「俺は窃盗部に入部したのか?」
宿直室の方向に目を凝らしつつ、内海立松は自嘲気味にひとりごちた。月は細く、学校の廊下は暗い。昼間でも、そう何度も通った事のない職員室の前、慣れない事をしているだけあって、緊張感もひとしおになる。
しかしそれでも、舞台に出た時よりはマシだ。と、内海立松は思う。あの時の緊張と言ったら、普段使い慣れてる言葉がまるで別の国の言葉に聞こえて、両手両足が誰かに糸で引っ張られているようだった。それまで必死にしてきた稽古が、父からしてみればただの遊びだという事を知った瞬間でもある。
「おーい、まだ終わらないのかー?」
声を潜めながらも、焦りからか職員室の中にそう尋ねる。
「早くしろ、歩」
1番嫌いな教師の机の上にどっかりと腰を下ろした八戸心理が、芦屋歩の丸めた背中に声をかける。
「わぁってるよ。意外とこれ……ここがむず……お、きたきたきた……」
芦屋歩の手にしていたピッキングツールの動きが止まり、カチャリと小さな音がして、鍵があいた。
ゆっくりと引き出しを開けると、机から降りた八戸心理が中を覗き込む。
そこに目的の物を発見した八戸心理が口角を吊り上げる。この不気味な表情は、ロクな事が起きない前兆として良く知られている。
「よし、それを持ってずらかるぞ」と、八戸心理。
「あ、やっぱり俺たち泥棒なんだ。今の『ずらかる』って台詞で確定したよ」と、内海立松。
「そうだな立松、キャッツカード用意しておけば良かったな」と、芦屋歩。
第二野球部の3人が、学校を後にする。
そのまま近くのファミレスに移動し、作戦会議が始まる。
八戸窃盗団が教室から盗み出した物。それは、つい先日行われたスポーツテストの各競技の結果を順位付けした生徒名簿だった。1年生から3年生まであり、数字とクラスと名前だけが羅列された名簿なので、片手でもかろうじて持てる程度の量に収まっている。
現状、正式野球部と第二野球部の差は果てしなく広がっている。かたや県内最強レベルのチームに日本最強のピッチャーが加わった伝説級。かたやまだ部員3人の、野球さえ始められない、チームと呼ぶ事すらおこがましい集団。勝つには何としても即戦力がいる。少なくとも運動能力において、正式野球部のレギュラーに匹敵する実力者が必要になる。
とはいえ、芹名高校は全国屈指のマンモス校だ。1年生から3年生まで、40人編成のクラスが10ずつあり、野球部以外の運動部も無い種目を探すのが難しいほど充実している。その中から、野球に適正のある人物を探し出すのには時間がかかる。
そこで、八戸心理は迷うことなく最も効率的な方法を選択した。それが「窃盗」だ。
事前準備として、午前中、彼女は件の資料を保有している体育教師に、直接会ってクレームをいれている。「運動能力という個人情報を、その辺に放っているというのは常軌を逸しています。きちんと管理してください。さもないと……」何故このような事を突然に言い出したのか、体育教師も不思議だったが、八戸心理の言う事は確かに一理あった。邪険に扱えば、余計な所まで火の粉が飛ぶ。仕方なく、自らの机の1番下にある鍵付の引き出しに入れ、鍵をかけ「……これでいいか?」と見せて確認した。己の保身と面倒くささから、最も警戒すべきなのが、目の前にいる人物である事を失念していたのは体育教師ならではの失敗だといえる。
予定通り、全校生徒の運動能力資料という情報武器を手に入れた八戸心理には、大した罪の意識も無い。目的を達成するまで決して消えない心の内の業火は、その日も派手に燃え盛っていた。
「さて、どの項目からいくか……。おい、歩」
名前を呼ばれた芦屋歩は、眠い目をこすりながら欠伸をして頭をポリポリとかく。「器用な奴だ」と八戸心理が呟く。
