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 その日は朝から雨が降っていた。
 食料品を買いに外に出るつもりだったが、窓から見える雨模様の空を見ているうちにその気がなくなった。雲は重く湿り、雨粒は引きずられるように地面へ落下していく。世界は完全にふさぎこんで苦々しげにうめいている。青ざめた顔で持病の胃痛をこらえている男みたいに。
「ひどい雨だ」小さく呟く。「特にひどい方の雨だ」
 雨の日は独り言もまた違う響き方をする。
 部屋には雨の日の薄暗さが染みこんでいた。雨音が空気に影を叩き込んでいるみたいだ。こういう日には抵抗せずに、できる限り明かりをつけないまま過ごす。午前中は仕事をするべくパソコンに向かい、昼になると簡単に昼食を取った。
 午後になってからふと思い立ち、少女の寝ているベッドのシーツを取り替えた。その間少女はソファに寝かせておいた。彼女はなんの抵抗もなく大人しくそこで「眠って」いた。昼間は決して目を覚まさない。理由は彼女自身にもわからないらしい。日が落ちてからだけ、彼女は意識を取り戻し声を得る。
 新しい清潔なシーツの上に少女の遺体を横たえる。雨の日には、彼女はより死体らしく見えた。薄暗い影が忠実な犬のように傍に寄り添っている。彼女がここに来てから三日目だ。そろそろどうにかしなくてはならない。けれどどうするべきかわからない。
 葬式をしてほしい、とあの電話は言っていた。うちは葬儀会社ではないと断った。けれど遺体はやってきた。作業服を着た男が二人棺に納められた彼女を運んで来て、中身だけを渡して去っていった。私はそれを受け取った。そしてもちろん受け取った以上は責任が発生する。
 不思議なことに、少女の遺体に痛みは見られなかった。臭いもない。まるで彼女を包む時間までもが死んでしまったみたいに。
 夕方になってようやく部屋の明かりをつけた。小さな白熱灯の光が部屋をわずかにあたためる。夕食をとったあとで、ウィスキーの水割りを用意してから、レコードを小さな音でかけた。
「これ、なんていう曲?」
 第一楽章が終わり音楽が途切れた合間に、少女が小さな声で訊いた。いつの間にか目を覚ましていたらしい。
「フランクのバイオリンソナタ」
「フランクって誰」
「十九世紀のフランスで活躍した作曲家。それ以上は僕も知らない」
「クラシックが好きなの?」
「置いてあるレコードを聴いているだけだよ」
 第二楽章が始まると彼女はまた沈黙する。
 外ではまだ雨が降り続いていた。雨音が低く静かに、レコードのノイズと同調して部屋にもぐりこんでいる。ジャック・ティボーのバイオリンの音はそれに抵抗する様子もなく深く広がっていく。私は音楽にあまり多くのものを期待しない。沈黙を埋めてくれればそれでいい。不愉快な音の浪費をせず、ありふれた誠意のない歌詞でメロディーを汚していないものであればなんだっていい(正常な感覚の持ち主なら誰だって、人の排泄行為を見せつけられたいとは思わない)。そして年々聴くに耐える音楽は減っていく。ヤンバルクイナの個体数の減少ペースといい勝負だ。
「不思議な曲。なんだか、雨の日に似合う音楽のような気がする」
 少女が呟くように言ってから、少し自信なさげに付け加える。「私、クラシックのことなんか全然知らないし、生きてるときはほとんど聴いたことなかったけど」
「僕もそう思う」答えて、カーテンを開けたままの窓を見た。夜の色に染まった窓ガラスが照明の光を映しこみ、その光を乱すように点々と雨が滲んでいる。
「雨の夜も悪くない。でも雨の日の薄暗い午後が一番似合うんだ」
「じゃあ、今日の午後も聴いてた?」
「いや、昼は音楽は聴かないんだ。仕事の邪魔になるから」
「仕事って何をしてるの」
「色々。文章を書いたり、翻訳をしたり」
「へえ。すごい」
「残念ながらそれほどクリエイティブな種類の仕事じゃない。誰かがやらなくちゃいけなくて他にやる人がいないから、僕がやっているだけで」
 少女はそれについて何かを考えているようだったが、結局何も言及しなかった。
 ちょうどそこでレコードが終わったので、私は立ち上がりプレーヤーの蓋を開けてそっとレコードを裏返す。慎重に針を落としターンテーブルを回す。それは音楽の古さそのもののように、重々しくじっくりと、ぎこちなく回り始める。古いバイオリンの音と繊細なピアノ伴奏の音がスピーカーから流れ出す。
