのトレーラーが視界の下へと消えていくことになるとは思わなかった。トレーラーはスピードが速すぎて緩やかなカーブも曲がり切れなかったのである。トレーラーは片輪が浮いたかと思うやいなや横転し、そのまま高速道路から落ちた。

「二人乗ってたハズなんですよ! 助手席にも男性が乗ってたのが運転席ごしに見えたんです! 見ましたよね?」
「見ました! 本官も間違いなくこの目で見ました!」

 トレーラーから振り落とされて落下したのはトレーラーを運転してたと思われる男一人であり、警察や救急が駆け付けた時には既に死亡していた。ところがトレーラーを追っていた二人の警官は、助手席にも男が座っていたのにそいつが消えたんだ、と血相を変えて言い張るのである。高架を支える柱にぶら下がったトレーラーの下、地上にある血溜まりは何回数えても一つだった。井田警部は「くの字」に曲がったトレーラーに目を凝らす。

「ふ……。ふ……ふじ……。ダメだ。見えねえ」
「富士鷹運送です。仏さんは田島幸助、四十三歳、この運送屋のベテランだそうです」
「……そうか。乗ってたのは一人で間違いないのか?」
「シフト上は一人だと言ってます。電話ごしですが富士鷹運送の社長さん穏やかじゃないようです。今から運送屋に行って事情聴取しますので井田警部もお願いします」
「ああ。わかった」

 トレーラーを追った二人は、体調不良だからどうだ、幻覚が見えるのはどうだと、上司から御叱りを受けているようであった。井田警部は目を細めてもう一度トレーラーを見つめた。







 遠い雲を見て底抜けの青さを感じ、一方で収束していく俺を感じる。この場所を見つけて以降、ここで自分の輪郭を消してみようと横になることも多くなった。もともとしたいことが特別本当にあったのかと言われれば、今となってはわからない。考えて答えが出てくる問題でもない。しかしながら、なかなかどうしてこの結論が俺の意欲を削ぐ。

 はるか上空で駆け抜けていく雲を見ながら、小気味良く跳ねるバスケットボールの弾む音を聞く。こんなことならもう少し頭が悪い方が救われていた。しかし、自分がだんだん白くなって縛られなくなるということが、こんなにも低温で静かで罪のないことだとは思わなかった。何もないということは超絶的に優秀なことだ。俺は今までの十八年間を否定されて、ようやく現実に両眼のピントがあったような気がしていた。

「いてぇ!」

 ボールが飛んできて当たったかと思ったが違った。

「またそこでサボるつもりでしょ!」
「……」

 頭に当たったのは四月に買った俺の単語帳だった。現役で使ってたヤツはなんとなく捨ててしまった。今までの俺の愚かさに気がついた証拠のようなものが欲しいと思った。

「あんた落ちてからほんとに様子おかしくなったわね」
「んー」
「先行ってるからあんたも早く見て覚えなさいよ」

 地面に転がってる単語帳は二ヶ月弱しか経ってないとはいえほぼ新品だった。今の衝撃で角が曲がって数ページ変な折り目がついただけである。校舎に入ろうとする幸恵は歩く速さが妙に速い。

「全部おぼえてるぜ」

 幸恵が振り向いてしばらく俺を見つめる。

「まああんたなら確かに全部覚えてそうだけどさ」
「……」
「前回0点だったじゃん……」
「いいんだよ別に。それよりお前、自分の単語帳ねえのか」



 目をあけると星が出ていた。寝過ごしたようだ。そういえば開始のチャイムが鳴った時もそのまま屋上で寝転んでいた。起き上がって帰ろうとしたが、汗で塗れたシャツが俺を屋上に貼り付けている。そうか、階段を降りれば下宿に帰ってそのまま寝るだけなのか。じゃあ今日はこのまま星を見続けてみるかな。風邪を引けば体が病む分、精神的に楽になるかもしれない、いやむしろ高尚ですらあるのではないか、とかそんなことも考えてみた。たくさん出ている星は個々に目をやると思ったよりも小さい。都会の埃をまぶされてくすんでいた。

 今まで何に一喜一憂してきたのだろう。紙上の数字に踊らされて転ぶまで、俺は自分が0点であることに気がつかなかった。教室に帰る前に幸恵が見せた悲しそうな顔は、しばらく頭の中で俺をにらんでいた。







 俺は二階建てのアパートに住んでいる。とりあえず実家から離れようと思い、なんでもいいから借りたが、落ち着いてきた今冷静になって考えてみると、あまりいい物件ではないようだ。まず線路に近すぎて電車の音がうるさい。夜寝ようとした時なんかに電車が通る。引っ越してきたばかりの頃は、走る四角い光にチカチカと感覚を奪われているような気がして変な気分だった。でも最近は意外と簡単に寝つける。帰宅の途に就く多忙な歯車共とは住む世界が違う。そんな実感が持てるようになったのだろうか。まぶたが三重ぐらいになって、耳の穴にも弁がついたような感覚で、考えることより寝ることの方が好きになった。

 もうひとつは住人だ。どうせ大学生どもが楽しくやっているのだろう。毎晩どこかしらかの部屋から飲み会のコールや麻雀の音が聞こえてくる。考え方を変えれば気晴らしに混ぜてもらってもいいのだが、自分を自分でかき乱して数カ月も経ってない今、逆に閉じこもりで整理される心地よさは誰よりも分かっているつもりでいた。酷い時は女の喘ぎ声なんかも聞こえてきたりする。でも耳についた弁は何にでも応用が利いた。

 ストレスが多いと不眠症になりやすいのだろうが、俺は眠れる。それだけマシじゃあないか。むしろ欲に従順な方が人間の在り方として正しい。そのような気づきが朗報か啓示かなにか思えたりして、特別な罪悪感も無かった。

 ところがそうこうしているうちにいつのまにか寝つけなくなっていた。ねっとりする掛け布団の臭気、自分の匂い以外の何物でもないそれから他人の匂いがする。水分の重みに押さえつけられて、この世から飛んでいかないように見張られている。頭のうしろから肩にかけての喉の後ろを棒のようなものが吐くように刺激してくる。万年床に傾斜がついて、俺の背中の上から首回りをぬるぬると生温かく攻める。足は万年床に張り付いて動かない。とにかくあまりの嘔気に俺自身の存在が気持ち悪くなり、頭部の眼球から上を吹き飛ばしたくなるような衝動に駆られた。恐怖のあまりに叫ぶと体が万年床からうまく剥がれたので、そのまま部屋の外へ飛び出し、下宿の前の道路でわめき散らした。

