02.バーチャルガール
俺はその猫の首筋を掴んで摘み上げた。猫はばったばったと暴れまくる。
「な、なにをする、それが困った人間に対する態度か?」
「まァ、だいたいそうだ」
「くっ」
猫が視線を逸らす。
「死にさえしなければおまえなんぞちょちょいのちょいだったものを……」
「生きてるだろ」
「わしはここに住んでいた女だ。ちょっとした手違いで火事を起こしてしまって今は猫の身体に魂を移しているがな……」
「猫に……? ふん、与太話もいいところだな」
俺はぱっと猫から手を放した。猫はくるっと空中で回転して瓦礫に着地する。
「冷たい男め。ならばおぬし、猫が喋っている事実をどう捉える? ドッキリなんていまどきやってないぞ」
「どうもなにも、知ったことじゃない。おまえが見世物小屋に売り飛ばされようと、早口言葉を堪能にくっちゃべろうと、俺には一切関係ない。俺の役に立たないならな」
「じゃあ、役に立てば、わしに興味を持つ、ということか」
「役に立てばな。まァ俺は猫が嫌いだから……そういうことで」
「待て、わかった、取引をしよう。いや違う、待てって、お願いだ、お願いする。わしの言うことを一度だけ聞いてくれたら、おぬしに面白いものをやろう。だからちょっと止まってくれ」
「嫌だ」
「わしは生前人形師をやっていてな。おぬしに頼みたいのは、わしの最高傑作をこの瓦礫の中から探し出してもらいたい。まだ撤去はされていないはずだし、取り除く瓦礫はたぶんダンボール三個分よりも軽くて済むと思う」
「お人形さんになんぞ興味はない」
「ただの綺麗な人形なぞだったらわしとて執着せん。あれを放置しておくのはまずいのだ。おい頼むよ、老いぼれの最後の頼みを聞いてくれ。どうか……」
「その人形」
俺は足を止めて背中で尋ねた。
「放置しておいてなぜまずい?」
「あれは人類にとって危険なのだ。っておい、歩くな、止まれ。いいか、笑い話でも冗談でもない。真剣にあれは見つけて破壊しなければならないんだ。あれは――」
「動くんだ」
動く。人形が。
だから?
「動くし、喋る。会話もできて、病気にもなる。歳もちゃんと取るし、髪だって伸びる。トイレにだっていくし、食事を与えなければ動かなくなるだろう」
ほう。
それは。
生きている、ということにならないか。
「そうだ」黒猫は頷いた。
「あれは生きている。そして、もしあれを破壊してくれるなら、それまでの間、おぬしに貸し与えてやってもいい。おぬしが望めば、あれはおぬしの言うことに従うだろう」
なるほど。生きている奴隷人形か。悪くないかもしれない。スペックの程度にもよるが。
「それはどれぐらい優秀なんだ。走る速さとか、ものを持ち上げる力とか。それ一体で俺を国とかから守れるか?」
「造作ない。あれはもともと人の形をしているだけなのだが、それにおぬしが【ステータス】を書き込むことによってそれに見合った人形に変わる。おぬしが望めば巨人にもなろう。おぬしが願えば友人にもなろう。あれはそういう代物だ。だから、権力者などの手に渡る前に破壊しなければならない」
「なんでそんなものを作ったんだ」
猫はメシをお預けされたようにうつむいた。
「失策だったよ。作って、その出来に一通り満足したら壊してしまうつもりだった。まさか完成直後に火事が起こって死んでしまうなんて……バックアップの猫人形が生き残ってくれただけでも僥倖だった。そうでなければいつかあれは誰かに発見されていただろう」
「なんだかまるで発見されてもいい人間と出会ったような態度だな。悪いが俺はあんたの思ってるような人間じゃない。むしろあんたが一番出会いたくなかったタイプの人間だと思うぜ」
しかし、猫は首を振った。どこか後ろめたそうに目をすがめて、
「いまは贅沢は言えん。嵐が去り次第、瓦礫を撤去しに誰かがやってくるだろう。その誰かよりは、少しでも話をしたおぬしに賭けたい」
「なるほど」
「引き受けてくれるか」
「嫌だ」
「えっ」
「おまえさっき貸し与えるって言ったよな。そこが駄目。見つけたものは俺のモノ」
「そ、それは……」
「困るか。なら今の話はなしだな。さようなら」
「くっ……」
「安心しろよ。俺は誰にも渡さない。気に入らなくなったらお望み通りにぶっ壊してやるし、なにも世の中を変えてやろうとか滅茶苦茶にしてやろうとか思ってるわけじゃない。俺の望みはほんのささやかなものなんだ」
