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かの名人と内海立松

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「えー……。
 俺も長いこと生きちゃいるがね、ん……あんな女に会ったのは初めてだった。まあ2度と会いたかねえってのは違いねえが、あと1回は必ず会う事になりそうだ。え? どこでだって? そいつは地獄に決まってるでしょう。
 落語家なんてやくざな商売。座布団に噛み付いて続けてりゃあそれだけボロボロになってくる。あちこちガタがきてね、やれ古典芸能だ伝統文化だともてはやす奴もいるが、この歯を見ておくんなさい。どうだい、綺麗なもんだろ? 全っ部入れ歯だ。適当な事ばかり言ってるもんだから腐っちまったんだろうね。ボロボロにねえ。
 んー……。
 こう見えても俺も人の親でな。40の時に仕込んだ種が、突拍子もなく芽吹いちまったもんだから、あれよあれよという間に孫みたいな年の倅が育っていやがった。まったくたまったもんじゃありません。たまったもんじゃありませんよ。え? 挙句の果てには一夜女房が、あ、そうは言っても良い女だったんですがね、へへへ、まあその女房が俺の息子だからっていうんで、俺の所の屋号から一字取って『立松』と名づけていやがった。寿限無にも負けねえめでたい名前になっちまいやんの。
 そんな倅が身寄りもねえってんで俺の所に尋ねてきたんじゃ、引き取らない訳にはいかないでしょう。ねえ、人情ってもんがある。あの女には無いがね、俺にはありますよ、そりゃ。世間じゃ隠し子って言うのかね。こういうのはね。
 ところで話は変わりますがね、俺ぁべらぼうにこっちが好きなタチでね。え? こっちだよこっち。違う違う神様に祈りささげてるんじゃないんだ。バットだよ、分からずやだね。そんでこっちね。こっち。違う違う、誰が呼んだってんだボールを投げてるんだよ。
 野球。これに尽きます。呑む、打つ、買う。俺ぁもっぱら目の出ない方で、とんと博打はやりゃしませんので、打つって言ったらこっちの方だ。うん。呑む、打つ、買う。男の人生なんてもんはこれに限る。
 何の因果か倅も野球をやっていましてねえ……ん、中学では捕手、キャッチャー、女房役ね。やってたらしく、そりゃいいや続けろ続けろ、倅がプロならチケットが安く済むなあなんてのんきに構えていやしたらね。あらびっくり。褒めた途端にやめやがんの。もーう頭に来ちゃって、『勘当だ!』なんて言っても10年以上顔すら知らなかった倅に勘当も何もありませんわな。
 いやね、何も野球をやらないのが悪いってんじゃなくてだねえ、ん、その、なんていうんだ。えー、野球をやめて、こっちをやろうの『こっち』がいけねえんだ、こっちが。
 俺も訊いたんですよ。なんで野球やめなさる? 上手かったんだろ? え? なんてね。そしたら倅がね。あ、倅の話ばかりですいませんね。馬鹿はいかんが親馬鹿はいいって言うでしょ。言わない? ああそう。『相棒がやめたから俺もやめるんだ』と、こう来るんです。
 相棒。相棒ねえ……。うーん……で、俺はこう言った。『なんだいお前さん、お前さんにとって野球なんてのはその程度のものだったのか? え? 所詮は仲良しこよしの友達付き合い。かーっ、そんな覚悟でやられたらたまったもんじゃないねえ』とね。
 それだけ言われてまだしんみりとしてる倅を見てたらね、こう、なんだか俺も落ち込んできちゃって。んー、黙りこくっちゃって。ねえ。でも怒ったんだ。俺は怒ったんだ。『勘当だ!』って見当違いのことまで言って。そしたら倅の奴はこう言いやがった。
『父さん、俺は落語家になりたいんだ』」


 落語において、本ネタに入る前にある噺を枕という。内容は人によって様々で、当たり障りの無い季節や天気の雑学を披露したり、風刺めいた事を言ったり、そこに巧みに小噺を混ぜ、冗談で客の空気を探る。その時の様子によっては、予定してあった本ネタを全く違うものに変える事も多く、『話芸』とは全く良く言ったものだと感心させられる。
 しかし「かの名人」が枕で身内の話をしてきたのは初めてであり、しかも今年で高校生になる子供がいるなどと告白したのも初めての事で、その結果、落語の席で悲鳴が挙がるというなんとも珍しい事が起きた。
 かの名人をそうさせたのは一体誰か、犯人はいつも同じだ。