 そのとき外は雨が降っていて、すべった俺は背中を泥に打ちつけて倒れた。俺は吐いた。えずいても何も出てこない。口から肛門まで続く管を全部裏返してしまいたい。この世で考えられるありったけの汚いものを思い浮かべて指を突っ込む。きっと無駄な熱が発作的に湧いて出てくるのだろう。気持ち悪さがスッと引いた時、そのまま部屋に戻る気にもなれず、大の字にびちゃっと倒れて夜の雨空を見上げた。雲に覆われてもやもやと何も見えない空は潔く思え、降ってくる雨粒はここ数カ月口にしたものの中で一番甘い味がする。

 洗い流してほしい。俺を洗い流してほしい。見えれば見えるほど気持ち悪い。見えても見えなくても気持ち悪い。俺が消えるまで気持ち悪い。真剣にそう思っても叶うはずがない。そのまま寝てしまった俺を雨が洗い流してくれることはなかった。



 そんな日々を送り、食欲もなくなってきた頃である。六月の鬱陶しさに巻きつかれて、「いよいよ死ぬかもしれない」と思い、またこの認識ができなくなったところで、俺は本当に消えてなくなるんだなと認識していた。だからある日の晩、携帯の着信に気がついたことは本当に奇跡的なことだった。

「もしもし」
「おお! 俺だ俺! どうだそっちの生活は!」
「べつに」
「なんだお前、えらく暗くなったな」

 電話の向こうの声は中本だった。

「何? 」
「ああ、ちょっと頼みごとしていいか?お前の下宿ネット繋がるかい?」
「……」

 パソコン関係の物はまだ段ボールの中だ。

「ちょっと通販で買いたいものがあるんだ」
「自分でしろよ」

 中本は中学高校と野球部でショートを守っていた。俺はあまり運動をしないが、奴の運動神経が良いことは誰が見ても分かる。勉強で分からないところがあれば俺が見てやっていた。

「うーん、なんかやっぱよく分かんねえわ、パソコン。お前詳しいだろ?」
「お前ネットもできねえのか。なにかしらのウェブブラウザがあるだろ?」
「いやあパソコン持ってないんだよね俺」

 中本はものごとをすぐ人に聞いたり頼んだりする。ひょっとしたら勉強のことも俺以外の奴に聞きまくっていたのかもしれない。勉強のできるできないと世渡りは関係ない。そんなことにも気づかず、中本の相手をして軽い優越感に浸っていた自分が恥ずかしい。だが中本のそのような声は懐かしく、俺は久しぶりに会話らしい会話をしている自分に気付いた。

「……そんな気分じゃねえわ。ほか当たってくれ」
「おいおいツレネエなあ。頼むぜ! お前だけが頼りなんだよ」
「……」
「よし、じゃあ五千円でどうだ。頼まれた時にもらった額の半分だ」
「……。は?」

 中本は何やら事情を語り始めたが、そんな俺が真剣に聞けるはずがない。布団の中には中本の声だけが活き活きと充満する。



 当時から一年も経っていない今考えると恥ずかしいことだが、高校生の頃は俺も中本に負けず劣らず前向きというか、後ろを振り返るということが分からない性格だったものだ。二人で将来のことについて話すことも多かったのである。俺は「宇宙ステーション開発に携わりたい!」「無重力ラボでの新物質開発に協力したい!」「宇宙物理学で大発見をしたい!」などと自信満々に色々のたまっていたような気がするが、そのような根拠の無い自信は一体どこから湧いてきたのだろう。今では蜃気楼も消えて、泉に見えた砂の穴から大きな蟻地獄がこちらを覗いている。

 そのような話をする中で気が早いというか生意気というか、フワフワした幻想に吊り下げられて毎日足が浮いていたものだから、あるとき大学生になったら二人で下宿しようぜという話が出た。俺は学力的にもかなり余裕があったし、中本はそんなに勉強する気もない。高校三年生の夏に俺と中本は珍しく、また気が早くも下宿の下見に出かけた。そのときにいくつか目星はつけていたのである。

 だから中本の下宿先の住所は知っていた。中本は予定通りにことが運び、一方で俺は予定と違う線路沿いに引きこもっていた。勝利の凱旋を決め込むつもりだった部屋に大量の問題集を敷き詰めてもおもしろいわけがない。

 そんな俺が久しぶりに顔を出したからなのだろう、中本もはじめは俺を心配する様子をみせていた。中本がどういうつもりで遊びに来いという言い方をしたのかは知らないが、俺はただ何度もウチへ遊びに来いと電話をかけてくる中本が鬱陶しく、しぶしぶ出てきただけだった。中本の下宿は下見で見た外見より広々としているように見え、俺はほんとうに中本をうらやましいと思った。中本は大学の話を全くせず、最近の野球がどうだサッカーがどうだゴルフがどうだと一方的ではあるが笑顔で当たり障りのない話を続けた。案の定俺の耳には入らない。俺はあの線路沿いがいい。線路沿いで遭難して朝晩かまわず漂流していたい。ただ、必要か不必要かはわからなかったが、腹が減るという生理的欲求に対応する気が多少なりとも復活し、辛うじてできる発話は嫌がらせも兼ねた卑しい自己主張であろう、と完全に思考が狭小になっていた俺は、中本からいただかねばならないものがあった。

「そんな話するため呼んだのか?」

 と俺は唐突に言った。そして例の件の以後について話した。ところがこちらが話を始めてしばらくすると、中本は血相を変えて大声で叫びだしたのである。

「ここの住所にしたのか!」
「ああ」

 中本の様子は瞬時にして明らかにおかしくなったが、よどんで久しい頭で相手の感情を汲み取るのは無理だったのだろう。自分に同情する顔は理解できても相手に同情することはできず、全く驚かなかった。

「おまえのところで預かっておいてくれって言ったじゃないか!」

 まだ意味がわからない。昔は「中本は国語力が無い」と非難し、よくからかっていたものだが、今となっては国語力の何たるかもよくわからない。黙って中本が頭を掻きむしるのを見ていた。中本は急に立ち上がって無意味に部屋の中を徘徊する。

「あーどうしよう! ママがくるのにー!」
「五千円よこせ」
「待てよ! おまえ、俺がおまえに頼んだ理由がよくわかってないようだな! いいか! おまえネットで買ったもの思い出してみろ」
「知るか」
「知るかじゃねえよ! いいか! 電話でも言った様にだ! 俺は先輩に頼まれて仕方なくネットショッピングなるものをやったわけだ! 決して俺の買い物ではない!」