「ああそうだそうだ。聞きたい事があったんだ」ドリンクバーから帰ってきた内海立松が言う。「歩は手先が器用だから、ピッキング要員として呼ばれたのは分かる。だけど、なんで俺まで呼んだの? 見張りなら、八戸……さんが、やれば良かったんじゃないかな?」
「お前は新入部員だから、共犯になってもらう必要がある」
と、あっさり八戸心理が言い、パラパラと資料をめくった。
「やっぱり窃盗部じゃないか」
「何? 野球部が窃盗をしないとは限らんだろ」
「めちゃくちゃ言ってくれるなぁ……」と、内海立松は呆れながら、もう眠くて眠くて仕方が無い様子の芦屋歩の方に向く。「歩が言っていた通りだ。でも、確かに、面白い」
「ま、そう言ってられるのも今のうちだぞ」
芦屋歩はソファーにどっかり預けていた体を起こして、資料のある項目を指差す。
「まず、野球に必要なのは瞬発力だ」
芦屋歩の言葉は正しい。打つ、投げる、守る。いずれにしても、一瞬で発揮出来る力が高い選手が活躍する。もちろん、集中力のコントロールや、1試合持つだけの持続力、ここぞという時の集中力も必要ではあるが、野手においては特に瞬発力の高い選手が、上手い選手という事になる。
スポーツテストの結果の中で、瞬発力を表してるのはこの項目。芦屋歩の指した項目を、八戸心理が懐疑的な眼差しを向ける。
「『反復横跳び』だと? 握力や腕力や脚力の方が重要ではないのか?」
第二野球部を発足したばかりの八戸心理は素人だった。ロクにスコアボードも読めず、守備位置も分からなければ、野球用語はアウトとセーフとホームランしか知らない。
「確かにそれも重要だけど、筋肉はある程度トレーニングしてつける事が出来る。だが、瞬発力と反応速度ってのは生まれ持ったもんが大きいんだよ」
資料をめくり、1年生の反復横跳びの順位に目を落とし、2人はそこに例の名前を見つける。
数秒の間の後、ため息交じりに芦屋歩が呟く。
「まったく、あの身体でよくこんな記録が出せたもんだ」
79回。全国の高校生平均48回を遥かに上回る超人的記録であり、野球以外の競技においても、片腕しかない肉体が十分に通用する事を強烈に主張している。
「……お前は、何回だ?」
目を合わせずに、八戸心理が尋ねる。芦屋歩は嫌な予感を感じつつも、それを脇にどけて答える。
「55、だったかな」
「使えない奴め」
やがて流れ出した重い沈黙を断ち切ったのが、いつの間にか2年生の方の資料に目を通していた内海立松だった。
「お、2年生に杵原の記録とタイの奴がいるよ。ええと、2年6組の……」
次の瞬間、内海立松が挙げた名前に、頭を抱えたのは芦屋歩1人だけだった。
「不良」という言葉は、八戸心理にはいまいち似合わないように私は思う。教師の思い通りにならず、反抗的な態度を見せ、時に法を犯す行為をするという一般的な不良の解釈は、確かにその通り、ぴったり当てはまる。しかし彼女には、不良としての動機やポリシーと言った物が一切無い。
彼女が復讐をするのは、元々がそういう性格であるから、もっと言えば、そのように育てられてきたからで、利益や主張に基づかない。第一に、彼女自身、自分の行いが悪い事だはこれっぽっちも思っていない。他人にどう映るかはどうでも良く、復讐が果たせればどうでもいいのだ。このような人間を不良と呼んでしまうと、世間一般の不良から顰蹙を買ってしまうのではないだろうか。彼女は狂人、それ以外の何者でもない。その方が納まりが良い。
地下に向けて伸びていく急な階段。夜の街は人工の光が賑やかで、どこからともなく上機嫌な笑い声が聞こえる。しかし1歩裏路地に入ると途端に暗くなり、夜が本来暗い事を思い出させる。
