03.俺の妹がこんなにくそったれなわけがない
「兄貴」
「…………」
「兄貴。朝」
俺は目を開けた。右目は部屋の天井を見ていた。左目は開かれたカーテンの向こうの青空を見ていた。俺は油断すると左右の目がぜんぜん違うところを見る。ロンパリというやつだ。これはどういうわけか人に不信感を抱かせるらしい。少なくとも俺は鏡を見てロンパっているときの自分の目つきが嫌いだ。
布団を蹴飛ばして上半身を起こす。吐き気とめまいに襲われる。毎朝のことなので気にしない。ゆっくり呼吸して、これから十数時間ほど現実と向き合わなければならないことを認めたがらない脳みそをなだめすかし、ろくな色をしていないだろう血液が体内にほどよくめぐるのを待つ。そうして落ち着いてから、俺はベッドから床に足を下ろした。
そして、自分の【妹】を見る。
目つきの鋭い、ショートヘアの、黒髪をした少女が俺を見下ろしていた。顔は整っている。だが、それを台無しにするほど表情がきつい。不快げに細められた目、しわの寄った眉間、巣を荒らされた蛇のように歪んだ眉。
そしてその表情は、致命的なまでに、俺に似ていた。
「目覚まし」
妹が言った。
俺は「あ?」と喧嘩腰に聞き返す。
「どうせ起きないなら、セットしなくてもいいだろ……? うるさいんだよ、朝から」
そういって、ぷいっと妹は背を向けた。俺の購読している雑誌の山――だいたいが現代麻雀とまんがタイムくらら――を崩さないように器用に部屋を渡っていった。そんなに不機嫌になるなら起こしに来なくていい、と言うと、妹はこう答える。
「べつに不機嫌じゃない」
とても信用できない。だが、事実なんだろう。
俺も、大して不機嫌じゃないときでも、人に胡乱げな視線を向けられることがあるが、どうやら俺自身もああいう顔をしているから誤解されている、らしい。そういうことも、妹の出現でわかったことの一つだ。
妹の名前は美夏にした。牧美夏。それが、俺の新しい妹の名前であり、今のドールの名前というわけだ。
ドールは実に優秀だった。妹として設定して起動させると、それが周囲にも影響を及ぼした。俺は隣に住む名前も知らない中年女にいきなり「牧くん最近妹さん元気?」と声をかけられたりしたし、真藤は一度でいいから牧くんの妹さんを見てみたいなァと俺が何か言う前にぼやいてきた。
洗脳なのか世界の改変なのか、とにかくドールは俺の妹、という無茶な設定を俺の生活に馴染ませることぐらいは簡単にやってのけてくれた。ちなみに知能指数は歳相応の平均値で起動した。思えばそう設定したのにやつの頭の回転が人より速めなことからも、ドールのよく言えば正確さ、悪く言えば融通の効かなさが窺えたかもしれない。
俺はステータスカードで設定を組むとき、試しに妹の髪型をブルーで設定してみた。しかし、あの妹の髪は墨のような黒だ。
人間の遺伝子がブルーの髪を許容できるのかどうか、俺は理系でも雑学好きでもないから知らない。ただ、ドールが、「髪がブルーの人間は自然界に存在しないから」もしくは「俺と血縁関係であることに矛盾を発生させないためには、髪がブルーであってはならない」というような理由から俺のブルー髪妹を却下し、黒髪へと変身した、というのが俺の推理だ。マニュアルがないので自分でドールのルールを把握していかねばならない。手間隙かかるが、仕方ない。すべては俺の光輝く未来のためだ。
そして妹と三日間過ごしてみて、どうやら後者の理由でドールは自身を律している、ということがわかってきた。
俺の妹、性格が悪すぎるのである。
ステータスカードで設定するとき、性格のよさ、という項目はなかったが、倫理観とか正義感、精神の繊細さなどを規定する項目が相当数あった。それで性格に関してはかなり厳密な設定を組めたはずだった。
俺の指示通りだったならば、今朝の起こし方もこうでなければならない。
「――おはよう、兄さん。今日もいい天気だね。散歩がてらに学校にいくのも悪くないんじゃないかな。あ、お弁当作っておいたけど、いる? いらなかったら冷蔵庫に入れておいて。あとで私が食べるからさ」
これである。
これが、俺が十七年の歳月を費やして培った「理想の妹像」というものだったはずだ。なのにドールが変身した妹は、料理はできない、目つきは悪い、そもそもやつ自身が学校に遅刻するという体たらく。今朝も起こしに来てくれたはいいが、時計を見ればすでに一限が半分以上過ぎている。ただ鳴り止まない目覚ましがうるさくて起こしに来た、というだけで、あの妹は欠片ほども兄の遅刻の心配などはしていないのだ。
猫婆は、ドールは理想を必ず体現する、と言っていた。望めば巨人にだってなってくれると。
ならば答えは一つだ。
妹があんな風になってしまったのは、俺がその自由度に制限をかけるような入力をしたせい――ということ。
そしてそれは「実妹」という設定に他ならないのではないだろうか。
あの目つきも、あの態度も、あの口調も、俺の妹である以上、避けることのできない遺伝子上の特性というやつなのかもしれない。俺の家系はいったいぜんたいどんな血をしているのだ。先祖に鬼でもいるのだろうか。子孫を残す気力が一気に失せた。子作りして俺みたいなガキが生まれるなんてぞっとする。俺は俺だけで充分だ。
俺は部屋を出た。勝手知ったる我が家の階段を降りる。妹は居間のソファに腹ばいになってテレビを見ていた。まるで長年そうして朝のワイドショーを見るのが日課だった、とでも言いたげな態度だ。しかしそれは嘘だ。偽りだ。こいつは三日前に生き物のフリをし始めただけの新参者だ。こいつがどれほど自分を確かな存在だと信じ、設定上十五年の人生を本物だと信じ切っていようが、関係ない。
こいつは偽者。
幻の妹なのだ。
だから、俺は躊躇わない。
俺はソファの裏から、そっと妹のうなじに口を寄せて、囁いた。
「104789234750287025――――」
びくっ、と妹の身体が一度大きく痙攣し、うなじにスリットが開いた。ぷしゅっ、と黒字に金線のステータスカードが排出される。それを抜き取ると、がくり、と牧美夏だったものは動かなくなった。
俺はカードを額に当てる。
まずは家族の線から攻めてみよう、と思って妹を作ってみたがハズレだった。血の繋がった肉親ならば愛せるかと思った。べつに俺は愛を性的なものだと限定してはいない。俺の心が満たされればそれでいい。
だが、家族を作ることはもう二度とないだろう。俺の血縁である以上、俺と反りが致命的に合わない。遺伝子的に敵対することが確定しているらしい。考えてみれば、あの伯父も俺のことを嫌っていたようだったし。
ふと、父や母を設定してドールを変身させれば、もしかするとドールが俺のすべての入力をキャンセルして「本物」に変身するかもしれない、と思った。俺の実の両親はオリジナルの二人しかいないわけだから、ドールが職人気質を発揮してこの世の因果の果てから俺の親のデータを探し出し、復元してくれる可能性はある。父か母、一度には一人だけだが。
少しだけ迷った。
だが、すぐに迷ったことを後悔した。恥ずかしくなりさえした。
俺が欲しいのは愛せる相手だ。
愛せないことが確定している相手に用はない。たとえそれが誰であろうと。
俺は目を瞑って、ステータスカードの中へと意識を飛ばす――――