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白石氏の無事

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Q,もっと面白いと言われる小説が書きたいです。(投稿者)スティーブ・ハウマッチ

A,自分が書いた小説を、自分自身楽しめていないのではないでしょうか。おおよそ自分が面白いと思えることは、手を抜かずに表現しさえすれば、大抵のひとに伝わるものだと考えます。
 それを前提に考えると、あなたの小説の問題点は『そもそも面白くない』『小説は面白いが、読まれていない』『小説は面白く、読まれているが、コメントされていない』それらが原因の大部分を占めていると考えられます。対処は難しそうですが、ないわけではありません。

『そもそも面白くない』
 これは大問題です。原因の占有率のほとんどはこれがさらいます。「面白くない」とは総合的な(漠然とした)印象のことで、ふつうの読者は物語を二度三度読み返すことをあまりしませんし、たった一度しか目を通されないという悪(それでいて基本的な)条件では、よほどの魅力がない限り爆発的な反響が寄せられることもありません。作者のあなたは読者と違って十回も二十回も読み返すことに何の抵抗も感じませんから、ちょっとした言葉遣いや物語の風景に気を配ったりすることも可能ですが、基本的に読者はさらっと表面的なことだけを読み取ってそれで全てを分かったつもりになろうとします。それは未知なるものに遭遇したときの人間の本能的な適応行為ですから、しょうがないことです(あなたは世に名の知れた大作家ではありません)。その適応行為をうまく利用して興味を惹かせることが出来なければ、読者はきっと「この小説は面白くないにちがいない」と判断して離れていってしまうでしょう。「これは面白そうだ」と思わせることが最も肝要なのです。大体のひとは騙されやすく、一度印象付けさえ出来ればあとはこっちのものです。勝手に物語を好きになってくれます。なかんずく物語の冒頭、書き出しは重要です。題名にも気を遣いましょう。書き出しよりも多くの時間人目に晒されるからです。ややもすれば自己満足の気配漂う作品名が多い新都社小説群ですが、ここで注意を集めなければどこで集められようものですか。題名や書き出しで読者の好奇心や興味を惹くことが出来れば、あとは手抜きをせず丁寧な自己表現に徹することで面白い小説は一丁上がりです。もしそれが面白くなかった場合、すべてはあなたが手抜きをした結果に他ならないのです。

『小説は面白いが、読まれていない』
 小説が真の意味で面白ければ、次第に読者は増え、読者はその感動を誰かと分かち合わんとしてコメントし、その波は大きく広がってゆきます。読まれるための努力としては題名や書き出しなどの注目させる努力と、(適度な)宣伝活動と、あとは創作活動の継続を怠らなければ、確実に読まれるようになります。継続は力なり、俄仕込みの文才などありえません。昔から続けてきた人びとには、小説に限らずどんな分野でも敵う才能などないのです。

『小説は面白く、読まれているが、コメントされていない』
 こんな項目でお悩みの方はほとんどいないでしょうが、行為に対する反響がなければ人は不安になるものです。創作活動を継続していつか日の目を見るそのときを待ちましょう。忠告として、向上心、創意工夫は何よりも重要だと考えましょう。

 ○

 以下は余談になります。書いた小説の感想は必ず無関係の読者にもらうようにしましょう。そういう意味ではネット公開は有意義な自己鍛錬の場になると思います。
 私はこれでも文芸青年だった時期がありまして、当時は憚らずも作家志望、感想を求めて姉に自作の小説を読ませようとしたことがあります。そのときの姉の言葉を思い出します。
「私は苦笑いしながら言葉を探し探し、あんたのそれを褒めることしか言わないだろう。そんな茶番を演じてほしいなら読んでやっても良い」
 身内や知り合いには小説創作の趣味は隠しておいたほうがいいかもしれません。
Q,自分が満足いく小説を書くことが目的であり、他人様の信条はどうあれ、趣味の小説創作は自己陶酔に完結して然るべしと考えています。孤立無頼、生来ひたすらわが道を歩み、外野の野次など気にも留めないのが私のやり方ですが、マンネリズムと言ったらいいのか、近頃はアイデアもろくに浮かばず、真っ白なままのテキストエディタと数時間睨めっこしていることも少なくありません。常に新しいものを作り出したい思いは創作家の普遍的な願望であり、その願望の前に私は他の作家となんら変わることがありません。新鮮で奇抜な小説を書くための閃き、良いアイデアはないものでしょうか。(投稿者)水星のフレディ

A,新鮮で奇抜なものを求める好奇心、即ち高邁な向上心。それを携える限りいかなる助言もあってなきようなものという気もしますが、折角ですので私見を述べさせていただきます。