看板すら出ていない、階段の前には1人、スーツを着崩した目つきの悪い男が立って、周囲を睨んでいる。この世から悪党はいなくならない。
「……本当にあいつを誘うのか?」
「他に勝つ方法があるなら今すぐに言え」
強く、はっきりとした物言いだが、かといって頼りになる訳ではない。八戸心理の自信が、大抵論理的根拠からではなく昂ぶった感情から来ているという事を、芦屋歩は嫌というほど知っていた。
目つきの悪い男の、焼けるような視線を物ともせず、八戸心理は階段を進んでいった。この下にあるクラブで、目的の男がたむろしている事は調べから分かっていた。
久我修也(くが しゅうや)。芹名高校において、「不良」といえばまず彼の事を指す。
飲酒、喫煙は当然の事、恐喝、窃盗、暴行、傷害と、罪の数なら八戸心理にも劣らない。しかも彼は、実際の前科持ち。つい1ヶ月前に、保護観察期間が終わったばかりの、いわゆる札付きだった。普通なら退学が妥当であり、彼の罪状を挙げ校長に処分を懇願する教師は多い。しかしながら、それが現実の事にならないのは、彼がただの不良ではないからに他ならない。
芹名高校は、野球以外のスポーツにおいてもなかなかの成績を残している強豪高だ。中学からのスポーツ推薦で、多くの優秀な生徒を獲得している事と、野球部を挫折した生徒の中にも、それなりに運動能力の高い生徒がいるという事が理由としては大きい。特にバレー、バスケットボール、陸上、ライフル射撃においては、全国においても5本の指に入る優勝常連高となっており、部活同士のヒエラルキーのような物も存在している。
そのような環境において、久我修也は、どの部活にも所属していない。していないにも関わらず、試合に参加する事が多くある。つまり、助っ人だ。退学にならない理由、それは彼が、泣く子も黙る不良であると同時に、非常に優秀なアスリートでもあるという事にある。彼の活躍が数多のトロフィーをもたらすのならば、多少の横暴も許すしかない。実力主義が第一の芹名高校においては、それがごく自然な事だった。
久我修也は崇拝する
先端の重いハンマーを鋭い角度で回し、乾いた木に思いっきりぶつけたような音がフロアに響く。声の高い男の、鳥のような絶叫。続けて、椅子が転げてグラスの割れる音。最後に何人かの女の悲鳴が遅れて届いたように聞こえ、他の客は首を伸ばして音のした方向を見た。
「おい、お前40万持ってるか?」
左腕を一撃で粉砕され、もがきながら苦しむ男に、久我修也が冷徹にそう尋ねる。殴られた男は怯えた様子で久我修也を見上げる。細切れになった呼吸に湿り気が帯びる。男の年齢は20代の前半ほどで、クラブには似合わないスーツ姿で、折れてない方の腕は大きな鞄を大事そうに抱えている。
いくら不良といえども、いきなり見ず知らずの人間に暴力を振るった訳ではない。いつものように、クラブの1番奥の席で、久我修也が女を何人か連れて呑んでいると、突然この男がやってきて、彼の腕に触れたのだ。「すごく良い筋肉をしていますね……丁寧に鍛えられている」と、男は呟いた。だが、たったそれだけの事だ。
「両腕両足、それと金玉、どれでも好きなの1個10万で買い取っていいぞ。左腕はもう払ってもらったからな、40万あればお前はここを無事に出られる」
久我修也はそう言って酒を煽ったが、酔っ払ったりふざけたりしている様子はない。大真面目だ。
「どうなんだ? あるのか? ん?」
奥歯をガチガチ鳴らしながら震える男のスーツの襟を引っ張り、無理やり立たせる。何もしなくても折れてしまいそうな脚に、久我修也はぴたりと足先をつけ、標準を合わせる。
「ま、ま、待ってくれ」
男は久我修也に向けて、せめてもの拒否反応を示す。が、慈悲はない。
「あるかないかを聞いてるんだ。待ってくれるのは借金取りだけだぜ?」