「…………」
「信用できないか? だがあんたさっき賭けると言ったろう。リスクは覚悟の上だろ。もう少し自分のラッキーってのを信じてみろよ。俺が今日ここに来たことが、自分にとって都合のいいことだってことをさ」
猫はだいぶ逡巡した。身を小刻みに震わせて、何度かその場を去ろうとぴくぴく動きかけたが、そのたびに見えない糸に絡まっているかのようにその場から離れなかった。
俺は待った。
答えは、嵐が強まる前に返ってきた。
人形はすぐ見つかった。黒猫が指し示す瓦礫の山を、そばに転がっていた何かのパイプでもって掘り起こすと、白い人間の手がちらっと見えた。それを引っ張ると、全裸の人形ががらがらと瓦礫を崩しながら現れた。その手は冷たく、死体みたいだった。雨がその陶器じみた肌をさらさらと流れていく。そういえば伯父をまだほったらかしにしている。まァいいか。
「おい、猫婆。こいつかよ。最高傑作の割りにはただのマネキンにしか見えねえな」
「中身が凄いのだよ中身が。素人にはわかるまいがな」
俺は猫の首根っこを掴んで持ち上げた。
「おい」
「な、なんだ。わしは屈したりしないぞ。おぬしなんぞに……」
俺はそのまま猫を人形の胸の上におろした。下手に手荒く扱ってへそを曲げられても面倒だ。
「使い方を教えろ。どうすれば動くんだ。どっかにスイッチでもあんのか」
「そんな無粋なものはないわい。そのあたりにカードが落ちていないか? 一緒にしておいたのだが……」
俺はローファーであたりの瓦礫を探った。カードはすぐに見つかった。黒地に金のラインが何本も流れたカードだ。拾ってみて軽く曲げてみようとすると、クレジットカードにそうしたような手ごたえがあった。
「……わしはどうでもいいが、それが折れるとこれはただのガラクタになるぞ」
「そういうことは早く言え。で? どうすればいい」
「額にかざしてみろ」
言われた通りにすると、視界が暗転した。
何もない暗闇に浮かんでいる。緩やかに回転している気がするが、周囲になにもないので確かなことはわからない。宇宙で置き去りにされたらこんな感じなのかもしれない。
ぶわぁぁぁぁ……と室外機が稼動するような音がした。かと思うと、俺の前に、細長い長方形の空白が現れた。
NAME:
人形の名前を決めろということらしい。ゲームじゃあるまいに。
俺は指を伸ばした。適当でいいや。
NAME:ドール
名前を決めると、今度は無数の空白が俺の周りに散らばった。空白の左端に入力する項目の内容が記されている。SEXだのHAIRだのEYEだの。めんどくせえ。俺はそれでも頑張って入力していったが、途中でもうキャンセルしたくなってきた。すると都合よく、CANCELというアイコンを見つけた。もうだいたい決めたしいいだろう。ここから出れば、俺は黒髪ロングで十六歳の雌奴隷を手にするというわけだ。楽しみなことこの上ない。
俺は【キャンセル】を拳で二度ノックし、視界が白転した。
五感がテーブルクロスにこぼした水みたいにじわじわと蘇ってくる。強い光が目に痛くて、ぎゅっと目を瞑ってしばらくその感覚に耐えた。その違和感とも不快感とも言えない微妙な感覚は、あっけないくらい唐突に過ぎ去った。
俺は目を開けた。
黒猫が俺を見上げている。
「設定したか。名はどうした?」
「ドールにした」
「わかりやすくてよいな。では、ドールのうなじにスリットがある。そこに【ステータスカード】を入れろ」
「わかった」
小柄なドールの身体をうつぶせにする。スリットは見当たらなかったが、カードを近づけるとしゅっと空気の抜けるような音がして挿入口が開口した。親切なこった。
俺はちょっとドキドキしながら、カードを挿入した。
また、視界が白転する。しかし今度は意識をどこかに連れ去られることはなかった。
目を開ける。
俺の腕には、設定した通りの黒髪ロングの美少女が抱かれていた。すっぽんぽんだ。刺青でも彫りたくなるようなきめ細かい肌が曇天の下に開帳されている。俺は思わず、おお、と感嘆してしまった。女の子ってすげえ。
しかし、何かがおかしい。様子が変だ。ドールは、目に雨が入ってくるのも気にせず、ぽかんと口を開けたまま動かない。いや、何か言っている。俺はドールの口元に耳を寄せた。
「あー……あー……」
俺は黒猫を振り返った。
黒猫はもういなかった。
