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第二章 花火と彼女

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 第二章 花火と彼女

 井田警部は次の一手が煮詰まっていて不快だった。小野田健の死亡した大麦交差点の歩道橋にあった球の一部を形成するえぐれ、これを見た井田警部はこの間転落したトレーラーにも同じようなえぐれが存在していたことを思い出したのである。井田警部は急いで署に帰り、写真と照らし合わせた。えぐれはどちらも断面が非常に滑らかだった。トレーラーの乗車席後ろの壁には謎のきれいな穴が空いていて、写真上の乗車席のえぐれ、および歩道橋のえぐれについて計算をさせると、えぐれがその一部となる球の半径はどちらも1m程度だった。しかしこれが何なのかは全く不明である。直径2mの穴を掘る掘削機か何かが削ったのだろうか。いろいろ捜査をしてはいるが、いまひとつ決定的な情報がない。流石の井田警部も、これはお手上げだ、自殺以外考えられないと思いだしていた。

 なにやら交通規制課が慌ただしいな、と井田警部は資料から顔を上げる。

「おい、どうしたんだ?」
「はい?」
「慌ただしいじゃないか」
「今日は花火大会ですよ」

 井田警部は指さされた先にあるポスターを見て、目を細めた。

「おお、なるほどお。そらご苦労さんだな」

 今日は思い切って休憩してやろうか、西瓜を食べながら花火でも見るか。規制課の慌ただしさをよそに井田警部はそんなことを考えたりした。しかしこの日、管轄外の井田警部まで駆り出される事態になるとは、井田警部は思いもしなかった。







「久しぶりじゃない。何しに来たの」

 教室の一番後ろの窓側に座ると幸恵が気づくなりこっちに近づいてきた。

「わからない」
「わからないじゃないわよ!」

 幸恵が突然大声で怒鳴ったせいで教室中の浪人共が俺の方を見た。奥の方の女数人は笑っているようである。幸恵は寝不足の頭に向かって容赦なく怒鳴り散らす。

「あんた全然来ないじゃない! 一体どこで何やってるの?」
「べんきょー」
「嘘ばっかり! どっかに引き籠ってゴロゴロしてるんでしょう!」

 今日は再来月の模試を受験するために手続きに来た。そのついでに授業の様子を少しだけ見て帰ろうという、その考えが甘かった。普通に考えれば容易に予想できたはずだが、間抜けにも幸恵に詰め寄られることは全く考えていなかった。本当のことは話せない。

「べんきょーしてるさ。大丈夫。自分でやれば効率いいんだ。現役の時もそうだっただろ俺?」
「それは知ってるけどさあ」

 幸恵が急に悲しそうな顔をするのは堪らない。

「あたしゃてっきりどっかで死んでるんじゃないかと思ったわよ」

 幸恵が俺の実家に電話を入れてきて、予備校に通っていないことが親にバレたのは二、三日前である。大丈夫、下宿で勉強している、模試は受ける。親からの電話でそのような受け答えを余儀なくされた。そうでなければとても模試の手続きどころではなく、いろいろ事態が込み入っているこんな時に、わざわざこんなところに来るわけがない。

「ほんとうに大丈夫なの?」
「ああ。問題ない」

 俺はなるべく自分の発言を短くするように努めた。話せば話すほどお互いのためによくない。幸恵の反応を見るのもつらい。

「ねえ、下宿の場所教えなさいよ」

 下宿の場所は誰にも教えていない。親にすら言ってない。知っているのはラーメンを食べた日に教えた中本ぐらいのものである。理由は入居した当初とは全く違うが、今も下宿の場所を教えるわけにはいかなかった。

「聞いてどうすんだよ」
「見張りにいくわ」

 幸恵は机に手をおいて顔を近づけて強気で言う。俺は少し考えた後、自分の鞄の中へ目を反らしながら幸恵に言った。

「心配するなよ、大丈夫だから。明日からは毎日くるさ。下宿では勉強に集中したいんだよ。だから場所は誰にも教えたくない」
「……」

 幸恵は立ったまま少しうつむいて黙り込んだ。しかし次の瞬間、顎を少し上げて俺を見る目が細くなったかと思うと、お馴染みの速足で席まで鞄を取りに帰り、すぐにその足で俺のところまで戻ってきた。

「ならいいかげん携帯の番号ぐらい教えなさいよ」

 俺はこれを断ると尾行されかねないと思った。幸恵の迫力に負けて、知り合って五年目にして携帯番号とメールアドレスを白状した。

「さっさと教えればいいのよ」
「ピロピロかけてくるんじゃねえぞ、着信拒否するぞ」
「うるさいわね!」

 開始のチャイムを教室で聞くのは久しぶりだった。幸恵はまだ何かを言いたそうであったが、チャイムの音を聞くと顔を真っ赤にしたまま黙って下を向き、両手で携帯をいじりながら席に戻った。幸恵は鞄を俺の席に忘れていった。

 俺みたいな奴の何がいいのか。幸恵の優しさは辛かった。俺は直後幸恵がものすごい剣幕で鞄をとりに来たのを見てから、幸恵に気づかれないように教室を抜け出した。

 来月以降の予備校代はすべて食費につぎ込んだ。はっきり言って稼ぎも糞もないお財布事情で二人分の飯代なんてふざけるなと思ったが、どれもこれもかつてからは考えられなかった感覚で、とりあえず少しの辛抱であるからと自分に言い聞かせて行動をとっていた。しかしとうとう三週間目に突入してしまった。なんの音沙汰もない。





 彼女はいつもドアがある方とは反対側の窓を開けて一日中ぼけーっと外を見ていた。窓を開けられていては冷房を入れられない。どちらにしても冷房を利かす程の金は無いから構わないのであるが、この暑さをなんとも思っていない様子で何も考えていないようにも見え、あるいは暑さなど気にしていられないほどのことを考えているようにも見え、やはりなにを考えているのかは結局のところよくわからない。窓の外には線路が走っているが、電車が音をたててやかましく過ぎ去っても、電車からの風に髪をなびかせるだけで、特に何をするということもなく、

