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後編

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     1

 僕ら家族がこの土地に移り住んだのは、今から八年ほど前の事だ。
 その頃の僕は反抗期真っ盛りで、親のする事為す事すべてが気に食わなかった。だから、もちろんこの引越しにも猛反対した。とはいえ、理由も無く反抗したわけではない。住み慣れた街を離れる事も、幼馴染たちと別れる事も嫌だったが、何より一番気に食わなかったのは、何故引っ越す事になったのかという、その理由だった。
 僕の弟は病気だった。それも、いわゆる不治の病と言われるような。
 その静養のためという事もあって、僕らは広大すぎるくらいの敷地を持つ、この屋敷へと引っ越してきたのだった。
 弟の病気の事を僕は詳しく知らないが、綺麗な空気と、穏やかな暮らしこそが体に一番良いとの事だった。
 どうやら僕らの前にここに住んでいた人達も、隣の屋敷に住む一家も、僕の弟と同じ病気を理由に、ここに居を構えたらしい。
 この病気の人間は、街に出る事は難しいため学校に行く事など出来ない。外へ遊びに行くなどもってのほかだ。だからこそ、こんな広大な敷地の屋敷こそが、生活するのに最も理想的な場所となるのだろう。
 別に、弟の事が嫌いだったわけではない。けれど、弟の事ばかり心配する両親に、そして親に守られなくては生きられない弟に、あの頃の僕はたぶん、嫉妬していたのだ。
 僕は毎日のように、親と、特に父と衝突した。自分でも、無意味な苛立ちだと薄々気付いてはいたのだが、子供っぽいプライドから、溝は日に日に深まっていった。
 そして学校を卒業すると同時に、僕は家出同然に飛び出したのだった。
 あれから四年、今回が初めての帰省となる。
 家族には今日帰る事は知らせていない。
(驚く、だろうな……)
 僕は外の景色を眺めながら思った。
 列車は、そろそろ目的地へ着こうとしている。
 みんなは、何と思うだろうか?
 喜んでくれるだろうか?
 それとも……
(ま、追い返されたりはしないだろ)
 別に、絶縁状態だったというわけではない。たまには手紙のやり取りもしたし、むしろ大人になった分、親との関係は良くなったように感じている。
 今回、久しぶりに家族に会おうと思ったのには理由がある。
 先日の事だ。いつも通り、朝出社した僕は上司に呼び出された。そして、突然解雇を言い渡されたのだ。
 もちろん僕は理由を聞いた。まじめに働いてきたつもりだったし、勤務態度に問題があったとも思えない。僕の問いに対して、上司の答えは簡単なものだった。
「わかってくれ」
 僕はそれ以上何も訊けず、小さく頭を下げ部屋を出た。
 幸運な事に、わずかばかりの退職金はもらうことが出来たが、これから先どうするか、まだ何も決まっていない。本来ならば、すぐさま次の職を探さなくてはいけないところであるが、僕が最初に考えたのは『実家に帰る事』だった。別に今更親のすねをかじろうというのではない。ただ、帰るなら今だと思ったのだ。

 列車を降りた僕を出迎えたのは、記憶の中と変わらない町並みだった。
 自宅から電車で一時間弱。家を出た当時は、物凄く遠くへ離れた気でいたが、実際は会社より近い場所だったわけだ。あの頃の自分を思うと、何だか微笑ましい気持ちになった。
 改札を抜けて、街を歩く。
 さっきは変わらないと思った町並みだったが、こうして歩いてみると、様々な変化を感じた。閉まっている店、新しい店。綺麗に建て替えられた母校。環境整備か、歩道には花壇が並べられていた。
 たった四年離れていただけなのに、まるで何十年も経ってしまったように感じる。
 家族はどうだろう?
 この町並みと同じように、変わって、しまっただろうか。