 振り返って考えてみると、確かにおぞましい長さのURLだった。しかし俺は特に何の違和感もなくすべて打ち込んだ。出てきたページは背景が真っ白で味気なく、中央に怪しげなメールフォームがあるだけだった。

「あのページはメールフォーム以外なにも無かったぜ。情報らしい情報はなにもねえ」
「あ?」
「アレではあのページは存在を知ってる人しかアクセスできないな。知らない人ならページを見たところでなにを書けばいいかさっぱりわからんしな」
「どういうことだ?」
「まあ普通の通販では無いな」

 俺は中本が困っていた理由がよく分からなかったが、中本は中本で今俺が言った言葉の意味が分かっていない様子だった。俺は何か、中本と中本の先輩との間で完全な意思疎通があり、その使い走りのようなことを押し付けられたのだ、と気分を害しながらも任務をやり遂げたつもりだった。ところが中本の顔はみるみる青くなっていく。

「おまえ、メールになに書いたんだ?」
「通販だって聞いてたからさ、お前の言う商品名コレコレを購入したく思いますってカンジで書いた。おまえの名前と住所も書いた。返事は俺のアドレス書いて、ここにお願いしますってしたらすぐ返事が来て……」

 中本は青い顔で座り込んだあとどこかわからない一点を見つめて下を向いた。

「なに頼まれたんだお前?」

 相手の表情を強制的に突きつけられた俺は、関心がないという本心を隠すように口だけ半自動的に動かして聞いた。

「人形だ」
「あ?」
「人形なんだよ」

 玄関のチャイムが鳴ったのは、なんの人形かを聞こうとした瞬間である。呑気に聞く必要がなくなったなんてことを考えていたら、中本はそれどころではなさそうである。間の悪さに思わず上げた顔、開いた眼の大きさ、汗の量、それを見れば人形の正体は大方察しがついた。行動力の絶対値が大学生で最大値をとるなら、大学生活のベクトルの舵取りは慎重にするべきだ。

 健全な二十歳弱ならば勇者を称えて盛り上がるだろう。しかし三大欲求が最後の砦である睡眠欲まで陥落してしまった俺は、目前の男を、よからぬ船頭が悶々と増殖して、舵取りに失敗した痴れ者としか見られなかった。

 中本は目線を逸らして首を掻き、ゆっくり玄関の方へ向かう。その背を見ながら、中本はもう住む世界が違う人間なのだと思った。一日中布団にくるまってもぞもぞしている俺の横をけたたましい音を立てて通り抜けていく歯車達、だが彼らはまだ見切ったことを突きつけてくれるだけ親切なのだ。時間はただ不親切に流れていく。中本はそれに逆らわず自分を変え、静かに静かに俺から遠ざかっていくのだろう。

 なにやら外が騒がしいことに気づく。

「おい何入ってんだコレ! 重えぇなあ!」
「おいおい! ぶつけるなよ! 気をつけろ!」

 即座にUターンして帰って来た中本の顔はますます青かった。

「……どうしよう」

 俺はもう中本に必要とされることも数えるほどしかないだろうと思っていた。だから最後にもう一度だけなら相当困っているだろう中本を助けてやってもいいと思った。自分の部屋の中や自分そのものはどうでもいいが、周りには迷惑がかからないように整理しておく必要がある。例のブツは一旦俺が引き取ってやろう。あとはなにかしら収束していけばいい。俺が収束していけばいいのだ。俺は中本と一緒に外へ出た。二人の配達員が運んできたのは、畳を数畳重ねたような大きさの、段ボール製か木製かよくわからない箱だった。

 部屋の中に運び込まれた箱をじっくり見ると、ところどころに梱包ビニルの剥がれ落ちや溶けて伸びているところがあり、穴が穿いたり焦げて黒くなったりしているところもあった。中本が言うには、もとからこの状態だったとか、運転中に荷台から変な音がしたとか、そもそも箱は運搬中に汚れるものだとか、配達員は聞いてもいないことをベラベラしゃべって弁解したらしい。一番外側の包装は剥がしたが、残った箱から発せられる気はなんとなく異様だった。

「これほど重い上にデケェとは……。先輩ヒドイなあ」
「お前、そいつ何の先輩なの?」
「ソフトボール同好会さ。いや、でもコレ目立つよなあ。どうしよう」
「なんかテーブルクロスみたいなものかけて端においとけよ。上にそこの模型でも飾っとけばどうだ?」

 中本は机の上のテーブルクロスを箱にかけ、戦艦の模型をその上に置いた後「さわるな、乾燥中」と書いた紙を張り付けて、少し安心したような様子を見せた。

 ここまで書いておいて今さら言うのも遅いが、この時点でよもやそんなことになるとは思わなかったのである。直後にわかることだが、俺は結果的に大変なことをしてしまった。勉学の弊害というと言い訳になると思うが、危機管理能力というか君子危うきに近寄らずというか、そのような常識とでもいうべき素養がどこかしらか俺に欠落したものであったということは否定できない。よく考えもせずにわかったような気になって浅はかにも行動を決定してしまう。高校で学んだ情報の授業で扱われるレベルでも、よく分からないサイトに接続するなとかいうことは基本である。しかし、暗い部屋の中で例のメールフォームが現れたとき、部屋が少し明るくなり、画面から発せられる無地の白い液晶が目から脳にかけてをチカチカと掃除してくれた、あるいは俺のくだらない脳味噌を新しい脳味噌に書き換えてくれているような気がして、少なくとも悪いことをしているという気はさらさら無かったのである。中本に聞き返すこともせず部屋の中の唯一の光源に惑わされ、吸い込まれるように商品名コレコレを購入しますと勝手に書いた。拾われなくてもいい救援信号を発してみて、自分がかまわれていないことを確認する意味もあったかもしれない。それがかまわれないどころかそれはもう大変なことになったのである。





 突然箱は「あああああああ」と叫び声を上げて倒れた。





 中本が先輩に電話しようとして箱から離れた瞬間であり、戦艦の模型は落ちてグチャグチャになった。俺の頭に電撃が走る。これほど目が覚めたのは久しぶりである。なおもポコポコと音をたてて小刻みに動く大きな箱を前に、俺は反射的に後ずさりしていた。中本は頭の中もグチャグチャなのだろう、見たこともないおぞましい顔をしながら機敏に玄関に走ってとんでいき、金属バットを持って戻って来た。しばらく中本と顔を見合わせていたが、俺が頭を上下に微かに動かすと、中本がゆっくりうなずいてバットを構えたので、俺は擦れる音のする箱にそっと近づき、静かになったところを見計らってガムテープをひっぺがした。