「どこを見てるの?」

 と聞いても返事は帰ってこなかった。

 俺の薄いシャツと短パンをまとって窓辺に佇む彼女。俺はあのまま下宿で死んでしまって、死後の世界の幻覚を見ているのではないかと疑ったことがある。しかし、自分と彼女が同じ部屋の中に存在しているということは、歩くと鳴る床が彼女のいるところで響きを変えることからも明らかであった。俺と彼女は同じ重力で世界に張り付けられた人間であった。

「ごはん、今日はコンビニのおにぎりとサラダ……」

 彼女は何を出されても文句ひとつ言わない。しばらくそれらを見つめた後、包み紙や容器を開けてもぐもぐと食べる。その仕草はあまりにも無機的で、コンビニ帰りで温まった飯の放つ有機的低俗さとは相容れないものであるかのようにも見える。何も食べるものを出さなければ、彼女はこのまま窓辺で餓死してしまうのではないかとさえ思えた。彼女は太陽が沈むとバスタオルにくるまって横になって眠った。

 彼女は相変わらず静かであり、神秘的であり、逆に部屋の中には物が無さすぎて、それは彼女以外には何も無いと断言できるほどであった。かく言う俺も彼女以外の物の無い空間を形成する一部であり、例外ではない。ペラペラで誇れる実体の無い俺は、部屋の中にいることが申し訳なく思えた。外に出ては入り、少し辺りをブラブラと散歩しては部屋に帰り、かといって予備校まで出ていく余裕は流石に無い。自分の行動は下らなくも潜在的に見張りも兼ねていたのかもしれないが、自分のしているその行動については何をしているのかが自分でもよくわからず、結局は部屋にいづらいという理由だけでマイナーチェンジの徘徊路を量産していた。喫茶店に入る金はない。予備校までは行かなくともショッピングモールまで歩いて行って冷房の利いた建物内で汗を乾かしたりしていた。

 それにしても全く下宿から出ていく素振りを見せない。出ていくならそれでもいい、俺の知らないところで事態が動くのであればそれでもいい。俺は彼女の行動に関しては完全に放置するつもりでいた。しかし、帰ってきて鍵の掛かっていないドアを開けると必ず彼女はそこにいて、窓辺に座って外を眺めていた。銭湯に行くときもラーメンを食べに行くときも赤信号ではきちんと止まるし、どうやら地理的なこともわかっているようであるし、この様子なら少しぐらいは気晴らしに外へ出てもおかしくない。それでも下宿に引きこもる彼女はいつも窓辺に座って外を眺めていた。

 短期間のつもりではいたが、人が生活で用いるであろう物体群がこの部屋にはあまりにもない。彼女は唯一部屋に存在する娯楽と言えるパソコンを時々見ているようではあったが、使い方が分からないのであろう、触ろうとはしなかった。日光を浴びる生活を続けているうちに俺の中に正常な感覚が戻ってきたのか、一週間経ったあるとき、俺には配慮が足りないと思い、中本から一台のテレビを借りてくることに決めた。このままではあまりに彼女に申し訳ないと思ったのである。彼女はテレビを持ってきたその日には反応せず、意味の無い配慮に終わってしまったかと思った。

 ところが数日して、太陽が沈んでからきょろきょろと何かを探しだしたかと思うと、彼女はリモコンを手にとってテレビをつけて見始めた。それが初めて見た彼女の行動の変化であったので、このあとどうするのかが気になり、しばらくじっと彼女を眺めていたのだが、目線はブラウン管に向いていてもやはり見ているのか見ていないのか分からない様子で、彼女は無言でぼーっとしているだけだった。以後、晩になると時々テレビをつけてブラウン管を眺める様子はあった。しかし日中はそのようなことはなく、太陽が照っている間はトイレ以外で窓際から動くことはほとんど無かった。

 別に彼女と居るのが嫌な訳ではない。むしろ薄くてペラペラの俺はそれで生かされているところがあった。しかし、三週間目に入り、俺は流石に焦り出したのである。七月の中旬になったというのになんの音沙汰もない。いつまで彼女といないといけないのか。とりあえずコンビニなどでバイトを始めて金の減りを最小限にしようと足掻いてはいるが、それでも厳しいことに変わりはない。金を借りるなり少し出すなりできないか中本に聞いてみよう。事態が動かないので、どちらにしても中本とは相談をしないといけない。久しぶりに予備校に出かけたのはそのようなことを考えだした頃である。



 教室から抜け出した帰り道、俺はショッピングモールを通って涼んでから帰ることにした。ショッピングモールを通って帰っても下宿までの距離は大して変わらない。本来そのようなことに気をまわす義務があるのかどうかは疑わしいが、もう少し彼女が機嫌よく過ごせるようにならないか、もう少し待遇がなんとかならないものか。そんなことを考えながら歩いていると、一件の店のバーゲンワゴンの中、クッションが数個入っているのを見つけた。そういえば俺の下宿は座布団すらないじゃないか。実家から持ってきた薄いマットレスは、汚いシーツを捨てられて剥き出しで部屋の角に転がっている。彼女にはマットレスの上で寝てもらって、俺はそこから対角の隅にまで離れて寝ていた。だが彼女はテレビをぼーっと見ている間は、マットレスではなく床に直に座ってばかりで、なんとも足や尻の納まりが悪そうであった。実家から何か下に敷けるものを持ってこないといけない。そう思いつつふらっと店に入ると、涼しそうな音がする。店の中の一角、同じく大売り出しされていたのは風鈴だった。







