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森のくまさん

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仏法僧、と鳥が鳴く声がする。何処で鳴いているかは分からない。森は全てを覆い、星さえも隠している。せっかく仰向けになって空を見上げているのに、星が見れないのは残念だ。
夏の夜空に見守られて、あの世に旅立つという折角のロマンチックな計画もこれでは台無しだ。私はどうも昔から詰めが甘い。場所を変えるにしても、薬を飲んでしまってからでは遅かった。
そんな頓馬な私のもとへ、暗い森のどこからか大きな熊がやってきた。
「お嬢さん、ごきげんよう。いや、こんばんわ……かな?」
「あら熊さん。こんばんわであってるわ。」
「あいさつなんてするのは初めてなもんで、違いがよく分からないんだ。」熊はぽりぽりと頭をかきながら、野太い声で話す。
「朝は、おはよう。昼は、こんにちわ。夜はこんばんわ。ごきげんようはこんにちわの上品ないい方ね。」
「そうか、覚えておこう。」そう言いながら、熊は寝そべる私の真横にその重い腰を下ろした。

「ところで熊さん。ここに来た目的は何?私を食べに来たの?」
「いいや、食事ならすでにすませた。川辺の方で、人間たちが注射を打ったり、粉のような何かを炙って吸ったりして楽しそうにしてたから、お邪魔してきた。」熊の口からは、生臭い血の臭いがする。
「ところで熊さん日本語が上手ね。その人たちに教えてもらったのかしら?」
「そうとも言えるし、そうじゃないとも言える。いきなり熊が来たもんだから、人間たちは驚いて逃げ出したんだ。でも、なんかどいつもこいつもフラフラしてて、千鳥足で逃げるもんだから簡単に追いついた。それで食ってみたら、ひどくまずくて薬のような味がした。気が付いたら言葉を話せるようになっていた。」
「そうなの」暗やみの中、熊は私の顔を覗き込んでいる。「ごめんなさいね。急にそんな風になっちゃって困ってるんじゃないかしら。」
「いや、別にいい。おかげでこうしてお前と話すことができる。そうだ、それにお前を別に食べるつもりはない。まずかったが、動くのがだるくなる位まで食ってしまった。」
「私としてはね、別にあなたに食べられてもいいの。私はあと少しで死ぬの。どうせ死ぬんだもの、食べられたって文句は言わないわ。」
「そうか。ならお前が死んだあと、お腹がすいたら、御嬢さん、お前を食べることにしよう。」

「ところでお前は、どこからやって来たんだ?」熊が私に尋ねた。
「東京よ。」
「東京か。行ったことはないが、ここから遠いんだろ。なんでわざわざこんなところまで来たんだ。」
「東京では死にたくなかったからよ。東京じゃなければどこでもよかった。できれば、星のきれいなところがよかったから、昔来たことのあるこの山で死ぬことにしたの。」
「昔、この近くに住んでいたのか。」
「ええ。と言っても山のふもとの町に、だけど。昔の話。」
東京では死にたくなかった。ここにも何もないところだが、東京にはもっと何もなかった。正確に言えば、私は東京で何も得ることができなかった。話し相手すらおらず、こうやって熊と話すのが私にとって久しぶりの会話だった。
何もないところで、一人で死ぬのはいやだった。どうせ一人で死ぬのなら、せめてきれいな星を見ながら死にたい。東京には星すらなかったのだ。
「しかし、御嬢さん。気づいているかい。ここでは木が覆い茂っていているせいで、星が見えない。お前は深いところまで来すぎてしまった。」
「そうね。失敗したわ。でももう私は動けないの。このまま死ぬの。」
「なあ、お前は見たところまだ若い。若いのに、なんで死ななければいけないんだ。」
「じゃあ聞くけど、熊さん。あなたはなんで生きているの。」
「生まれたからだろう。」ものすごくシンプルな答えだ。
「でも、私たちは生まれたいと願って生まれてきたわけじゃないの。」
「じゃあ、答えを変えよう。死にたくないからだ。」
「そうね。多くの生き物は死にたくないから必死に生きている。働いて、食べて……あなたが人を襲って食べるのもそう。」
「人は滅多に食わない。」
「そうなの、ごめんなさいね。とにかく、私はそこまで生きたくなくなっちゃったの。生きてても、嬉しくないもの。生きないためには死ぬしかない。」
「そうなのか。理屈としては分かるんだが、俺には死にたいという感情が理解できない。」
「人間だってだいたいの人がそうだと思うわ。でも、中には私のような人もいるの。」