言い終わると同時、まさに今、おそらくは先ほどのパンチよりも重いであろう蹴りが、男の間接を砕こうとしたその瞬間。喧騒の中に静寂が差し込まれた。男が瞑った目をゆっくりと開けると、久我修也は鋭い眼を更に細めて別の方向を見ている。助けに来たのは、悪魔だった。
「お前が久我修也か?」
芹高第二野球部所属、八戸心理と、そのお供、芦屋歩。
お前呼ばわりされた久我修也が、それを黙って許すはずもない。だが、いちいち怒る事でもないというように、事務的に答える。
「誰だか知らんが、今忙しいんだよ。2分経ったらお前も壊してやるからそこにいろ」
「そうはいかん。今すぐ交渉に移らせてもらうぞ」
「交渉だと?」
「そうだ。お前には我がチームに入ってもらう」
「助っ人の依頼か。いくら払える?」
「0円だ」
久我修也の手によって、今まで宙に浮かんでいた男の体が放り出され、酒瓶が割れた、災厄を避けるように、横たわった男の周りからさっと女たちが引く。
「順番変更だ。先にお前を壊す」
久我修也の射程距離に入った瞬間、八戸心理は例の笑みを浮かべて、高圧的に言い放った。
「お前に払う金は無いが、私はお前が本当に欲しい物を与えられる」
久我修也には、この世で絶対、ただの1つだけ崇拝している物があった。「それ」の為なら何を犠牲にしても良いと思っていたし、「それ」以外のあらゆる素晴らしい物は全て間に合わせの偽物だと割り切っていた。必要なのは仲間ではなく「それ」だ。金でも酒でも女でもなく「それ」だ。
「それ」を久我修也は生まれながらに持っていた。他者の「それ」よりも実に良く出来た、最高品質の物で、彼が「それ」を崇拝し始めたのも、自らの「それ」が何より輝いている瞬間に出会ってきたからでもある。
しかし彼は現状の「それ」に満足していない。限界はもっともっと遥か遠く、想像もつかない場所にあるはずで、自分が理想の「それ」にたどり着けないのは、やり方に問題があるからだと自覚していた。「それ」さえ手に入れば自分は無敵になる。絶対的高揚感。幸福が「それ」にある。
「1週間、お前の事を調べさせてもらった」
八戸心理は久我修也のまだ硬く握っている拳に一瞥もくれずに、手にしたメモに視線を落としながら淡々と進める。
「昨年、お前は全国高校バスケ大会で我が校のチームを準優勝まで導いている。また、柔道の団体では副将を勤め、同じく準優勝。その他、テニス、水泳、卓球で県の代表までいってるが、お前が助っ人として呼ばれなかった事によってその部はその後敗退している」
「だから何だ?」
「分からないのか? お前は、弱いんだ」
これだけの成績を並べ立て、「弱い」。いつ久我修也の怒りがピークを迎えて、目の前の女子を殺してしまうのか、ひやひやしながら見ているのは芦屋歩だけではない。しかし久我修也の答えは意外だった。
「ああ、俺は弱い。本当に強けりゃ優勝しているはずだ。他の奴らも外聞なんて気にせず俺を最後まで使う選択をせざるを得なくなっていたかもな」
と、大人しい事を言いながらも、視線は常に八戸心理に向けてまっすぐと伸び、こう問いかけている。「だからどうした? お前には関係のない事だ」
「なんだ、分かっていたのか」と、八戸心理は力を緩める。「ならば話は早い。私がお前を『最強』にする。その代わり、お前は私があのムカつくかたわ野郎をぶっ倒すのを手伝え」
「かたわ……杵原か?」
久我修也も、その名前は知っていた。だが、いくら杵原良治が凄腕のピッチャーであろうと、それはあくまで野球の中だけの事であるし、そもそも野球部だけは、絶対に助っ人を呼ぶような姑息な真似はしない。だから興味外ではある。が、同時に心のどこかでその身体能力を気にしてはいた。