「一応言っておくがお前の私物じゃねえんだぞ?」

 似合わなくも少し真面目な顔で正論を言ったのはユニフォームを纏った中本である。そんなことはわかっている。買ったのは中本である、いやいや、そういうことではない。ここ数日の俺の行動に公正な審判を下されたような気もするが、俺にそんなつもりはない。

「わかってるよ、そんなことは」
「いやあ、ごめんごめん。一応だ一応、あんまり感情移入すんなよ」


 この前の逃避行動を中本は本格的に気にしていたようで、中本のために距離を置いておきたい俺は、こいつは失敗した、悪い傾向だったと反省した。中本の気を引くような行動は決してとってはいけない。わりにあっけらかんとしている中本にこんな台詞を吐かせてしまうとは顰蹙ものである。

「じゃあお前の家で一緒に過ごすか? ママにもう一人分飯作ってもらえよ」
「いやあ、悪かったって! ほんとこの通りだからさ!」

 中本が彼女を預かれないことは分かりきっている。それでもそこをついたのは、義務を遂行しているに過ぎないと強調して、干渉しない妥当な距離を保ちたかったからである。すでに気を遣っているだろうが、これ以上中本に要らない気を遣わせたくない。あのときは俺に任せるとのことで意見が一致し、結局しばらく様子を見る方を選択したが、中本からしてみれば、急に逃避した俺にも構わなければならなかった分、事態が余計にややこしく、諸々のことを考えても俺の意見を採用するしか選択肢がなかったのであろうと思う。

 公園から見える向かいの駐車場では、停まっている紺や黒の車から、もやもやと火傷しそうに空気が揺らいでいるのが見える。今日の相談を外ですることになったのは、外でしようぜと中本に言われた、というそのままの理由からである。十一時半まで同好会のソフトボールの練習があって、その帰りに公園に寄るとのことであったが、俺をなるべく外につれ出して引き籠らせないようにしよう、という魂胆があったに違いない。焼き肉ができそうなアスファルトの砂漠の中、なるべくポツポツと存在する影の孤島を経由しながら俺は公園まで辿り着いた。しかし奴は金属バットにグローブを通して肩にかけながら、道の真ん中を真っすぐに突っきってこちらに向かってきた。

「それでさ、全く音沙汰無えよな。パソコンのアドレスにもメールが来ない」
「ああ、俺の家にも全く連絡がねえ」

 組織側は何も動きを見せない。警察は警察で中本までたどり着くのに時間がかかっているようだった。ここで初めて聞いたが、小野田先輩が死ぬ前にかけてきた電話は公衆電話からだったそうである。

「俺、小野田先輩とそんなに親しくなかったからなあ」
「あ、そうなのか? それならなんで今回コレ引き受けたんだ?」
「いやあ、レギュラーやるって言われてさあ」

 そんな理由だったのか。今のは聞かなかったことにした。

「でもこのまま音沙汰無いのなら警察に通報した方がいいかもしれないなあ。特に向こうは動くつもりもないのかもしれない」

 思い返せば入試が終わってから今までほんとに勉強していない。数学からも離れて久しく、今では極限を求めるためにうまく挟めるかどうかも怪しい。学力を最も良かった時期の水準にまで戻そうと思えば、リハビリに二か月ぐらいはかかるかもしれないが、入試の勉強なんてものは逆に言えば本来その程度で、上辺だけでよいなら入試に通る学力ぐらいは容易く用意できる自信がある。しかし、問題は精神状態というか、すなわちやる気である。机から離れた生活を送り始めると、頭が掻き消していた体からの声が聞こえ始める。今年の夏は暑いなあ、という報告に至っては、思考から口を強奪してまで、体が体の外へ知らせようとする。結局、自分の耳にも報告が帰ってきてしまって、他人の悪意なく勝手に一人で暑さが増強する。勉強中は眼球としか繋がっていない頭が、体のいろいろな部分と接続されるようになると、本来の感覚の有り方を文字通り体験して思い出すことができる。暑いものを暑いと思い、汗臭い物を汗臭いと思い、風で葉が擦れる音を涼しいと思い、緑と青が白を傍にして明々と自己主張しているのを見れば、直射日光を避けさえすれば目の健康に良さそうであるなと感じる。久しぶりに見上げた空は青く抜けるようであったが、雲は分厚くてなんだかふてぶてしく、山の向こうの奴にいたっては下からもこもこと積み上がって、近い将来「これ夏の風物なり」とばかりに雷を落とすつもりでほくそ笑んでいるかのように見えた。

 周りの様子に関心が向きだした分、代償として勉強する気が起きないのだ。きっとそうだ。いつも頭で考えすぎるからよくない。俺はもう少し頭が悪いぐらいで丁度いいのだ。中本と今後の話をするつもりで会ったのだが、話しているうちにそのような全く逆のことを考え出した。この暑さに蒸し蒸しと頭を攻撃されてしまったのも原因だとは思う。しかし、この三週間を振り返ってみて、果たして湧き上がってきた危機感に意味があったのか。危機感が必ずしも事態を変えないのではないか。振り回されても疲弊するだけ損だ。俺自身が根本的に疲れているという見方に辿り着いたのは、それが初めてだった。

 俺は、そのうち警察に通報しにいくかもしれないなあ、と口では言いながらも、全く深くは考えずに中本と別れた。焦りという感覚がカラカラに蒸発して無くなった俺は、帰り道でたまたま、例のアイスクリームの自販機の前を通った。