 「おえええっ」



 中から出てきたのは裸の女だった。裸の女は出てくるなり吐いた。俺はもう一度中本を見た。中本は既に両腕を下ろしていて、震える手からスルッと離れたバットがカランコロンと落ちる。

「……もう一度聞いていいか?」
「……」
「先輩から何を頼まれたんだ?」
「……」

 中本は眼球が小刻みに動いていてどこを見ているのかわからない。しばらく凝視しながら、俺の頭はどうすればいいのかを考えてフル回転した。脳味噌の底に沈殿していた森羅万象が撹拌されて舞い上がり、摩擦熱か溶解熱かわからないが俺の頭の温度を急速に上昇させる。しかし溶けきって一様になる前に土砂がなだれ込んできてカオスとなった。玄関で鍵を開ける音がしたのである。「すすむー、あら、お友達も来てるのー」という声がする。

「ママだ……」

 もう事態を飲み込む暇はない。俺はとっさに箱の一部を引き千切って女の顔にあてがった。中本は着ていた服を脱いで女に着せたが間一髪である。

「あら、靴は二足だったけど三人いるのね。進ったら、パンツ一枚でだらしない」
「あああ暑い! 暑いなあ! 最近急に暑くなった!」
「すいません! なんか太郎が調子悪いみたいで! 帰ります! おじゃましました!」

 俺は女の顔に箱の切れ端をあてがったままあわてて女を外へ連れ出した。





 夏の夕暮れは見た目も青いし匂いも青い。この前まで寒々としていた線路沿いの溝の蓋からはいつのまにかぼうぼうと草が生え、俺の汚いジーパンにさらりとこすれてくる。住宅地のなかにポツンと一つだけある畑は作物の隙間に有象無象の虫どもを侍らせ、夏だ夏だと騒いでいるようだ。よく見まわしてみると家路につく人はみな半袖を着ていて、背中に暑苦しい水たまりを描いている鉄壁防御の長袖は俺だけだった。通りすぎる電車の窓からは黄色く白い明りがこぼれる。それと対比しても日が沈み始めた景色は暗いながらも青く、夏の夜は本来静かな色が実に活動的に映えるものだ、と奥深くに沈み込んでいた夏恒例の感覚を思いだした。なにしろ本当に汗でぐっちょりである。振り返ると箱の切れ端で顔を隠したまま女がよたよたと歩いてついてくる。

「もう顔隠さなくていいよ」

 どうなってるんだ。中本の下宿を出てから今後どうすればいいかをずっと考えていた。誘拐か人身売買かなにかなのだろうか。それらの片棒を担がされていたのならば、本当に中本は選択を誤ったことになる。とりあえず中本は先輩に対し事の真相を問いただす必要がある。話はそれからだ。下手に警察に直行して話が大きくなると二人とも命を狙われかねない。穏便に済ますのなら先輩に引き渡してしまって以後は知りませんというのもありかもしれないが、人を称して人形と言いつつ取引していたのならばいずれにしてもとんでもない話だ。下宿に着いたらママが帰ったぐらいを見計らって中本と電話しよう。そういえば、嘔吐物は何と言って言い訳したのだろう。太郎が吐いたとでも言ったのだろうか。

 本当に思いもよらずとんでもないことになったものだ。

 いろいろと考えながら歩いていると、よたよたとついてきた女がつまずいて「ぶっ」と言ってころんだ。前が見えなくて、アスファルトのえぐれたぬかるみに足をとられたのだろう。箱の切れ端と中本の服は泥まみれになった。

「おいおい大丈夫か」

 近寄って女の手をとろうとした。



 そのとき冷たく澄んだ空気が俺の中を突き抜けていったのである。



 見える以上に確認できる存在感、ものの輪郭ひとつひとつがぼやけずにぴかぴかに紡ぎ上がる。視覚以外の感覚器も全部使っているだろう自身の有機体そのものに、あらゆる思考の存在を許された安心感は計り知れなく、俺の視線は女に釘付けになっていた。ひどい混乱で気が回らなかったが、理詰めパズル用にフル回転していた頭は野蛮にもピタッと止まってしまったのである。ミディアムからダークへ夜が青くうつろいゆく。彼女を見つめながら、しかしはるか上空も後頭部から出ている不思議な神経線維ですべて掌握しているような気分だった。

 ゴツゴツのアスファルトは三百六十度見えるなかで十度も占めなかったが、彼女のいる一帯だけは、あらゆる分子運動が瑞々しく神聖であるように見え、蒸し蒸しする暑さもしつこい虫の鳴も、彼女の前では清くすがすがしく感じられた。髪は洗って間も無いらしく、優しいシャンプーの香りがする。地上にへばりついた二人の距離は引力も斥力もなく、世界がただそこに在るように俺と彼女はそこにいて、俺の感覚は透明だった。

 上げたその顔は涙目で、何かを訴えかけるように上目づかいだった。今にも何かしゃべりだしそうな雰囲気を不思議と感じるのだが、何故だか全くしゃべらない。俺は彼女の目を見たまま我に帰るまでしばらく動けなかった。

 完全に日が落ちた薄暗闇の中であって回復した俺の五感はすべて彼女に向かっていた。虫の音も暑さも湿気も草の青も、そのすべてが俺の思考の隅に追いやられて、まるで彼女をその場に存在させるためだけにある背景であるかのように感じた。しかしどれだけ彼女を見ても彼女が何を考えているのかは分からなかった。彼女もしばらく俺の眼球を見つめていたが、ガタンゴトンと四角い光が通り過ぎ始めるとゆっくりとうつむきだして、線路がある方向と逆の方向にあるアスファルトへ目を反らした。







 地域の再開発のせいでお気に入りのバーが潰されてしまった。バーが閉まる前にもう一度だけ顔を出すつもりでいたが、暴走族共の相手をしているうちに気がつけば五月も終ってしまい、振り返ってみれば三月に店をのぞいたのが最後になってしまった。最近はガキ共の喋りにも掴みどころが無くなってきていて、ひと昔前とは異なり、なんだか会話していても拍子抜けしてしまう。井田警部は建設されつつある高層ビル群を見上げながら時代の流れについていけない自分の古さを憂いていた。