「いや、そんな事より、最強にするってのはどういう意味だ?」
「そのままの意味だ。私が見た所、お前は生粋の『肉体崇拝者』だ。己の身体だけを信じ、鍛える事に余年が無い。煙草、もうやめたんだろ?」
久我修也は僅かに驚く。調べはどうやら正確なようだ。
「俺が訊いてるのは、どうやってその『肉体崇拝者』の俺を、最強にするのかって事だ」
声にいらだちがこもっていた。しかしそれは、久我修也の真髄に近づいてきている証拠でもある。しかし八戸心理は恐れない。目の前の凶暴で凶悪で凶険な男を、ただの手駒としか見ていないからなように思える。チェスのグランドマスターの扱う駒といえども実際に人を殺したりはしない。しかし戦いの上では、人の精神を削ぎ落として殺す。つまり今は、八戸心理にとって戦いですらないのだ。
八戸心理は事実を述べる。
「急造の野球部で正規野球部を相手に勝利を収めるには、『ドーピング』が必要になる」
ここでのドーピングとは、比ゆや物の例えではなく、正真正銘の薬物を人体に投与する事によって行われる、スポーツの暗部、違反行為の事だ。
「ちょ、ちょっと待て!!」
声をあげたのは、後ろで見ていた芦屋歩だった。八戸心理の肩を掴み、一瞬で払いのけられる。
「ドーピングには専門知識がいる。ステロイドさえあれば結果を残せる訳ではない。個々の肉体には性能や性質の差があり、適切な処方をしなければむしろ逆効果になる事もある」
「そんな事は知っている」と、久我修也。「経験済みだからな」
「私は第二野球部専属のメディカルトレーナーを用意した」
高校の部活動ごとき、それもただ個人の逆恨みを晴らすという目的の試合に向けて、ドーピングまでするなんて、馬鹿げていると思われるかもしれない。しかしながら、正規野球部に勝利するには、そのくらいの事はしなければならないだろうと、私は思う。
言うまでもなく、正しい知識を前提に行われたドーピングは選手の身体能力を飛躍的に向上させる。ただし、それが薬物である以上には副作用も存在する。例えば最もポピュラーなアナボリックステロイドを使用した場合の副作用は、血圧を上昇させ、血中コレステロール値を高め、循環器にダメージを与え、肝臓に障害を引き起こす。簡単に言えば、肉体を破壊する。しかしそれだけのリスクを負ってでも、勝利しなければならない事がある。そして、崇拝しなければならない物もある。
ドーピングが正義だとは、私は決して思わない。しかし絶対にしてはいけないとも、言い切る事が出来ない。選手は力を欲している。何故なら、世間は力のある選手を欲しているからだ。
八戸心理の挑発的な目線を受け、久我修也が大きく笑った。
「そんな話を信じろって? イカれてやがる」
「ならば紹介しよう。こいつがそのメディカルトレーナーだ」
八戸心理が指さしたのは、つい先ほど久我修也に左腕をへし折られた男だった。
「こいつは私の兄でもある」
八戸心理の兄、村木荘助(むらきそうすけ)は、彼女を中心に据えた相関図で、芦屋歩以外に友好の緑色で結ばれたもう1人の人物だ。過去、彼は彼女の逆襲を受けて殺されかけたが、何故彼女がそのような行動をするに至ったのかを最も良く知る人物でもあった。
離婚後、彼の母は新しい相手と再婚し、ごく普通の家庭が彼には与えられた。それによって、未だあの父の支配下にある彼女を不憫に感じていたし、罪悪感もあった。彼は成長し、名門の薬科大学に進んだ。元々優秀で、努力も怠らないタイプだったので、彼はそこを首席で卒業する事になった。
しかし父から与えられた狂気の種は、ゆっくりひっそりと芽を出していた。彼の知識の蓄積は、彼自身が知るよりも先に、法を犯し始めていた。