 自分が満足いく小説を書き上げるのは至極簡単です。完成させた小説に満足しさえすればいいのです。その内容が小学生の絵日記のように支離滅裂で、極めて主観的な心象風景であっても、自分が「満足だ」と思えばそれで目的は達されます。ひどく乱暴で色んなことに目を背けた理屈ですが、極端な話、自己満足とはそういうことです。問題は、どこまで妥協を許すか、その尺度を決めることです。
 妥協の度合いは即ち自分の中に他人成分を認めない度合いと言い換えることができます。妥協(≒)百パーセントで自作小説を読むと、その額面に「非の打ち所無し」と太鼓判を押すことになり、そこに他者の介入は真の意味で皆無、自己満足による自己満足のための創作小説が完成したことになります。
 逆に妥協が(≒)ゼロパーセントの場合、読者たる自分は(しばしば批判的な)他人になりきったつもりで神経を研ぎ澄まし、陰湿な姑が新妻をいびるが如く、重箱の隅をほじくり、微に入り細を穿つ凄絶な酷評を突きつけます。作者としての自分は推敲あるいは再構成を余儀なくされ、物語の完成は遠のき、しかしその代わり磨かれた文章によって物語は彩を放ち、自他共に認める文句なしの小説が出来上がります。
 妥協機関を適切に制御することが可能ならば、いかなる向上心も抱擁し、どこに出しても恥ずかしくないような小説から、他人にはその意図が読み取れない難文まで、いかなるものも生み出すことが可能なのです。
 妥協機関の稼働率が低く、自己の中の他人割合が大きい人は、フレディさんのように向上心が高く、また高すぎるために、しばしば自分のやることなすこと全てに疑問を投げかけ、挙句はドツボにはまり、悶々としてしまうものではないでしょうか。
 少しだけでいいのですが、妥協してみてはどうでしょうか。いかにもくだらない、つまらないから書かない、と言って敬遠していたテーマの一つや二つ、ありそうなものです。マンネリズムを肯定するのも、気分転換にはいいのではないでしょうか。

 また、純粋に新しいテーマを思いつこうとすることは難しく、思いつくまで別のことをしていたほうが時間効率的に得策です。そもそも簡単に思い浮かぶようであればこれまでに既に思いついたはずです。これから思いつくことは常に未来にあり、過去をどれだけ顧みても見つかるはずはなさそうです。
 往々にして、閃きとは無意識から生まれることが多く、無意識とは雑念が消えた一瞬間、単純作業の連続の中に見出した悟りの境地とも言えますし、多忙に次ぐ殺人的な多忙のさなか、疲弊した精神が幻視する異次元の風景に霊感を得るかもしれません。閃きとは奇跡を意味する大雑把な言葉です。そもそもあまり信用してはいけません。



 以下は余談になります。私の姉は奇跡という言葉を忌み嫌っておりまして、従って閃き、幸運、偶然といった類の言葉もあまり信用しておらず、かといって運命なぞというものは毛の先ほども存在を認めず、過程よりも結果を重要視し、目的と手段をきっぱりと分けたがり、かつ混同することを愚劣の極みであると豪語し、さらにはフェミニストを呪い、室井佑月をゲストに迎えるテレビ番組に片端から抗議の電話を入れ、地球環境問題を金儲けの手段として用いる自動車会社を破滅に追いやろうと画策するに留まらず、軟弱な望郷ソングで一山当てようとする自称ジャパレゲミュージシャンを糾弾し、それを受け入れる大衆を低脳と呼んで嘲笑い、政治家の強要する言葉狩りに唖然とし、憲法九条を非難するようなかくも気難しい男勝りなんですが、先日めでたくウン十回目の誕生日を迎えることとなりました。全然関係ないですね。早く落ち着いてほしいです。誕生日プレゼントに宇佐神宮の家内安全お守りとドリームキャッチャーとエケコの人形と誕生石とゲルマニウムをあしらったパワーストーンの腕輪を贈ろうと思います。どうか幸せになってくれますように。
4, 3

  

Q,文章鍛錬には読書が不可欠だと思っています。自身読書は好きですし、出来ることなら本ばかり読んで日一日過ごしていたいものです。ですがそのための時間がありません。仕事やその他、日常の些事に費やされるばかりで、寝る時間を削ってでも読書に耽りたいのですが、体力的な問題もあり、睡魔にやられてしまいがちです。読みたいのに読めないという焦りにも似た不快感が募り、最近は読書の集中力も衰えてきたように思います。効率良く読書できる良い方法はないものでしょうか。(投稿者)第七感冒

A,文芸生協の職員として当然と言えば当然かもしれませんが、不肖この私も本を読むのは大好きですから、その気持ちは良く分かります。焦りなどという人間を堕落させる劣悪な環境因子に監視されながらの読書など、綺羅の如き文章の妙も目から鼻に抜けてしまい、感動もへったくれもその後に残りそうにありません。その様子では随分と休日が待ち遠しいのではないでしょうか。いわんや休日さえ読書に充てる時間がないと仰られるでしょうか。
 日常に追われて一週間単位の生活を繰り返し、煩雑と催促の寄せる波に翻弄される、多くの人びとの安らぎを奪い去ってゆく大問題「時間がない」ですが、こいつは手強そうに見えて、外っ面は案外張子でできていたりします。結論を先に述べますと、実際、時間はあるはずです。