 彼女は肘をついて窓の外を見ていた。俺の携帯デジタル音楽プレイヤーを聞いた形跡がある。相変わらず外を見てはいるのだが、以前の彼女とは少し様子が違う。以前までは本当にどこを見ているのか分らなかったが、水晶体の厚みの調節ができるようになったというか、目線がしっかりしだして、横で一緒に窓の外を見ていると、今はあのマンホールを見ているなとか、今はあのヘリコプターを見ているなとか、何を見ているのかが分かるようになってきた。最近の彼女を見れば、彼女にももちろん気分があって、以前の彼女はやはり少し気分が落ち込んでいたのではないかと思う。中本との話から帰ってきたとき、なんと彼女は初めて振り向いて俺を見た。俺はしっかりと見られてギクリとした。彼女は俺に目線を合わせたまま少し首を傾ける。しかしすぐまた興味は窓の外にうつってしまった。

 模試の手続きから帰ってきた日、相変わらずぼーっとしている彼女の横で、俺は黙って窓枠に風鈴をつけた。窓はどうせ開けっぱなしだからということで、窓の開閉に使うレールに開いている穴に無理矢理糸を通してくくりつけた。金は無いがこれくらいやってもバチはあたらないだろう。つけてすぐ、なんだかむず痒くなり、場にいづらい空気を感じてすぐに外に出たものの、帰らない訳にもいかない。しばらくして帰ってくると、彼女は相変わらず外を見ていたが、日が沈んでも窓のそばから動かない。ちりんちりんと涼しげな音が真っ暗な下宿の中に響く。彼女は耳で涼んでいる様子だった。

 当たり前だがこんな夏は経験したことがない。彼女にアイスクリームを見せると、紙をめくってもぐもぐ食べ出した。いろいろ道徳的に問題があるかもしれないが考えたくない。呆けていたい。彼女と過ごして嫌な気はしない。俺は俺以外の人間の過ごす一般的な夏の季節感、もっと言えば俺以外の人間が普段何を考えながら過ごしているのか、普通の如何の一つのパターンを知って、なんだか俺が俺でないような気がした。

 アイスクリームを食べる彼女を見ていると、携帯にメールの着信があり、中本からメールが来たのだと思った俺は、トイレに行ってから本腰を入れて用件を見ることにした。やはりあれだな、俺の返事が軽かったのが気になったのかな、今では完全に中本の方が危機感あるな、と思いながらトイレを済ませて携帯をとったが、メールは中本からではなかった。

 見知らぬメールアドレスである。題名には、幸恵です、とあり、思考停止の腑抜け傾向であった俺も頭を使わずにはいられない。俺に用があるのか。部屋は相変わらず蒸し蒸ししている。

「幸恵です。明日の晩、美奈川の花火大会見に行かない? 楽しくやろう!」

 今まで花火大会なんてものに行ったことがない。夏休みは朝から晩まで勉強をしていたかといえばそうでもなく、夜店とか祭とかには家族に連れて行かれたことがある。しかし何故か花火大会なんてものには行ったことはない。こういうところで友達の多い少ないが効いてくるのだと思う。俺の夏休みはいつも一人だった。彼女はコーンをバリバリ食べ出した。彼女を一緒に連れてはいけない。彼女を置いて外に遊びに行くのもどうかと思う。

「お誘いありがとう。でも勉強がノッテきたので勉強します」

 よくそんな嘘がペラペラ出てくるなと我ながら感心するが、実際はそんなに難しいことではない。とりあえず勉強していると言っておけばいいのだ。それで通じる。傍から見た俺のキャラクター性なんてそんなものだ。ところが幸恵はすぐに返信してきた。

「安心して! 二人じゃないから! 高校のみんなと行くよ!」

 数少ない俺の周りの人間は、本当に俺を外へ連れ出したい奴ばかりらしい。俺には勿体無く思えてくる。幸恵に勘違いされたようだが、高校の奴らとぞろぞろ行くぐらいなら幸恵と二人で行った方がマシである。入試後の卒業前、誰がどこの大学に行って、誰が就職して、とかいう情報を俺は集めようともしなかった。話すにしてもそのあたりから話さなければならない俺は周りからは既に浮いていて、合わせに行くとしても多大な労力がかかって面倒くさいではないか。高校のみんななんてものはどうでも良かった。

「そういう気分じゃねえんだ。わるい。また予備校で感想でも聞かせてよ」

 そう返信して彼女を見る。彼女はアイスを食べ終わってなんとも機嫌が良さそうである。彼女が嬉しそうにレジ袋にアイスのごみを捨てているので、なにか話そうと思ったのだが、アイスが美味しかったかどうかを聞くのは恩着せがましくて良くない。

「明日、美奈川で打ち上げ花火やるんだって。結構近所だからここからでも頑張ったら見えるかもしれないよ」

 障害物が無いわけではないが、目の前の線路の空間は電車が通らない限り景色を遮るものはなく、部屋も二階にあるため、川のある方向をじっと見ていれば何発かは見えるのではないか、そう思って彼女にそう言ってみた。ところが彼女はレジ袋を触る手を袋ごとお腹側に引いたかと思うと、俺の顔を見て、なにやらよく分からない表情をとって不穏そうである。花火という単語がよくなかったのだろうか。

「いやあ、見たくなければ見なければいいよ。いつもそこから外見てるから明日は見えるかもと思って、それだけさ。あははは……。じゃあバイト行ってくるよ」

 何もおもしろくないのに焦って「あはは」なんて言ってしまった。いったい彼女は何を考えているのだろう。いくら考えるのが億劫になったとはいえ、言葉をしゃべらないという障壁のせいもあり、この疑問についてだけは考えるのを止めたことはなかった。話さないのか話せないのかはよく分からない。しかし、言葉を発しないのはそれ単独でもストレスになりうるに違いなかった。外に出た俺がコンビニに向かいながら考えていると幸恵からメールの返信がきた。