村木宗助は鞄から注射を取り出し、折られた左腕に注射をし始めた。その手並みは鮮やかで、普段からやり慣れている風だった。久我修也は、彼の鞄の中に、沢山の薬瓶と注射器が、綺麗に整列されて入っているのを見た。
「噂には聞いていたが、面白い奴だな」
久我修也は八戸心理を見てそう呟いた。彼が人を褒めるのは非常に稀だ。そしてそんな稀な事が立て続けに起こった。
「確かに、杵原を相手にするには、これくらいの事は必要かもな」
「入る気になったか?」
八戸心理が尋ねる。久我修也はだるそうに首を回す。芦屋歩は「断れ」と心の中で祈る。
「ああ。入ってやるよ、第二野球部」
4人目の部員、久我修也は続ける。
「だが、ドーピングをさせてもらうのは杵原に勝つ為に必要なことでもある。それに、他の奴らもするんだろ?」
芦屋歩は慌てて首を振ったが、八戸心理は大きく頷く。
「なら、俺だけがもらえる報酬が必要だな。よし、お前は俺の女になれ」
久我修也が八戸心理の肩をぐっと掴む。今度は振り払わない。
「いいだろう。ただし、正規野球部への勝利にお前が貢献したらだがな」
芦屋歩が5秒、呼吸を止めた。そして息を吐くのと同時に「ちょっと待て!!」と叫んだ。
「おい、お前40万持ってるか?」
左腕を一撃で粉砕され、もがきながら苦しむ男に、久我修也が冷徹にそう尋ねる。殴られた男は怯えた様子で久我修也を見上げる。細切れになった呼吸に湿り気が帯びる。男の年齢は20代の前半ほどで、クラブには似合わないスーツ姿で、折れてない方の腕は大きな鞄を大事そうに抱えている。
いくら不良といえども、いきなり見ず知らずの人間に暴力を振るった訳ではない。いつものように、クラブの1番奥の席で、久我修也が女を何人か連れて呑んでいると、突然この男がやってきて、彼の腕に触れたのだ。「すごく良い筋肉をしていますね……丁寧に鍛えられている」と、男は呟いた。だが、たったそれだけの事だ。
「両腕両足、それと金玉、どれでも好きなの1個10万で買い取っていいぞ。左腕はもう払ってもらったからな、40万あればお前はここを無事に出られる」
久我修也はそう言って酒を煽ったが、酔っ払ったりふざけたりしている様子はない。大真面目だ。
「どうなんだ? あるのか? ん?」
奥歯をガチガチ鳴らしながら震える男のスーツの襟を引っ張り、無理やり立たせる。何もしなくても折れてしまいそうな脚に、久我修也はぴたりと足先をつけ、標準を合わせる。
「ま、ま、待ってくれ」
男は久我修也に向けて、せめてもの拒否反応を示す。が、慈悲はない。
「あるかないかを聞いてるんだ。待ってくれるのは借金取りだけだぜ?」
言い終わると同時、まさに今、おそらくは先ほどのパンチよりも重いであろう蹴りが、男の間接を砕こうとしたその瞬間。喧騒の中に静寂が差し込まれた。男が瞑った目をゆっくりと開けると、久我修也は鋭い眼を更に細めて別の方向を見ている。助けに来たのは、悪魔だった。
「お前が久我修也か?」
芹高第二野球部所属、八戸心理と、そのお供、芦屋歩。
お前呼ばわりされた久我修也が、それを黙って許すはずもない。だが、いちいち怒る事でもないというように、事務的に答える。
「誰だか知らんが、今忙しいんだよ。2分経ったらお前も壊してやるからそこにいろ」
「そうはいかん。今すぐ交渉に移らせてもらうぞ」
「交渉だと?」
「そうだ。お前には我がチームに入ってもらう」
「助っ人の依頼か。いくら払える?」
「0円だ」
久我修也の手によって、今まで宙に浮かんでいた男の体が放り出され、酒瓶が割れた、災厄を避けるように、横たわった男の周りからさっと女たちが引く。
「順番変更だ。先にお前を壊す」
久我修也の射程距離に入った瞬間、八戸心理は例の笑みを浮かべて、高圧的に言い放った。