「ガキのお守りも楽じゃねえぜ……」

 かつては柔らかい電灯が薄暗いながらも灯り、ブランドロゴを模ったネオンが飾る手すりを伝って地下へ一つ降りれば、狭いながらもレンガの映える懐の深い憩いの場があったのである。暴走族の追尾撮影中に近くを通って突然「あっ」と思い出し、帰りにバーに直行してみたが、かつてバーに下りる階段があった建物の周辺一帯は、白い壁ですべて覆われてしまっていた。道として残っていた路地を見つけて中に入り、織金網から中をのぞいて見ると、中は潔いくらいの更地である。路地を更に奥へ行くと、遠くに建築中の高いビルを望み、その長く伸びる影の中、織金網の間を走る小路の一角に、ポツンと一つ自販機があるのを見つけた。となりに灰皿が置いてあるところを見ると、工事現場の作業員がここに一服しに来るのだろう。奥には草が生えていて空き地も多いようである。

 近頃は捜査活動も立て込んで本当に金が無い。井田警部が値上がりした煙草の金額を見て眉毛を曲げていると、携帯に電話がかかってきた。

「井田です」
「すみません、今お時間大丈夫ですか?」
「ああ、どうした?」
「今朝に大麦交差点で起こった事故なんですが妙なのです」
「なんだ?」
「目撃者が口をそろえて突然空中に現れたと言うんですよ」
「なにがだ?」
「轢かれて死亡した青年です」

 この間のトレーラーの事故といい、最近は不思議なことが多く、井田警部は自分の「スジを読む勘」もなんだか頼りないものになってしまったような気がしたが、とりあえず一服しようか、と電話をしながら空いているほうの手で自販機に硬貨を入れた。







 彼女はドロドロのシャツを着たまま何も話さなかった。汚い下宿に申し訳なく思いつつも招き入れて以降、彼女の視線は犬がしょげて床を見つめているように下に落ちたままで、ときどき顔を上げることはあっても正面ではなく部屋の隅あたりを見ていた。首を少し上げつつ流し目でなにかを見つめる彼女は物憂げでうんざりしていて、そしてやはり俺の目にはそんな彼女が悲しそうに映った。

 ついた下宿は想像以上に汚い。人間が住んでいたとは思えない。人と接する機会がなければ会話能力や客観的観察能力が落ちるというが、こうも腐るとは正直思っていなかった程である。さらに言うならば、こういう部屋は漂流ボートよりも無駄に物が多い分、余計にタチが悪い。カップ麺の中で熟成した緑と白の模様も、今朝まで全く気にならなかったが、要するにカビが異臭を放ちながら浮いているだけなのである。しかし頭の悪い俺はそんなことは一瞬で忘れてしまい、彼女が咳きこみだすまで、座ったままの彼女をただ凝視してつっ立っていただけだった。

「ごめん。掃除するね」

 振り返ってみれば、ドロドロの服を着替えてもらうために俺が外へ出るなり、帰りに銭湯に寄るなり、下宿に入ってもらう前に俺が先に入ってザッとおおまかに掃除するなり、自販機で買ってお茶を出すなり、その他諸々、気を利かそうと思えばできることはいくらでもあったはずである。しかし中本との電話が気になっている間はそれだけで頭が一杯で、そんなことに気を回す余裕は全く無かった。コンピュータが入っていた空の引越し用ダンボールを片手に、俺は部屋の中をどんくさくウロウロした。もともとは自分がこもっていた部屋であり、捨てる必要性を感じないものばかりであったはずだったが、部屋の中で神妙な雰囲気を醸し出す彼女から一度目線を外してみれば、下宿は部分々々ではなく、それはもう全体として全部汚かった。俺は大事なものが何ひとつないこの部屋の中のものを全て捨ててしまうことにした。

 自分は別に汚くてもよいし、まして部屋の清潔度など知ったことではない。下宿に求める機能は唯一外界を外に締め出してしまうことのみであった。しかし殻は成り行き上予想外にも容易く割られてしまい、中から出てきた腐った黄身は訳も分からなく臭いだけだった。彼女がうんざりしているようにみえるのも仕方がないというか当たり前である。俺自身が自分についてよくわからない以上、彼女に部屋の訳がわかるはずもなく、一刻も早く部屋をまるごと処分してしまう必要があると思った。

「掃除する間、外で待っててもいいよ」と言おうとした時、中本から電話が入る。
「おう! つながった! 先輩につながったぜ! でも取り込み中だったみたいですぐに切られちまった!」
「おい、結局どういうことなんだよ」
「なんかこいつは不味い事になったって言って焦ってたぜ! 事態が落ち着いたらじっくり話しに行くから、それまでそいつから事情を聞いて、しばらくそいつを匿っといて欲しいって言ってた! 誰にも絶対言うなって言ってたし! おいおい! どうする! どうするよ!」
「この女は何者なの?」
「知らねえよ! そんなこと! あああああどうしよう! 他のやつらどうしてんのかな!」
「他のやつら?」

 中本が言うには、その先輩に人形を買わされた部員は中本の他にも複数名いたらしく、その部員達も同じ目にあっているのではないかということであった。どうやら一人で買える人形の個数には限度があるらしく、限度以上の個数を買いたいから名前を貸してくれというのがその先輩の頼みであったそうだ。

「それはつまりそれだけの女を侍らしてるってことか?」
「知らねえよ! 俺に聞くなよ! ああああああもう先輩に電話繋がらねえし! どうしよう!」
「そいつらに電話してみろよ」
「おおそうか!」

 中本は短い返事で電話を切った。早速他の部員に電話しているに違いない。中本の慌てぶりの方が普通なのかもしれなかったが、照明も碌に無い暗い部屋の中で、静かな彼女を前にせわしく焦る気にもなれない。咳き込む彼女は汚いことには困っていても、暗いことにはさほど文句も無い様子で、部屋の中で一番暗い隅を見つめている。

「きみ、なまえは何ていうの?」

 俺は中本の部屋を出て何よりもまずすべきであったかもしれない質問を彼女にした。彼女は俺の方を見た。ところが俺を見る目は人の割には意思が透明であるというか、まるで犬のようであり、彼女は俺の質問には答えずに目線をまた床に落とした。機嫌が悪いのかもしれない、俺はその程度に思って部屋の掃除に戻ろうとした。しかし、やはり事情は早めに聞いた方が良いと思い直し、紙くずを二、三個拾った後にもう一度質問してみた。