「これもフランク?」
「いや、これはドビュッシーのバイオリンソナタ」
「その名前は聞いたことある。でも、曲はぜんぜん知らない」
「僕だって君くらいの年の頃には名前しか知らなかったよ」
「この曲も雨の午後に似合うの?」
「いや、夜がいいな。夏の終わりごろの夜。ちょうど今くらいの季節。雨が降っていても、降っていなくても」
「そう。じゃあ、よかった」
 少女の答えで私は初めて先の自分の失言を悟った。彼女は恐らくもう二度と、雨の午後にフランクの音楽を聴くことはないのだ。
「ねえ、この曲、なんだかイルカみたい」
「イルカ?」
「月の光に照らされた夜の海を、イルカが泳いでいるみたい。自由で、屈託なくて、神秘的で、すごく遠くにある古い風景みたいな」
 私はしばらく音楽に耳を澄ませた。静かな曲調の中で、時折跳ねるようにバイオリンが遊ぶ。繊細な音の連なりが走り、不安定に音が揺れる。そこには仄暗さと、その中でしか存在し得ない瑞々しいきらめきが同居している。古いスクリーンに掠れて映る、月に照らされた真夜中の海のように。そして黒い水の中をつるりとした滑らかな皮膚のイルカが月の光と戯れるように泳いでいく。
「悪くないね」
 音楽が部屋に染み付いた影をやわらかく染めていく。私は少しずつウィスキーを飲みながら、イルカが泳いでいく姿を眺めていた。自分ひとりで聴いていたなら決して生まれなかっただろうイメージ。少女も静かに音楽に耳を傾けているようだった。きっと同じものを見ているのだろう。
 やがてレコードは終わる。わずか十二分ほどの曲だ。その十二分の間に、ドビュッシーは彼の内側に潜む象意をありったけ注ぎ込んだ。そしてバイオリンとピアノの静かな音がそれを汲み取り、蘇らせる。彼がこの地上から消えたあとでも、それは再生されるたびに息を吹き返す。人の多い街中では簡単に喧騒にかき消されてしまうような小さな曲だ。一生知らないままの人間だって多いだろう。でもそれは今ここで、雨の気配をあたためて、死んだ少女にイルカを見せたのだ。
 音楽が去った後の静けさの中で、少女が呟いた。
「ねえ、あなたはどうして私を引き取ったの?」
「電話がかかってきたんだ」
「電話? 一体誰から?」
 私は少し考えた。どう説明するべきか迷う。
「わからない。君には心当たりはない?」
「ない。第一、私、あなたのこと知らないもの」
「僕も君のことを知らない。君の名前さえ知らない。うちを葬儀屋となにかと勘違いしたんじゃないかな」
「そんなの、断ればよかったのに」
「断ったよ。でも君は運ばれてきた。そして僕は受け取った」
「お人好しなの? それともいい加減なの?」
「さあ」
「どんな電話だったの?」
「葬式をしてほしい、って言ってた」
 そこで少女がしばらく黙る。
「葬式」彼女は言う。少し堅い声で。「いったいどんな風に?」
「わからない。でも君が決めればいい。嫌なら、ここにいてもいい」
「ずっと?」
「好きなだけ」
「迷惑じゃない?」
「今のところは別に」
 寝る場所の問題はあるが、ベッドをもうひとつ買えばいいだけの話だ。少し部屋が狭くなるくらいのことだった。
「やっぱりお人好しなんじゃない?」
 少女は苦笑気味に言い、それからため息をついた。
「私、知ってる。そういうのっていつまでも続かないの。今は迷惑に思っていなくても、それはまだ私が目新しい存在だからで、そのうちちょっとずつ嫌になってくるのよ」
 私は何も言わない。アンプの電源を入れたままで、スピーカーからはかすかなノイズが流れ続けている。それが寧ろ沈黙を強調していた。
「嫌な言い方してごめんなさい」少女が言う。
「でも、お葬式はしないとね。だって私死んだんだもの」
 建物の外ではまだ雨が降り続けていた。その雨音が更に沈黙を深め、夜を濃く塗り重ねていく。私は何も言わない。音楽はもうここにない。それは過ぎ去ってしまったのだ。



Debussy Violin Sonata - Thibaud/Cortot (1/2)
http://www.youtube.com/watch?v=Zni48ORjFog

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