「早紀もくるよ!」



 俺は返信を返さなかった。







 人のせいにするのはよくない。他人が原因でことが運ぶこともあるが、突き詰めていけば因果関係以前の問題として評価する主体が自分である以上、結局はそのように感じる原因は自分にある。引き受けた責任を取らされるのも自分であり、反省したり、あるいはただただ悔しがるのも自分である。関わりがあると思っていたことに実際は関わっていなかった、というのはおもしろい話だが、切り離されて漂っていたことに今更気づいて俺はどうすればいいだろう。迷って惑わされると書いて迷惑と読む。惑星のように周りをまわるのが迷惑なら彗星のように遠くへ飛んで行ってしまって、思考も捨て去ってしまった方がいい。

 いや、でもいっそ激突して粉々になるのも悪くないか。距離があるからその状態が気になるのであり、影響を無くそうと思えば、無限遠に飛ぶか、あるいは逆に接触するしかない。突撃粉砕というのはなにも特殊な攻撃ではなく、働き蜂なり働き蟻なり、ある種の動物世界では真っ当正当な攻撃方法である。統制が無ければすべきことも無く放浪して死ぬ。主体意思が無く、ある種無能であるという点で、思考に嫌気がさした俺には丁度御誂え向けの選択肢である。しかし問題は相手が敵ではないことである。外に敵は始めから存在せず、敵はいるとしても俺自身、俺一人だけである。隕石が地球に激突すれば、衝突した地域だけでなく周りにも甚大な被害が及ぶ。もし人為的に隕石の軌道を変える方法があれば、道徳的にも衝突は避けるべきである。宇宙空間を漂って白くなりたい。



 ふと我に帰って寝がえりを打つと、頭のそば、床から足が生えている。見上げると、それは彼女の足だった。

 俺は驚いて黙る。

 彼女が俺のそばに立って俺を見下ろしていた。



 しゃがんで顔を近づけてきた彼女の整った無表情に圧倒されて相変わらず黙っていると、彼女は一枚の紙を見せてきた。いつ印刷したのか、それはネットで得られる花火大会の案内であった。待てよ、もしかすると俺が自分で印刷したのかもしれない。彼女は自分で印刷することができるのだろうか。しかし、どちらにしてもそれは紛れもなく花火大会の案内であった。紙から彼女に目線をやると、彼女は俺の目をじっと見て反応を待っているようである。

「……はなび?」

 彼女はうなずく。

「……いくの?」

 彼女はうなずく。


 面食らって単語ブツ切りでしか喋れない。花火に行きたいという彼女はうきうきしているという感じではなく、目は真面目で、口もキュッと結んでいる。窓側に居座りすぎて流石に飽きてきた、こんなことしていても仕方がない、とでも思ったのだろうか。

 彼女と二人で歩く夜道は、例のあの日以来である。湿気でじめじめしているが、そんなことはどうでもいい。後ろからついてくる彼女が自分とあけている距離はあの日と同じくらいで、俺は道を曲がるたび、あるいは曲がらなくてもしばしば振り返って彼女を見た。彼女の目線は下の路上に向いている。この距離では下を向く彼女の顔はよく見えないが、さっき近距離で見た彼女の顔が頭から離れない。俺は彼女が心配で、花火に行きたいという彼女の希望は無事に叶えてやりたかった。楽しそうではないが、初めて彼女が積極的に言い出した要望である。

 ほとんど座っている状態しか見たことがなかった俺は、手を後ろに組んで歩く彼女が新鮮に見えた。そういえば、ラーメンの帰りもこんな歩き方をしていた。身にまとう物はすべて俺の私物である。これが男臭いという点で残念でもあり、逆に何処の管轄下にあるかを示すある種の下げ札的要素も無いではなかった。外に連れ出すことを考えおらず、当然ながら男物であり、この暑い中、着る服の厚さや枚数は当然ながら限られ、しまった、これでは見ようと思えばいろいろ見えるではないか、そう思ったのも遅すぎる。しかし彼女は特にそれを問題と考えていない様である。

 歩道橋に上ったとき、遠くに花火に向かう人の流れが見えた。その流れとは離れてあちこちに点在する浴衣姿の男女も、おそらく花火を見に行く人間の一部なのだろう。この大量の人の中に、幸恵がいて、高校のクラスメイトがいて、早紀がいる。彼らにはできればこのまま没個性な無機質の人混みであり続けてほしい。ここから見える人間の意志はこの歩道橋の上にまでは届かない。人混みと俺とは一方が一方に及ぼす影響を気にしない。それぞれが誠意と良識を持って目標を遂行するのであれば、俺は暗黙の取り決めとして無視されることを望む。あの人混みの中に入っていきたいとは思わない。考えれば考えるほど自分の異質性が際立つ。四角いタイルが敷き詰められた遊歩道でただ一枚六角形を呈するタイルを子供がおもしろがって踏む。ほんの一瞬の判断の有無で、蟻を踏み潰し始めることだってある。

 振り返ると丁度よそ見から視線を戻した彼女と目が合った。歩道橋の上で夕陽を浴びる彼女は俺が言うまでもなく本当にきれいだった。

 わざわざここまで来たのであれば、人混みが多少不快であっても、彼女のためにできるだけ打ち上げ場所の近くに陣取ろう。そう思った俺は、歩道橋から見えた人の流れを頼りにフェンス越しに進み、やがて出てくるであろう入口から川原に入ろうと考えた。ところが歩道橋を降りてしばらくして振り返ると彼女がいない。あわてて戻ると、彼女は人混みとは逸れる方向の道に向かって一人で歩きだしていた。

「どこいくの?」

 走って追いついて聞くと、彼女は上体だけで振り返り、俺を一瞬だけ見た後、再び同じ方向へ向かって歩きだした。よく見える場所を知っているのであろうか。そんな場所、あの案内に載っていたかな、と思いながらも彼女についていくことにした。