 駅から続く商店街を抜けると、少し先に小さな丘が見えてくる。その南側の森の奥に、僕の家はある。
 森といっても小さなもので、中にはちゃんと舗装された道も通っている。まだここからでは見えないが、森の入り口には門がついていて、そこをくぐればもう僕の家の敷地だ。
 弟もこの森の中でなら、駆け回ることはできなくとも、外で遊ぶ事ができた。歳が離れているので、一緒に遊ぶ事は少なかったが、時々二人で散歩したりした。
 そんな時、弟はいつも以上によく笑った。
 僕は色々と昔の事を思い出しながら、家路を急いだ。

 門の姿が視界に入ってくると、僕はその横に奇妙なものを見つけた。
(……人?)
 それは、薄汚れた、人間のようだった。
 行倒れだろうか?
 僕は少し怖く思ったが、心配の方が勝っていたので、その人間へと駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
 恐る恐る声をかけた。どうやら男性らしい。
 のび放題の髪の毛に邪魔されているが、その奥から妙に澄んだ眼が僕の方を向いた。まだ、生きているようだ。僕は少しだけ安心する。
「大丈夫、ですか?」
 僕はもう一度声をかけた。男の口がゆっくりと開く。
「ここ……この家は、君の家?」
「え? ああ、はい、そうですけど……」
「そっか……」
 僕は戸惑った。質問に脈絡が無かったせいもあるが、何より男が、僕の返事にひどく落ち込んだ様子だったからだ。
「あの、大丈夫ですか?」
 触れるのは少しためらわれたが、僕は男の肩に手を置いた。
「ありがとう。あんまり大丈夫じゃないけど、心配しないで良いから」
 男はそう言ったが冗談じゃない。自分の家の前で死なれては洒落にならない。
「今、医者を呼びますから、待っていて下さい」
 立ち上がろうとした僕の腕を、男がつかむ。
「何ですか?」
 僕は少し苛々として訊いた。
「ちょっと待ってくれ」
「何故です?」
「少しだけで良いんだ、僕の話を聞いてくれないか」
 迷ったが、男があまりに真剣な様子だったので、僕は小さく頷き男の方へと向き直った。
「ありがとう」
 男は子供みたいな顔で笑って、お世辞めいた事を言った。