「どうしてあんなとこに入ってたの?」

 彼女は全く反応しなかった。そこで、俺は彼女が話す気になるまで掃除に専念しようと思い、カップ麺の中身の処分に取りかかろうとした。ところがカップ麺の容器を二つ両手に持って便所に行こうとしたとき、後ろから「ぐすっ」という音が聞こえた。



 彼女は泣いていたのである。



「どうしたの」
「うわああうう……、うわうわう……」
「何があったの」
「ああああうわううわう……、うわう……」

 このとき初めて俺は彼女の言葉がはっきりしていないことに気がついた。彼女は座ったまま俺を見て涙をこぼしている。俺は近くに落ちている一番汚れがマシなタオルを拾い上げて彼女に渡した。彼女はタオルをくしゃっと握って顔をすべて覆うようにおさえて涙を拭いた。

「しゃべれない?」

 彼女はタオルで顔を押さえたまま反応を示さない。俺は少し考えた。

「紙に書いてもいいよ」

 俺は近くに落ちていたよく分からないチラシの裏を上に向けて床に置いた。シャープペンシルを取ってきて床の上に置くと、彼女は目だけをタオルから出してそれを見た。しかしシャーペンを手に取ろうとはしない。

「字書けない?」

 彼女は首を横にふった。彼女は、耳は聞こえているようで、字は書けるようで、日本語もわかるようで、見た目通りの日本人であるようだった。俺は先ほどよりは少し長く考えた後、彼女に質問した。

「思い出せない?」

 彼女は顔を押さえているタオルを少しだけ下ろした後、腫らした涙目で俺を見て小さくうなずいた。







 その夜、時間は飛ぶように過ぎた。

 いろいろと雑多なゴミを袋に詰めたり、本を紐で括って外に出したりしているうちに、その日は眠れずに太陽が昇ってきた。彼女はタオルを握り締めたまま寝たり起きたりしていたようだが、ある時スッと立ち上がって部屋の外へ出て行ってしまった。俺は掃除中も今後どうするべきであるかをずっと考えていたが、やはり中本の先輩とやらの説明を聞くまでは下手にあれこれ行動しない方がいいのではないかという結論にたどり着いた。掃除中に例のURLのメモが出てきたのでそれを試しに打ち込んでみたりもしたのだが、サーバーから見つからない旨のステータスコードを突きつけられ、おそらくもうネットでの情報収集は不可能であろうと思われた。いったい彼女とどれくらいの期間を過ごさないといけないのか。今更常識も糞も無いが、見ず知らずの女と二人で過ごす必要性があるという事態は異様であり、俺の下宿に起因する急激に低下した社会学的あるいは道徳的エントロピーは、三日もすれば中本の先輩が訪ねてくることによって増大して解決するに違いないと勝手に思っていた。要するに女が下宿にいるという事態に比べれば引きこもりなんていうものは本当に取るに足らないことであり、世界は引きこもりを無視する包容力はあっても俺と女を同じ屋根の下に放置なんてことを黙って見逃す訳が無い、ということである。この間まで引きこもりだった奴が大きな口を叩くなと言われるかもしれないが、引きこもりの障壁に風穴をあけられ、その中身は不様にも外に漏れ出てしまったのである。外の空気を受け入れた下宿はかつて認識していたほど暗くも無く、差し込んできた朝日は憎たらしくも明るかった。

 延長戦である。どうせなにもなければあのまま寝床で腐乱していただろう。もう俺の人生は負けが確定したのだからこれからはおまけのように生きればいい。中本を助けるつもりでやったことが思いもよらず大事になったが特に俺の方針に変更は無く、何がおこっても特に動じることもないように思っていた。しかし、部屋から出て行った彼女が帰ってこない。

 すこしあわてて外に出ると、彼女は玄関を出てすぐの廊下に座っていた。踵と尻をくっつけてつま先立ちし、前かがみな上体は太ももに置いた肘で支え、肘から先の両腕はバツにして置いている。彼女は裸足だった。彼女は特にいじけている様子もなく、紐で括った本の一束をじっと見ている。

「まあそのあたりの本はまだ新しいけどね。もういいんだ」

 捨てた本のほとんどは本屋で適当に選ったゴミのような参考書群である。合格した奴等にあやかろうと弱った頭で考え、奴等が使っていたというものを中心に参考書を選んではみたが、もともと俺よりできない奴等が使っていた参考書に過ぎず、結局は読み応えの無いペラペラのものばかりであった。勉強する気になることがもしあれば、現役のときに使っていた本を実家から持ってくることにしよう。単語帳以外は大体残っているはずである。

 着信音に呼び出されて部屋の中に戻ると中本からであった。

「もしもし」
「……」
「どうした?」
「遠藤とか宇野とかにも聞いてみたんだが、どうやら普通の人形だったみたいだ」
「普通に?」
「ああ。人間じゃねえ。本当に人形だったみたいだ。普通に箱にしまって自分の部屋に置いているらしい」
「……」

 どうやらややこしいことになっているのは俺達だけのようだった。目くらまし用のダミーがたくさんある中で、俺たちだけ本取引用の本物に当たってしまったのだろうか。そのように考えていると中本は予想外のことを言い出した。

「それと木寺が妙なことを言ってて、小野田先輩は『世紀の大発明の実験に関係がある』とかなんとか言ってたみたいなんだ」
「大発明?」
「なんかそれはちょっとよくわかんねえ。木寺ってのは小野田先輩と長い付き合いなんだが、そいつがそう言ってたんだ」

 大発明とはなにごとか。大方、一番親交の深い後輩には悪事を働いていることを知られたくなかったとか、そのような理由で大ぼらを吹いたに違いない。俺はそう考えた。

「おい! どうする! どうするよ!」
「おまえはほんとに人に聞いてばかりだな」
「うるせえよ! お前と違って頭回んねえんだよ俺は!」

 たった一言であっても必要とされることが如何に救われることか、俺はここ一連の事態で嫌というほど分かっている。俺は中本に引きずり出されたのである。俺は少しだけ明るい気持ちになった。

「そうだ、昼前に昨日の五千円持ってこっち来てくれよ。みんなで昼飯食おう。金無えんだ。今後の話しようぜ」

 俺は久しぶりに建設的で前向きな提案を口から発した。

 掃除が終わった後、俺は彼女を銭湯に連れて行った。半日以上ドロドロの服を着させていて申し訳なかったが、俺の下宿に風呂は無い。例によって一番マシな服、タオル、石鹸等を持たせて女湯に行かせ、俺は外で待っていた。炎天下で日光を浴び続けたのも久しぶりで、人間というのは本来これほど活動的なものだったのかと思い、待つ間汗でにじむ景色は俺の目にずっと眩しかった。言葉がはっきりしないところが不安であったが、彼女は濡れた髪を揺らして特に問題も無く出てきた。下宿に連れて帰るまで、やはり彼女は無言のままだった。