 彼女の歩く後ろ姿を見るのは初めてである。思ったよりも背があることに気がつく。背が低めの俺よりは高いかもしれない。箱の中に収まっていたということや、ずっと座っていたということもあって、どちらかといえば体格は小さい印象を受けたが、どうやら足が長いようである。背が低いという劣等感が出てきてもおかしくなかったが、不思議と全く出てこない。それどころか一度そのようなことを考え出すと、尻も大分大きいじゃないか、などと懐かしい下衆な感覚の方がフツフツと沸き出始めて俺は困惑した。そういえば花火大会の案内を見せられた際、見上げたシャツの下から生の乳が確実に見えていたはずであるが、全く反応した覚えがない。三大欲求の一つも絶滅寸前である。ところが彼女のおかげで単純な感覚の存在する猶予が出現する。

 いや、しかし一方で肉付きの良い彼女の纏う空気は逆に孤独で、周りに人の気配を感じない。それがきっと彼女が神聖に見える原因の一つであり、それがおそらく俺が彼女に魅かれる一番の理由であった。自分の生死に大した興味がなく、人の存在に惑わされず、黙って窓の外を眺め、俺がいくら詮索してもその思考を深く読み解くことができない。それぐらい超然とした人でないと俺は安心して関われない。一方で、アイスが食べたいなどという単純な思考は丸分かりで、俺の善意と呼べるかどうか怪しい愚行を彼女はなんの文句もなく受けとめる。この世に生を受けて以降、無駄に複雑化し劣化してきた感覚を矯正する機会に恵まれたような気がする。

 ごちゃごちゃと要らないことを考えていると、彼女は廃ビルの中へなんの躊躇もなく入っていく。驚いた俺は、待って、と言いながら彼女の肩を持った。

「駄目だよ、そんなとこ入っていったら」

 織金網の隙間を少し押し広げて侵入する彼女に迷いはない。彼女の肩は俺の手からするりと抜けてしまった。中へ侵入する彼女を追いかける。不法侵入の認識はあっても、ただあるだけに過ぎず、口ではそう言いつつも意識は彼女の行動にだけ集中していた。廃ビルの外部に取り付けられた非常階段を登っていく彼女は、腐食している段を避け、踏み込める段だけを踏んで危なげが無い。対する俺は二、三段ほど踏み抜いてしまい、危うく転落死するところだった。見上げた非常階段は高く黒い。これをどこまで登るのだろうかと不安になったが、彼女の背中を見ながら登ると、それほど時間が経ったようには感じなかった。

 彼女に少し遅れて到着したのは屋上だった。見渡す景色は三百六十度の展望、美奈川はもちろん、河原も橋も、河口も海もよく見える。遙かに望む河原の人混みはそれが人であると認識できない程黒い。その百八十度反対側、東に位置する高層ビルから現れる線路を追い、それに面した不揃いな建物の乱立に目を遣れば、遠くにくすんだ茶色の一点、輪郭のがっしりした周りの建物に気圧されてぼやけているそれは、屋根だけ覗かせた俺の下宿に違いなかった。空の雲はうろこの波を作って紫からオレンジへのグラデーションを淡く飾る。その横でもくもくとそびえる入道雲は前よりも少し小さく、今回は少し遠慮しているようだ。どうして彼女はこんな場所を知っているのだろう。手前のあの建物が邪魔をして、この廃ビルを下宿から見ることは難しいはずである。



 薄いシャツと長い髪をほのかな海風とビル風になびかせる彼女は、屋上の真ん中で三百六十度すべての景色を侍らせ、青く塗り変えられていく夏の世界を、その体の全身で瑞々しく受けとめる。紫に赤とオレンジの混ざった不安定にも美しい西の空。シャツを同じ色に染めながら、沈みゆく太陽が隠れきるまで、彼女は変わりゆく遠くの空を寂しそうに見つめ続けていた。



 しばらくしたら降りようと思っていたが、ここから彼女を降ろすのは勿体無くて仕方が無い。ここに居座る決心のついた俺は、花火が始まるまでまだ時間があるのを確認し、コンビニまで行って飲み物を数本買って帰ってくることにした。俺と彼女の二人だけなら下宿の延長である。すっかり暗くなり、その場に座りこんだ彼女に向かって俺は言った。

「飲み物買ってくるよ、なにか欲しいものない?」



 その時彼女は少し笑ったのである。



 俺にはそう見えた。口元がそう見えた。本当は笑っていなかったのかもしれないが、それだけで俺は救われる。俺は急いで且つ気をつけながら例の階段を下りる。もっと彼女の色々な表情が見たい、階段を踏む金属音が律動的に俺の確信を鼓舞する。階段を下りきるのに、もの凄く長い時間がかかったものだと思った。

 しかし、それもつかの間、ほんのつかの間だった。下りて五分程でコンビニを見つけ、中に入った瞬間、タイヤがパンクしたような大きな音が聞こえた。気にせず、とりあえずペットボトルのお茶を数本取るが、レジを見ると店員はそこにはおらず、外を見ると店員を含む数名が口をポカンと開けて、一方向を見つめて微動だにしない。そして、どうやらパンクの音は一発ではなく、音の数や規模が半端ではないことに気づいた。突然、爆撃を食らったような大きな爆音がとどめのように俺の耳に入る。「危ない!」「危ない!」と店員の傍で騒ぐ男が指さす方向を見ると、黒い煙がもくもくと上がっている。花火大会の河原の方であった。

「事故じゃねえかアレ?」
「やばい! 飛んでくるぞ!」

 言われてみれば「パン! パン!」となるそれは、あるべき音より物騒な音だが、打ち上げ花火のそれである。遠くで灰色の煙がじわじわもくもくと盛り上がり、そこから緑や黄色や赤の閃光がパッとほとばしったかと思うと、突然目の前のビルの一角が火花を散らして爆発した。この距離まで届くのか。不味い。河原の方向から着物に雪駄の若者共がすごい形相でこちらに走って逃げてくる。交通整理をしていた警官が無線機を握りしめながらパトカーの陰に隠れて応援を呼んでいる。悲鳴と怒号が地鳴りのように辺りに響き渡る。不味い。俺も屋上にいる彼女を建物の陰かどこかに避難させないといけない。とりあえず戻らないといけない。彼女のもとにいかないと。先程の小さな微笑みが急がせる。とにかく早く戻らないといけない。