「君は……綺麗な、栗色の巻き毛をしているね」

     2

「ここは、君の家なんだよね?」
「ええ、そうですけど……」
 門扉から左右に広がる柵に、頭を預ける形で横になったまま男は話し始めた。かすれた声が、不思議と耳に心地好い。
「ご家族に、誰か、病気の方が?」
「はい、弟が」
「そう……弟さんが……」男が上体を起こそうと体を動かす。僕は慌てて手を貸した。体は、紙のように軽かった。
「僕もね、君の弟と同じ……たぶん同じ、病気なんだよ」
「え? でも」僕は驚いて、男の顔を見た。
 男の姿は、さっき家を出たばかりには到底見えないし、昨日一昨日といった感じでもない。どう見ても、何年も放浪してきたように見える。
 昔、僕の弟が他愛も無い理由で家出した事があった。その時は一時間もせずに近所で見つかったが、それでも一週間近く寝込む騒ぎになった。もし、男の言った事が本当だというのなら、何故、今まで生きてこられたのだろうか。
 男は、そんな僕の疑問を汲み取るように、話を続けた。
「そう、だけど僕はずいぶんと長いこと、街の中で暮らしてきた」男がすっと目を細める。『遠い目』とよく言うが、それよりもずっと、ずっと遠くを見つめる様だと思った。
「僕が家を出たのは、僕がまだ十歳にもならない頃だ。僕は、それまで一度も家の敷地から出た事なんて無かった。きっかけは、そう、弟の死だった」
「亡くなられて、しまったんですか?」
「……うん。まだ、生まれたばっかりだったのに、ね」まるで搾り出すような男の声に、僕は何も言えずにいた。弟の顔が浮かぶ。
 黙りこむ僕を気にもせず、男は独白を続けた。
「でも、僕は信じられなかった。弟が死ぬはず無いって。だって、弟は、天使だったんだから」
 天使。男はその言葉を強調するように言った。
 しかし『天使だった』とは、どういう意味だろう。死んだ後に『天使になった』と表現するのならわかるが──。
「だから僕は家を出たんだ。本物の弟を探すために」
「本物の?」思わず声に出して訊いてしまった。男の話は脈絡が無く、僕にはいまひとつ、ストーリーが飲み込めなかった。
「僕の弟は天使だから、父さんを信じ続けるためにも、僕は本物の弟を探さなくちゃならなかった。たとえ街に出た為に、病気で僕が死ぬかもしれないとしてもね」男はそう言って、ちらりと僕の方を見た。
 僕は息を呑んで、次の言葉を待った。
「でも、僕は死ななかった。死ななかったんだ。一日経っても、一週間経っても。最初のうちは気にもしていなかった。けど、家を出て一年二年と経って、少し大人になると、僕はようやく疑問に思った。病気は、どうしたんだろうって」
「治った……んですかね」恐る恐る、僕は訊いた。
「わからない。病院になんて、もうずっと行っていないから。もしかしたら、最初から病気じゃなかったのかも知れない」
「最初から?」
「誤診だったのかも知れない。もしくは……」
「……もしくは?」
 男は突然黙り込んだ。そっと伏せた眼は、幽かに潤んでいるように見えた。
「だから、だから僕は」再び口を開いた男の声は、悲しく擦れたものだった。「だから僕は、どうしても弟を探さなくちゃいけなかった。父さんが、僕に嘘をつくはず、無いんだから」
 いつの間にか傾き始めた陽に照らされ、薄汚れてはいるが白い男の肌は、仄かに赤く染まっていた。
 断片的ではあるが、なんと不思議な話だろう。
 もしかしたら、狂人の妄想なのだろうか?
 僕は、男がさっきまで死にかけていた事も忘れ、尋ねた。
「あの……弟さんは、見つかったんですか?」
 僕の問いに、男は小さく頭を振って答えた。
「そうですか……すみません」
「謝らなくて良いよ。大丈夫、きっともうすぐ、見つかる」
 そう言うと、男は右手を自分の上着の中に入れ、胸を押さえた。
 その仕草を見て、僕ははっとする。
「あ、ああ、すいません、大丈夫ですか? ごめんなさい、僕……すぐにお医者さんを」
「良いんだ。違うよ、大丈夫」
 立ち上がろうとした僕を、驚くほど強い力で、男は引き留めた。無理に作ったような笑みが、苦痛に歪んでいるのがわかる。
「でも……」
「もう少し、もう少しだけ……」
 縋るような声に、僕の気持ちはすぐに折れた。助けなくては、という気持ちが無くなったわけではないが、それ以上に、好奇心の方が強かった。
「大人になって、わかったことがある」苦しそうな声で男は再び話し始めた。
 ここまでして、何故、僕と話をしたいのだろう?
「大人になるって事は、毛糸玉を解いていくようなものだ。自分という塊を『何か』に昇華していく作業なんだ。でも、僕は、毛糸玉を家に転がしたまま、ただただ遠くまで、糸を引っ張ってきてしまった」
 咳き込む男の顔は、夕日に赤く焼かれている。
 僕は黙って、その顔を見つめていた。
「僕は……『何か』には、なれなかった。ただの虚しい糸だ。今更手繰り寄せたところで、もう毛糸玉に戻る事も出来ない」
「そんな……」僕は何かを言おうとして口を開いた。しかし、結局何も言えずに、ただ唇を噛んだ。
「僕は、やった事が無いけれど、毛糸を編むのは難しいんだろうね。見た事があるよ、女の人が、公園でマフラーを編んでた。編んで、間違えたら解いて、また編んで……きっと、僕らもそうなんだ。間違えたら、解いて、また編んで……」男の眼に、今度ははっきりと涙が浮かんだ。
 言葉に出来ない感情に、僕の視界も、いつの間にか滲んでいた。
「でも、僕は編まなかった。それに……気付いていたんだ。父さんも、途中で編む事を諦めて、毛糸玉を転がしてしまったんだよ。糸は簡単に絡まって、無理に引っ張れば、糸は、簡単に千切れる……たとえ悪夢だとしても、覚めるわけにはいかなかった。そう、気付かないふりをしてただけだ。僕も、父さんも」最後は叫ぶ様に、男は言った。呼吸が、荒い。
 僕はまた、はっとする。
 しかし、男は話す事を止めようとはしなかった。
「別にもう……良かったんだ。父さんが嘘吐きだって。でも、それはこの夢が覚めた先にある、現実の世界の話だ。この夢を、悪夢で終わらすわけにはいかない。だってそうだろう? そんなの……だって、そんなの……」
 男が上着の中から、そっと右手を出した。

