あたりはもう暗くて、油絵の具の黒を想起させた。でもただただ透き通った黒では無かった。キャンパスにぶつけた黒だった。
あの日の空には、筆触と言うものがたしかにあったのだ。
中島公園駅の三番出口を降りると、出口と垂直に走っている通りは人いきれだった。私の右手は後ろへ伸びていた。彼女は履きなれない草履に手間取りながら階段を上っている。ピンと張っていた手が少しずつ垂れてきた。もう二、三段で地上である。
私は久々に浴衣を着る機会ができて内心喜んでいた。金田一耕助のように石畳をカラコロと足音たてて歩いてやろう、そう思っていたのだ。この日のために狸小路で丈夫そうな、それでいて手頃な下駄を買ってきた。阿呆の大学生がアスファルトで固められたキャンパスを高下駄で歩く音とは違う、綺麗な高い音がする。
「さあ、行こっか」
いつの間に、彼女は私の斜め前に立ち、こちらを向いていた。鎖骨上まで伸びた黒髪が、夏の風を受けて力なく揺れる。人前に出ることをあまり好まない彼女に、薄紅の浴衣は程良く合っていた。
「どう、草履は」
「いやあ、歩きづらい」
「まあ、もう階段は無いからさ」
「うん」
会話を交わしながら、前の人通りが途切れるのを待った。少し経って、二、三人分のスペースができて、私達はすっと飛び込むようにして列に加わった。
半袖のフランネル、ワンピース、薄手のパーカー、もちろん浴衣姿も多かった。通りの両脇から、ビニールを通したアセチレンの強い光が網膜を刺激する。私は厚めの眼鏡を通しているけれど、彼女はどうだろう。隣を歩きながら、裸眼にそのままアセチレンの光を受けている彼女をちらと見つめていた。右の頬とおでこが橙に染まっている。歯を見せない彼女の笑みが、私は好きだった。
菖蒲池に沿って歩く。カーブの先までずらずらと建ち並ぶ露店からは、色々な濃い調味料の匂いが漂ってくる。もったりと澱んだ空気が、道を埋め尽くす人々の呼吸、体温、それらのつくる熱気によってさらに湿って重くなる。
彼女は今時露店に並ぶのは珍しい、と風車に興味を示した。
「三〇〇円か、買っちゃろか」
「いいよ。三〇〇円くらい、私も持ってます」
「わかってるけど」
この日の装いに合わせたがま口を開けて、彼女は百円玉を三枚、露天商の手に載せた。
風車は湿った空気に力を削がれて、一向に廻らない。前を歩くTシャツの男の広い背中に押しつぶされまいと、間合いをとりながらゆっくりと道を進む。時折私が、細く息を吹きかけてやると、風車は、仕方が無いとでも言いたげに、くるくると、弱々しく廻った。
いつの間にか私の頭にはひょっとこのお面が乗っていた。すぐ後ろの子供の笑い声がシャワーのように聴こえてくる。肩車されているのだろう。
「どうかな、そろそろ、何か食べない?」
「うん。そうだね」
そう言って彼女は少し先のほうを見回して、
「あたし、あれにする」
と、「さつまスティック」の露店を指差した。
電燈に照らされ長く伸びた二人の影は、アセチレン光のつくるそれとは違う、ラインのぼやけた幻想的なものだった。あの時と同じ場所、同じ電柱にもたれかかって、私はひとり、菖蒲池を見ている。不意に視界の外から子供が走ってきて、私の前方で転んだ。手には風車を持っている。なかなか起き上がらないその子が心配になって、駆け寄ろうとしたとき、「わー」と声がして同じくらいの年の子供たちが三人あとから駆けて来た。
きゃっきゃきゃっきゃ言いながら、みんな笑っている。私は駆け寄るのを止めて、ポケットから煙草を出して咥える。別の手でジッポを探す。カッターシャツの胸ポケット、ジーンズの後ろ、何処にも無かった。
すると前方で笑い合っていた子供たちが花火で遊ぶのが見えた。スローモーションで色とりどりの光が流れていく。菖蒲池にきらり、いくらか反映が見えた。
「ちょっとローソク、貸してくれるかな」
私が言うと、まん丸い顔の男の子は一回頷いてローソクから一歩遠ざかった。私は煙草を火に当て、それから咥え直した。
祭りの日の澱んだ空気を、煙が一筋、切り裂いていった。