「お前に払う金は無いが、私はお前が本当に欲しい物を与えられる」
久我修也には、この世で絶対、ただの1つだけ崇拝している物があった。「それ」の為なら何を犠牲にしても良いと思っていたし、「それ」以外のあらゆる素晴らしい物は全て間に合わせの偽物だと割り切っていた。必要なのは仲間ではなく「それ」だ。金でも酒でも女でもなく「それ」だ。
「それ」を久我修也は生まれながらに持っていた。他者の「それ」よりも実に良く出来た、最高品質の物で、彼が「それ」を崇拝し始めたのも、自らの「それ」が何より輝いている瞬間に出会ってきたからでもある。
しかし彼は現状の「それ」に満足していない。限界はもっともっと遥か遠く、想像もつかない場所にあるはずで、自分が理想の「それ」にたどり着けないのは、やり方に問題があるからだと自覚していた。「それ」さえ手に入れば自分は無敵になる。絶対的高揚感。幸福が「それ」にある。
「1週間、お前の事を調べさせてもらった」
八戸心理は久我修也のまだ硬く握っている拳に一瞥もくれずに、手にしたメモに視線を落としながら淡々と進める。
「昨年、お前は全国高校バスケ大会で我が校のチームを準優勝まで導いている。また、柔道の団体では副将を勤め、同じく準優勝。その他、テニス、水泳、卓球で県の代表までいってるが、お前が助っ人として呼ばれなかった事によってその部はその後敗退している」
「だから何だ?」
「分からないのか? お前は、弱いんだ」
これだけの成績を並べ立て、「弱い」。いつ久我修也の怒りがピークを迎えて、目の前の女子を殺してしまうのか、ひやひやしながら見ているのは芦屋歩だけではない。しかし久我修也の答えは意外だった。
「ああ、俺は弱い。本当に強けりゃ優勝しているはずだ。他の奴らも外聞なんて気にせず俺を最後まで使う選択をせざるを得なくなっていたかもな」
と、大人しい事を言いながらも、視線は常に八戸心理に向けてまっすぐと伸び、こう問いかけている。「だからどうした? お前には関係のない事だ」
「なんだ、分かっていたのか」と、八戸心理は力を緩める。「ならば話は早い。私がお前を『最強』にする。その代わり、お前は私があのムカつくかたわ野郎をぶっ倒すのを手伝え」
「かたわ……杵原か?」
久我修也も、その名前は知っていた。だが、いくら杵原良治が凄腕のピッチャーであろうと、それはあくまで野球の中だけの事であるし、そもそも野球部だけは、絶対に助っ人を呼ぶような姑息な真似はしない。だから興味外ではある。が、同時に心のどこかでその身体能力を気にしてはいた。
「いや、そんな事より、最強にするってのはどういう意味だ?」
「そのままの意味だ。私が見た所、お前は生粋の『肉体崇拝者』だ。己の身体だけを信じ、鍛える事に余年が無い。煙草、もうやめたんだろ?」
久我修也は僅かに驚く。調べはどうやら正確なようだ。
「俺が訊いてるのは、どうやってその『肉体崇拝者』の俺を、最強にするのかって事だ」
声にいらだちがこもっていた。しかしそれは、久我修也の真髄に近づいてきている証拠でもある。しかし八戸心理は恐れない。目の前の凶暴で凶悪で凶険な男を、ただの手駒としか見ていないからなように思える。チェスのグランドマスターの扱う駒といえども実際に人を殺したりはしない。しかし戦いの上では、人の精神を削ぎ落として殺す。つまり今は、八戸心理にとって戦いですらないのだ。
八戸心理は事実を述べる。
「急造の野球部で正規野球部を相手に勝利を収めるには、『ドーピング』が必要になる」
ここでのドーピングとは、比ゆや物の例えではなく、正真正銘の薬物を人体に投与する事によって行われる、スポーツの暗部、違反行為の事だ。
「ちょ、ちょっと待て!!」