 そこには、古びた、小さなナイフが握られていた。

 柄に取り付けられた宝石が、夕陽に眩しく輝いている。

「そんなの、哀し過ぎるじゃないか」

 男はそのナイフを、すばやく僕の手首に押し当てた。

7, 6

  

     3

「──痛っ」
 僕が慌てて引いた腕を、男は空いている方の手で掴むと、ぐいっと自分の目の前に引き寄せた。
 そこには、紅い傷跡が、ひとすじ。
 しかし──、
(良かった……血は出てないみたいだ)
 ナイフが辷ったその跡は、蚯蚓脹れのように膨らんではいるが、血は滲んでもいない。少し安心して、男の方に視線をうつすと、彼もまた、僕の傷をじっと見ていた。
 僕は改めて、男の手を振り払った。
「何を……するんですか」
 立ち上がり、一歩、一歩と後退りしながら、僕は訊いた。
 男は答えずに、僕の事を見つめている。
 そして、ほっとしたような顔で、笑った。
「何をするんですか」
 僕はもう一度訊いた。
 男の手からナイフが滑り落ちる。
 夕日に煌めくナイフは、しかし、その刃だけは、澱んだ色で地に臥していた。
 よく手入れされているように見えるが、ずいぶん古い物のようだし、刃が潰れてしまっているのだろうか。
 何であれ、助かった。
「ただいま」
 男が突然そう言った。
「え?」
「やっぱり、そうだったんだね。ごめんよ。遠回り、しちゃったね」
「いったい何を……」
「良いんだ」
 男が立ち上がろうと、上半身を起こす。しかし、腕に力が入らないのだろう、それ以上は動けないようだ。
「覚えていないのは、当たり前だよ。ああ、でも、嬉しいな。ごめんよ、ごめん、ごめんなさい。やっぱり、間違ってなかったんだ。父さん。僕は……」
「あっ、危ない!」
 僕が叫ぶより早く、男の体は、仰向けに地面へと崩れ落ちた。
 思わず駆け寄り、抱え上げる。
(どうしよう……)
 まだ息はあるようだ。けれど、体は冷たく、動かない。
「あ、あの……」
 僕はどうしたら良いのかわからず、身動き出来ない。
(お医者さんを……あ、でも、こんなところに置いては行けないか……)
「……だ、誰かぁ。誰かぁ!」
 きょろきょろと、辺りを見渡しながら叫ぶ。町外れという事もあり、人影は全く無い。それでも叫べずにはいられない。とにかく独りが心細かった。
「誰かぁ!」
「どうなされました?」
 何度目かの僕の救難信号に、ようやく誰かが応えてくれた。
 声を辿り、首を回すと、隣の屋敷の門の中から、男が一人こちらを見ている。
 男には見覚えがある。確か、この屋敷の主人だ。
「あ、あの……」
「──っ! ちょっと待っていなさい。ちょうど今、私の主治医が来ているところだ」
 主人はこちらを見るやいなや、僕が説明するよりも早く、屋敷の中へと駆け戻って行った。
(良かった、助かった)
 安心して僕は、腕の中で微動だにしない、枯れ木のような男を見た。
(笑ってる……)
 男は、安らかな顔で微笑んでいた。かろうじて、まだ息はしている。もしかしたら、眠っているのかもしれない。
(……あ)
 屈んだ僕の片手に、あのナイフが触れた。
(綺麗だな)
 僕は思わずそれを拾い上げた。
「君、君。待たせたね。ちょいとごめんよ」
 ぼんやりとナイフを眺めていた僕に、見知らぬ男が声をかける。どうやらこの老人が、主人の言う『主治医』なのだろう。
「よっ、と。ほら君、運ぶのを手伝わんか」
「は、はい!」
 老人に促され、僕は男の肩を抱くようにして立ち上がった。
「よし。このまま、屋敷の中まで運んでくれ」
 手伝えと言ったくせに、自分では何もしない老人の背中を僕は追いかけた。
 屋敷の門のところでは、主人が心配そうにこちらを伺っている。