 ところでAC、公共広告機構(昔から変わらないジングルがすぐ耳に浮かびます)のつくるテレビCMはキレのある演出で視聴者の注意を惹きつけるものが多く、最近のものでは、そのムーブメントを誰もが予想出来なかっただろう洗脳ソング〈挨拶の魔法〉は記憶に新しいところであり、それと平行して放送されていた〈知層〉のやや大げさな誇張も印象強く残っています。あれだけの高さまで本を積み上げるのは様々な突発的要因や周囲の度重なる警告などを鑑みるまでもなく不可能ですが、本好きの矜持として誰もがあの青年を文字通り「見上げたやつだ」と一目置いたことではないでしょうか。
 さて、あなたはあの青年に自分を重ねようとしているのではないですか。もしかするとあなたは、自分が今までに読了した本の数を覚えていやしませんか。ディオ=ブランドーの高笑いが聞こえてきそうですね。世にビブリオマニアは多くあれ、都会の高層ビルよりも高く積み上がるほど本を読み続けた非実在の青年と、半生の読書量を比較競争しなくたっていいでしょう。
 あなたが読書を通じて求めるものは『読み終えた本の多さ』ではないことをまず自覚しましょう。たくさんの本を「読んだ」と言うだけで、なにかためになることを吸収できたものかどうか、大いに疑問です。あれこれ手当たり次第にただ読めばいいというものではないはずです。ですから読書の進捗が理想と比べて芳しくないからといって、焦ったり、苛立ったりすること自体、本末転倒の気配が仄かに感じられるのです。この質問を拝読した直後の率直な感想です。

 文章鍛錬のための読書、大いに結構なことです。しかし、本を読むことは、字面を追うだけで完結するものではないと思います。「読んだつもり」では成長の取っ掛かりさえ掴めないのです。この「読んだつもり」とは、本当は読んでいない(文字をなぞっただけで何も印象に残らなかった)と自覚しつつ見栄を張る裏返しであり、読んだけれど作者の言いたいことはあんまり解らなかったという自信の無さの体現であり、あるいは作者が伝えたかったことと自分が解ったつもりでいることに相違がある状態であります。観念的な本の『内容』を自分の精神世界に再現した『劣化クローン』の同一性の程度、即ち理解の度合は様々でしょうが、もとより他人の心情と真の意味で同調することなど不可能でありますから、これはどうやっても百パーセント同一であるはずなど無いのです。だとすると、読者は古今東西のあらゆる書物に対して真の理解を得られないことになり、いくら理解したつもりになってもその本を「読んだつもり」以上にはなれそうにありません。従って読書とはその字面を追うのみで完結せざるを得なくなり、「読んだ」と高らかに宣言してなにかためになることを吸収した「つもり」になるくらいの成果しか見出せない、なんともささやかな自己満足に終結するしかないのであります。大いに結構なことです。

 そもそも他人の心情と完璧に同調するということは(本の内容を百パーセント理解するということは)、他人の信条や目的などを自分のそれとそっくり入れ替えるということであり、これを実践に移すことはそのまま自律の放棄、自我の崩壊を意味し、自分が自分でなくなってしまう恐れが多大にあり、危険極まりない精神の旅であり、旅券は片道切符であり、少なくとも初心者にお勧めできる安心教養ツアーとは言い難いのです。
 従って、本の内容の(他人の情動の)理解などはほどほどに抑えておいて然るべきで、他人の思考回路を借用して精神の田畑に鍬を入れ、自己の荒野を開墾することはまことに有意義ではあるのですが、それも何か一つに偏ることがあってはだめなのです。精神の荒野は荒れ放題であり、気候も気まぐれ至極であり、豊かな土壌などは程遠く、色彩豊かな作物が育ちそうな気配など微塵も感じられないのがふつうですが、手を変え品を変え取り組んでいかなければ成長など実現しないのも事実。手練手管を尽くし、最適な方法を探してください。まことに、手段は一つとは限らないのであります。あらゆる価値観が尊重される世の中ですから、どんな方向の成長であれ特化尖鋭させることで身になるものだと思います。自分にあったものを見つけて、楽しみながら吸収しましょう。

 ちなみに「時間が無い」についてですが、どんなに忙しくて一日に三十分さえ読書できなくとも、たとい一週間に一度しか本を開くことができなくとも、それで本を読めていれば本を読む時間が無いとは言えませんよね。読んでいるそのときが読んでいる時間なのです。小学生のなぞなぞみたいな落ちで申し訳ないですが、継続は力なりです。向上心を持ち続けることがなによりためになるのです。

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 以下余談。私の姉が度々話す、ラーメン屋に通う食客としての矜持について書いてもいいかなと思ったんですが、今回めちゃくちゃな論理に終始してしまったのでやめておきます。また今度書きます。
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