声をあげたのは、後ろで見ていた芦屋歩だった。八戸心理の肩を掴み、一瞬で払いのけられる。
「ドーピングには専門知識がいる。ステロイドさえあれば結果を残せる訳ではない。個々の肉体には性能や性質の差があり、適切な処方をしなければむしろ逆効果になる事もある」
「そんな事は知っている」と、久我修也。「経験済みだからな」
「私は第二野球部専属のメディカルトレーナーを用意した」
高校の部活動ごとき、それもただ個人の逆恨みを晴らすという目的の試合に向けて、ドーピングまでするなんて、馬鹿げていると思われるかもしれない。しかしながら、正規野球部に勝利するには、そのくらいの事はしなければならないだろうと、私は思う。
言うまでもなく、正しい知識を前提に行われたドーピングは選手の身体能力を飛躍的に向上させる。ただし、それが薬物である以上には副作用も存在する。例えば最もポピュラーなアナボリックステロイドを使用した場合の副作用は、血圧を上昇させ、血中コレステロール値を高め、循環器にダメージを与え、肝臓に障害を引き起こす。簡単に言えば、肉体を破壊する。しかしそれだけのリスクを負ってでも、勝利しなければならない事がある。そして、崇拝しなければならない物もある。
ドーピングが正義だとは、私は決して思わない。しかし絶対にしてはいけないとも、言い切る事が出来ない。選手は力を欲している。何故なら、世間は力のある選手を欲しているからだ。
八戸心理の挑発的な目線を受け、久我修也が大きく笑った。
「そんな話を信じろって? イカれてやがる」
「ならば紹介しよう。こいつがそのメディカルトレーナーだ」
八戸心理が指さしたのは、つい先ほど久我修也に左腕をへし折られた男だった。
「こいつは私の兄でもある」
八戸心理の兄、村木荘助(むらきそうすけ)は、彼女を中心に据えた相関図で、芦屋歩以外に友好の緑色で結ばれたもう1人の人物だ。過去、彼は彼女の逆襲を受けて殺されかけたが、何故彼女がそのような行動をするに至ったのかを最も良く知る人物でもあった。
離婚後、彼の母は新しい相手と再婚し、ごく普通の家庭が彼には与えられた。それによって、未だあの父の支配下にある彼女を不憫に感じていたし、罪悪感もあった。彼は成長し、名門の薬科大学に進んだ。元々優秀で、努力も怠らないタイプだったので、彼はそこを首席で卒業する事になった。
しかし父から与えられた狂気の種は、ゆっくりひっそりと芽を出していた。彼の知識の蓄積は、彼自身が知るよりも先に、法を犯し始めていた。
村木宗助は鞄から注射を取り出し、折られた左腕に注射をし始めた。その手並みは鮮やかで、普段からやり慣れている風だった。久我修也は、彼の鞄の中に、沢山の薬瓶と注射器が、綺麗に整列されて入っているのを見た。
「噂には聞いていたが、面白い奴だな」
久我修也は八戸心理を見てそう呟いた。彼が人を褒めるのは非常に稀だ。そしてそんな稀な事が立て続けに起こった。
「確かに、杵原を相手にするには、これくらいの事は必要かもな」
「入る気になったか?」
八戸心理が尋ねる。久我修也はだるそうに首を回す。芦屋歩は「断れ」と心の中で祈る。
「ああ。入ってやるよ、第二野球部」
4人目の部員、久我修也は続ける。
「だが、ドーピングをさせてもらうのは杵原に勝つ為に必要なことでもある。それに、他の奴らもするんだろ?」
芦屋歩は慌てて首を振ったが、八戸心理は大きく頷く。
「なら、俺だけがもらえる報酬が必要だな。よし、お前は俺の女になれ」
久我修也が八戸心理の肩をぐっと掴む。今度は振り払わない。
「いいだろう。ただし、正規野球部への勝利にお前が貢献したらだがな」
芦屋歩が5秒、呼吸を止めた。そして息を吐くのと同時に「ちょっと待て!!」と叫んだ。