 昼飯は三人でラーメンを食いに行ったが、そこで俺達は戦慄した。ラーメン屋のテレビに映る昼のニュースを見て中本の様子がおかしくなった。

「先……っ!」

 振り返って中本の視線を追うと、テレビのテロップに「小野田健」の文字がある。小野田先輩は今朝、大麦交差点で市バスに轢かれて亡くなったらしかった。

 言葉を失う俺たちには見向きもせずラーメンだけをずっとズルズルとすすっていたのは彼女だけだった。







「これは何の破片だ?」
「はい?」

 鑑識が撤収する準備にかかり出したとき、周りとは逆に、一人手袋をはめ出して破片を拾い上げたのは井田警部である。井田警部は青年が歩道橋から飛び降りたのであろうという説明がなんとなく腑に落ちず、到着してからしばらく目を細めて現場を眺めていた。

 井田警部は腑に落ちない原因の一端が異様に多い破片の量であることに気がついた。鑑識番号がついていた破片は大きめのもの数個であったが、よく見ると事故を起こしたバスの下や事故処理車の下、サインカーの下にも細かいものが散らばっている。

「この灰色のやつだ。モルタルか何かか?」
「コンクリートですね。事故で削れた破片でしょう」
「どこで削れたんだ? アスファルトのようには見えないが」
「ああ確かに。セメントっぽいですね。歩道橋から飛び降りた時に削れたとかだと思いますけどね。まあ鑑定しますので」
「歩道橋からにしちゃあ量が多すぎる」

 大麦交差点は南北東西とも片側四車線の交通量の多い大きな交差点で、複数路線の市バスが朝は五時頃から晩は十一時頃までせわしなく通行する。青年をはねたのも最も運行本数の多い十六号系統の市バスであった。バスのフロントガラスやバンパーの破壊具合を見れば、ほぼノーブレーキであったことは一目瞭然である。フロントガラスの損傷している高さから考えて、歩道橋から飛び降りて轢かれた、と考えるのが自然であったが、バスの運転手に加えて通行人二名、青年は突然空中に現れたのだと言い張って穏やかでない。特に説明するバスの運転手の必死さは異常で、井田警部は、この間の転落事故で見間違いと処理された警官二名のそれと同じようなものを感じた。

 これほどの量のセメントコンクリートが飛び散っているとなると歩道橋の欠陥等についても考えなければならない。普段慎重な井田警部は前にも増して慎重であった。歩道橋の階段を上がろうとすると後ろから波野巡査長が追ってきた。

「お疲れ様です」
「ああ」
「これまた気持ち悪い事件で困っておるのですよ」
「急に現れてはねられたというのがよく分からんのだがなあ」
「ええ」

 井田警部は階段を上り終えると左手で自分の髭を触りながら目を細めて歩道橋のあちこちを観察し出した。よく分からない事件などがあると、巡査長はしばしば井田警部に助言を求める。ベテランでありながら現場に率先して出ていき、フットワークが軽く感も鋭い、そんな井田警部を頼りにする警察官は多かった。しかし歩道橋から眺めても、歩道橋に特におかしな点は無かった。

「仏さんは?」
「はい、県立美奈川大学四年生の小野田健、二十三歳の男性です。フロントガラスに激突して路上に落ちた後タイヤに巻き込まれて即死です。親族には今連絡中です」
「うーん、靴も履いとるし、鞄もつけとるし、携帯も持っとるしなあ。飛び込みとは思えんのだが……」
「事故ということですか?」
「誰かに突き落とされたところとかを見た者は本当におらんのか」
「ええ」
「むう……」

 歩道橋から下りた井田警部は巡査長に、目撃者に対してくわしい事情聴取、小野田の周辺の人物に対して自殺動機があったかどうかなどの聴取を命じた。殺人事件の線も捨てきれない。轢かれてバラバラになってしまった携帯電話も復元できるならさせるように伝え、電話会社にも協力を仰いで履歴を問い合わせるように指示した。

「さあ白と出るか黒とでるか……」

 そうつぶやいて引き上げようとした井田警部はそのとき丁度歩道橋の下にいた。井田警部はふと見た歩道橋の裏側に、かすかなえぐれのようなものがあるのを見つけたのである。少しであるがシャープな弧を描いて歩道橋がえぐれている。しばらく目を細めてそれを見ていた井田警部であったが突然、

「あっ!」

 と声を出して、

「波野! ちょっと来てみろ!」

 と巡査長を呼び寄せた。







「もうマズイ……これはもうマズ過ぎて凄くマズイ……」

 帰り道に中本はそう言ったきり黙ってしまった。しかし今度ばかりは流石の俺も真剣にマズイのではないかと感じざるを得なかった。事情の如何はよくわからない。客として注文のしすぎで消されたのか、あるいは「マズイことになった」という口振りから考えれば人身売買を扱う側の人間だった可能性もある。しかしどちらにしても小野田先輩は消されたとみてほぼ間違いないだろう。このままでは我々も消されかねない。

「……」
「お前、部員の奴らに聞いたとき、箱に女が入ってたことは言ったのか?」
「……言ってない」

 首を振った中本は、俺の発言の続きを早く聞きたそうな顔をした。俺は振り返って彼女を見た後、中本に言った。

「なら隠し通せるな。お前しばらく耐えろ」
「は?」

 俺はラーメンをすすっている時からずっと考えていたことを中本に話した。

「お前のところにはまず間違いなく警察の聞き込みがくる。『先輩には何も頼まれてない』と言い張るんだ」
「おいおい警察には言わなくていいのか?」

 ついてくる彼女は一人、手を後ろに組んでよそ見をし、気楽そうである。

「お前、なにか裏にデカいシンジケートみたいなものがあったらどうするんだ。そいつらがもしかしたら彼女を引き取りに来るかもしれない」
「それこそ口封じに殺られてしまうだろうが!」

 中本の言い分は尤もである。

「いや、警察にチクッたところで殺される可能性は消えないんだ。どちらにしても俺達は殺される可能性からもう逃げられない。無意味かもしれないがシンジケート側の信用を得る意味でも黙っておいた方がまだマシじゃないかと思うんだ。お前は警察に言った方がいいと思うか?」
「うーん」