「9人も集めなきゃいけないなんて、冗談じゃない。5、6人でなんとかならないのか?」
「ならんだろうなぁ」
 八戸心理と芦屋歩の作戦会議は、まずは八戸心理が無茶を言い、芦屋歩がそれを無理だと言い、八戸心理が不機嫌そうに頭を捻るという単純なルーチンワークで構成される。
「相手も5、6人のチームにすれば、条件は一緒で文句ないはずだろ」
「いや、ルールだからさ。こればっかりは」
「誰だ野球のルールを決めた奴は。まずはそいつに謝罪をさせて、ルールを改定させよう」
「とっくに死んでる」
「何を勝手に死んでるんだそいつは。ますます許せん奴だ」
 と、こんな調子では話が前に進まない。よって、大して乗り気でもないのに建設的な意見を出さざるを得ないというのが芦屋歩の辛い所だ。
「とりあえず、俺がいるからあと8人だ。ついでに1人だけ心当たりがある」
「たったの1人しか心当たりがないのか? この役立たずが」
 しかし1人いるだけでも上出来だろう。芹高に野球をしに入学しにきた者は、当然野球部に入部しているはずで、練習がきつくて退部した者は大勢、それこそ腐るほどいるが、その者達に再び野球をやれというのも難しい。何より、まず役に立たない。
 芦屋歩は重々承知していた。八戸心理が第二野球部の発足を宣言し、杵原良治に対しての復讐を誓った瞬間から、まずは勝利が大前提。寄せ集めでチームを作り、ぶつけてみた所で圧敗するのは火を見るより明らかだ。必然、芦屋歩が考えた、第二野球部の入部に求める条件は、野球部に所属しておらず、なおかつ野球の実力が伴い、そして八戸心理と関わってしまう事に抵抗を持たない人物という事になる。
 なるほど、1人いれば上出来だ。
「で、そいつは誰?」
 八戸心理が半ば期待していないような眼差しで尋ねると、芦屋歩は頬杖をついて答えた。
「3組の内海立松(うつみたてまつ)キャッチャーだ。リトルシニアの時、俺の変化球を捕れたのはあいつだけだった」


「俺も人の事は言えないがねえ、こんな親不孝息子は珍しいよ本当。え? 落語家なんてね、こんなもん目指してなるもんじゃないんだから。落語しか出来ない奴が仕方なくなるんだ。俺もそうだった。別に卑下している訳じゃないですよ。卑下している訳じゃあないんだ。ただ事実だからそう言ってる。それだけ。
 それをあんた、全く親の心子知らずとはこの事だ。反対も反対大反対。『お前さんねえ、あたしはお前さんに跡を継がせる気なんて更々無いよ? 落語と政治の才能ってのは遺伝しねえんだから』なんて言ってね。でも頑固な所だけは遺伝していやがる。まるで意見を変えようとしねえ。挙句の果てにはどこそこの一門に弟子入りしますなんて言い出してんのに、俺の昔の落語を引っ張り出してカセットで聴いてるもんだから世話ない、うーん。
 そんな事でね、やるだやらないだやれやるなやれるだと言っている内にね、例の女だ。歳は16だかそこらだが、あんなもん娘なんて呼べるほどかわいいもんじゃない。ありゃ鬼だね鬼。でなけりゃ悪魔。サタン。まあなんでもいいやとにかく性悪な女でねえ。俺も若い頃は色々と悪いのには引っかかってきたけどもねえ、うーん……。
 えー、さっきも言ったとおり、俺は倅に落語をやって欲しくなかったんだ、うん。でも倅はどうしても落語をやりてえと言った。俺は許さなかった。野球をやれと言った。
 あの女は倅に野球をやらせたいと言った。えー、よく分からないんだけども、復讐がどうのってね。どうしても倅を手前のチームに入れたいと、そういう訳だった。
 えー、つまりこれは利害の一致という奴ですな。俺もあの女も倅に野球をしてもらいたい。倅だけがいや野球よりも落語をやりたいとこう言っているんだから、俺とあの女が協力して倅を説得するなら分かりやすい話だ。そうでしょ? え?
 ところがどっこい。俺はねえ、まあ生まれて初めてだったね。人質に取られたのは。弟子がね、楽屋にきてこう言うんですよ。『師匠、若と若のご友人が師匠に挨拶をしたいといらっしゃってますが、どういたしましょう?』『若? 若ってのは誰だい?』『息子さんです』『若なんて呼ぶな、あいつはただの馬鹿だ』って突っぱねてると、勝手に入ってきやがんの。倅と、あの女と、倅が野球やめる原因になった例のピッチャー。
 呆気にとられてる内にあの女が俺の首元に鋭く尖ったナイフを突きつけて、こう脅した『立松を前座として舞台に出せ』」


「俺の聞き間違いかな? 今、杵原良治と勝負するって聞こえたんだけど」
「そう言った。間違いではない」
 八戸心理の堂々とした態度に押されて、内海立松の眼鏡がずれた。
「生憎だけど……」
 腫れ物に触れるように慎重に断りを入れようとするのを遮って、八戸心理が言う。
「落語の練習をしているんだろう? でも親からは反対されている。こいつから聞いた」
 肩をすくめる芦屋歩。
「お前を舞台に出してやってもいい。ただし、もしもウケなかったら私に協力してもらう」
 内海立松は舞台に座りたかった。例え悪魔に魂を売ってでも。


「で、ご覧の有様だった。
 俺は思ったね。親馬鹿だったんだな、と。くやしいが、あの女に教えられたよ、うん。
 落語の才能は遺伝しない。頭では分かってたんですがね、倅が舞台に立って、ウケようもんならもう反対なんて言えない。ようはそれが怖かったんだ、俺は。稽古もまともにしてないのにウケるかも。なんて思い上がり、まさに親のする事だ。
 それを分かっていたんだろう、あの女は。だから立松を舞台に引っ張り出した。で、案の定スベった。あの女の狙い通りにね。
 という訳でちゃんと聞いてくれた皆さんには迷惑おかけしましたね。この通りだ。倅のやった事を親が謝るなんて情けない話だと思っていたけれど、やってみると案外気持ちのいいもんだね、これもね。 んー……何の噺をしようか。ああそうだ、『親子酒』なんていいかもしれないね」
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