「でもな、お嬢さん。俺は熊だ。獲物を襲って、食って、それから眠る以外のことは基本しないし、できない。だが、人間はそれ以外のこともできる。注射も打つし、粉だって炙って吸う。前に見かけた人間は、煙草というものを吸っていた。」
「何がいいたいの?」
「生きていれば、いろんなことができるだろう。それを全部放棄してまで、死ぬなんてもったいなくないか。」
「熊さん、私を諭そうとしているの?あなた、私が死んだあとで私を食べるんじゃないの?」
「いや、ただ俺は疑問に思ったんだけだ。お前にも、何かやりたいことはあるんじゃないのか。生きてしたかったことが。」
生きていてしたかったこと。それはあった。私は、東京で恋をしていた。周りになじめず、友達もできない私だったが、一人だけ優しく私に手を差し伸べてくれた人がいた。
私はその人に強く焦がれていた。依存していた。しかし、私の想いは彼に届かなかった。死にたい理由はいろいろあったが、一番大きかったのはそれだった。
彼が私の恋人にもしなってくれたのなら、彼は私の生きる理由になってくれただろう。それが叶わないと知った時、私の心は落ちた花瓶のように砕け散り、絶望が洪水のように押し寄せ私は死を望むようになった。通俗な理由だと自分でも思う。

「ねえ、熊さん。お願いがあるの。」
「何だ。」
「私の恋人になってほしい。」
「何故だ。」暗闇の中で熊はきょとんとしている。よくは見えないが、きっとそんな顔をしているだろう。
「あなたのせいよ。あなたが生きててしたかったことがあるんじゃないかって聞くから。」
「でも、お前は死ぬ。これから死ぬのに恋なんてできるのか。」
「私は、あなたのことが好きよ。恋をする最低の条件はこれで整ったわ。」
「俺は熊だ。できることは少ない。具体的には何をすればいい。」
「セックスをしましょう。」私は、はっきりと言い切った。その言葉に、熊は覚えたばかりの言葉を一瞬失う。
「……どうかしている。」そう、私はどうかしていた。まともだったら、熊とセックスしようだなんて
「どうかしているから、死ぬのよ。」熊はまだ唖然としている。「熊とか……」「……理解できない」と壊れたおもちゃのように、ぼそぼそ呆然と繰り返し呟いている。
「私は処女なの。誰にも愛されたことがないの。未練が一つあるとしたら、私は誰かに愛されたい。」
「……そのためにセックスが必要なのか。俺にとってセックスは、子供を作るためにするものだ。」
「愛を確かめるためにも、人間はするの。」
「それが人間の理屈か……。しかしお前を愛するには致命的な問題がある。俺は雌だ。」
「そうだったの。ごめんなさい。でも『俺』って言ってるからてっきり男だと……」
「気にするな。そうか、『俺』は男の言葉か。なら『私』と言えばいいのか。」
「『俺』でいいわ。かっこいいもの。」
「……ともかく、雌の俺ではお前とセックスはできない。ペニスがあれば、理論的にはできないことはないかもしれないが……」そもそも、熊のペニスを私が受け入れられるかどうかも分からない。
同性愛、異種間愛。死ぬ間際になって私は、様々なものを乗り越えてしまった。本当に、どうかしている。しかし、どうかしてたほど私は愛されたかった。熊でもいいと思うほどに。熊でも愛せるほどに。

「……しかな、御嬢さん。他の願いなら叶えやれるかもしれない。お前、星が見たいと言っていたよな。ここでは見ることができないから、俺が見えるところまで連れってってやる。」
「それでいいわ」と答えると、私の隣でうつ伏せになった。
「乗ることはできるか?できなきゃ、咥えて引きずっていくが。」咥えられて星を見に行くのは趣がないと思い、私は意識が朦朧とする中最後の力を振り絞って熊の背に乗った。
まるで金太郎になった気分だった。熊は私を乗せ、四足でのそのそと森の中を進んでいく。熊の柔らかい毛皮が、熊にうつ伏せに背負われた私の顔を撫でる。熊の暖かい血の流れを肌で感じる。
「ここまで、来たら星が見える。どうだ、きれいだろう。」
月明かりが私たちを照らす。熊の背中には、白い斑点があることに私は気づいた。まるでお星さまみたい。ベガ、デネブ、アルタイル。そして、アンタレス。綺麗な星に見守られて、私は深い眠りについた。

(終わり)
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