「おい、ババァ! どういうことだ! 反応しねえぞ!」
くそっ、何がどうなってやがる。騙されたのか? いや、あの猫婆の深刻っぷりはマジものだった。だったら、やつがいなくなったということは、もうこのドールが何か問題を起こすことはなくなった、ということだ。
そのとき、ちょろちょろ、と腕に暖かい水が伝ってきた。雨ではない。俺は嫌な予感がしてばっとドールを振り返った。
ドールが漏らしていた。黄色い液体が、俺の制服をくすんだ色に染めていく。カッとなってドールを突き飛ばした。ドールは瓦礫の上にごろんと横たわって、あーあーあーと呻き続けた。
このままじゃ済まさねえ。
俺はドールに駆け寄った。小便を漏らされたことはいまは不問にしてやる。それよりも、こいつがこうなったのは俺が設定を面倒くさがってキャンセルをノックしたのが原因だと思う。たぶんあの無数の項目の中に、ドールの知能指数みたいのを設定する箇所があって、それを空白のままにしておくと最低値で起動するようになっていたのだ。仕組みはわからないが、おおよそそういうことだろう。俺は単語から文章全体を推測する英語のテストを受けるときのような気持ちで、状況をまとめていった。
再設定することはできないだろうか? もう一度あのカードで、最後まで入力し、改めてドールに挿入すれば正常に起動するのではないだろうか。
できるはずだ。でなければ不便すぎる。一度あの空間に転移してから、設定を変更したくなったらどうする? できるはずだ。
しかし、できるなら黒猫が俺の前から姿を消した理由がわからない。まだドールも、カードも残っているのに。再設定は猫婆にしかできないのか? もしそうならお手上げだ。が、その可能性も少ないだろう。そもそも再設定が猫婆にしかできないなら起動自体も猫婆にしかできない方が自然な流れだ。
とにかく、あのカードがなければ話にならない。再設定できるかどうか、試してみなければ。俺はもがくドールをうつぶせにし、黒髪を払ってうなじをあらわにさせた。
スリットはない。なぞってみても、なにも現れない。
やはり、猫婆にしかカードは取り出せないのか。なにか呪文のようなものがあるのかもしれない。開けゴマとかオープン・ザ。セサミとか。もしそうならお手上げだ。
「開け、ゴマ! オープン・ザ・セサミ!」
試しに言ってみたがドールは無反応。それどころか俺の手から逃れようともがき始めた。一発ぶん殴っておくか。おとなしくなるかもしれない。俺はドールの髪を掴んで、こっちを向かせた。
至近距離からドールの茶色い目を覗き込んだ。誰かに似ている。いやそんなことはどうでもいい。
何か書いてあった。
黒目を囲う茶色の虹彩に、数字が書いてあった。104789234750287025。先頭の1だけが金色で、他は白く記されている。
ひょっとするとひょっとするかもと、思った。
俺はドールの瞳を睨みながら、その数字を、
「104789234750287025――――」
読み上げた。
ぷしゅっ、と。
空気の抜ける音がして、瓦礫の上に黒字に金線の入ったステータスカードが落ちてきた。ドールはかくん、と動くのをやめた。どんどん冷えていくのは雨のせいだけではないだろう。
俺はカードを手に取った。
猫婆は、俺が再起動の手段に気づかずに途方に暮れるだけだろうと踏んでこの場を去ったようだ。だがそうそう思惑通りの物事ってのは運ばない。
俺は目を閉じたドールの穏やかな寝顔を見下ろした。
入力項目がどれほどこの人形の細部にまで届くのかは知らないが。
ひょっとしたら俺は今、理想郷への切符を手にしているのかもしれない。
いつも誰かを待っていた。
その誰かがどんなやつなのかわからなかった。
だが、もうそんなことには悩まなくてもいい。
俺が気に入る、俺が愛せる「誰か」にぶつかるまで、こいつでリトライし続ければいい。俺が死ぬまでにはきっとその「誰か」にこの人形はなってくれているはずだ。
そうすれば、きっともうイラつかずに済む。心の底から誰かの安寧を祈れるようになる。
そう思えるだけの価値ある「誰か」の前に立ちさえすれば、俺だって今より人間らしくなれるはずだ。
カードを額にかざし、細い雨の降り注ぐ灰色の世界を睨む。
この薄暗い霧の帳に包まれた世界ではなく。
もっと光で溢れたところに、俺はいく―――――――――――――――――――