「ああ、よし、君、もう良い。ここからは僕に任せなさい」
 門までたどり着くと、主人はそう言って僕の方に手を伸ばした。
 僕は無言で頷き、男の体を主人へと託した。
「そうだな、先生、取り敢えず応接間へ運びましょう。私は病院の方へ連絡しておきますから、とにかく、処置を」
「あい、わかった」
 そう言って、医者と主人は慌ただしく屋敷の中へと姿を消した。
 僕は、このまま帰って良いものかわからず、門の内側で、ただぼんやりと立ち尽くした。

「やあ、良かった。君、まだいたのだね」
 数分して、主人が屋敷の中から出て来た。表情は、決して明るくはない。
「あの……あの男の人は?」
 僕の問いに、主人は溜め息で答える。
「今は、落ち着いているようだけど……駄目かもしれないね」
「そう、ですか……」
 僕もひとつ、大きな溜め息をついた。見ず知らずの人間ではあるが、死んでしまうと聞けば、やはり寂しいものだ。
「──君! そのナイフは、君の物か?」
 突然、主人が大きな声を上げた。
 驚いて顔を上げると、彼は裂けんばかりに目を見開いて、僕の手を見ている。
 そこには、あのナイフが、妖しく輝いていた。
「え? あ、いいえ、さっきの男の人が……」
「ああ、そうか……いや、本当に……そうか、彼が、そのナイフを……」
 譫言のようにそう繰り返す主人の目は、うっすらと潤んでいるように見える。
 僕は訳も分からず、手にしたままのナイフを主人へと差し出した。
「あの、これ、返しておいてくれますか?」
「……もちろんだ。いや、ありがとう」
 主人は小さく頭を下げると、僕の手からナイフを受け取った。
「それじゃ……」
「君、ちょっと待って」
 立ち去ろうとした僕を、何故かひどく慌てたように、主人が呼び止める。
「何ですか?」
「彼は、何か、言っていなかったかい? その……身元がわかるような事とか」
「ええ、色々と……」
 僕はちょっとだけ躊躇ったが、男から聞いた事を思い出せる限り主人に話した。主人はそれを、ただ黙って聞いていた。

「ありがとう」
 話し終わった僕の手を、主人はそっと握り締めた。その手の上に、温かいものが零れ落ちる。見ると、主人は涙を流していた。
(もしかしたら、あの人、知り合いだったのかな)
 訊いてみようかとも思ったが、やめた。
「それじゃ、僕、帰りますね」
 なるべく優しく主人の手を解くと、僕は頭を下げた。
「君。君は確か、隣の子だね?」
「ええ、はい」
 主人は俯いたまま、言った。
「弟さんは、元気かい?」
「はい……たぶん」
「そうか」
 主人が顔を上げる。その表情は、晴れやかだ。
「弟さんを、大事にね」
「はい……あの、それじゃ、また」
「うん、また、ね」
 
 立ち去る僕の後ろ姿を、主人はずっと見つめていた。
 
 結局、僕は、さっきから自分の周りで起きた出来事が、一体どんな物語なのか知ることは出来なかった。

 けれど、僕は思う。

 この物語は、きっとハッピーエンドだったんじゃないかな、と。

 自分の屋敷の門を開け、「ただいま」と呟く。

 僕は、あの男と、主人の顔を思い出していた。

 その顔は、まるで天使でも見つけたかのような、幸せそうな笑顔だった。




天使とナイフ 完
8

火呼子(ひよこ) 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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