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いつも朝食は摂らない。コーヒーを淹れるだけだ。今朝もミルで豆を挽き、ドリップでじっくりとコーヒーを落とす。香ばしい湯気があがり、濃厚な空気の塊が鼻の奥をくすぐる。うまく行けばそれは獰猛な生物の血液のように生き生きとした艶を湛えた飲み物になる。でもそんなにうまく淹れられることは滅多にない。コツだけではなく、タイミングを捉える集中力のようなものが必要なのだ。今朝はごく普通の仕上がりのコーヒーになった。それでもまあ、味は悪くない。
ソファで寝たせいで身体のあちこちが痛かった。しばらくこの生活が続くのだろう。死んでいるとはいえ、年若い少女をソファで寝かせて自分がベッドを使うわけにもいかない。
「コーヒーは?」
真っ白な麻のワンピースに包まれた少女の遺体に声をかける。
返事はない。
昨日の声は自分の幻聴だったのかもしれない。とうとう頭がおかしくなったのか。いや仮にここで返事が来ても、それを否定する根拠にはならない。
私は普段どおりに仕事をして、昼になると簡単な昼食を作り、午後は本を読みながら音楽を聴いて過ごした。少女はずっと沈黙していた。身じろぎせずため息ひとつしないまま、じっとそこに横たわっていた。試しにカントリーミュージックをかけてみようかと思ったが、レコードは一枚残らず薄いビニールの中で粉々に砕けているはずだ。わざわざ買いに行くのも馬鹿らしい。
やがて日が暮れてきたので、夕食を作る。パンとインスタントのスープ、かりかりに焼いたベーコン、レタスサラダ、それからレッドサーモンの缶詰にマヨネーズ、胡椒、レモン汁を加えたパテ。ここで暮らすようになってから食べるものは加工品が増えた。元々食事に手間をかけるのがあまり好きではないし、食欲もそれほど旺盛ではない。
「簡素だがそれほど悪くない」
少女に向かって話しかけながら夕食を摂る。
「食事にはあまり興味がないけれど、マトモなものを食べなければ身体がもたない。食べることは健全な人間としての責任みたいなものだ。一人で暮らしているとそういう細かい部分に責任を持つことが大事になってくるんだ。ことに、歳をとるとね」
完全なる独り言だった。どうでもいい話だ。
「私は食べるのって大っ嫌いだったけど」
昨日と同じ声が答えた。それはやはり、少女の方から聞こえてきた。部屋の隅の暗がりにある狭いベッドの辺りから。
「驚いたな」妙に薄いスープを飲んでパンを喉の奥に押し込む。「君は夜になると喋る?」
「そうみたい」
少女の声が答える。
「気がついたら眠っていて、目が覚めたような……そんな感じ。うん、多分、眠っていたんだと思う」
眠るというのがどういうことなのか気になったが、そもそもそれ以前の問題だと気がついてどうでもよくなった。
「食べるのが嫌いだった?」
「そう」
「若い女の子は概してあまり食べないね」
「そうね、太るのが嫌だから」
答える声はなんとなく平板な調子だった。適当で投げやりな。それとは別に何か理由があるのだろう。私は頷いて、夕食の続きを食べる。サーモンのパテをパンに塗りつけて齧り、味気ないリーフレタスを咀嚼する。にごった水の味がする。スープを飲み干してしまうと胃がずしりと重くなった。
私は少女の方を見た。その辺りには何か沈黙の気配が漂っていた。考えあぐねている様子を目にすることが出来なくても、思惟の緊張加減は肌でわかるものらしい。相手との距離を測るべくじっと凝視しているような沈黙だった。
「自分以外のものが身体の中に入ってきて自分に同化するってことが、うまく理解できなかったの。それだけ」
少女の小さな声がそう言った。
ベッドの上で、身体の線の見えない麻のワンピースの裾から二本の足が覗いている。それはごく普通の健康的でのびやかな少女のふくらはぎだった。血の気が失せ、動く気配が一切見えない以外は。つるりとした白い魚みたいだ。
「どっちにしろ、もう食べる必要はないのよ」
少女が適切な言葉で一応の決着をつける。私は頷いた。
食事の片づけをしようと立ち上がる。缶詰の中に残ったパテを見て、ふと、これは魚の死骸と油分の塊なのだと思った。私の知らない場所で生まれ、殺され、詰め込まれてきた動物の成れの果てだ。それは確かに異物だった。