 中本は下を向いて考えだしたようである。

「他の部員は俺らの事情知らないんだ。自殺は違うんじゃないかとは思っても、頼まれた人形が関与しているとは微塵も思ってないはずだ。大発明云々を聞かされたとかいう木寺とかいう奴以外はな。お前もそいつ等が振舞うように振舞えばいい」

 俺はここまで言ったところで、ふと頭の中にある疑問が浮かんだ。

「お前さ、箱の運送伝票に何て書いてあった?」
「は?」
「運送伝票だよ! 送り主が書いてあるやつだ」

 中本が焦っていたこともあり、届いた当時はすっかり例の届け物だと思い込んでいたが、よくよく考えてみれば確認をしていない。宅配便で運ばれてきたものには必ず運送伝票がついているはずである。中本は下を向いたまま歩く足を止めて固まる。

「……付いてない」
「……なに?」
「付いてなかった……伝票……」
「本当か!」
「ついでに言うと判子も押してない……」
「……」

 これでは誰から来た荷物かわからないではないか。彼女も俺達の空気を察したのか、歩く足を止めて俺達の顔を交互に見ている。細い眉をほんのりとハの字にして俺の顔を覗き込む彼女を見ていると、辺りでミンミン鳴くセミは気楽でいいなあ、などと思考が期せずして脱線してしまう。彼女から目線を反らして下を向いて腕を組むと、ミンミンが十回聞こえたぐらいでひとつの結論が現れた。

「いや、待て待て。そうじゃない。逆だ」
「あ?」
「箱を持ってきた奴らが組織なんだ。間違いない」

 中本は俺の発言を聞いて組んでいた両腕をすっと下ろした。

「えーっ本当か! でもトラックとか服とかになんとか運送って書いてたぞ!」
「なに運送だった?」
「それがなあ……覚えてない」

 俺達二人はまた黙り込んでしまった。中本が言うように組織がすぐに俺達を消しに来る可能性は否定できない。しかし女を運んできたのは奴ら自身であり、先輩の絡む内輪揉めか何かが起こって配達が混乱したということも考えられる。運んできた奴らがよくわからない言い訳をして帰ったという謎もあり、話を大きくしたくないなどの配慮があれば、俺達はもしかすると助かるのかもしれない。しかし、事態がよくわからない以上いくら考えたところで無駄であり、組織がどう出てくるかは結局全く分からないのである。彼女はアイスクリームの自販機をながめている。

「お前記憶力はまあまあだろ。警察に答える用の筋書きを書いて渡すから今日中にしっかり覚えて事情聴取に備えるんだ」

 俺の頭のシナリオは中本にも伝えておく必要がある。

「……うーん」
「それとも警察に直行するか?」

 煮るなり焼くなり好きにしてくれ、俺だけの話であればそれで済んで、めでたく事態は終結するだろう。しかし周りが絡むとそうはいかない。まして中本が殺られるなんてことは理不尽極まりない許されざることである。それを考えると、俺が事態を全部引き受けるのであれば、中本が警察に直行するのも悪くないな、と俺は思い始めた。このもう一方の結論は俺の真理から導き出されたものであり、それに気づいた俺は、その内容についても話す必要がある、それは自然なことであり何の違和感もなかったのである。ところが何げなく言った俺のひとことが中本を怒らせた。

「なにかあったら全部俺のせいにすればいいさ。俺はもう別に失うものはなにも無えからな。任せる。どっちがいい?」
「あ? 待て待て。それはどういうことだ?」
「好きなようにしてくれ。どうすればいい?」
「お前、俺がお前を売ると思ってるのか?」

 こんなに強い口調で批判的意見を言う中本も珍しかったが、そういうつもりは全くない。その分中本が何を言っているのかが心に引っ掛からず、半ば無視するように俺は言葉を続けた。

「お前が有利になるようにしろよ」

 中本は目を点にして俺を見ていたが、中本なりに考えて喋り出したようだ。

「やっぱりお前変だぜ、健全じゃない。そんなに大学落ちたのがショックだったのか? そんなに恨めしかったら代わってやるぜ? 今日からお前が中本名乗るか?」
「そんなことは言っていない。助言をしてるんだ俺は」



 空気が少し違う。ミンミン言う音が遠い。



「もともとコレは俺のせいなんだ。なのになんで俺がお前に被せるんだ。俺はそんな奴じゃねえよ。思い出せ。冷静になれよ」
「お前が考えるより冷静だぜ俺は」

 走りかけている亀裂は潔く美しい。これはこれで中本の味方の一つの形態であり、高いところから低いところへ流れる真理への接近であった。話がおさまれば考えることも止めることができるというものである。


「まあシナリオはメールに書いて送るぜ。好きなようにしてくれよ。この女は俺が預っとくから。まあ心配すんな」

「一人で何言ってんだ?」

「そうだな、女がついてくるかどうかわからねえか。まあそこまで面倒見れないかな」


 考えることに急速に疲れだした俺は、懐かしい感覚と収まりの良さを思い出し、ゴミが掃除機に吸われるように脈絡無くあの下宿に導かれて歩き出した。


「おい! 待てよ!」


 と中本は言ったかもしれない。先程までの暑さが嘘の様に汗がすっと引いて、道路からの日光の反射が液晶の画面のような感覚の奥で眩しい。

 ところが俺に帰る場所は無かった。自分で潰したばかりである。ゴミのような参考書と対局のように捉えていた俺の思考も、もはや負けず劣らずゴミのようであり、きれいになった部屋からは同じように汚いものとして閉め出されてしまった。俺に引きこもれる環境は残されていなかったのである。俺は開けたドアの前で自分が数時間前にした所行に呆然とし立ち尽くしていた。

 ひもでくくった参考書の束の上に座る。本当に何もかも無くなってしまった。俺はA4サイズの世の中と尻だけで繋がってぶらぶらと引っかかっていた。良い風が吹いてくれれば尻が?がれて静かで罪のない世界へ飛び立てる。二階でもうまくやれば成功するだろう。しかし引いたと思っていた熱が眼球の裏側から首の中まで急激にわらわらと湧き出し、袋の収縮は辺りに麺でできた水たまりを形成した。飛び立つにしても食べた直ぐ後は熱が多すぎて無理だ。すこし冷めないといけない。冷まそうとして一時のつもりで部屋に入ったそのときである。



 一番汚れがマシなタオルが部屋の真ん中に落ちていた。



 しまった。

 置いてきた。



 俺は口周りを手でぬぐってもとの場所へ走って戻った。


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