 早く戻らないと。


 早く戻らないといけない。


 戻らないと。


 屋上について彼女を探す。この廃ビルそのものに花火が命中した形跡はなく、屋上は地上とは隔絶された別世界だった。見下ろした美奈川の河原は煙でもくもくと真っ黒で、まだまだ閃光が光り続ける。ヒュルルル、ヒュルルル、パン、パンと地上が物騒に爆撃される音を聞きながら、彼女を探す。途中でこんなものあったかな、というような丸いえぐれを塔屋に見つけるが、彼女の姿は無く、興味はすぐに無くなり、彼女を探し続ける。


 屋上にはいない。

 廃ビルの中を上の階から順に見てまわる。

 段を踏み抜いた回数は覚えていない。

 一階ずつ隅々まで見て探す。

 でもいない。

 どの階にもいない。

 かなり時間が掛かってしまった。

 地上に着いてしまい、辺りを探す。

 人の波。

 殺到。

 量も勢いも洒落にならない。

 向こう側へ行こうとして、邪魔だ! と言われ、顔を殴られる。

 揺れる地面。

 くそう。

 こいつら。

 お前らに構っている暇は無い。

 もう一度突入し、押し倒されて数名に踏まれる。



 邪魔なのはお前らだ。



 無料の打ち上げ花火に卑しく群がる残滓共。暇なくせに花火が終われば我先に出口へ殺到する残滓共。そんなに花火が好きならいっそ全員爆撃されてしまえばいいのに。着物なんか着やがって。さっきまで楽しそうに手持ちの花火で遊びやがって。裾を踏んで転んだ上から同類の雑踏に踏みつぶされてしまえばいいのに。如何に大衆が愚かであるかを思い知ればいいのに。河川工事できれいさっぱり上から埋め立てられてしまえばいいのに。赤や黄や緑に弾けて花火ごと飛び散ってしまえばいいのに。大きな足が降ってきて逃げ惑う小さな黒いプチプチの濁流を全部一度に踏み潰してしまえばいいのに。


 彼女のかわりにお前らが全員いなくなってしまえばいいのに。


 なんなら俺がいなくなってしまおうか。


 俺が一人で異常なのなら俺がいなくなっても構わない。


 そうだ。そういえば中本が感情移入するなと言っていた。こんな事態だと警察が沢山来るに違いない。消防車も救急車もくる。彼女は保護してもらえるのではないか。それならば一件落着じゃないか。俺の役目も終わったのではないか。問題が無くなったんじゃあないか。もう中本が心配事で気をわずらわすこともない。なんだ、めでたし、めでたしじゃないか。俺は何を焦って大衆の流れに逆らっているのか。俺の行動は迷惑じゃないか。彼女に俺は必要ないのではないか。俺は一人で何をやっているのか。そもそも彼女はいたのか。俺はずっと幻覚を見ていたのではないか。箱から女の子が出てくるなんておかしいじゃないか。俺が一人で訳の分からないことをブツブツ呟いているのを中本が見守ってくれていただけじゃないか。今なにか遠くで邪魔だどけって声が聞こえたような気がする。そうだ、俺は邪魔なんだ。来るところを間違えた。そうだ。俺だ。俺が刷ったんだ。あの花火の案内は俺が自分で刷ったんだ。きっと自分で花火に行こうと思って下宿で幻覚を見ながら訳の分からない一人芝居をうっていたんだ。俺なんかは花火に行く価値も無いのに。早紀どころか幸恵に会う価値も無いのに幸恵が見える。この期に及んで幻覚が見える。相変わらず悲しそうだ。俺は自分で自分を助けて何がしたいんだ。助かりたいなんて卑しいじゃないか。ほら、幻覚に早紀まで出てきた。怖がられている。そんなに俺と関わらないでくれ。帰ろう。あの下宿に帰ろう。一人を理解しよう。中本に解決したとだけ連絡を入れよう。早くこの場を去ろう。あとは静かにしよう。世界には大量の人間がいて、俺の行動は誤差にも成らないほど小さくて、なにを考えても無駄で、なにか行動をおこしても周りが嫌な顔をする。俺が一人つまらないだけで、世界は俺を無視して何事も無かったかのようにまわっていく。

 なにもしないでおこう。正解だ。俺の周りの大事な人のために、何もしないで消えてしまおう。活動を辞めて体温を下げよう。収束しよう。最後だ。





 帰ろう。

 通り過ぎる音の無い雑踏。





 彼女はついに見つからなかった。

 ところで、わからないとはいっても頭がわからなく、頭の位置が分からないのであり、頭がどこに載っていて、どこの所属で、何を動かしているのかが分からない。とりあえず、頭が認識している映像は眼球からの信号に違いない。しかし現実味のないそれは、まるで遊園地に置いてある出来損ないの三次元仮想体験マシンのようだ。状況の認識は不可能だ。計算ができる。時間が分かる。ホームセンターがまだ開いている。ホームセンターに立ち寄って下宿に帰る道を検索し、その道を辿ってみせることができる。足を動かすことができる。だらしなく締まりの悪い口からだらだらと涎が垂れないように、それだけに気をつけることができる。三十二に一と一を足せば三十四。白ではなくほとんど黒。でも最近は自慰もせず、亜鉛貯金は貯まる一方だ。これならば沈むとき、もしかすると白くなれるかもしれない。沈めなくても元々重いので、上に昇らず下に貯まる。栄養にしていた細菌もいたような気がする。青く美しい火口の湖。腐れば臭いに違いないが、それほど気になる匂いも無いらしい。もともと五感はおかしく、今更何が変わるというのか。弱者が強者に追い出されるのはどこの世界にも共通する真理であり、弱い方は関わりが弱いがゆえに別の世界へ飛んでいく。下宿には風呂が無い。底の深い容器にしよう。俺の最後の良心、ガムテープも忘れずに買う。

 ホームセンターを出た後、辺りが眩しい。川原の喧騒から遠く離れた普通の夜。川原よりも暗いはずのそれは実際よりもなんだか明るい。清々しい。重力が体に掛かるのを感じながら、一歩一歩を踏みしめて下宿に向かう。旅支度を整えよう。飛行機の便を押さえてしまえば後は臨機応変にどうとでもなる。フライトは昼にしようか夜にしようか。やはり夜の方が静かでいいだろう。便利なことに帰りの便は気にしなくて良い。俺はうるさいのが嫌いなんだ。どうしてあんな奴らが生きているのか分らない。帰りに畑の横を通る。相変わらず周りの住宅に囲まれて独りぼっちだ。俺を置いていく電車の速さが遅く見える。もう地べたを這い回るつもりはない。関わりたくない。

 下宿についてマットレスを立てると少し広い空間ができる。部屋の中心にバケツを据える。まず窓を閉めなければならない。閉めてみると隙間が多い。ガムテープでしっかりと止める。換気扇の通気口も同じくガムテープで止める。納戸の空間も遮断しておかないと非効率だ。バケツに二つとも放りこんだら、そのまま寝床に就くことにしよう。やはり俺は寝るのが好きだった。マットレスを再び倒してタオルを敷き、バケツは少し横へ移動させる。搭乗手続きも済んでしまった。最後に外界に続く戸を閉めて隙間をガムテープで止める。

 赤褐色の農薬に映った俺の顔を眺める。

 屁の臭いがする。

 案外身近な臭いだ。

 自問自答。

 どうでもいいことばかりだ。

 美しい孤独。

 それでも。

 ひとつ残念だったのは中本のことだ。

 中本よ、問題は解決した。

 こんな形ですまん。

 君は何も気にすることはない。

 お前はいい奴だ。

 俺が保証する。

 お前の唯一の汚点は俺だろう。

 助ける人間は弱い。

 訳の分からない悪影響を振りまいて済まない。

 俺のことは忘れてくれ。

 この糞のような世界で戦い続けるなら。

 このメモを丸めて捨てるだけの人間であって欲しい。

 それが俺に足りなかった強さだと思う。

 お先に。

 失礼。

 なんだよ。

 うるさいな。

 こんな時間に。

 この下宿に用事がある奴なんて中本しかいない。

 タイミングが悪すぎる。

 無視して洗剤をバケツに流し込もうとしたとき、戸の外から聞こえた声に、俺は聞き覚えがあった。屁の臭いのするバケツから遠ざかり、戸についたガムテープをひっぺがして、戸を開ける。

 戸が開いてこちらを向いた顔、その左の頬はひどく腫れ上がっていて、口角から血が流れている。特に左目の真下の部分に至っては、完全に青あざになってしまっていて、暴力の二文字以外浮かんでこない。シャツは襟元が伸び切っていて、手も足も切り傷にまみれて酷い。靴も失くしたのか片一方履いていない。手にはなにか得体のしれない銃のような武器のような何かを持っている。





 もう一度顔を見る。





 彼女は伏し目で部屋の中へ入っていってしまった。



「…………あっ、待った!」



 裏返る思考。もう会うことも無いと覚悟した彼女が入っていく部屋の中はドリームボックスであり、俺も含めて産業廃棄物である。中に入った彼女は当然立ち止まる。きっとあまりの臭さに立ち止まる。バケツを見て、俺を見て、そして至る所のガムテープを見て、流石の彼女も俺を見下す。そして来る場所を間違ったと思うのであろう。そうしたら、警察に連れて行ってあげよう。人間は如何なる時も道徳的に正しく行動しなくてはならない。清算を完了する時期が延びた。

 彼女が見つめているので、何を見ているのかと思うや否や、彼女は振り向いて俺を見る。

 目から一筋。

 自分の袖で拭きもせず、あっと言う間に子供が泣くような顔になってしまって、視線を落として大泣きしてしまった。

 どうしたのかと思って彼女の視線の元あった方を見る。密閉する際にレールから取り外され、床に転がっていた風鈴、大きなヒビが入って完全に割れてしまっている。



 口をへの字に曲げてヒンヒンと鳴く彼女は今までの様子からは本当に考えられない。目の青痣も相まって、美人が台無しである。酷いことをするな。下衆なことをする奴らがいるな。しかし止めを刺したのは誰がどう見ても俺。自分も結果的に下衆な奴等の一人であって、俺が嫌う人間共と何一つも変わらない。

 鼻をすすりながらぽろぽろ鳴く彼女は小さくて消えてしまいそうだ。



「お……れさ……」

「ぐすっ」

「……」



 一瞬鼻をすするのを我慢した彼女は、あごを引いてじっと俺の顔を見ていたが、意図的に止めることのできない涙はそのままぽろぽろと流れ落ち、同時に頑張って閉めた口も耐えきれずに徐々に開いてくる。とうとう完全に俯いてしまい、床にぼとぼとと切ない水滴が多量に落ちる。



 言葉を失った俺。

 バケツ。

 割れた風鈴。

 わからない答え。

 でも小さく震える彼女は再び消えてしまいそうで

 ぎゅっと抱きしめてしまった。

 体を介して伝わる寂しさ。



 俺と彼女は同じ重力で同じ世界に張り付けられた人間であった。


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